94・世界のからくり
「ユリア――……!!」
遠のいていくアデル様の声、沈んでいく意識、闇の中に引きずり込まれていく。
闇が自分の中に侵食していく、それには恐怖しか感じなかった。
もう自分が誰で、何をしていたのかもあやふやになっていく。
意識が溶けていくような。自分という存在が消えていくような……。
――それからどれだけの時間が経ったのだろうか。
深い闇の中、ふと胸元から漏れ出てきた淡い紫色の光に気づき、そっと探ってみると、
アデル様から借りているペンダントと、指輪についている龍星石が光っている事に気づいた。
「アデル……さま……?」
まるで、それはアデル様に守られているみたいだった。
(でもだめだ……このままじゃ……)
――闇に取り込まれてしまう。
そう思い震える手で石を包み込んでみると、冷たい手にじんわりと温もりが戻った。
すると意識が浮上していき、ふと自分の両足にしがみ付く小さな存在に気づく。
「――え?」
闇の中に光っていたのは、2匹の金色の獣の瞳。
「「クウン!」」
自分を見つめるつぶらな瞳を持つ、白い狼の子ども達がなぜかそこに居た。
暗い闇の中でもその小さな存在は白く光っていて、
私を必死に引き上げようとしてくれている。
闇に飲み込まれそうだった私の意識を戻してくれる。
それは以前も見かけたリファの子ども達だった。
「貴方達……どうしてここに?」
不安定だった足元に感触が戻る。沈む感覚がそこで止まった。
「もしかして……私を助けに来てくれたの?」
「クウン」
「キュウイ、キュイイイ」
まるでそうだと言わんばかりに前足を離した二匹の白い狼の子ども達。
ぽんぽんと子供達が私の周りで足踏みをすると、そこから光が生まれた。
不安定だったそこに足場が出来て光の道が出来ると、
二匹は「こっちだよ」と言いたげに、こちらを何度も振り返りながら駆けていく。
アデル様から貰った、龍星石から生まれた紫の光がそれを追っていくので、
まるで、「この子達について行け」と私に言っているようだった。
※ ※ ※ ※
「えっと……どこへ行くの?」
導かれるままに歩いていると、どんどん闇は薄らいで遠のいて行く。
代わりに見えるのは、そこかしこで浮いている時計、
形も色も様々で、なぜかどれも秒針が巻き戻っていて、
耳を澄ますと聞こえてきたのは、
これまでも何度か聞いたことがある、あの不思議な音色だった。
「この音って……」
神鏡が現れた時に聞こえてきた音色、そしてこの世界に来た時にも聞いた音色だ。
なぜこの旋律はこんなにも私の心に響くんだろう、とても懐かしい感覚がする。
瞼を閉じて、その音色に耳を傾けるとある事を思いだした。
(ああ、そうか思い出した……これはお兄ちゃんと昔よく口ずさんでいた歌)
それは兄が学生時代に自作した歌で、耳触りのいい音だった。
一緒に暮らしていた私は兄の作った歌をすぐに覚えて、
約束したあの日にも一緒に歌ったものだったよね。
だからこんなにも私の心に反応するのかな。思い出の曲だったから。
――でも、それがどうしてかを思い出すと胸が切なくなる。
(まただ……頭がずきずきする)
歩みを止め、気づけば傍にいた狼の子ども達は居なくなっており、
その代りに、目の前にはあの頃の幼い自分が立っていた。今では遠い昔の自分が。
(ああ……これはきっと夢なんだ)
だからそう自分で判断する。その夢では幼い私や兄の律や両親が出てきた。
(お兄ちゃんだ……お母さん、お父さんもいる……)
余りに懐かしい頃の夢だったこともあり、全身が震えた。
傍観者として、近くから幼い自分と家族を眺めている。
いつ見ても不思議な光景だけれど、
私はそれがまるで昨日のことのように思い出せた。
兄はちょうどこの頃、正式に事務所の所属が決まり、仕事が増えてきたのだった。
『もっと本格的に活動する為にも、やっぱり上京しないといけないからさ』
志を同じく活動していた兄の友人の青柳先輩と一緒に、正式に所属が決まったことで、
一足先に上京し就職していたもう一人の同級生の友人と共に、
3人で部屋を借り、ルームシェアをして頑張るっていう話だったが、
