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「今日から俺、ソルキアにある屋敷で住むことになったからな」
「ぶふッ!」
休憩時間にケーキとお茶を楽しんでいる最中に、クリスはいきなりそんなことを言い出した。
驚きすぎたエリヴィーラは目を白黒とさせて、口に含んでいたお茶を吹き出しかける。
対して、クリスはジェシカが差し入れしてくれた青空亭のチーズケーキを庇うように、エリヴィーラの前から遠ざける。何て失礼な人なのだろうか。
クリスが毎日店を訪れるようになって、十日が経っていた。その間に色々とワガママを言われたが、それにも大分慣れてきたと思っていたが、そんなことはなかったようである。
「ど、どーゆうことなんですか?」
「どうもこうも……離れからここへ来るのも面倒くさいし」
「そういうことじゃなくてですね、万が一クリス様のことが街の人にバレたらどうするんですか?」
表向き、エクランド家の長男は暗殺ギルドから助け出されたが、不幸なことに病気を患っていて屋敷で療養中となっている。嘘だからと言ってそこまで盛らなくてもいいのに、とも思うが、それはともかく。
その本人が女装しながら毎日元気に店に来ているとなれば、大変おかしなことになる。
「誰がこんな美少女を男だと思うんだよ?」
自信満々に言い放つクリスに、エリヴィーラは頭痛を覚えた。
確かにクリスは類稀な美少女──もとい美少年であり、ドレスを着ると男だと判別するのは不可能だった。
一応、身体の線を隠しやすいドレスを着ていたり、肩や首が出るタイプのドレスは着ないようにしているらしいが、思春期真っただ中で隠し通せるのもすごいと思う。
声も女の声が出せるように訓練していたらしく、少女にしてはハスキーな声程度でしかない。その気になれば声帯模写も出来るらしい。口調や仕草は舞台女優顔負けの淑やかさがある。
(これって詐欺にならないのかな……)
エリヴィーラは、街の男性にクリスに惚れたから彼女について教えてくれと詰め寄られたことを思い出しながら、ううーんと唸った。
「しかしですね──」
「そう心配するなよ。俺は表向きはエクランド家遠縁の令嬢ってことになってる。見つかったエクランド家の長男を心配して、わざわざソルキアまで来て、錬金術商店に足を運ぶ超性格の良い心優しいお嬢様だ。遠縁の令嬢が離れにいるなんておかしいだろ? だから、俺はソルキアの屋敷で寝泊まりすることにした」
「……はあ、そうですか」
投げやり気味に答えながら、エリヴィーラはチーズケーキを堪能した。
この人がこうすると言ったら絶対にそうする。それはエリヴィーラがいくら抗議しようと無駄だった。
「あ、そういえば、ババアがお前を屋敷に連れて来いって言ってたぞ」
「ババアって──まさか伯爵夫人のことじゃないですよね?」
「そうとも言うな」
平然とお茶を飲みながら、クリスはしれっと答える。
由緒正しい貴族出身の夫人に向かって何という言い草だろう。クリスから見れば継母で、出自からしても仲良くなれる関係でないことは確かだろうが、ここまであからさまなのもどうかと思う。
「……なぜ私を屋敷に呼ぶ必要が?」
「さあな」
興味なさそうにクリスはケーキを口に運んでいく。クリスは今までにこういった嗜好品を食べたことがなかったようで、案外ケーキなど甘い物が好きなようだった。
「……その伯爵夫人って、どんな人なんですか?」
「すごい陰険女だよ。嫌味や皮肉や陰口を言われまくった」
「それ、全部一緒ですよね……」
まさか自分も嫌味や皮肉や陰口を言われるために呼ばれたのだろうかと思うと、気が重かった。
そして、はたっと気付く。
伯爵夫人のいるソルキアの屋敷に、なぜクリスが寝泊まり出来るのだろうか。伯爵夫人はクリスの体質については知らないと思っていたが、実はそうではなかったということだろうか。
「あの、伯爵夫人はクリス様の体質については知ってるんですか?」
「知ってるよ。体質のことも、その体質を治すために錬金術師に依頼したことも」
知らない訳がないだろうと言いたそうにクリスはそう言った。
「……そう、ですか」
(それじゃ私がお家騒動に巻き込まれるんじゃ……)
過去にも血みどろのお家騒動があった家だ。伯爵との間に次男がいる現・伯爵夫人からすれば、前・伯爵夫人の長男は疎ましい存在だろう。そんな存在を治療する自分も疎ましく思うかもしれない。
