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魔術師達がナナの帰り方を見つけられないまま、あっという間に九日が過ぎた。
ナナはアディが作った辞書を使い、そこに書かれた文字を指差して簡単な意思疎通が図れるようになっていた。そのお陰で、アディとダニエルには二日間の休暇が与えられる事になった。
アディが通訳の仕事を受けてからは城で寝泊まりしていた為に、自宅に帰るのは久しぶりだった。
二人が住む家は、副隊長や隊長達が城の外で借りる貸家だ。
騎士団の宿舎も部屋数が限られているのと、上司が一緒だと気が休まらないだろうという理由で、隊長職につくと貸家に引っ越す事になっている。
アディがいない頃のダニエルは、城の仮眠室に泊まってそのまま食堂で食事を取る事が多く、家を空ける事も多かった。だがアディが来てからは、毎日二人でこの家に帰り、アディの作った食事を食べ、アディが整えてくれたベッドで眠っていたのだ。
家に帰ると、なんだかほっとした。
休みの一日目は、しばらく空けていた為に埃がたまってしまった家の掃除をした。ダニエルが家の中の埃を掃き出し、アディは洗濯をする。
一通り終わった所で、食材の買い出しに出る事にした。
休みの日なので、アディはいつもの男物の服ではなく、空色のワンピース姿だ。髪も緩くバレッタで留めている。
そのワンピースは、アディが自分で選んでダニエルが買ってやった物だ。アディが、これはダニエルの瞳の色だと嬉しそうに笑っていたのを思い出す。
アディはよく、ダニエルの瞳は空、髪は太陽みたいだと言う。
今まで、冷たいだとか恐ろしいだとか言われていたダニエルにそんな事を言うのは、アディだけだ。
「おや、アディちゃんじゃないか。しばらく姿を見なかったねぇ?」
店の立ち並ぶ通りに行くと、八百屋の店主が声をかけてきた。
他にも側にいた人々がアディに声を掛けている。
アディはその人々に、黒板に文字を書いて楽しそうに答えていた。
そんなアディの姿を見守っているダニエルの背中を、力強く叩く手があった。
「あんたも久しぶりじゃないか!」
それは八百屋の隣の肉屋のおかみで、よくこうしてダニエルにも声を掛けてくれる。
「しばらく、仕事で城にいたので。」
「そうかい。大変だねぇ!でもさぁ、あんた。仕事は良いけど、そろそろアディちゃんの事、ちゃんとしてやったらどうなんだい?騎士様なんだから、養えないとかいう事はないんだろう?」
最近ダニエルは、この手の話をよくされる。
六つ離れているとはいえ、年頃の男女が一つ屋根の下で共に暮らしているのだ。周りが心配するのも道理だ。
それに、アディの愛情表現は分かり易い程にあからさまだった。
ダニエルが夜に晩酌をしていると擦り寄って来て、隣に座って本を読むのはほぼ毎晩。ダニエルがアディの作った食事を食べる様を、それはもう幸せそうに見つめてくるのも毎日。
ダニエルが負傷した時には真っ青な顔で泣き出すし、片時も離れていたくないというように常に側にいようとする。
それに、文字でもたくさんの愛情を表してくる。
ダニエルも、アディを憎からず思っている自分を自覚していた。
「そろそろ、とは、考えています。」
ダニエルの返事に満足したように、肉屋のおかみは豪快に笑って、頑張りな、とまた背中を叩いた。
昼は屋台で済ませ、買い物を終えて家に帰った。
少し休めば良いものを、アディは久しぶりだからと張り切って、そのまま夕飯の下拵えを始めてしまう。
本当によく働く娘だなと、ダニエルは苦笑した。
くるくる台所で動き回るアディの背中を、アディが淹れてくれたお茶を飲みながらダニエルは眺める。
そして、買ったはいいがずっと渡せないでいる物を、今日こそ渡そうとタイミングを図っていた。
アディの作る物は本当に美味しい。健康を気にして野菜を多く使い、体力仕事で大食らいのダニエルの為に、肉料理もたくさん作ってくれる。
久しぶりのアディの手料理に二人で舌鼓を打ち、食後はアディがダニエルの為に酒と肴を用意してくれた。
二人でソファへと移り、アディはいつものように酒を飲むダニエルの隣で本を開く。
「なぁ、アディ。」
ダニエルが呼び掛けると、アディの赤と金の瞳が向けられる。
ランプの揺れる灯りが映り込む二色の瞳は、本物の宝石のように煌めいていた。その瞳を視界に捉えながら、緊張して震える手をダニエルはアディに伸ばす。
両耳に何かを付ける動作をして、ダニエルは体を離した。
なんだ?と、聞きたい様子で首を傾げたアディの両耳には、雫型の空色の宝石が揺れる。
その様子を、ダニエルは満足と緊張の入り混じった視線で見つめていた。
耳元で揺れる存在に気がついたアディが、大きく目を見開く。徐に立ち上がると、鏡のある二階に駆け上って行った。
ダニエルは、アディが戻ってくるのを酒を飲みながら待つ事にしたが、なんだかあんまり酔える気がしない。
