映画館で宿題
澤江貴義は深水真菜を自転車の後ろに乗せて映画館まで立ちこぎさせられる。映画を観て泣く深水に対し澤江は、「泣くなんて子供だな」と言ってしまう。
映画館で宿題
「あんた、やっぱりバカスケベね」
時間どおりに来たのに、深水は細い目をして怒る。
「何で?」
深水の言葉に正当な意味を見いだせない。
頭を掻きながら、
「何で自転車で来たのよ。文化センターまでそれで行く気?」
「お前と一緒に電車になんか乗れるか!誰が見てるか分からないし」
文化センターは電車で3駅。おおよそ10キロの道のり。僕としてはもう一円たりとも余計に使うことはできないのだ。
――深水のためなんかに使うことは出来ないのだ。
「深水は電車で行けよ。僕は自転車で飛ばしていくから」
興味も何もない映画――上映時刻なんて知ったことではない。
女子が好きそうな映画なんて、題名すら知らない。
ママチャリのペダルに足を掛ける。
「それに、百歩譲ってバカかもしれないが、スケベは余計だ!」
「待ちなさいよ」
ずかずか歩いて来る。
電車代をよこせって言うんじゃないだろうな――。
自転車の荷台に座った。
後タイヤが少し沈む。
――本気か?
「本気でここから二人乗りして文化センターまで行く気か?」
右足の踵を右足の爪先で蹴られた。
「痛っ!」
「つべこべ言わずにさっさとこげ! 2時に間に合わなかったら、本当にバラすから!」
――! すっごく怒っていた。
本当に怒っていた。
バラすの意味が「解体する」に聞こえてきそうな恐怖すら感じる。
「絶対に見たい映画なんだから……」
小さい声だったから聞こえなかった。
「うおー!」
田んぼの間の農道には人っ子一人いない。
大きな声を上げて、文字通り馬鹿みたいに立ちこぎを続けていた。
「もっとスピード出せ! バカスケベ!」
大きな声でバカスケベと言われても、聞く人がいなければへっちゃらさ。
体操服で来た方が良かった。
ジーパンが汗でくっつき、お尻の辺りは汗染みで色が変わっているし、それを後ろに座る深水にじっと見られているような気がすると、もう座ってこぎたくなる。
「バカ、座ってこいでたら間に合わない!」
「ハア、ハア」
息も切れていた。
前のほうで白い靄が上がっているのが見えたので、隣の農道を走る事にした。
「こら、バカ! 何でまっすぐ走らないのよ」
「バカはどっちだ、そっちだ。農薬散布してるだろ」
田舎の農道ではこの時期、日常茶飯事だ。
「虫が死ぬぐらいなんだから人間にだって良くない」
全力で立ちこぎするんだ。息を止めて通りぬけられるわけがない。
「……じゃあ、その分、こぎなさいよ」
「こいでるだろーが」
――何とか2時前に文化センターに到着することができた。
階段を一段飛ばしで上がり、文化センターに入る。
「中学生2枚」
「はい、2千円丁度になります」
仮設の受付でお金を払った。もちろん二人分払わされた――。
文化センターは映画館ではない。多目的ホールで年に数回、白い大きな幕を下ろして映画館へと姿を変え、半年から一年遅れの映画が上映されるのだ。
音はいいのだが、どうしても色合いは映画館には及ばない。田舎の娯楽感が溢れている。
周りに知った奴がいないか目を光らすが、どちらかといえば大人の、しかもカップルがほとんどだった。
夏休み中なら、学生はわざわざ人の多い日曜日を狙ったりしないから助かった。
「はやく、いい席取られるでしょ」
文化センターの映画上映に指定席はない。そのくせ、人が多い時には立見席が多数ある。
「別にどこだっていいだろ」
いつもの事だが、Tシャツは汗でベトベトだった。
ちょうど真ん中の少し後ろくらい。ベストポジションに二人並んで座ることとなった。
映画の内容は、中二の男子が観ても決して面白いものではなかった。
宇宙戦争の続編だったら興奮したかも知れないが、邦画の感動ものなんて全く興味無かった。
好きな俳優が出ているか知らないが、隣でハンカチを持ちながら見ている深水は一体何に感動しているのやら。
――まだ始まって5分だぞ。
退屈な2時間であった。
途中、深水の席側の肘置きに手を置いて疲れを癒していると、深水の手が僕の手に触れてきた。
――肘置きをよこせ……。
そう言っている気がしたので、渋々明け渡す。
ところが、数分後にはまた肘置きが空いていたのでまた肘を乗せる。
するとどうだ、また深水の手が触れてくる。
……何だ?