「──お前、ひょっとしてお家騒動に巻き込まれるとか思ってるのか?」
「え、違うんですか?」
「それは絶対にないぞ」
なぜかきっぱりと断言するクリスに、エリヴィーラは首を傾げる。伯爵家の内情的にそこまで断言できる理由があるようには思えないのだが。
「あの女は伯爵夫人であることが一番のプライドだ。お前なんかに手を出す馬鹿な真似をするわけがない」
「どういうことですか?」
「まず、俺が毒姫だと街に知れ渡ったら、どうなると思う?」
もぐもぐとチーズケーキを頬張りながら、行儀悪くクリスはフォークの切っ先をエリヴィーラに向ける。
「…………伯爵家の評判が落ちる、とかですか?」
エリヴィーラからするとピンとこないが、以前ジェシカと話した時のことを考えるに、クリスが毒姫であることが噂になると伯爵家の評判は落ちるだろうとは予想がついた。
人を殺せる体液を持つ存在を、善良で平凡な住民が快く受け入れるとは考え難いし、その毒姫を匿う伯爵家にも疑惑の目が向けられるだろう。
ただでさえ暗殺ギルドに育てられた長男というレッテルがあるのだ。これ以上、非難されるようなネタを住民に与えるのは、それを治める領主──エクランド伯爵家においても体裁が悪すぎる。
「そうだ。あの女もそう考えてるはずだ。だから俺が毒姫の体質である限り、俺の治療には協力するし、治療するお前に何かすることもない。治療できた後なら、俺に対して何かするかもしれないがな」
その時は返り討ちにしてやるけど、などと嘯きながら、クリスはお茶を口にする。
「あの女は陰険だが、頭は悪くないし、腐っても貴族だ。自分や──跡を継がせたい息子が不利になるようなことをするわけがないんだよ」
「なるほど。じゃあ私は歓迎されなくとも、邪険にされるわけないってことですね?」
「そういうことだな」
お茶を美味そうにすすり、クリスは頷いた。だから安心しろとまではクリスは言わなかったが、命を狙われるような危険性がないとわかっただけでも十分だった。
「まー嫌味の一つぐらいは言うだろうけど、お前ならそんなの聞き流せそうだし、問題ないだろ」
「……それはそれで酷い言い草だと思うんですが」
面白くなさそうにエリヴィーラは眉をひそめた。常人より悪意に鈍感とは言え、エリヴィーラも普通の年頃の少女である。酷い事を言われれば傷付くし、悲しむ心ぐらいはある。
「どこがだよ。初対面で人の女装癖についてストレートに聞いてきた奴が、ババアに嫌味の一つ言われたぐらいで泣くわけないだろうが」
「あれは問診です」
「嘘付け。個人的興味がなかったと言い切れるのか?」
「……ないとは言いませんけど。クリス様だって女装癖だと思ってるんじゃないですか、それ」
「似合ってるからいいだろ」
ふんっと鼻をならし、クリスはカップを置いて席を立つ。気付けば窓の外は夕暮れに染まり、家のあちこちから夕飯の良い香りを匂わせていた。
「明日、迎えに来るからな」
逃げるんじゃないぞと言外に含ませて、クリスは脅しをかける。
「……わかりましたよ」
ため息をつきながらも了承したエリヴィーラに、クリスは満足そうに頷き、店を出て行った。
店を出た瞬間から、彼──いや彼女は、令嬢らしい歩き方で馬車を停めているらしい方向へと向かって行く。馬車はエリヴィーラが嫌がったために、店の前には停めないようにしてもらっていた。
美少女を追う視線はいくつもあったが、クリスに声をかける無謀者はいなかった。
(あそこまで規格外の美少女だと、逆に声はかけられないのか)
あまりの美しさに気後れしてしまうらしく、彼女に声をかけるのは専らならず者とも呼べる男ぐらいだった。彼らはきっと勇敢と無謀を間違えているのだろう。
たまに人攫いとも呼べるようなナンパも受けているようだが、それもクリスは適当にあしらっているらしく、いつでも無傷だった。
(まあ、暗殺ギルドにいたんだし、その辺のチンピラぐらいどうってことないと言えば、どうってことないんだろうけど)
エリヴィーラはテーブルのカップと皿を片付けながら、ぼんやりとそんなことを考える。
十日間、一緒にいる内にクリスについては色々と分かってきていた。
まず、とてもワガママで傲慢で、何が何でも自分の思う通りにしようとする。自分が美形であることも熟知していて、エリヴィーラの色気のなさも馬鹿に出来る程度には、流行のオシャレにも詳しいし、自分の魅せ方を心得ている。