詳しい事は私も幼かったのでよく覚えていない。
ただ私の目には、夢へ向かってひたすら頑張る兄の姿が鮮明に残っていた。
私もいつか同じ所を目指すんだと、心に決めた矢先の出来事だったから、
いつも行動力のある兄の存在は、私にはとても輝いて見えた。
『ああ、ホームシックで潰れないか心配だわ、ちゃんとやっていけるかな。
結理亜~兄ちゃんの事忘れないでいてくれな?』
『そんな事言って一番はりきって売りこみしているのお前だろうが、
ここは大物になって帰ってくると言ってやれよ。妹ちゃんが心配するだろ』
兄と青柳先輩はそう言って笑い合っていた。
そう、後に私の事務所の先輩にもなる青柳先輩は、
まだこの頃の私にとって、兄の友人の一人という印象だったんだよね。
だから先輩も、私の事を妹分として可愛がってくれていた訳なんだけれども。
『じゃあ、お兄ちゃんにはこの子を貸してあげるね』
そう言って、兄の目の前にいた幼い私が兄に差し出したのは、白いぬいぐるみ。
父からもらった【真っ白な犬のぬいぐるみ】で私のお気に入りだったもの。
名前は――……そう。葉っぱの首飾りから付けたから。
「“リファ”」
それは私が付けた“あの子”の名前。
今の私がその名を思い出した途端に視界が一瞬歪み、鮮明に記憶が蘇る。
自分で言った筈なのに、その言葉に衝撃を受けていた。
リファ、そうだ……その名を私はよく知っているじゃないか。
(じゃあ……リファも……?)
呆然と幼い私の腕の中にいるリファのぬいぐるみを見る。
ティアルと違い生きてはいなかったが、幼い私と一緒にいたものの一つだった。
沢山あったぬいぐるみの中でも一番のお気に入りで、大事にしていたのを思い出す。
この子は私が生まれた時から、物心つく前からずっと一緒だった子だったから。
『え? でもそれ結理亜のお気に入りじゃ』
『ん。だから、あげるんじゃなくて貸すだけだからね。
もし寂しかったらこの子に話しかけて寂しさを紛らわせるといいよ。
で、今度帰ってくる時には、必ずこの子を連れて返って来ること』
『い、いや、いい歳した男がぬいぐるみ持っているってのもさ……』
『いいからいいから、大事にしてね。リファ、お兄ちゃんのことよろしくね』
そう言って、戸惑っている兄に無理やり持たせた。
自分の成長を見守ってくれていた大事なぬいぐるみをお守り代わりに。
『白い動物って、神様の使いって言われているんだってテレビでやってたよ。
お兄ちゃんはこれから運をたくさん味方にしなきゃいけないんだもんね。
……まあ、ぬいぐるみだけど良い事があるかもしれないでしょ?』
『あ……なるほど、お守り的な感じか』
『お~よかったじゃないか、律。優しい妹ちゃんで泣けるねえ。
んじゃ、俺はホームシックになっている姿を映像で撮ってやろうか。
それでその映像を妹ちゃんに見せてやろう』
私に持たされたぬいぐるみをじっと見つめる兄に、
もう一人の友人が兄の肩を叩いて笑っている。
この3人は本当に仲が良くてよろしいことだ。これなら兄も安心だろうな、
なんて、私は幼心に思っていた。兄は私と歳が離れているせいか、
何でも自分でやれてとてもすごい人だったけれど、寂しがり屋な人でもあったから。
けれど私はそんな昔の状況を見て、ある事に気づいた。
(あれ……この人)
ある事に気づいた私を置いて、目の前の出来事はどんどん過ぎていく。
『ふつつかなお兄ちゃんですが、よろしくお願いします』
幼い私が二人の兄の友人に深々と頭を下げる。
『俺、なんだか嫁に行くようなんだけど!?』
『『おう、任された』』
『というか、任されるのっ!? 俺!!』
そんなやり取りをしてから、兄の自立を温かく見送った私と両親。
ありふれた日常の中の、ほんのひと時の出来事で、一番心の中に強く残った思い出。
今の私にとってはもう二度と会えない、夢でしか会えない存在だったから。
(会えない……はずだよね)
思い出したのは悲しい現実。
私が元気な兄を見たのは、これが最後だったから。
この上京の途中で兄は車の事故に巻き込まれ、
一緒にいた友人と共に帰らぬ人となってしまい、そのまま亡くなってしまった。
