夏祭りで宿題
名水まつりと呼ばれる夏祭りに澤江貴義は浴衣姿の深水真菜と向う。ソフト部の女子にからかわれるが、石橋香織だけは一目見て逃げるように走り去ってしまう。
夏祭りで宿題
8月の第一土曜日に毎年執り行われる名水まつり。
小さなステージや出店。橙色に灯る提灯が名水の両端を照らし、水のせせらぎを一層きれいに浮かび上がらせる。屋台もたくさん出る。
小さい頃から楽しみにしている夏のイベントの一つだ。
――が、
「父さんは夏祭り、あんまり好きじゃないなあ」
あんたのことなんか聞いていないと言ってやりたかった。
「中学にもなって小遣いをねだるからだろ?」
はっはっはと笑いながら渋々財布からお札を出す。
「この年になると、夏祭りって聞いただけでやるせない気持ちになるんだよ。笛と太鼓と盆踊り……楽しいくせに、終りの寂しさとか感じちゃって」
あまり良く分からないのは、僕が子供だからとは思いたくない。
「父さん、中学の時は彼女とかいなかったからなあ。貴義が羨ましいよ」
「だから、クラブの友達と行くんだって」
何度も念を押すのだが、なかなか信じてくれない。――いや、騙されてくれない。
「じゃあ、何でお父さんのサングラスを貸さなければいけないんだ?」
「……それは、ちょっとでも大人っぽく見せたいからさ。僕みたいな子供は……」
やれやれとため息をつく。
「暗いところでかけてると、溝に足を突っ込んだりするかもしれないから気をつけるんだぞ」
「そんなどんくさいことしないって」
壊されるのが心配なんだろう。
「それと、遅くなりそうなら連絡するんだぞ。心配するから」
「もう中二だぞ!」
心配するなんてやめてほしい。
家を出てバス停へ向かった。
真菜に言ってやりたいことがいっぱいあった。
何で石橋が代役で来たのか。
何で石橋にエロ本を拾ったことを言ったのか。
怒っているわけではないが、理由を聞きたかった。
他にもある。
二人で歩いていたところを竹下に見られてしまったこと。
石橋に告白なんて、初っ端から無理だったこと。
優しくしてあげたらと言われたこと……。
よくもまあ、たった一日会わなかっただけでこれだけ会話のネタが出るものかと感心する。
スマホの番号を知っていたり、メーセージをやりとりできる方法があれば、昨日のうちに片付けられているものなのかもしれない。
でも、その場合、自分で色々考える時間は持てただろうか……。
思ったことをすぐに伝えるのは大事なことかも知れない。
でもそれが全て正しいとは限らない。
僕みたいに鈍感で頭が悪い人間は、すぐにカッとなったり、相手の気持ちも考えずにメッセージを送ってしまうだろう。
じっくり考えるということもしなくなってしまう。
今日、会ってから話すことが無くなってしまう。
だから僕は昨日、色々考えてきた――のだが!
真菜の浴衣姿を前に、昨日考えていた事なんて全て忘れてしまった――。
「可愛い?」
口が開いて、塞がらなかった。
「ちょっと、ちゃんと聞いてる?」
「あ、ああ。可愛い。可愛いというよりも、大人っぽくてきれいです……」
敬語にもなる。
どこから誰が見ても中学生には見えない。
親友の石橋が見ても、最初は気づかないのではないだろうか……。
サングラスを手で下にずらして直接見る。
「そのサングラス、どうしたの?」
「――親父に借りた。変装するために借りた」
大きめの黒いサングラス。目の辺り全体が隠れるから絶対にバレない自信があった。
「貴義も似合ってるよ、プッ!」
最後に吹き出しているのを見ると、その信憑性に疑いを持つ。
「今日は私のおごりなんだがら、言うこと聞きなさいよ」
ほら、やっぱり石橋と正反対だ。出会って1分でこの調子だ。
「はいはい、何なりと」
お金以外なら心配無用さ。
「手、繋いで」
前言撤回!
「だから……、それはダメだって!」
今日はクラスの奴もクラブの奴もみんな来る夏祭りだ。
上野だって来るだろうし、石橋も来るはずだ。……竹下も来る。そういえば、あいつの一件は話しておかなくてはならない。
「サングラスしてるからバレないって。兄妹かと思うかもよ」
「……そうかなあ」
仕方なく手を繋いでみた。優しくしてあげたらと言った石橋のことを思い出していた。
真菜の方が背は5センチ高い。
浴衣姿の奥ゆかしい女性と手を繋ぐ、サングラスをした少年。
確かに兄妹に見えるかもしれないなあ――。
嬉しそうに笑う真菜を見ると安心した。
昨日、あれから石橋と話をして、喧嘩でもしていないかと心配していたのだ。
「そうだ、昨日、ひどいじゃないか。石橋が来るならそう言っといてくれないと!」
「あ、そうだった? ごめんごめん。急に用事があってさア~」
頭を掻きながら舌の先っぽだけ歯の間から少し見せる。
初めて見せた表情。用事なんて、絶っ対っ嘘だと顔に書いてある顔だ!