僕が手を置くのが気にくわないのか?
自転車こいでこっちはクタクタなんだ。肘置きくらい使わせてくれてもいいじゃないか。
それでなくても反対側は知らないおっさんに当然のように占拠されているんだから――!。
仕方なく肘置きから手をおろして深水の方を見るのだが、スクリーンに夢中で肘置きのことなんてさらさら考えていない。
そんなに夢中になって映画って見るものか? SFならともかく……。
眠ることはなかったが、2時間が長く感じた。
映画が終わって席を立とうとした時、深水を見て驚いた。
深水のような陰険かつ性格が悪い女子が決して見せてはいけないような泣き顔で、ハンカチで口元を押さえているのだ。
「お、お前なあ。どこにそんな泣ける要素あったんだ?」
「――え? 今の映画を観て泣けないの?」
頷く。
泣けない。
泣けなかった。
「あんた、本当にバカね、感情が麻痺してるんじゃないの」
怒らない。怒らない。
いつもの毒舌ではないか。僕は大人だ。もう泣き虫の小学生とは違うのだ。
とりあえずは席を立ち文化センターを出ると、眩しい外の光が目に突き刺さった。
深水はまだハンカチを握っている。
「いや、感動はしたけど、別に泣くほどのことはないだろ。映画でよくあるじゃないか。最初にクライマックスを少し見せて盛り上げ、最後にもドーンと盛り上げて終わるやつ」
「じゃあ、貴義は面白くなかったの?」
「全然面白くなかった」
「……子供ね」
「何だって? あんなんで泣く方がよっぽど子供だよ。――バッカじゃないの」
子供だと言われたことにカチンとしてしまったんだ。
文化センターの階段をトトットトッと降りるが、深水はついてこない。一番上の段に座り込んで、今度は両手で顔を抑えて泣いていた。
――はあ?
そこで泣くのか?
みんなに見られてるぞ。
昨日は僕に無茶苦茶酷いことを言ったくせに、自分はバカの一言で泣くのかよ!
――不平等だろ。
それに、こっちは弱みを握られ、映画だって僕のお金で見たんだ。
「帰りは電車で帰るんだろ、僕は先に自転車で帰るから。じゃあな」
階段を降りて自転車置き場へ向かった。
どうしていいのか分からなかった……。
学校なら誰かが泣けば他の女子が先生に言いつけたり、男子が茶化したり、何とかしてくれる人がいた。二人っきりで泣かれるなんて、初めての経験だった。
自転車にまたがり、階段が見える所までそっと引き返した。
深水はまださっきの姿のままだった。
ため息が出たのだが、ようやくその時、僕は気が付いた。
――そうか、そうだ。僕が悪かったんだ!
簡単には謝れないが、僕にも責任があると舌打ちしたくなる。
――深水は帰りの電車代を持っていないんだ――!