再会したのは冷たい寝台の上、兄の顔には白い布が被せられていた。
『お兄ちゃん……結理亜だよ』
ねえ起きて、起きてよと話しかけても兄は応えてはくれない。
母は兄にしがみつき、父も一緒に泣いていた。
私は冷たくなった傷だらけの兄の手を両手で包み込んで、
兄の手が温かくなってくれるように何度も祈った。
唯一、急用で上京が1日だけ伸びたことで、
青柳先輩だけが事故から難を逃れていたそうだ。
皮肉にもほんの少しの違いが、兄と先輩との運命を分けたらしい。
なぜお兄ちゃんが、とか、どうしてと言っても状況が変わるわけじゃない、
あるのは「兄が亡くなった」という現実と、「もう二度と会えない」ということで。
初めて身内の死を知った私には、それを受け入れるには精神的にもまだ幼すぎた。
『お兄ちゃん……』
だから、時折元気だった頃の兄の夢を見るたびに涙が浮かんだ。
――あれから、私の中で兄の時間はそこで止まってしまったまま。
『役者は悲しい時でも舞台に立つものだから……私もそうならないといけない』
私は悲しみを無理やり心の奥に押し込めて、兄の進んだ道を目指した。
どんな時でもひたむきな明るさで乗り越えないといけない。
身内の死なら尚更だ。それが役者というものであり、
私が兄に教わった大事な心構えだった。
『お兄ちゃんと約束した……から……』
兄の歩んだ道を辿る様に同じ養成所へ……。
やがて事務所の人とも仲良くなって、その度に兄を知る先輩にも出会い、
兄の居た頃の世界を垣間見た気持ちになる。
だから夢を追い頑張っている間は、
まるで兄がまだ生きているかのような錯覚を感じられた。
そして続けている事で、兄といつかまたどこかで会えるような、
そんな気もしていたんだ。ある日、またひょっこりと顔を出してくれるんじゃないかって。
今思えば、その考え方が実に幼すぎたなと思うけれども、
私は兄が死んだとは、どうしても認めたくなかった。
けれどどんなに目を背けてしまっても、現実は時間の経過とともにやってくる。
兄の時間はあれからずっと止まったまま、けれど私の時間は止まる事はない。
そう、あのままあの世界で過ごしていたら、私はもうすぐ兄の年齢を追い越すはずだった。
(その時が私にとっての全てのタイムリミットだった)
能力の限界に気づき、現実に打ちのめされ、絶望することが待ち受けている期限。
役者としても、兄がもうこの世に居ないのだと思い知らされる瞬間の。
(いっぱい頑張って、頑張ってきたけど……兄のようにはなれなかった)
新人期間が終わった時、生き残れる役者は1パーセントもいないらしい。
まして低年齢化が進んでいる今、女性声優として目指せる時間は男性よりも遥かに短い、
それなのに私は、まだ兄の居た場所に立ててすらいなかった。
兄と交わした最後の約束は遥か遠くなり、奇跡を起こすのは難しい状況。
(お兄ちゃんはやっぱりすごい人だったんだね)
そんな私の目標でもあった兄は、あの頃の姿のまま、何も変わっていなくて、
もう夢の中でしか、思い出の中でしかもう会えない存在で……。
夢を諦める事、兄の死を認める事は私にとってとても辛かった。
これまでの自分が、努力してきたことが全て無駄だったのだと、
そして兄には二度と会えないのだと、思い知らされることでもあったから。
「ごめんね……お兄ちゃん。私、約束を守れなかった」
私の夢は兄と同じ声優になって、一人前の役者になること、
そして、兄と同じ作品で共演することだったけれど……。
本当はどこかで分かっていた筈だったのに。
兄が亡くなった時点で、約束はもう果たされない状況だったと、
でも、あの時の約束は、私の夢であると同時に私に遺された義務のようにも感じた。
兄と交わした最後の約束だったから、尚更。
だから、それを無かったことにするのは、とてもとても辛かった。
「……」
そんな私の思考を打ち切ったのは、幼い私の声。
『リファ……』
兄に持たせた筈のぬいぐるみのリファは、兄の遺留品の1つとして見つかった。
リファは兄の頭部を庇うようにあったらしく、亡くなった兄の顔はとても綺麗だったが、
