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──七日前。
ソルキアの郊外にある屋敷の前にエリヴィーラは立っていた。
広い庭と森に囲まれた旧式の意匠が施された屋敷で、古臭いと言うよりは歴史あると言った重厚な趣きだった。
ソルキア南方の高台の一等地にある豪華な屋敷とはまた違う、言うなればこれは離れの一つだろうというのは予想がついた。
(さすが、領主様の屋敷だなあ)
エリヴィーラは、出来るだけ他人事のように内心感想を述べた。
その日、エリヴィーラは領主の屋敷を訪れていた。本来なら平民の小娘に過ぎないエリヴィーラが一人で来るような所ではない。しかし、彼女は領主に招かれて、離れまでやって来ていた。
厳密に言えば、招待されたのはエリヴィーラではなく彼女の師匠で、依頼を受けた師匠が失踪してしまったので弟子の彼女が引き受けたというのが事の顛末である。
師匠が失踪するのは日常茶飯事のことだったので、その件についてエリヴィーラが慌てることはなかった。
元来、師匠は自由人で、興味を覚えたこと、疑問に思ったことを放置しておけない主義で、今回もきっと何か興味、疑問を覚える事柄を追究するために失踪したのだろうと思った。
しかし──今回は、残された書き置きの内容が、彼女を慌てさせるのに十分な代物だったのが問題だった。
『エリーへ
エクランド家から依頼きてたからよろしく。
十の刻には迎えに来るとのこと。
ロックベル・ハーヴィスより』
エリヴィーラにはさっぱり意味のわからない内容だった。文章は理解できるが、エクランド家から依頼がきていたことは初耳だし、まさか弟子である自分が依頼を受けろということなのだろうか。
それはとんでもない話だった。
エクランド家と言えば、エリヴィーラの住んでいるアルベニア王国エクランド領ソルキアの領主様である。過去には王妃を輩出した歴史ある名門貴族であり、一般市民がそう易々と会える人物ではない。
師匠は自由でいい加減な性格をしているが、錬金術の腕前だけは超一流なので、師匠への依頼は絶えない。その中に著名人物がいることは察していたが、領主とまで関わりがあるとは思っていなかった。
だが、錬金術商店に足を運んだエクランド家の使いを追い返すわけにも行かず、エリヴィーラはこうして郊外の屋敷まで連行されて来てしまった。
(領主が病気なのかケガなのか知らないけど、早く終わらせて研究がしたい)
エリヴィーラはこっそりとため息をついた。
彼女は店に迎えに来てもらった時にも、依頼の内容を全く聞いていなかった。詳細は屋敷で詳しく話すの一点張りで、こうして連れて来られたのだ。そして、何度も内密にと念を押された。
依頼内容がわからなければ、必要な錬成道具もわからないので、エリヴィーラは手当たり次第の錬成道具を鞄に入れてきた。おかげで大変重い。
その荷物は小間使いの男が持ってくれているが、よろよろと頼りない。
大丈夫なのだろうかと他人事のように思いながら、エリヴィーラが男を眺めていると、
「お待たせして申し訳ありません、エリ……エリビーラ様。こちらへどうそ」
彼女を屋敷まで連れて来た老執事、オーギュストが呼びにくそうに名前を呼んだ。
「名前はアルベニア呼びで構いませんので、エリーとお呼び下さい」
「申し訳ありません。私はどうも、北の発音は苦手で……」
「いいえ、ソルキアの街でも私はエリーと名乗っていますので、お気になさらずに」
名前の呼び方についてオーギュストは恐縮しているが、エリヴィーラはさして気にしていない。
エリヴィーラの名は、アルベニアにはない言葉だった。そのため、彼女はアルベニアでの呼び方に近い名前で通すようにしている。
彼女の故郷、スヴェルツフォールド帝国とアルベニア王国には言葉が通じない程ではないが、多少の言語の違いがあり、エリヴィーラの名もその一つだった。
「申し訳ありません……。旦那様の元へご案内します」
「はい」
オーギュストに連れられて、エリヴィーラは屋敷へと足を踏み入れた。
「失礼致します。錬金術師のエリ──エリビーラ様をお連れ致しました」
オーギュストはまたも言いにくそうにエリヴィーラの名前を上げ、扉を開く。部屋の中は日当たりの良い部屋のようで明るい。
窓の近くに設置されたベッドに、中年の男性が起き上っていた。体格はがっしりとしていたが、顔色は悪く、頬がこけている。何かの病を患っているのは一目でわかった。