また、識字率の高くないこの国において、クリスは読み書きも計算も出来て、楽器を奏でること、詩を作ること、刺繍などあらゆる教養を身に付けている。それらは暗殺者、もしくは毒姫として身に付けたもののようだが、本人からしても様々なことを知るのは楽しいようだった。
錬金術についても興味あるようだが、エリヴィーラの話は面倒くさがっていつも最後まで聞いてくれたことはない。
エリヴィーラはカップと皿を流し台で洗いながら、十日前のことを考え直す。彼女はここのところ、それについて考えてばかりいた。
(早まったかなとも、思うけど……)
十日前のあの日、毒花が既に絶滅していると知った日、クリスの落胆ぶりは傍目から見ていたエリヴィーラにも明らかだった。
その姿は、落胆というよりは絶望と言ってもよかった。
それまで傲岸不遜に手伝ってやると言っていたくせに、彼はあの時、『じゃあ他の方法を探せ』とエリヴィーラに言わなかった。
彼ならきっとそう言い出して、面倒なことになると思っていただけに、図鑑を人に投げつけ黙り込んだ時はさすがに驚いた。それほどまでに彼は毒姫であることが嫌だったのかと、思い知らされたのだ。
頭の中でそれは嫌なことに違いないという考えはあった。だが、それはエリヴィーラが想像していたよりもずっと深くて、おぞましいものだったのだろう。
そう考えたら、口にしていた。
──あなたを助けたいんです。
いや、全くもって良い言葉だ。
面倒くさがり屋な自分には全くもって不似合いだったが。
(助けたいと思ったのは本当だし、まあいいか……)
錬金術師として毒姫の体質には興味あるし、クリスのワガママにもこの十日間で慣れてきてしまっている。こうなれば、最後まで付き合うのが義理というものだろう。
エリヴィーラは食器を洗い終えると、再び書庫にこもって錬金術の本を読み漁る。主に魔法薬に関する本を。
早く一人前の錬金術師になって、クリスを元の体質に戻せる魔法薬を調合しなくてはならない。
だが、そのためには知識が足りない。
それはエリヴィーラの錬金術師としての経験や知恵ではだけはなく、毒姫を元に戻す魔法薬の調合にどんな素材が必要になるかという知識だった。一応は魔法薬に関することに絞って本を読んではいるものの、伝説の毒姫を治せる魔法薬の作り方が載っている本などない。
情熱は十分でも、何のヒントもないままでは無駄でしかない。
(師匠がいれば相談できるのになあ)
未だ師匠からは何の便りもない。そのため、地下の書庫を漁ることで手掛かりを得ようとしているが、それもそろそろ手詰まりになりそうな段階にきている。
次の手段を考えねばならないのだが──
「王立図書館に入れればなあ……」
ぼそりと願望を口にしてみるが、虚しい限りである。
王立図書館は錬金術大国であるアルベニア王国において、最大級の図書館だった。当然、錬金術に関する貴重な文献も蔵書されており、一度でいいからエリヴィーラは入ってみたいと思っていた。
しかし、貴重な文献があるとだけあって、王立図書館に入館できるのは文字の読み書きが出来る人種──つまり、中流家庭以上の生まれでなければ、入館の許可が下りない。
平民であるエリヴィーラはその許可を受けていないため、入館出来ない。だが、平民でも入館許可が下りる方法が二つだけある。
一つ目は、王立認定錬金術師であること。
二つ目は、入館権利の譲渡を受けていること。
将来有望な錬金術師に優しいアルベニア王国は、王立認定錬金術師には平民であろうと入館許可を出す。目的は錬金術の発展のためだそうだが、たった十二人しかいないというのに意味はあるのかとエリヴィーラは思う。
この事もあって、エリヴィーラは王立認定錬金術師である師匠に、その権限を最大限利用してもらいたかったのだが、連絡がつかなければ意味がなかった。
譲渡を受けることについては、最初から考えていない。そんな当てがなかったからである。
これは貴族が入館する平民の身元を保証してくれればオッケーというものだったが、文字も読めない平民を保証する貴族がいるはずもなく──
(結局は、地道にやっていくしかないんだよね……)
その道のりがどれほど遠かろうと、一度決めたことを翻すのはエリヴィーラの望むところではない。
とりあえず、エリヴィーラは思い付いた魔法薬を試作してみることにして、書庫を出て行った。