その結果、汚れてどこもかしこもボロボロという状態で、もう元に戻すのすら難しく、
取っておくと思いだして辛いだろうからと、父がリファを処分しようと話した。
『……もしかして、お兄ちゃんを守ろうとしてくれたの?』
幼い私はそんなリファを見て、兄と一緒に死んでしまったような気持ちになって、
だからいつものように頭を撫でて、リファにこんなお願いを託すことにした。
『……寂しがり屋のお兄ちゃんだから、天国に行っても寂しくないように、
お願い、私の代わりにお兄ちゃんの傍にいて、守ってあげてくれる?』
私のお守りの一つだった。大事なぬいぐるみのリファ、
生まれたお祝いにと父から貰って、ずっと一緒だった私の大好きなぬいぐるみ。
私達家族をずっと傍で見守ってくれていたから、
とても大事なものだったから兄に持たせた。
『大事に……してもらってね』
そうして泣きながら、兄の棺桶の中にぬいぐるみのリファを入れて、お別れをした。
(そうだった……)
その光景を見て分かった事がある。
リファの故郷で私が見た物は、かつてのリファに残っていた昔の記憶なのではないか。
ティアルとは違う形ではあったけれども、私の世界に一緒に居たんだとしたら、
今までの疑問が消える。
(だから、リファは私を気にかけてくれていたんだね……)
考えてみればリファは最初からとても不思議な存在だった。
本当なら大嫌いな人間の一人である筈の私に、
リファは出会った時から私の存在を無条件で受け入れ、
保護者のように何かと気にかけてくれて守ってくれていた。
私の成長を傍で見守り続けてきた存在だったという縁があったからと思えば、
しっくりくるような気がした。
「大切にしてきた物には命が宿ると聞いたことがあるけれど、
リファはそうして……私との縁が出来ていたんだね」
そしてもう一つの事に気づく。
私がこの世界でのリファに初めて出会った時のことだ。
私はあの時に母に助けを求め、そしてリファは失った子供を求めていた。
互いに求めているものの利害が一致し、強い願いに鏡は応えたのではないか?
そうして私達は知らず知らずのうちに、リファと親子関係が結ばれていたのだろうと。
それじゃあ、リファの故郷で、あの時に垣間見えたあの女の子は……。
――リファから見た、”幼い頃の私”だったんだ。
兄が亡くなってから間もなくして、
家で飼っていたティアルも立て続けに亡くなってしまった。
いつも傍にいた大好きな者達が居なくなり、悲しみに囚われそうだった私は、
この頃の出来事を記憶の中で封印した。
そうして私は、これまで現実と向き合う機会を失ってしまったのだろう。
大切だった。大事だった。だからこそ前に進むために必要なことだと思って。
「頑張るって……お兄ちゃんと約束したからって」
私が忘れていた大切な記憶。それが今、私の中で何かがカチリとはまった気がした。
涙があふれて思わずその場にしゃがみ込み、全身が震える。
止まっていた時間が動きだし、感情の波が押し寄せてきて、一気に蘇った瞬間だった。
「う……っ」
涙があふれる。叫びだしてしまいたくなる。
するとしゃがみ込む私にそっと寄り添う感覚に気づく。
そっと瞼を開くと、心配そうに二匹の白狼の子ども達がこちらを覗きこんでいた。
(……そうだ……大丈夫。あれから私は強くなったもの)
元の世界でもこちらの世界でも、沢山の出会いと経験をして強くなったから。
「現実世界で過去に起きた事はもう取り戻せない、変えられない。
でも、私を大切にしてくれた大切な思い出はずっと残っているから。
辛い事だけじゃないって思えるから、私はもうあの時みたいに囚われたりしないよ」
これだけ悲しいという事は、それだけ愛されていた。大事なものだった証拠だから。
涙を拭い、ぎゅっと両手を握りしめて、私は立ち上がる。
「――心の闇に、負けたりなんてしない」
目の前の光景がゆらぎ、一瞬見えたのは深い闇色の炎、
私の言葉にそれは確かに反応していた。だから確信する。
私が今見ているのは私の真相世界。
心の中に巣食ってしまった闇が作り出した虚像なのだと。
「闇が怖いものばかりじゃないって、アデル様が教えてくれたから。