「おかげでドキドキしたんだから」
「じゃあ、いい経験できたじゃない。なにごとも練習練習」
「はあ~、参ったよ」
絶対にいつか仕返ししてやる。
真菜にこう、カ~と恥ずかしい思いをさせてやるんだ。
日が沈んだ頃、名水まつりの会場に着いた。
広い寺の境内に砂利道の上り坂があり、その一番上のところには川になるくらいの湧き水が年中溢れ出てくる。
下流の方から上っていくのだが、その水の冷たさから、岩々には赤い苔がびっしり生え、川が生きているように見えた。
「あ、流し素麵。食べよっか」
「いいねえ」
流し素麵が食べ放題で、なんとタダであった。
「食べすぎたら駄目だからね。他にも色々食べたいでしょ」
「もちろんさ。なんせ今日は真菜のおごりだからな。高いものをこれでもかというくらい食べてやるさ」
「ちょっとは手加減しなさいよ」
笑いながら忠告された。
麺つゆの入った竹の容器と割り箸を受け取ると、素麵が流れる竹の前に立つ。
他の客もいるが、中学生はいない。堂々と食べられる。
サラサラと竹の中を流れる素麵。なかなかうまく掴めない。
流されて行った素麵は、途中折り返しをして二本目の竹を流れ、流す人の足元で大きなザルに納まる。
汚れているわけじゃないからまたそれを流す。無駄がなくて良い。大人一人で流せる。
ん?
よく見ると流している女性のエプロンに見覚えがある。
「あっ――」
箸を持った手で口を抑える。
「どうしたの? ワサビ入れ過ぎた?」
「い、いや、素麵を流しているの、……僕の母さんだ」
今日は町内会行事って言ってたのは、これのことだったんだと気づいた。
たこ焼きや他の屋台は業者がやっているが、流し素麵は地元の人でやっていた。だからタダなのだ。
恥ずかしかった。母さんだなんて言ってしまって。
まだ気づいていない。
「え、そうなの。じゃあ――」
真菜がまた悪い笑顔を見せる。
「挨拶くらいしとかないと失礼よね~」
「いらないって! 何の挨拶するつもりだよ!」
肩を震わせて笑っている。今のを聞かれていたのか知らないが、じっとこちを見ている気がする。
「大丈夫だ、サングラスしてるんだから」
自分に言い聞かせている。
「そうよ、絶対にバレないわ。お父さんのサングラスに、いつも洗濯してくれている服を着ているんだもの」
バレないわけがないよな……。
「あれ、貴義じゃない。もう来てたの」
言いながら素麵を流す。気のせいか塊がすごくて、途中で渋滞を起こし、水が横にあふれ落ちる。
「あ~流し過ぎだって。何してるんだよ!」
急いで渋滞を解消させて、つゆに回収する。
「そちらさんは?」
「クラスメートの深水真菜と申します」
ゆっくりと頭を下げて挨拶をする。
茶道か華道でもやっているかのような落ち着いた一礼は、母を驚かせた。
「あ、これはこれはご丁寧に。貴義の母です。いつも息子がお世話になっています」
その間、竹には水しか流れていないのを母は気づいているのだろうか?
「そんな挨拶はいいし、恥ずかしいから早く麺を流してくれよ」
「はいはい。あー恥ずかしい。あんたもちょっとは彼女を見習いなさい!」
口にした素麵が鼻から出るかと思うくらい吹き出した。
「彼女じゃないって! ただの……友達……だな。友達だ」
「「テレなくてもいいじゃない」」
母と真菜が寸分の狂いなく同時に言った。きっちり言葉も音程もハモッていた。
くそう、何で流し素麵を赤面しながら食べないといけないんだ。
真菜と母は何かしら楽しそうに話している。
「ちょっと、麺もっと流してよ!」
小学生からのクレームが飛ぶ。
「あらあら、ごめんあそばせ」
母はザルを持つと、山のように茹でて置いてある麺のところへ取りに行った。
「今のうちに逃げよう」
「え? 私は全然構わないわよ。貴義のお母さん面白いね」
「面白くないって。流し素麵食べてるのに、全然食べた気にならない」
あんな山盛あるんだから、無くなる事もないだろう。また食べたければ来ればいい。
「じゃあ挨拶してくるね」
「だから、何のだって!」
つゆを置いて真菜は母に一声かけて戻ってきた。
「今日はいい日ね。貴義のお母さんに会えたし」
「そんなに嬉しいなら毎日会わせて……やろうか? んん?」
何を言ってるんだ僕は?
