3
とにかく彼は良い人そうだ。それに処世術も心得ているだろう。
少なくとも、あたしよりは。
駅前で一人思案する。
もう駅時計は3時を指しているが、まだ日差しが強く汗が吹き出す。
…………
1人でいるのは心細いし、なにより、彼に興味がある。
ただ、少し遠くて知らない町を歩きたかったから?
……なんですか、それ。
しかし彼は大真面目に語った。
本人は気がつかなかったかもしれないが、相当強い語調で。
(まるで、自分の中の世界が広がってゆくようだ)
そんなこと、言ってたなぁ……
………………
暑い。
とにかく早く見つけ出さねば。
お金は持ってないんだし、そう遠くへは行けないはずだ。
見つけ出したら絶対文句を言ってやる。
かよわい乙女に、こんな心細い思いをさせるなんて!
もうなりふりかまってられない。私は大きく息を吸い込んで叫ぶ。
「森田さん………………
どこですかああああああああああああああ!!!!??」
僕は蒸し暑い中これからのことを考えたが、
歩いて帰るのは無謀だし、やはりここで金を稼ぐしか無いようだ。
そのための第一目標。この町のホームレスを探す。
彼等は自分の住む町についてはプロフェッショナルである。様々な情報を得るには不可欠な存在だ。
まず彼等に出会う必要がある。
そういうわけで今、その目標と、自分の道楽のために僕は町をぶらぶらしていた。
十字路が多く、規模は違うが京都のように網目の構造になっている町だとわかった。
大きな建物は少なく、一軒家とアパートが殆どである。
人はたまにすれ違う程度で、アスファルトの道路は広く綺麗に舗装されている。
田舎だからか、空気もおいしいような気がした。空は底抜けに蒼かった。
やはり知らない町を歩くのは、新鮮だ……
………………
……そういえば。
駅の名前すら確認できなかったな。
思いながら歩を進める。
終点に到着した僕は、一瞬の隙を突いてジュナを撒いた。
後ろから呼び止める声が聞こえたが猛ダッシュ。
これで彼女もあきらめて家に帰るだろう。
しかしその結果、楽しみの一つだった駅の雰囲気は全く楽しめなかった。
駅名すら分からない。乗るときは適当にボタンを押しただけだし。切符に書いてある駅名を
見た気もするが、よく覚えてない。到着してのお楽しみぐらいに思っていた。
僕はそういう男なのだ。
ちなみに財布の紛失届けはもちろん出さなかった。だって住所も電話番号も無いのだ。どうせ無駄だ。
僕はここに存在するのだが、僕の存在を他人に証明するにはそれ相応の書類が必要なのである。
………………
……だがそんな不満も、塵芥のように吹き飛ぶ。
至福のひと時だ。
歩いているのは観光地でもなんでもない。ただの町の、ただの道だけれど。
空間を紡ぐように歩く。
胸が清涼感で満たされていく。頭の中の世界が拡大してゆく。
この空間は今創られた。少なくとも僕の中では。
この感覚を味わうには、やみくもに遠くに行けばいいと言う訳ではない。
ある程度、僕の知っている場所と繋がりがなければならない。
ただし、隣接していてはダメだ。
そこの説明が、難しいのだが……
まあ言語化できることばかりじゃないな、世の中は。
たぶん共感出来ない人にとっては、精神異常者だ。
暑い中、金も食べ物もあてもないホームレスが、幸せを噛み締めながら歩いていた。
……………………
しかし、あのナマコ女……
顔は結構かわいかったな。
……いかんいかん。
ホームレス生活にそういう欲求は厳禁だ。
そんなことにかまけている時間は無い。なによりもまず食うことが最優先だからだ。
……散策は別です。僕の命だから。
それにカタギの娘さんを傷物にするわけにはいかない。
あのまま一緒に居ればどうなっていたか分かったもんじゃないぞ。僕が。
久しぶりに女と接触したせいか、かなりむらむらした。
下半身の相棒のジョンが寂しそうだ。
後で奥義「自己完結」を使わざるを得ない。
そんなことを考えながら、僕は見知らぬ町を楽しんで歩いた。
町を分断するように流れている川に沿って歩く。
その川にかかっている古びた橋の下に人影が見えた。しめた、と思い人影の方向に向かう。