アデル様が待っている……行かなくちゃ」
過去を受け入れた瞬間、私の視界は一気に様変わりし、神鏡が目の前に現れた。
「あ……っ!?」
胸元から光が溢れだす。龍星石から出る光が神鏡により反射して光を拡大していく。
光は辺りを照らして今ある光景を次々に消していった。
遠のいていく世界の中、鏡が最後に光の中で映しだしたのは、
私が知らなかった知る術もなかった出来事で。
『――こんな所にいたのか、おいで、俺と一緒に行こう?』
そこには兄の律が居て、目の前の小さな黒い子猫にそう言って手を差し伸べていた。
「ティアル? お兄ちゃん?」
それは、まだ普通の子猫だった頃のティアルと兄の姿、体は共に透明に透けていた。
ティアルは幼い私の方を見ては、みいみいと兄に振り返り鳴いている。
何かを必死に訴えているようだった。
『み~みいい……みいみい』
『……結理亜には分からないんだよティアル。お前がここに居るって』
『みい~……』
『それでも一緒がいいんだね。分かった。
じゃあ結理亜のことはティアルに任せる。
結理亜は寂しがり屋だから、俺の代わりに傍にいて守ってくれるかい?』
兄がティアルに言った言葉は、リファに託した私の言葉と重なった。
『みい!』
ティアルが元気よくぴょんっと飛んで返事をすると、兄は笑いながら頷く。
『みい……みいみい』
『そう……か、うん、そうだね。結理亜が俺達の事で悲しまないよう、
これまでの記憶は“ナイナイ”しようか、これからを生きる結理亜の為に。
でもいいのかい? ティアルの事も忘れてしまうよ』
『みい』
ティアルはこっくりと頷くと、泣き寝入った幼い私に寄り添い、瞼を閉じた。
(待って……それじゃあ私が忘れていたのはティアル達の願いでもあったの?)
『いつか、思い出してしまうかもしれない儚いおまじないだけれど……。
それまでには結理亜もきっと強くなっている筈だね……だから、今はこれでいい』
兄は幼い私の頭を優しく撫でて顔を上げる。
『ごめんな、約束を守ってやれなくて……もう兄ちゃんとして守ってやれなくて』
その瞬間、顔を上げた兄は成長した今の私の方へ向かい、
視線が重なったように見えた。
「あ……っ」
兄はもう、今の成長した私のことなんて分かるわけはないのに、
そんな事ある筈ないのに、現実ではありえない事なのに、
私はなんだかそれが、また兄と会えた気がして本当に嬉しくて、
再び溢れてきた涙を拭うこともせず、懸命に兄の方に手を伸ばした。
「おにい……ちゃ……っ」
でも――その願いはやはり届かなかった。
もう二度と、永遠に、兄との約束は果たせないんだと、今更ながら思い知る。
例えあのまま私が一人前の役者になれたとしても、そこにはもう大好きな兄は居ない。
目標であり道しるべだった兄は、もうどこにも居ないんだ。
「お兄ちゃんっ! お兄ちゃんっ!!」
約束を果たせなくなってごめんなさい、目を背けてしまってごめんなさい。
「私、私また頑張るから、あの頃と全然違う形だけど、
こちらの世界でまた頑張って生きるからっ!!」
伝えたいことはいっぱいあった筈なのに、言葉が全然浮かんでこない。
兄は何も私には語りかけてこない、ただずっと私の方を見て微笑んでいたように見えた。
あの頃の姿のまま兄の時間は止まっている。記憶の中でしか生きていない私の兄。
もう思い出の中でしか会うことが出来ない兄、
それでも、兄はあの頃のまま笑っている。それが切なくて悲しくて、
そして、また笑いかけてくれたことが嬉しかった。
「ありがとう……さようならっ!!」
――貴方の妹でいられて、私は幸せでした。
兄に許された気がして、兄がそれでいいと言ってくれた気がして、
今でも戸惑い、迷う私の背中を押してくれたような、そんな気がした。
だから私はこれからを生きる為に、兄に今度こそお別れを言った。
※ ※ ※ ※
「――みい、ユリア、ミーツケタ」
「え……?」
涙で濡れた顔を上げると、私は以前も来た事のある水面の上に立っていた。
足元には私を見上げているティアルの姿があり、リファの子ども達に混ざっている。
わちゃわちゃとじゃれ合う二匹はともかく、なぜティアルまで?