そんなの冗談に決まっているのに、何か非常にまずいことを言っているような気にもなる。
「毎日ってことは、嫁と姑ね。そんな先のことまで考えてるなんて、貴義すごいね。どうしよっかな~」
「冗談だってば! どうしよっかな~じゃないって!」
「アハハ、でも貴義、顔、赤いよ」
勘弁してくれよ。
すっと手を握られて鳥居をくぐり、湧き水の溢れ出る上を目指した。
母親が見ていないかと背中がソワソワした。
途中で、バレー部の友達に出くわした。
思わず握る手を離そうとするのだが、真菜がそれをさせてくれない。
ギューっと強く握っている。
できるだけ顔を合わさないように真菜と歩いていると、一瞬見て気づかずにすれ違って行った。
「ふー助かった。案外バレないもんだな」
「そうね。サングラスは意外に賢かったかもね」
「ああ」
深水もバレていないのにも驚きだ。
クラスの女子とも何人かすれ違ったが、ほとんど気づかれなかった。
知っている人が近づくと、真菜の握る手がそれを教えてくれる。強く握ったり、こっちこっちと引っ張ったり。声に出さなくても意思疎通できるのが面白かった。
「そういえば、さっきのバレー部の中に竹下っていただろ。あいつがどうやら僕達が二人で歩いてるの見たっていうんだよ」
「へえ、そうなの」
まるで他人事だ。
「それでジュース奢らされた」
「駄目よ、そんなんでジュースおごるなんて。脅迫じゃない」
真菜は――自分のことは棚の上なんだなあって思った。
「悪いことしているわけじゃないんだから、堂々としていたらいいのよ。好きな子と手を繋いで歩いてどこが悪いっ! てね」
「こらこら、手を繋いでるところを見られたわけじゃないんだし、好きな子っていうのもマズイだろ」
「さっき見られたじゃない。竹下は多分気づいてたよ。視線が私と貴義を何度も往復してたもん」
「そ、それはマズイなあ。またジュースをおごれって言ってくるかも」
真菜は全然動じていない。でも何か閃いたようだ。
「あ、いいこと考えた。もし、ジュースおごれって言われたらこう言いなさいよ。お前、小学校の時に真菜に告白したのバラしてもいいならおごってやるよって」
えっ?
竹下に小学生の時に告白された? 初耳だ。何か、こっちが顔が赤くなる。聞いちゃマズイのでは? と。
竹下も決してそんなタイプの男子ではない。僕と一緒でゲームに夢中になっているタイプなのだ。
嫌いな奴でもなかった。
「私、小学の時に転校してきたの。それで、たしか六年の時だったと思うんだけどなあ。告白されて、しっかり断った」
「え、何で?」
「小学生で告白されたからって、それで何かなるわけじゃないでしょ。ただ告白してみたいだけの好奇心に真剣に答える必要はないわ。でも、しっかり断らないと本人のためにも悪いでしょ。だから断ったの」
「そうなのか。そこまで考えてるんだなあ」
僕なんて告白とは無縁の男だから、もし好きでもない女子から告白された時のことなんて考えてもみなかった。
「告白する方も勇気がいるけど、される方も辛いのだよ」
その言い草からすると、真菜が告白されたのは一度や二度ではないのだろうと思った。
男子バレー部はそんなに怖くなかったのだが、女子ソフト部はするどい人の集まりではないかと恐怖した。
「あ、真菜じゃん。凄―い、浴衣似合ってる!」
「もう、大人の魅力ね!」
真菜の前に立ち止まり、話しかけてくる。
――ヤバい、バレてるじゃないか――!
手を放そうとするが、今放しても、もう遅い。
――っていうか、真菜の握力が一体何キログラムあるのかが知りたい! 放してくれない!
ソフトボール部、あなどれない!
「ありがとう」
笑顔で照れることなく応対する。
「そっちの人は?」
背の低い僕を指でさす。
弟さん? いとこ? と聞きたいのだろう。決して年上には見えないだろう。
「うん、お兄ちゃん」
「兄です」
即答してやったら、真菜も含めて大笑いがまき起こった。
僕も笑うしかなかった。どうなってるんだこれは?