エリヴィーラは礼をしてから入室すると、中年男性の前へと促された。男性はエリヴィーラを上から下まで眺めると、首を傾げ、
「ハーヴィス氏をお呼びしたと思ったのだが、このお嬢さんは……?」
そう、もっともな疑問を口にした。
「ハーヴィス氏の一番弟子だそうです。ハーヴィス氏がこちらのお嬢様へ対処するように指示されたようで、お連れ致しました」
エリヴィーラが口を開く前に、オーギュストがそう説明をしてくれた。
エリヴィーラは内心緊張していたが、表情には出ておらず、男性から見れば堂々とした佇まいだった。それを実力に裏打ちされた自信と捉えたようで、納得したように頷いた。
「そうか。それなら、あなたにお任せしましょう。私はローウェン・アレクシス・エクランドと言います。ベッドの上から失礼する」
「エリヴィーラです。何なりと御用をお申し付け下さい」
「それでは早速、本題に入りますが──エリヴィーラ殿は我がエクランド家の長男が見つかったという話は聞いていますか?」
ローウェンは流暢にエリヴィーラの名前を呼んだ。その発音の良さに驚きつつ、エリヴィーラは質問に答える。
「……ええ。噂程度ですが」
十六年前に誘拐された長男が今頃になって、見つかったらしいおめでたいという話なら聞いたことがあった。しかし、それ以上のことは全く知らない。
エリヴィーラは噂に興味を持たない、世事に疎い方だったのである。
「息子は十六年前、ある組織に誘拐されて行方不明になっていました。それが三ヵ月前の暗殺ギルドの鎮圧の際に見つかったんです」
「暗殺ギルド……?」
突如現れた不穏な単語に、エリヴィーラは眉をひそめた。
「はい。アルケスの方で暗殺ギルドがあったそうで……私も後から説明を受けたのですが。それなりに有名な暗殺ギルドだったようですね。息子は暗殺ギルドに売られ、暗殺者として育てられていました」
ローウェンは物悲しそうにそう言った。
アルケスと言うのはアルベニア王国の首都だった。勿論、国内で人口も一番多いので、その中にひっそりと暗殺ギルドがあっても気付かれにくいだろう。
それよりも──
「……暗殺者として育てられた?」
「ええ、身代金を受け取れなかったので、暗殺ギルドに売ったのでしょう」
ローウェンの両手は布団の上で組まれていたが、それは怒りをはらみ震えていた。大切な息子を誘拐し、暗殺ギルドに売るなど親としては許せない所業だろう。
誘拐された息子も壮絶な人生だ。物心つく前から暗殺者として育て上げられ、ギルドが解散になったと思ったら、実は伯爵家の息子だと判明したと言うのだから。
本人も周囲もひどく混乱したに違いない。しかし、そもそも──
「それで、よくご子息だとわかりましたね」
赤ん坊の頃に誘拐されてから十六年も経って、一目見ただけで息子だとわかるなど、そんなおとぎ話のような事があるわけがない。エリヴィーラは正直、その見つかった長男と言うのが、本物であるかどうかは甚だ疑問だった。
「ああ、それは──これは伯爵家の秘密でもあるのですが、エクランド家の者は全員、産まれた時に背中に家紋の刺青を入れるんです。小さいものですけどね。過去に……その、後継ぎ問題で色々と揉めましたので、その予防策として刻印を」
ローウェンは言葉を濁していたが、恐らく血みどろのお家騒動だったのだろうとは予想がついた。そして、さらりと伯爵家の秘密を教えられ、いよいよ取り返しのつかないことになりそうだとエリヴィーラは覚悟を始めた。
「そうでしたか。差し出がましいことをお伺いして申し訳ありません」
「ああ、いや。本題はここからでして……その、ですね……」
ローウェンは先ほどよりも更に歯切れの悪い口調で告げる。
「息子はどうも毒姫として育てられていたようなんです」
「毒姫……? あの、都市伝説の?」
「はい。王宮で検査してもらったのですが、間違いないと」
「それは……」
エリヴィーラは思わず絶句し、その息子は壮絶な人生を送りすぎているだろうと思った。
毒姫と言うのは、体液すべてが毒素を持った女性の暗殺者のことである。産まれた直後から毒草の上で寝かされ、食事にも水にも毒草を混ぜられたものを食べさせられて、体を毒に慣れさせていく。そうして育つ内に体液自体に毒素が混じり始め、暗殺者として完成する。
体液すべてが毒素に満ちているので、キス一つでも命取り。閨に連れ込めば最期──それが毒姫だった。