戸惑う私に、ティアルはちょんっと前足を私の足に触れ、首をかしげた。
「ティアル? ど、どうしてここに」
「みい、ユリア、カエロ~?」
もしかして、また迷い込んできてしまったの?
私はおいでと両腕を伸ばしてティアルを抱き上げて辺りを見回す。
もう何度か来た事があるこの不思議な空間、けれど辺りには誰も……。
「わあっ!?」
居たっ!! 背後に立っているから気づかなかった。
「う、後ろに立たないでくださいよっ!! びっくりするじゃないですかっ!!」
「うん……一応空気を読んで、君が落ち着くのを待っていたんだけど。
さすがに悲鳴を上げられるとは思わなかったな。別に何もしないよ」
なんと私の後ろには、自称神様の川元さんが立っているではないか。
神出鬼没だと思っていたが、まさか人の夢の中にまで出てくるとは私も思わなかったよ。
早くなる鼓動を鎮めようと胸元を押さえながら、私は目の前の彼を凝視した。
驚く一方で聞きたいことの方が勝っている事に気づく。
「……聞きたいことがあるようだね」
こくりと頷く。昔の出来事を見たことで私の考えは確信に変わった。
「なぜ貴方はここに居るのですか? あの時、貴方も一緒に死んだはずです」
そう、思い出した中で分かったこと
この人は兄とともに事故で亡くなった友人だった。
つまりはゴースト……幽霊と言っても過言じゃない。
魂の状態だから他の人には見えなくて、唯一聖職者のリイ王子様にだけは見えた。
そういうことなのだろうと私は判断する。
(元々は私も魂だけこちらに来た存在だし)
本物の幽霊と会ったのは初めてではあるが、怖がりの私でも不思議と怖くない。
兄の友人としてずっと接してきた事を思い出したせいかもしれない。
そう、この人とは面識があったのだ。昔のことすぎて顔を思い出せなかっただけで。
「んーと何から話せばいいのかな……そう、俺はあの時に君の兄貴と一緒に死んだ。
それは確かなんだけどね。まあ、きっと色々と未練があったから……かな。
その顔だと全て思い出したようだね。あの頃のこと」
「はい」
「んじゃ、俺も少し昔話をしようか。蒼穹のインフィニティ、
あれは俺と律、そして青柳が趣味で作っていたものだったんだ」
元々は同級生だった川元さんがリーダーとなって立ち上げた元同人ゲーム、
そう、つまり最初は趣味の領域で作っていた自費出版のゲームだったということだ。
高校生の頃から手掛けていたのがプロトタイプ……原型だったらしい。
「俺は一足先にゲーム会社に就職していたんだけど、まだ駆け出しの新人だったし、
なかなか大きな仕事は任せてくれなくてさ、将来的に営業に使えるかなと思って、
学生時代から作っていたのを何度も手直しして、いつか本格的に再構成して、
君の兄貴に曲も作ってもらって、二人の声も入れようなって話していてさ」
例え同人でも人気が出れば商業化になる場合もあるということで、始まったこの話、
女主人公のモデルが実は川元さんの当時の彼女だったと聞き、
しかも、将来の事まで考えていた相手だったと教えてもらって、
だからあんなに気にかけていたのかと納得した。
しかしそんな裏事情よりも、次に聞かされた内容に私は意識が全部持っていかれる。
「本当はね。アデルバードの声は君の兄貴が担当する予定だったんだよ」
「え?」
「そのせいか……なぜかこの世界の物語には、俺達の感知しないことが起きてね。
“ユリア”という名の女の子のキャラクターが生まれた。
きっと鏡の影響のせいだろうね。君と律が同じ作品で共演するって約束を叶える為、
鏡により願いを反映された形、それがユリア=ハーシェスという少女だったんだ」
それを叶えたのは他ならぬ私の兄だったのだろうと。
「君が兄との約束を叶える為にも頑張っていた一方で、
あいつも君との最後の約束を守りたかったんだろうね。そして鏡はそれに応えた。
ただし、律は資格のある君や純粋な魂だったティアルとは違ったからか、
願いも不完全な状態で叶えられたようだね。
そうしてアデルとユリアは引き合わされる運命になった」
そして生まれた以上は、その存在を肯定する必要がある。
つまりは辻褄を合わせる事になった。
役割を持たせ、個性を作る。
けれど後から生まれたユリアは他の物語を壊すわけにはいかない。
だから彼女は主軸の物語に影響しない隠しのヒロインとなり、
主人公を助けるサポート役になったらしい。
「あと君が律にリファのぬいぐるみを持たせた影響からか、
君が現界しているこの世界では、アデルのお供にリファが加わる事になった。
あれは俺達も介入してない部分だよ、まあティアルの件もそうだけど。
君の想いと築いてきた絆が波紋となって、反映している事だけは確かだろうね」
……この世界に、アデル様のお供が存在したのは、やはり私の影響か。
言葉が具現化する世界、その影響をもたらすのはリファもティアルも一緒だった。
「ここまで言えば流石にもう分かるかな?