果たして、そこには浮浪者と思しき老人がいた。
60歳ぐらいだろうか、白髪で紺のコートを着ている。
周りには寝袋も置いてあり、生活感もあったのでここに住んでいるのは間違いなかった。
「やあ、じいさんここに住んでるの?」
僕は躊躇無く話しかける。
老人は答えない。予想の範囲内だ。
ふつう、話しかけられてすぐに答える浮浪者というのは少ない。
長年の生活に疲れ、色々なことに興味を示せなくなっているというのもあるし、
からかいの対象となった経験からというのもある。
しかし基本的にはどんな人でも根気よく粘れば返事をしてくれる。
僕は川を眺めたり、この老人の生活用品を観察しながら10分ぐらい周りをうろうろしてから、
自分もホームレスであることと、今に至る経緯を相手の反応を期待せず簡単に説明した。
すると洗濯物を干していたじいさんが、それは酔狂なこったな、とはじめて口を開いてくれた。
やっとしゃべってくれたので、僕は質問を始める。
「仲間は何人だい」
「1人だよ」
少し驚いた。
ふつう、ホームレスというのは何人かのグループを組んで生活する。最低でも2人。
様々な危険があるからだ。とくに若者の襲撃などがあると集団で暴行されたりするので本当にあぶない。
むろん、経験の浅いホームレスが1人で寝ているのはよく見かける。
だが目の前の老人はどうみてもベテラン、僕より生活術に長けていそうなくらいだ。
「この町には他にホームレスはいないの」
「いや、この川の少し上流にも2人いるし、他の場所にも何人かいるな」
「固まって住めばいいのに。あぶないよ」
「もうこの年だしな。来る物拒まずさ」
じいさんは笑って言った。
話すことさえ出来れば、なかなか人当たりのいい人だ。ちょっと妙な表現だが。
そして、切符を買うために金を稼ぎたいから一週間ほどここに居させてくれないかと頼むと
好きにしな、という答えが返ってきた。
良かった。思ったよりすんなりと事が運びそうだ。
「それで、季節的にもアルミをやろうと思うんだけど、他に誰かやってる人いるかい」
アルミというのはアルミ缶を集めてつぶし、換金する仕事のことで、だいたいキロあたり80円が相場だ。
夏も終わりとはいえまだ暑く、飲み物を買う人が多いので他の季節に比べれば格段に空き缶を集めるのが楽なのである。
しかし都心ならともかく、こういう田舎ではアルミにテリトリーが存在する。
仕事をダブらせると先にやっていた人の迷惑になるからだ。
「いや、この辺りじゃいねーな」
僕はその答えにほっとした。
そのあと換金所の場所とこの町の地理について少し尋ねてから
「また夜にくるよ」
と言い残して僕は散策を続けた。
川の下流に向けて少し歩き路地に入ると、そこには小さな公園があった。
入り口の横のゴミ捨て場には粗大ゴミがうずたかく積み上げられており、その隙間から
「粗大ゴミ捨てるな」の看板が少し覗いていた。
公園を歩くと、思わぬ幸運があった。500円玉が落ちていたのである。
これで、じいさんにおみやげを買えるな。
僕はしばらく休んでから公園を出て、少しテンポを上げて歩く。
そうしているうちに、僕好みの、古びたマンションを見つけた。
入り口の着工年を示したプレートを見ると、2012年とある。もう数十年前の建物だ。
遠目ではそこまで古く見えなかったが、表面の塗装は克明に時を刻んでいた。
まるでここの住人かのようにアパートに入り、コンクリートの階段を上る。
階段は薄暗く、くもの巣が張っていた。最上階までゆっくりと、意味もなく上る。
ここにも、誰かの生活があるんだ。
こういうことをすると、僕は別の世界を侵略しているような気分になった。
何の意味も無い行為である。
残念ながら屋上は上がれなかった。最上階でしばし外の景色を楽しむと、
胸いっぱいになった僕はアパートを後にした。
そろそろ戻ろうか。帰りにおみやげを買っていこう。
「てめえなんざ、生きてても死んでも社会のデメリットだろうが!!」
橋の下に戻ると、黒い服を着た男が怒鳴り声を上げていた。
じいさんは黙ってそれを聞いている。
「不法占拠ですよ? ふーほーうーせーんーきょ!!
