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師匠の錬金術商店は木造二階建ての建物で、中々年代を感じさせる趣きのある店構えだった。しかし、一年近く住んでエリヴィーラには愛着のある店でもあった。
一階は店として使っているが、二階は居住区となっていて、師匠の部屋とエリヴィーラの部屋、そして物置き部屋がある。水場の関係上、キッチンや研究室は一階にあるが、時たま営業時間中に師匠が錬成をして、ひどい悪臭を放ち、閉店する騒ぎになったこともある。
店の裏には井戸と畑があり、畑には錬金術で使用する草花を育てているが、師匠が世話をしたことはない。今は薬草を育てていて、明日あたりに眠りを誘うポプリを錬成しようとおもっていたが、当分はそんな暇はなさそうである。
研究室は釜や実験台や実験用具、錬金術書で溢れていて酷い有り様で、とても人を招くような場所ではない。
「汚ない研究室だな」
遠慮なくそう評したクリスを、エリヴィーラはじとりと睨みつける。
今日のクリスは春らしい若草色のドレスだった。昨日、屋敷で見かけたドレスよりも動きやすそうだったが、フリルが多くていかにも令嬢といった雰囲気である。
「……でしたら、無理して店に来なくても大丈夫ですよ」
「女としてこの部屋を見過ごせないという気概はないのか?」
「性別で判断するのはどうかと思います」
「じゃあ言い換える。キレイ好きになろうとは思わないのか?」
「…………」
エリヴィーラはクリスの言葉を無視して、びっちりと全方向の壁を覆う棚の一つから、一冊の本を取り出す。
すると、研究室の床が突如開き、縄梯子が地下へと落ちる。地下の書庫である。
師匠はこういったカラクリも好きで、この店にはこうした仕掛けがそこかしこに仕掛けられている。
「へえ、面白いなこれ。ここに文献があるのか? 何で地下に?」
「はい。本当はこーゆう湿気の多いところに本を置かない方がいいのですが、人目に触れるとまずい文献もあるので」
エリヴィーラは縄梯子に足をかけながら、そう説明した。
「人目に触れるとまずい文献って何だよ」
自分を追い返すための建前だろうとクリスは鼻で笑う。
「発禁されている本とかあるので、見つかるとけっこうまずいんです」
「……それって犯罪だろ。まあ、俺が言える立場でもないけど」
呆れたような顔で、暗殺者だった過去を持つクリスは言った。
「バレなければ大丈夫ですよ。だから黙ってて下さいね」
「それは脅迫じゃねーか」
「違いますよ。ただのお願いです」
「……まあ、いいけど」
梯子を降り終わったらしいエリヴィーラが、ランタンを点ける。灯りに照らされておぼろげにエリヴィーラの顔を浮かび上がらせる。
「どうぞ。揺れるので気を付けて下さい」
「これぐらいなら梯子なんかいらねーよ」
そう言うとクリスは、ドレスを纏っているとは思えない軽やかな身のこなしで、地下へ降り立った。
仮にも暗殺者として育てられているので、クリスは身体能力には自信があった。この程度の高さならドレス姿でも全く支障はない。
エリヴィーラが驚いたように目を瞬いているのを見て、クリスは少し誇らしい気持ちになった。
「……こっちです」
ランタンで足元を照らしながら、エリヴィーラは地下を案内する。とは言っても、すぐに書庫の扉に着き当たったので案内するというほど広くはない。ただ、背中を曲げずに歩けるのは有難かった。
「目的の本があるとしたら赤い棚のどれかです」
「わかった」
扉を開け、エリヴィーラが壁に埋め込まれた石を押すと部屋に灯りがともる。中には赤や青や黒の書棚がみっちりと並んでいた。
「今のは何だ?」
「この石を人が触ると灯りをともすように細工したんです。もう一度触ると灯りが消えます」
「この灯りもロウソクの灯りじゃないよな?」
ロウソクの灯りより広範囲を明るく灯しているように見える。また、ロウソクの赤い光とは違い、どことなく白っぽい光にも感じられた。
「灯りにはホタル石を使っています。石を押すとホタル石に薬品がかかるようになってるんです。ホタル石は液体をかけられると発光する性質があるので、それを応用しています。薬品にはルーゲ草から抽出した──」
「もういいもういい」
軽い気持ちで尋ねただけなのだが、エリヴィーラが懇切丁寧に講義を始めたので、クリスは慌てて止める。
言っている内容はちんぷんかんぷんだったし、エリヴィーラも程度と言うものを考えずに、延々と説明し続けそうだったからである。
「その仕組みについてはもういい。毒草について載ってる文献はどこにあるんだ?」
「赤い棚全部ですね」
「全部っ!? 多すぎるだろ、さすがに……」