金の髪のユリアは、幼い頃の君がモデルとなって生まれているんだよ。
いや、ベースとなった……というのが正しいかもしれないね。
鏡像型ヒロインというべきかな?」
はい?
「ちょ、ちょっと待ってください。ユリアが……私がモデルって」
ごめん、全然似てないよ? なんて言えない。
そんな私の心情が顔に出ていたのか、目の前の人は困ったように笑う。
「最初は幼い君そっくりの存在だった。けれどこの世界の影響でね。
それに見合う姿に変わっていったんだよ。
もしかしたら、君の幼い頃に憧れていたイメージが、
彼女の姿に色濃く反映されているんじゃないかな? 違う?」
そう、目の前の青年は私に言うが、私の思考はさっきからフリーズしている。
「……」
違わないと思った。
綺麗なさらさらの金色の髪は、黒髪だった私には憧れのものだったし、
白くて透き通りそうな肌の色、薄くて赤みのある唇やぱっちりした瞳も、
大きな女性らしい胸も私が欲しいものだった気がする。
……幼い私が漠然となりたいと思っていた姿だと思った。
(つまりはなんだ? 私と兄の影響がユリアとアデル様とこの世界に?)
ああ、もう一人のユリアにスライディング土下座パート2をしたい気分です。
けど、確かに言われてみれば共通点は沢山あったと思う。
ユリアの髪形は幼い頃の私の髪形に似ていたし、蝶の髪飾りもそのまま付けてあった。
そう、ユリアは私の願望をまるで鏡に映したような存在だったと言える。
……鏡に映したような……あっ、もしかしてこれまでの事は鏡の特性なの?
「……ここまで言えば分かるかな? この世界に君の存在は強く影響する。
それもその筈、君はずっと自分が偽物のユリアだと思っていたようだけれども、
実際は逆で、君こそが“オリジナルユリア”で、神鏡ハーシェスの本当の持ち主」
「私が……オリジナル?」
「そう、そして君をモデルにした結果、今のユリアにもそれが引き継がれている。
まあもっとも、俺達が居た世界では君が必死の願いを抱く時は幼すぎたし、
そのまま力を上手く使いこなせないままに終わったようだけれど」
最初からヒントは出ていたじゃないか、
金の髪のユリアの名前は「ミカミ・ユリア」になると。
つまり最初から私だと指し示されていたようなものだったのではないか。
(ユリアは私と初めて会った時にそれを伝えたかったんじゃ……)
『――……の……あなた……なら……』
あれは……“オリジナルのあなたなら”という意味だったのなら。
「それじゃあ鏡、私が元々持っていたものだったということですか」
「ああ」
(そういえば……)
思い当たる節がある。
考えてみれば、私が大切にしていたものが、こちらにもあるではないか。
この世界に来たばかりの時に考えていた事、
もしも異世界に「私の居た世界のものを持ち込めたのなら」と考えていた物が。
一つは母に貰った髪飾り。
(それは今、私が今も身に着けている蝶の髪飾り)
二つ目は父から貰ったぬいぐるみ。
(……それがリファで)
三つ目は兄から貰った玩具の鏡
それは今なら分かる……あれが姿を変えていた神鏡ハーシェスだったんだ。
神鏡ハーシェスの話を弟のリイ王子から聞いた時、なぜすぐに気づかなかったのか、
『鏡は持ち主を変え、姿を変える』と言われていたじゃないか。
つまり、オリジナルが私自身だとしたら、本物の神鏡は元々私の世界に存在しており、
水上結理亜である自分が持っていたのだと。
(あれは確か、お兄ちゃんから私へ誕生日に贈る形で……私の手元にやってきた)
その幼く不完全な頃の私をモデルに作られた、もう一人のユリア。
本物の神鏡を私自身が持ち合わせていたというのならば、
金の髪のユリアが持っていたのは、レプリカの鏡という事になる。
(だから、ユリアは鏡を使いこなせないままに終わったの?)
