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次の日の朝。目を覚ますとカタツムリが顔の近くまでにじり寄ってきていたので、
おもわず裏拳で殻ごと粉砕してしまった。
ぐんにょりとなったなめくじに塩をかけてしばし楽しんでいると、じいさんもむくりと体を起こした。
「ああ、まだ居たのか」
一週間ほどここに居るという話をしたのに、さも意外かのように言った。
僕は微笑した。
じいさんは欠伸をすると、顔を洗うのだろう、川のほうへ歩き出した。
川の水は綺麗で飲むこともできるというので僕もそれに倣う。
なるほど水は川底が見えるほど透き通っていた。さすが田舎である。
二人並んでバシャバシャと顔を洗う。冷たい水が心地よく、うがいをしようと口に水を含んだ。
「ところで、昨晩の娘は彼女かい」
「グォホァッ!!」
鼻と口から盛大に水を噴出する。
「……見てた?」
やばい。
別にジュナと一緒にいる所を見られるのは構わないが、昨晩の青臭い発言の数々を思い出す。
とくに、ホームレスにとって〜のくだりは同業者に聞かれたら恥死ものだ。
恥死とは恥ずかしくて死ぬことである。僕が今作った。
ちなみに「ちし」と読む。10回連続で言えたら大したものだ。
「なんだ、ほんとに女と会ってたのかよ。初めての町だろうに、手が早えなぁ」
……こんなカマかけに引っかかるとは。
アレを聞かれていないのであれば後の誤解はどうでも良かったのだが、一応論駁する。
「いや、そういうのじゃないんだよ」
「別に隠さなくたっていいじゃねえかよ、兄ちゃん、男前だもんな」
べつだん興味も無いようなので、それ以上は何も言わなかった。
まあでも、良かった。冗談が口を付くあたり、昨日を引きずってはいないようである。
僕も、じいさんも。
今日も良い天気だった。
朝食も無いので川の水をゴクゴクと飲み、橋の下に戻る。
じいさんは一息つくと、荷物をまとめだした。コネで清掃業の仕事があるという。
僕も自分の荷物を置いた場所に腰を下ろす。と、もう一匹なめくじを発見した。
つついたり、こねくり回したりしてなめくじを困らせる。
さて、僕も仕事に行く準備をしなければならない。
切符代もそうだが、とりあえずは食事のために。さすがに一日一食は食わないときつい。
毎週日曜日にはこの町にある教会がすぐ近くの広場で炊き出しをして、食べ物を振る舞ってくれるのだそうだが、
不幸なことに今日は月曜日である。
それに、こういう田舎町ではファーストフードの廃棄処分なども期待できない上、
地区担当のケースワーカーがあんな男では役所のパン券には頼れないし、頼りたくも無い。
じいさんに迷惑をかけるわけにもいかない。
だから、とりあえず食料の調達は急務である。なるべく早く金を手に入れたい。
で、アルミの換金所なのだが、じいさんの話によると隣町にしかない。
この町にはアルミを生業としているホームレスはいないそうだし、あまりニーズもないのだろう。
歩いて1時間以上かかるらしく、缶を何キロも持ってそこまで行くのはきついなと思っていたのだが、
おれは使わないから、とじいさんが自分のリアカーを貸してくれた。
重いので自分の荷物はここに置いていくことにし、僕はリアカーを引いてジュナとの待ち合わせ場所へと向かった。
車輪をガラガラと音立てて、ひとつ下流の橋まで行くとすでに人影が見えた。
「森田さん、来てくれたんですねー!!」
僕の姿を認めると彼女は駆け寄ってきて、嬉しそうにさっきなめくじをこね回した僕の
手をにぎりしめてきた。そういえば手を洗っていなかった。
僕はというと、驚いて固まってしまっていた。
手を握られたからではない。彼女の姿が深海生物から変貌を遂げていたからである。
昨日、千手観音のようだった触手は腰までありそうなストレートヘアになっており、
つややかな黒髪を風になびかせている。
服装も違う。
そでの広いブラウスに、うすい紺のスカートをひらひらさせていた。
太陽の光が純白のブラウスに反射して、一枚の絵のように輝く。
清楚です! 狙ってます! って感じのファッションなのだろうが、ものすごく自然だ。
こちらの方が、昨日のものよりも着慣れているのがわかった。
昨日の彼女の姿は、家出の時に親への反発で無理に創ったはりぼてだったのかもしれない。
…………
ちなみに、めちゃくちゃ僕の好みだ。くそぅ。ガキのくせに……
僕が見惚れていると、彼女はリアカーに興味を示した。
「あれ、なんですかこれ!? どこで貰ったんですか?」
「昨日あっちの方で知り合った人から借りたんだよ」
「へぇー! すごいですねぇ! やり手ですねぇー!」
「意味分からん」
本当にやり手ならホームレスなぞやっていない。
「まぁ、とりあえず駅前に行くぞ」
確か駅前には小さな商店街があった。まずはあそこからだ。
2人揃って川沿いを歩き出す。空は青く晴れ渡っていた。
僕はふざけて言った。
「ていうか、わかってんの?お前もうジュナじゃないんだぞ」
「え、えっ!? なんでですかっ!?」
分かるはずもない彼女は困惑した表情を浮かべる。
僕のほうは依然として、「森田」のままだった。