こんなことも分からなかったなんて、自分の幼稚さに嫌気がさす。
子供ねと言われたが、これでは反論できないではないか。
まさかここから家まで歩いて帰らせるわけにもいかない。――置いて帰るなんてできないだろ。普通。
仕方なく自転車で階段の下へ行った。
「深水、とりあえず乗りなよ」
できるだけ優しく声を掛けると、赤い目で僕を見上げた。
「……電車代、無いんだろ」
「……バカ」
小さい声だった。
その「バカ」は深水にしてみれば「うん」の返事なのだ。
帰りは一言も話さなかった。
後の席で、すんすんと聞こえる。
感動して泣いたのが、僕の一言で泣いているのに変わってしまったのだと考えると、少し悪い事をしたのかと反省していた。
でも、それを簡単に謝れるほど僕は大人じゃなかったんだ。
来た農道をゆっくり帰っていく途中、警察のパトカーが深水を乗せて二人乗りしている僕たちを堂々と抜かして走り去って行った。
泣いた女の子を乗せて二人乗りする自転車を止めたりするほど、警察も野暮な事はしないのだと知った。
いつもの水飲み場までの坂道を上っている途中で深水が言った。
「ここでいい。降ろして」
ブレーキをかけて止まる。一軒の大きな家の前であった。
深水の歩く後姿に、映画を見る前のハツラツさが感じ取れなかった。
「どうしたんだよ、ここから歩くのか?」
「……ここ、私の家」
振り向くことなく木で出来た門を開けると、奥にフラフラと歩いて行った。
立派な表札には『深水』と書かれていた。
この町で一番新しく、立派な家なのではないだろうか。
深水はお嬢様育ちだったんだ……。
今気付いたのだが、今日はスカートで、お洒落な小さな鞄を持っていた。
家に辿り着くと、太ももとふくらはぎはカッチカチになっていた。
計40キロを走り、途中は二人分だったのだ。もう足が笑っていた。
「ただいま」
「お帰り」
返事をしてくれたのは意外にも親父だった。
単身赴任になってから、毎週土日は必ず帰ってくる。
リビングのテーブルでコーヒーを飲みながらカタログ雑誌を暇そうに読んでいる。
汗でベトベトのTシャツとズボンを脱いで、ズボンのポケットから財布とゴミをテーブルに置くと、親父が目ざとく映画の半券を見つけた。
「『僕は…君と…』ってお前、映画見てきたのか」
「え、ああ。友達と」
題名は長くて覚えていない。
「あの話は泣けただろ。お父さん映画は見てないけどなあ」
小説でも読んだのだろうか。
「いや、全然感動しなかった」
ハンカチで顔を抑えていた深水を思い出した。
「でも友達は泣いててさあ、何で泣けるのか分かんねえよ」
洗濯かごに少々荒っぽくズボンを投げ入れる。
「ははは、貴義もまだ子供だな」
「何だって!」
深水に言われたことをまた親父に言われ、また怒っていた。
「え、いや、ゴメン。そういう意味じゃなくてだなあ。お父さんが言いたいのは、貴義が今までに映画と同じような経験をしたかどうかで、物の見方なんて365度変わるってことが言いたいんだよ」
「5度多いんじゃない?」
「はっはっは、そうだな」
――やれやれだ。
親父はほとんど怒らない平和主義者だ。単身赴任になってからますますそうなった。
「つまり、一緒に行った彼女は今までに転校とかで大事な友達と別れた経験をしていたら、その分、心に響くってことさ。貴義も中学校を卒業したら分かるんじゃないかな。その彼女と同じ高校に行けなかったりして」
彼女って何だ? そんな事、一言も言った覚えはない。
「男友達だって!」
コーヒーを口にして笑いながら、
「男友達が男の前で泣いたりなんかしないだろ。それに男同士で見る映画でもない。男友達が泣いてても、そんなことをお父さんに相談なんてしないだろ」
「……」
今までただの鈍感なハゲ親父だと思っていた。
「まあ、お父さんが中学校の頃は、テレビゲームに夢中だったからなあ。彼女と映画とか見に行く貴義が羨ましいよ」
「だから、違うって言ってるだろ」
そう言うと、自分の部屋へ上がった。パンツ一丁で。
中学を卒業したら高校へ進学するだろう。
でも、深水真菜や石橋香織は賢いから、同じ高校へ行けないのは分かっていた。
夏休みの宿題すらやっていない僕は落ちこぼれだ。
落ちこぼれと思って、諦めてしまっている真の落ちこぼれなのだ。
次の日、クラブの後、いつものように水飲み場へと歩いて行くと、ベンチに体操服姿の深水が座っていた。
僕は後ろからそっと近付いて――、
「昨日は……ごめん」
それが精一杯だった。
深水は少し驚いた顔を僕に見せた。
木陰から吹き抜けてくる風は、周りの空気よりも涼しく心地よかった。