しかし、それは女性の暗殺者のことである。男性がなれない訳でもないが、体液を使い、閨で効果を発揮することから通常は女性で行われる。
(と言うことは、つまり……)
嫌な予感を抱えてローウェンを見やると、彼は沈痛な面持ちでこう言った。
「あなたへお願いしたいのは、息子の毒姫の体質を治療して頂きたいのです」
「治療……ですか」
「はい。医者では治せるものではないと聞いています。依頼するべきなら錬金術師が適任であると言われたので、ハーヴィス氏をお呼び立てしたのです」
縋るような目で見てくるローウェンからさりげなく視線を外し、エリヴィーラは内心ようやく納得できた。
再三、内密にと言った訳も、王立認定錬金術師である師匠へ依頼した意味も。
ようやく見つかった跡継ぎ息子が毒姫の体質であることは、伯爵家にとって知られては困る事実だろう。身体が毒で穢れてしまった毒姫は体液すべてが毒なので、子を成すことは勿論のこと、恋愛すらまともに出来ないだろう。
つまり、伯爵家存続の危機と言うやつだ。
(なるほどね)
依頼に至った経緯も内容も理解したが、これはとても錬金術師見習いであるエリヴィーラの手には負えない。
毒姫だなんて都市伝説のような体質を治療するなど、まずはどんな毒草の、どんな効能によって、そうなるのかなど前提としてあやふやなことが多すぎる。まずはそこから調べなくてはいけないが、手掛かりもない。八方塞がりだった。
しかし──
(ここで『やっぱり出来ません』なんて言える訳がない)
依頼を受けた本人が来ておらず、弟子が来ている状態で『依頼内容が無理そうなので帰ります』などと言えるわけもない。それに、エリヴィーラ個人としては毒姫と言うものに興味もあった。
一体どんな毒を持っていて、どんな効果があって、どんな治療が必要なのだろうか。
うずうずと好奇心が湧き上がってくるのが、自分でもわかった。
こうなってしまうと、自制を働かすことは困難だった。
「──承知、致しました。毒姫の治療を引き受けます」
「おお、本当ですか! 助かります!」
ぱっと顔を輝かせてローウェンは、エリヴィーラの手を掴んで上下に大袈裟に振った。案外体力あるなと思いながら揺さぶられ、エリヴィーラは咳払いをする。
「それで、そのご子息と言うのは?」
「息子は隣室で待機させてます。早速ですが、診て頂けますか? オーギュスト案内して差し上げなさい」
「はい。──それではエリー様、こちらへ」
「あ、はい。失礼します」
オーギュストに促され、エリヴィーラはローウェンの部屋から退室した。
隣室に早速入ろうとすると、オーギュストが固い表情で話しかけてきた。
「エリー様、中に入ってひどく驚かれるかもしれません。ですが、先ほどの話も含めてくれぐれもご内密にお願いします」
「……はあ、わかりました」
この期に及んでまだそんなことを言うのかと思いながらも、エリヴィーラは了承した。
跡取り息子が元暗殺者で毒姫であることだけでも、十分なゴシップだろう。
しかし、オーギュストは満足したようで、部屋の中に声をかけ、エリヴィーラを室内へと促した。
「────あれ?」
室内の応接ソファーに腰掛けていたのは、えらい美少女な令嬢だった。
きめ細かく白い肌に、腰まで届く長く豊かな金の髪。髪はゆるく編み込まれているだけで、後は自然に流しているようだが、ウェーブがかっていてとても華やかだ。
気だるげにエリヴィーラに向けられた瞳は、物珍しい青紫色で煌めいて見える。頬や唇は紅を差したように薄い桃色に染まっていて、一つ一つのパーツだけでも美しいのに、その配置バランスまで素晴らしく、まるで精巧な人形のようですらあった。
(まるで女神か天使みたい……)
人間離れした美しさに、エリヴィーラは思わず見惚れてしまった。
「あの、こちらのご令嬢は? それにご子息はどこに?」
こっそりと背後に立つオーギュストに尋ねる。
「あの方がクリス様です」
「ああ、クリス様と仰るんですね。それで、ご子息は?」
「──そうですね。初対面では混乱されるでしょうね。大変頭の痛い事ですが」
沈痛な面持ちでオーギュストがため息をつき、頭を振る。ちらりと令嬢を見れば、ニヤニヤと人の悪そうな笑みを浮かべており、大変愉しそうな様子だった。
混乱するエリヴィーラを余所に、オーギュストは令嬢を指し示し、
「あの方はクリスティアン・ローウェン・エクランド様。エクランド家の長男です」
「────は?」
そう、説明した。
これが、彼と彼女の初めての出会いであった。