毎日の宿題
夏休みの宿題は9月にするものだと言い張る澤江貴義に深水真菜は宿題がしたくなるおまじないをする。澤江は読書感想文だけは得意と言い張るのだが、深水はその方法を聞いて驚愕するのであった。
毎日の宿題
あの日から、クラブの後にいつもの水飲み場で深水と会うのが習慣になっていた。
習慣と言うほどでもないのだ。水飲み場に行くと深水がベンチに座って待っているのだ。逆にいない時、待っていれば必ず深水はやって来た。
エロ本のことをばらされたくないだけなのに、僕は律儀だと誰かに褒めて欲しいところだ。
「私が褒めてあげるじゃない」
「お前はただお金が目当てなだけだろ」
ジュースが欲しい時は買ってこいと言うし、肉まんやあんまんをコンビニまで買いに行かす。その都度、先生や他の生徒に見つからないかハラハラしているのだ。
お小遣いは底をつき、大事にしまっておいたお年玉にまで手をつける有様だ。
深水真菜は僕よりも金持ちのはずだ――。
大きな家には門があったし、停まっていた車は2台とも外車だった。
それに深水は自分のスマートフォンを持っていた。
この町では大人ですらまだ普及率が少ないと言うのに、中学生が持つなんて!
携帯電話すら持たせてもらっていない僕からはまさに宝物のように見えた。
ゲームができるんだ。
ネットができるんだ。
「お金、お金っていうけど、お金より大事なものだって沢山あるでしょ」
それは言う方と言われる方の立場が逆じゃないか?
「世の中、お金で買えない物なんてないのさ」
「ふーん、じゃあ、お父さんとか買える?」
「うん。5億円」
即答したのが深水は面白かったようだ。
「どういう値段設定でそうなの。貴義のお父さん、5億円なら売るって意味?」
「違う。あれは500万円くらいでも売る。うちのじゃなくて、世間一般で、5億円くらい払えば、誰かが売ってくれるかなって価格設定。相場ってやつだな」
「くく、そうなんだ。じゃあお母さんは?」
「6億円。ご飯作ってくれるからお父さんより価格設定は高め」
ちょっと考えた顔を見せる。
「じゃあ……隣のおじさん」
「おっと、難しい質問だ。ダラダラダラチーン。500万円」
「一気に下がったわね」
「だって、隣のおじさんってそんなに欲しい人いるのかなって思ってさ」
世界中の隣のおじさんが聞いていたら怒るだろうなあ。
「じゃあ、隣の隣のおじさん」
「50万円。そのまた隣なら5万円」
「すごい価格設定」
するといつもの不敵な笑みを見せた。
「じゃあ、大好きな石橋香織は?」
「1兆円!」
別に恥ずかしくない。どうせバレているんだ。
「じゃあ、深水真菜」
「タダ!」
要らない。
逆にこっちがお金を貰いたい。そう言う意味で即答してやった。
でも、その言葉で――また何か変なスイッチを押してしまったようだ。
目がじわっとうるんでいく。
「いや、あのゴメン。冗談だから」
「ううん。ホッとしたのよ」
ふーんそうか。って、何にどうホッとしたのかが分からなかった。
女心なんか全く分からない。
でも分かったことが一つある。深水真菜は泣き虫だ。
学校では一切涙なんか見せたことなかった女子が、ここ数日で何回泣いていることやら。
実はクラブでも、家でも、ちょっと辛いことがあると泣いているのかもしれない。
お嬢様育ちだからなあ……。
「それで、宿題は終わったの?」
「まだ八月だぞ。終わるはずないじゃないか」
九月にやるものだ。聞く方が悪いと言おうとしたが、
「もしかして、もう終わっているの?」
コクリと頷く。
――でかした!
これを使わない手はないだろう。今までの出費が報われる時が来た!
「一日だけ貸してくれ! 一日あれば全部写せる」
両手を合わせてお願いしたのだが――。
「バカ! 駄目に決まってるでしょ」
やっぱりだ。
こいつはケチだ。
ケチの方が金持ちになるって聞いた事がある。
「毎日何かしら奢らさせられてるんだから、それくらいいいじゃないか」
「自分の為にならないでしょ。勉強しなきゃ大学どころか、高校も行けないのよ」
「勉強なんかしたって意味無いよ」
石橋香織や深水と同じ高校には到底行けない。諦めている。
「はあ~。私が教えに行ってあげようか?」
その目に嘘はないと感じた。
一瞬、隣で深水が髪をかき上げながら宿題を教えてくれるシーンが脳裏をよぎる。
「――要らない。誰か他の人に借りて写すから心配無用」
きっぱり断る。
「読書感想文はどうするのよ」
「ああ、ドッカンなら2秒で出来る」
略してドッカンと呼んでいるのはうちの家族くらいだろう。
「ええ? 2秒で出来るわけないでしょ」
「ふふふ、これは内緒にしたかったんだが、教えてやろう。一年ってところを二年に変えて、去年返ってきたのをそのまま出す。今年もカモメのジョナサンが大活躍さ!」
さすがに驚いたらしく、口が開いたままになっている。
「ヒバグリホンは、全員の読書感想文なんて読まない。万が一読んでいたとしても、去年は誰が何の本で書いたなんて覚えているほど暇人じゃない。赤ペンで添削もせずに返すなんて、そのまま来年も出していいと言ってるようなもんさ」
胸を張る。ヒバグリホンとは担任のあだ名だ。
「やっぱり正真正銘のバカね……」
大きくため息をつく。
褒められたと思っておこう。
何かに気付いたように立ち上がった。
「そうだ、宿題がすぐにやりたくなるおまじないしてあげるから、目を閉じて」
僕の前に立つ。悪だくみを考えている顔ではないのだが……。
「要らないよ」
「ふーん、後で後悔するかもよ」
「その手には乗らない」
後悔なら今も後悔の真っ最中だ。
「エロ本のこと、公開するかもよ」
「そっちの公開かよ!」
仕方なく目を閉じた。何をされるのか考える。
何をされたら宿題がやりたくなんてなるのだろうか……。
キスなんてされたら気持ち悪いって言ってやろう。
大体、キスされたって宿題なんかやりたいと思うはずないだろうに。
なんで僕はそんな想像してるんだ。
嫌いな奴にキスされたら腹立つだろうが、――普通は。
――カンッ!
「――痛ってえ!」
デコピンされた!
可愛らしいデコピンではなく、――頭蓋骨を割られるのではないかと恐怖する種のデコピンだ。
「痛いじゃないの。あんたのおでこ、何でできてるのよ!」
僕はおでこを抑えながら地面にひれ伏しているのに、更に怒られているのがどう考えても割に合わなかった。
目から涙が滲みそうになるほど、深水のデコピンは――鍛えられていた。
「体罰かよ~。こんなんで、宿題なんてやる気出るわけないだろうが~」
とんでもないおまじないだ。
深水も中指をふーふーしている。人差指でないのが腹立つ。
「おまじないなんて、すぐに効果が出るものじゃないのよ。じわじわ効いてくるわ」
さっきはすぐ効くって言ってたくせに……。
次の日だ。
いつものようにお地蔵さんの横の湧水をがぶ飲みし、クラブで失った水分を補給していると、深水が来た。
「今日はもう解散。明日は海パン持ってきなさい」
「はあ? 何で」
中学のプールに忍び込むつもりだろうか。
「海に行くからよ」
――二人でか?