次来るときにまだここいにいやがったら、てめえの荷物なんぞ全部川に放り投げてやるからな!!」
男は汚い言葉を浴びせると、そのままどこかへ行ってしまった。
僕はじいさんに近寄る。
「ねえ、今の人、この地区のケースワーカー?」
「……ああ」
じいさんは言葉少なで、いたずらがばれた子供のような表情をしていた。
どうやらこれが初めてではなさそうである。とんでもない奴もいたもんだ。
しかし、僕も不快になったが、じいさんはもっとのはずだ。
僕は今の出来事を気にしていないように振舞った。
「そうだじいさん、酒買ってきたよ。一緒に飲もうよ」
僕からの供応の誘いにじいさんはほんのちょっと顔をほころばせた。
「あ、なら良いのがあるぜ」
自分のねぐらから何かを持ってきた。
賞味期限が切れた海苔と、昆布だった。
「不法占拠だから施設に行けというし、施設に行ったら人がいっぱいだと言われるしよう、
それにこの年だからもう入れないよ」
酒で饒舌になったじいさんは堰を切ったように話す。
辺りはすっかり暗くなっていた。川の水が月明かりを反射してやさしい光を創っている。
いろんなことを聞いた。
昔、少し悪さをしたこと。それでもう、家族には会えないこと。
じいさんは軽口のようにいう。
「さっきのやろうも、嫌なやつでよ。今までさんざん嫌がらせを受けたよ」
「ひどいよなあ、ほんと」
確かにここに住むのは不法占拠かもしれないが、追い出そうとするなんて非人道的だ。
「まあ最後に一回ぐらい、仕返ししてやろうと思ってるんだけどよ」
「へぇ、どんなふうに?」
つとめて明るい口調でたずねた。
「ああ、ホームレスの死体は行政区ごとに処理する担当が変わるからな。この地区の目立つ場所で死んで、
やつを困らせてやるよ。まぁ、死んだ場合の処理もやつの担当かは知らないけど」
……………………。
僕は息が詰まりそうになった。
「……家族には会いたいかい?」
じいさんは遠くを見つめる。
「会いてえな。でも、特にせがれからな、もう会ってくれるなと言われてるからな。
まぁ、おっ死ぬ前にあと一回ぐらいは会えそうな気がするんだけどよ」
そう言うと黙りこくってしまった。よく見ると、じいさんの体は震えていた。
じいさんの住みかから少し離れた別の橋の上で、普段は吸わない煙草を燻らせる。
昼間の暑さはどこへやらだ。かなり涼しい。もう本格的に夏も終わりである。
田舎の夜空は星がきれいだ。
道には人通りが全くなくて、静かな、川の水の流れる音だけが聞こえている。
「ふー」
気分転換にここに来てからすでに30分ぐらいになる。
頭をぐわんぐわんと揺らされるようなダウンな気持ちから少しは開放された。
じいさんはもう寝てしまっただろうか……
明日はどっちの方角から散策してみようか……
ぼんやりと考えていたとき。
「もりたさああああああああああああん!!!!」
「ぐふおぁっ!?」
いきなり後ろからタックルを食らった。
「どぼぢで!! どぼぢて居なくなったんですかぁああああ!!」
振り返るとそこにいるのはジュナだった。
「お前、もう帰ったんじゃなか・・ぐっ!! 苦しい! 苦しいから腕を放せ!!」
「良かったあ!! このままずっと会えなかったらどうしようかと思ってましたよぉぉ!!」
ジュナは僕の襟首を両手で掴みながら訴えてくる。とんでもねー力だ。