複製したものがオリジナルのように使いこなせるとは限らない。
鏡の本当の覚醒をすることなく終わったのは、元々資格がなかったから?
「だがユリアは与えられた役割を放棄した。“ユリアであること”を放棄すること、
それは、その名での守りを失った形になるからね。
元々は不安定だった立場が崩壊し、
君のように鏡を使いこなせないままになってしまった」
「私と同じ名前がお守りだったのに、存在自体を否定したから……」
資格を失ったまま、鏡を無理やり使用した形となってしまったと。
「知っている? 俺達の世界では、鏡は異界への入り口とも言われている。
だから昔は鏡を神聖視し、全ての鏡に布をかぶせる習慣があったそうだよ」
「異界の入り口……」
「二人のユリアが生まれた事で、神鏡もまた2つ存在することになり、
それが合わせ鏡となり、この世界、蒼穹のインフィニティの世界は具現化された。
……君ともう一人のユリアの願いを反映してね。そういうことだよ」
二人のユリアの願いを元にして。
その時願った願いとは何か。
金の髪のユリアは「アデル様を救うこと」を願い、自身の消滅を。
その為には、彼を拒絶し傷つけ壊してしまう元の世界は必要なかった。
なら私は……何を願った? こちらの世界に来る直前で思ったのは……。
「もっと……生きたいって、もっと”ユリアを演じていたかった”って」
あの時に漠然と感じたのは、そんな願い。
意識を失う瞬間、私は倒れこむ中で自身の死が一瞬脳裏に過った。
普通とは違う体の異変、何かがおかしいと気づいた時には床に倒れてしまって、
その時に願ったのは、「ユリアをもっと演じていたかった」という強い願い。
作品もこれからどんどんメディア展開するという話が出てきた最中の出来事、
役の続行をすることは、自分の夢を叶える為に必要だったから。
これからだった、これからなのにって、あの時に思ったんじゃないの?
そう、私は誰よりもユリアとしての存続を願った。
“ユリアとして”この物語の世界の存続を。
「縁って本当に不思議だよね。俺達が作ったものから全ては始まって、
俺達の死後に、その作品が世に出回る事になるなんて思わなかったからさ、
そして俺の遺志を継いでくれた青柳が君を誘い、君が作品に関わることになった」
それを考えると、確かに川元さんはこの世界を作るきっかけを作った人、
神様と言ってもいいのかもしれない。
原型となるデータは青柳先輩が形見として引き継ぎ、
その後、声優としてコネクションが出来た彼は、知り合いのゲーム会社の人に頼み、
亡き友人達と作った遺作を、どうにか世に出してほしいと働きかけてくれたそうだ。
そしてそれは長い年月をかけ、ようやく商業化するきっかけを作ったという。
「じゃあ共演は叶わなかったけど……。
兄の遺した遺作には、私は参加できたということですよね」
兄と同じ作品に関わりたいというその夢は、別の形で叶っていたんだ……。
それが分かっただけでも、目元が潤み、私の心は温かくなった。
兄が生きていた証、世界で引き継がれているのだから。
「そう、だから新しい夢や願いが出来たのなら気にやまなくていいんだよ。
君の兄貴も、律もきっとそれを望んでいる」
「はい……」
そうして川元さんに頭をなでられた。
この人も青柳先輩も私の兄貴分としていつも可愛がってくれていた存在だったから、
こうしてあの頃のように頭をなでられると、懐かしく感じてしまう。
「あとは緊急の話だけど……結理亜ちゃん、手を出して」
手のひらにそっと乗せられたのは金色の片羽の蝶。
もう飛び立つことも出来なくて、その体は透き通っており、
小刻みに震えて、以前よりも弱弱しくなっている。
「ユリア……?」
もう私の知る金の髪のユリアは、実体を持つことすら難しいのか。
小刻みに手のひらで震えているその姿は、とても儚げだった。
「タイムリミットだ。もう……このままだと長くはないだろう」
「……っ!?」
その言葉に心臓がどくりと鼓動を打った。