『やっぱり手伝いに来て良かったじゃねーか』とぶつぶつ言いながら、クリスは早速書棚に手を伸ばす。
「クリス様も言ってたじゃないですか。種類が多いって」
「だからってこんなに文献があるとは思わないだろ。それに、これを一人で読み切るつもりだったのか?」
「字を読める人をバイトに雇うお金はないので」
エリヴィーラは見覚えのある分厚い本を手に取った。一年前、師匠に弟子入りした時に読んだ植物図鑑だった。彼女の心当たりはこの中にあった。
パラパラとページをめくり、さっと目を通す。
「だからってなあ──」
クリスは尚も言い募ったが、読書に集中し始めたエリヴィーラの耳には届かない。
植物図鑑には、珍しい色合いの花、食虫植物、吐き気によく効く薬草、香茶になる木──様々な植物について書かれている。
しかし、ところどころ虫に食われていたり、印刷が煤けているせいで読めない部分があった。百年ほど前に書かれた本なので、当時の印刷技術のせいだろう。虫食いについては、自分が来る前の師匠の書庫はすさまじいものがあったので、その時のせいかもしれない。
読み進めていく内に、エリヴィーラは気になる項目を見つけた。
──その植物は紫の色の可憐な花をつけているが、見た目に騙されてはいけない。東方ではビーシュと呼ばれ、南方では──(印刷ミスで読めない)──その植物は花にも葉にも茎にも根にも猛毒を持っていて、その毒を解毒するのは不可能である。その毒は小指の爪の分量でも人間を死に至らしめる猛毒であり、呼吸困難や猛烈な嘔吐を引き起こす──
──野草との区別がつけづらいために誤って食べる者が増えたため、国を上げてこの植物は刈り取られて、焼却処分されている。あと何年もすれば山に群生していたこの植物は、山や野原から姿を消すだろう──
──誤って口にしてしまった場合は早急に大量の水を与え、嘔吐させる以外に助ける術はない──
読み終わったところで、エリヴィーラはもしもこの植物がクリスを毒姫にした植物だったらどうしようと思っていた。
図鑑には絵の上手い作者のモノクロの挿絵が載っていた。それはエリヴィーラの見たことのない花で、少なくともソルキア周辺や故郷にも生えていない。
それもそのはずで、作者がこの植物図鑑を書いたのは百年も前の話だった。その時でさえ絶滅が危ぶまれていたなら、百年後の今ではとっくに絶滅しているだろう。
「クリス様」
「もう何か見つけたのか?」
エリヴィーラの横で本の物色をしていたクリスは、驚きながらもそそくさと近寄って来た。そして、エリヴィーラが持つ本を奪い取るようにして、そのページを読み進める。
素早く動く青紫色の瞳は、だんだんと絶望の色に染まっていく。
「……見覚え、ありますか?」
「──あるな。確かにこんな形の……司祭がつけてるフードみたいな形の花だった」
クリスの記憶にある花と、この挿絵は似ていた──忌々しいぐらいに。
この作者の挿絵がこれほど酷似していなければ、違う花なのかもしれないと希望は持てただろうに。
クリスは歯噛みしながら、その重たい図鑑を乱暴にエリヴィーラに投げるようにして渡す。
──助ける術はない。
その言葉はクリスの心に重く圧し掛かった。
わかっていたことではあった。
毒姫などという存在は都市伝説のような存在で、実在するなど誰が思うのか。それを実行する頭のおかしな奴の存在も、それを受け入れることが出来てしまう体質の持ち主も、そんなものは物語の中だけで充分だった。
そして、そんな実在を危ぶまれる存在を助ける術など、現実にはないということも──
それでも、この忌々しい身体を治せるのなら、思い出もない伯爵家の権力を使うのも厭わなかったのに。
(こんなことなら、あの日死んでおけばよかった)
あの日──暗殺ギルドが王立騎士団に鎮圧された時に、仲間たちと一緒に死んでおけば、今更、毒姫の治療をするという希望も持たなかったのに。
期待というものは、いつだってクリスを裏切って、傷付けるものだった。
「──クリス様」
呼びかけに応え、クリスはゆるゆるとした動きで、エリヴィーラを見る。
稀代の天才錬金術師の弟子である少女は、無表情で何を考えているかわからない。彼女が何を言おうとしているのか、クリスには全くわからなかった。
「他の文献も探しましょう」
「は?」
他の文献を探したところで何になると言うのか。その毒花はすでに絶滅しているだろうに。
「クリス様を毒姫にした花は恐らくもう絶滅しているはずなんです。でも、クリス様は少なくとも十年前にはそれを見ているんですよね?」
そう言われて、クリスははっとした。