本気で振りほどこうとしてもビクともしないのでかなり焦る。動きを止めるために、
ぶつけたら痛いじゃすまなそうな硬くて尖ったものを辺りから探し始めたあたりでジュナは僕を開放してくれた。
命拾いしたな。
僕のほうかもしれないけど。
「もう、ずっと町の中を探し回ってたんですよ!心細いし足は痛いし大変だったんですから!!」
ジュナは1日溜め込んでいた不満をここで消化しきるかのように文句を続ける。
「だから帰れって言ったのに……もう遅いし、どこで寝る気だよ?」
「あ、それなら大丈夫です。あっちのほうで安いホテル借りました」
けろっと言い放つ。余裕あんじゃねーか。
その後も彼女はぐちぐちと不平をぶつけてくる。
今回はさすがに逃げるわけにはいかない。しかたなく私が悪うございましたと平謝りする。
「と・に・か・く! 明日は絶対に一緒に行きますからね! 逃げちゃ駄目ですよ!!」
なんでそんなに僕にこだわるんだよ……
でもまあ、今は気分的に誰かと居たほうが良いかもしれない。
「わかった。僕はこの辺で寝てるから、朝になったらこの橋で会おう。
その代わり明日になったらちゃんと帰れよ」
「うん! わかったわかった!」
絶対分かってないジュナが返事をする。なんでそんなに嬉しそうなんだよ……
約束を取りつけて余裕ができたのだろう。ジュナが軽い口調でいう。
「いやーここで寝るんですかぁ。ホームレスも大変ですねぇ」
「……ジュナ」
じいさんと話したからだろうか。今日の僕はどうかしている。
こんなことを尋ねてみようと思うなんて。
「ホームレスでいて、一番楽なことって何だと思う?」
「え、なんだろう……仕事しなくていいとか?」
近い。
「ちょっと違う。目的が無いことだよ」
「ああ、自由ですもんね。その日暮らし〜みたいな」
「じゃあ、ホームレスで一番辛いことって何だと思う?」
「うーん、冬場の寒さがきついとか、空腹とか?」
「違う」
今度は遠い。
「目的が無いことだよ」
ジュナはきょとんとしている。
僕は夜空を見上げた。気の遠くなるぐらい無数の星々が乱雑に散りばめられている。
人工的なゴール。どこまでいっても人工的なゴールだ。
いやむしろ、ゴールが人工的なのかもしれなかった。
僕たちホームレスは、ただ普通の人より敏感になっているだけ。
川の流れは相も変わらず、一定の量の水を海へと運んでいく。
その後、今日あった出来事をお互いに報告してから別れた。
というか、今日どんなことがあったのか彼女の方が執拗に聞いてくるので僕がそれに答え、
知りたくも無いのに彼女におきた出来事を事細かに聞かされた。
なんでも草原でヘビに襲われたらしい。どこに行ってたんだよ。
別れる時にも彼女は、明日の朝ですよ、約束ですよ、絶対ですよー、と念を押してきた。
景色にも飽きたので、僕もすぐにじいさんのいる寝床に帰った。戻るとじいさんは既に寝息を立てていた。
すぐ近くにごろっと横になる。
…………
…………
僕にはわかる。
もし僕が、帰らずにずっとここにいるよ、といったらじいさんは喜ぶだろう。
笑顔になるだろう。
そして絶対に満たされないだろう。
全部予想がついてしまった。
じいさんのじゃない。僕の人生が。
そしてじいさんは死ぬまで、死ぬのを待ち続ける。
僕は眠りにつく。夜風の涼しい、心地の良い夜だった。