緊張と不安を抱えてダニエルが待っているとアディの足音が戻って来た。
ダニエルが視線を向けた先に立つアディは、泣いている。
「ど、どうした?嫌だったか?」
この国では、男が自分の瞳の色の宝石がついた耳飾りを女へと贈る行為には、求婚の意味がある。
もしかしたら迷惑に思われているのではないかと、ダニエルは狼狽えた。そんなダニエルに、アディは泣きながら首を横に振って抱き付いてくる。
「アディ、愛している。俺の妻になってくれ。」
声に出して伝えると、アディは更に強く腕に力を込めてきた。しばらくそうして泣いて、ダニエルから体を離したアディは、震える手で黒板に書く。
『私もダンを愛してる。でも、奥さんにはなれない。』
「どういう意味だ?」
黒板からアディに視線を戻すと、アディは零れ落ちる涙を袖で拭いながら、黒板に文字を走らせていく。
『私、人殺しなの。ダンに会う前に盗みもしてた。騎士のダンには釣り合わない。』
何か隠している事があるとは思いながら一緒にいた。それを今なら、アディは話してくれるのではないかとダニエルは感じた。
「騎士である俺も、多くの命を奪って来た。盗みだって、お前の事だ。生きる為だったのだろう?」
アディは激しく首を横に振った。
とても辛そうな様子に、ダニエルの胸が痛む。
『ダンのとは違う。親を殺した。村人全員、殺した。』
いつものアディの綺麗な文字とは違い、震えて読み難かったが、読めた。
歯を食いしばって泣くアディを見やり、ダニエルは手を伸ばして流れ落ちる涙を拭ってやる。両方の瞼に口付けを落として、震える体を腕に抱いた。
「アディ、愛してる。過去がどうであっても、俺は、お前と生きたい。」
腕の中で、アディは泣きながら首を横に振る。
「愛してる。」
ダニエルは体を離し、アディの顔を両手で包み込んで唇を重ねた。
愛していると囁きながら、何度もアディの唇に自分の唇を重ねる。
「…ん……」
角度を変えて長く口付けた時、アディが鼻にかかったような甘い声を漏らした。
ダニエルは片手でアディの後頭部を掴み、更に唇を押し付ける。空気を求めて開いた唇の隙間から、舌を忍び込ませた。
「んぁ……ん……んぅ………」
舌で口腔を味わう間に漏れ出るアディの甘い声は、ダニエルを痺れさせる。
アディが呼吸困難になってしまう前に、名残惜しいが唇を解放すると、アディは肩で息をしていた。
流れ落ちていた涙は止まり、今は違う涙が赤と金の瞳を濡らしている。
「愛してる、アディ。お前が欲しい。」
赤く濡れた唇に、再びダニエルは己の唇を重ねた。
そしてまた舌を滑り込ませて、歯列や頬の裏を撫で、アディの小さな舌を舐める。舌を絡め取ると、アディがダニエルの太い首に両腕を回してきた。
甘い声を漏らすアディの柔らかな体を、ダニエルは自分の固い体に押し付ける。服越しにアディの背中に手を這わせ、これ以上は止まらなくなりそうだとダニエルは唇を離した。
お互いに荒い息をついて、見つめ合う。
「………ダン……」
アディの唇から漏れた声に、ダニエルは驚愕した。
「アディ、お前、声…」
目を見開くダニエルに、アディは頷いて見せる。
「話せるの。でも、話さなかった。」
「……何故だ?」
ダニエルが聞くと、アディは迷うように唇を噛み、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
アディの声は、高過ぎず澄んでいて、耳に心地よいものだった。
「私、魔力を持っていて、声で、その力を使えるの。」
長い事話していなかったせいか、アディは話し辛そうに声を掠れさせている。
「今はもう、コントロール出来る。でも子供の時、その力で、母を殺した父親と、見てただけの村人、全員殺してしまった。」
瞳を揺らして、アディは俯く。
「だから、声を出すの、怖くて…ダンに何かあったら、私…」
また泣き出しそうに顔を歪めたアディの唇に、ダニエルは軽くキスをした。
「今はもう、コントロール出来るんだろう?」
アディは頷く。
「なら問題ない。アディが俺に何かをするなんて、有り得ないだろう?」
また、アディは頷く。
そんなアディに、ダニエルは微笑んだ。
「愛してる、アディ。俺の妻になってくれないか?」
同じ台詞を言うと、今度はアディは花が開くように笑う。
「私も、ダンを愛してる。あなたの妻にして下さい。」
二人で笑い合って、また唇を重ねた。
「アーデル。私の、本当の名前。」
口付けの合間に、アディが囁く。
魔力を持つ者は、本当の名前を隠すという。名前を知られてしまうと、自分の全てを相手に握られてしまうから。
だから逆に、魔力を持つ者が本当の名前を明かす事に、込められる意味はーー
ーーあなたに、全て捧げます。
「アーデル、愛してる。」
ダニエルはまた、食らいつくようにアディの唇を覆った。