あの浅黒い肌の男──首長は、あらゆる犯罪事に手を出していたと言っても過言ではなかった。絶滅したはずの毒花を秘密裏に栽培したり、それを購入することも出来るだけの人脈と金を持っていた。
だが──
「……残念だが、その毒花について知ってる首長の行方は俺にはわからん」
クリスは苦々しい口調でそう答える。
そう、首長はあの暗殺ギルドが襲撃された日は不在だった。どこかへ行ったきり戻らず、今でも王立騎士団は首長の行方を探しているらしい。
今思えば首長はあの日、王立騎士団が暗殺ギルドを襲撃すると事前に知っていたのかもしれない。彼に関わる事や毒姫の事、その他の犯罪事に関する資料は根こそぎなくなっていた。
その用意周到さから言っても、事前に襲撃の情報を入手していたと考えるべきである。
「暗殺ギルドの中で栽培はしていなかったんですか?」
「してないだろうな。俺もあの花を最後に食ったのは二年ぐらい前で、それ以来目にしていないし、そんな話を聞いたこともない。隠していたってことも考えられるが、そんな手間暇かけて花を育てるような奴じゃなかった」
ビーシュの毒を暗殺で使うことはなく、ただクリスを毒姫として仕立て上げるためだけに使われていた。クリスが毒姫として仕立て上がれば、それは無用の品である。
「ということは、多分外部から買ってたんでしょうね。その花を栽培していた組織が分かれば、その花を手に入れる事も出来ます。
でも、解毒方法は一つじゃありません。毒を解析して、解毒剤を作るのが近道だと思っていたけど、そうじゃないのかもしれません」
「……何か心当たりがあるのか?」
「私は錬金術師ですから、解毒剤だけじゃなく、魔法薬も作れます。クリス様の体質を治すなら、解毒剤よりもむしろ魔法薬の方が適しているのかもしれません。魔法薬の中には解毒の効果を含むものもありますから」
「なるほどな。それで、お前に俺の体質が治せそうな魔法薬の心当たりはあるのか?」
心の内に湧き上がってくる期待を押さえつつ、クリスはそう問いかける。しかし、返ってきたのは無情な一言だった。
「ないですね」
「オイ! それじゃ意味ないだろ!」
凄みを利かせて睨みつけても、エリヴィーラは動揺を見せなかった。毅然としたまま、
「別にからっているわけじゃありません。今は心当たりがないだけです。私はまだ未熟な錬金術師ですし、知識をつければ出来るかもしれないと思ったんです」
そう説明するエリヴィーラを見ながら、クリスは落胆する気持ちを押さえられなかった。
(何だよ、結局はただの可能性の話じゃねーか)
期待して裏切られるのはもう嫌だった。可能性だけの話で期待できるほどクリスの心は強くなく、現実がどれほど残酷であるか、これまでに目にしすぎていた。
期待して裏切られるくらいなら、最初から期待しない方がマシだった。例え、この体質が治ることがなくなっても──
そう、告げようとしたところで、エリヴィーラが先に口を開いた。
「──私は、あなたを助けたいんです」
その言葉はクリスの心に、じっくりと入り込んできた。
「…………」
「時間がかかっても、いつかきっとあなたを治してみせます」
「…………」
「……あの、クリス様?」
黙っているクリスに不安を覚えたようで、エリヴィーラは戸惑いがちに名前を呼ぶ。
「……お前、顔に似合わず、男前なことを言うんだな」
俯き、呻くようにクリスが言うと、エリヴィーラは訳がわからないという顔で曖昧にはあと返事をした。
クリスのことを助けたいと言ってくれた人間は、初めてだった。今まで助けを求めても、その手を打ち払われてたきた身からすれば、それはひどく嬉しいものだった。
エリヴィーラに依頼する前にも──正確に言えばエリヴィーラの師匠だが──何人かの医者や薬師、錬金術師に毒姫の治療について依頼していたが、ことごとく断られていた。『私の力ではとてもクリス様を治療することは出来ません』と、ただそれだけを告げて。
実際、その通りだっただろうし、相手が伝説上の毒姫であれば、『治せないのも仕方ない』と職業的プライドも保たれるものがあったのだろう。
それに比べれば、自分を未熟だと言いつつも、治したいと言ってくれる少女の存在が、どれほど嬉しいことか。
だが、戸惑いもあった。
本当に自分の体質は治せるのか。この少女にそんな技量があるのか。早々に諦めてしまった方が傷付くこともないのではないか。
様々な思いがクリスの内面で駆け巡った。
「その言葉……忘れないからな。治せなかった時は、覚えておけよ」
それでも、クリスはエリヴィーラの可能性を信じてみたい気持ちの方が勝った。
ニヤリと笑ってそう言ってやると、エリヴィーラは一瞬だけ嫌そうな顔をした後、はっきりと頷き、クリスの前で初めて微笑んだ。
「ええ、肝に銘じますね」