「――面白いお兄ちゃんね」
「また二学期に会いましょうね、お兄ちゃん」
「――? ああ」
笑って通り過ぎて行った。
「二学期に会いましょうねって言ってたけど、もしかしてバレてたのかな?」
「まあ、別にいいんじゃない? まだまだ先のことだから忘れるわよ、きっと」
「そうだよな、ハハハ……ハア~」
ソフトボール部はまるで今日、僕と真菜が二人で来るのを知っているかのようにほぼ全員が声をかけてきた。
一年生まで、先輩素敵ですねって声をかけてくる。僕のことじゃないのが残念でならない。
その度に、兄のふりをして笑われるのが、何か、芸人になったようで途中から面白かった。
もう、ここまできたらヤケクソであったのだ。
――しかし、石橋香織だけは違った。
僕と真菜の姿を見るなり――口元を押さえて逃げるように走り去っていったのだ。
真菜の親友なのに――。
昨日は僕と普通に話していたのに――。
「どうしたんだろ、喧嘩でもしたのか?」
「う~ん。どうしたんでしょうねえ」
うさん臭い。
何か知ってそうな言い方だ。
「はっ、もしかすると、貴義に惚れたのかも!」
「あーのーなー! 人が真剣に心配してるって言うのに!」
親友のあんな姿を見ても真菜はマイペースだ。
僕と同じで、もしかして鈍感なところもあるんだろう。
そうでもなければ、僕なんかとこんなところで手を繋いで歩いたりしないさ。
湧き水からの清らかな滝。
数メートルの落差でも水しぶきが霧状になり、辺りを涼しくしていた。
目の前では赤い岩肌が水しぶき受け、集まり流れる赤い川をつくり出す。
川の底までもがはっきり見える透明度。
数年前までは湧き出るところまで入れたが、危険なのだろう。今は柵がされて近づけなくなっていた。
真菜は柄杓を手に取ると、岩の上を歩いて滝から直接水をすくおうとする。
「滑るから危ないって!」
急いで近づいて体を支えた。
僕はスニーカーだが真菜は鼻緒のついた漆塗りの下駄なのだ。履き慣れていたとしても、苔の生えた岩の上を歩くのは危ない。
「こんなところまですくいに来なくても、あっちに出ているところがあるじゃないか」
そう注意する僕の顔を見つめながら柄杓の水を一口飲んで僕に渡した。
「ああ、やっぱり直接すくうと美味しいよ。飲んでみて」
どこですくっても同じ味だと思うけど。
滝に近いから、水しぶきで服が少しずつ湿っていく。
「ここの水をね、同じ柄杓で二人が飲むと、結ばれるのよ」
「――え! そんな言い伝えあるの?」
聞いたことなかった。
近くの立て札にもそんなことは一切書いてない。
「そんな言い伝えない。私が今作ったの。これから言い伝えになるの」
すーと息を吸って――。
「――貴義――飲める――?」
清めの杯のようなプレッシャー……などは全然感じなかった。
「ああ、飲めるよ。いくらでも」
ゴクゴク飲んだ。
「おかわりしたいくらいさ」
「もう! ――折角雰囲気出したのに! バカスケベ!」
「ははは、ごめんごめん。真菜が創った伝説、本当になるといいね」
茶化すと柄杓を奪われ、それで叩こうと振りかぶる。
「駄目だって。危ないし、柄杓で人なんか叩いたらそれこそ罰が当たるよ。マジでごめん。本当に悪かった。僕だって恥ずかしかったんだから」
ちょっとふくれっ面を見せて柄杓をおろし、許してくれた。
手を繋いでゆっくり赤い岩を渡り終えた。
上って来た道とは違う道を下って行く。
遠回りになるのだが、少し暗くて人も割と少ない。
寺の境内に長い階段があり、その一番下の段に二人で腰をおろした。
「下駄……痛くないの?」
「うん、全然。去年お母さんが買ってくれたんだけど、安くなかったらしいの」
鼻緒がふわりとして広いからだろう。
白地に青い菊が無数に描かれた浴衣。
帯は白と青紫の二色で、蝶結びではなくしっかり結ばれている。
生地も薄くなく、しっかりしていた。
さっき、滝のところで体を支えた時に分かった。
祭りの終わりを告げる花火が上がった。
真菜の顔が花火に照らされる。
「きれいだなあ」
「うん……よし!」
何かに気合いを入れて真菜は僕の顔を見た。
「――私の、夏休みの宿題終わらせないと」