63・黒き獣達の朝
早朝、朝もやの中を飛ぶ小鳥のさえずりと羽音を聞き、
俺は龍体のまま、ユリアの部屋の中でゆっくりと目を覚ました。
そして、のそりと顔を上げて辺りを見回す。
窓の外を見れば朝露が木々の葉を濡らし、日の光でキラキラと輝いている。
「――……朝か」
耳を澄ませると、使用人達の足音は聞こえない。
まだこの時間は皆眠っているのだろう。
という事は、今は俺が人の目を気にせずに過ごせる自由な時間だ。
(もう暫く……この姿のままでいても大丈夫そうだ)
俺は職業柄、起床時間が早くなる事が多い。
騎士団の仕事に魔物の討伐や国の警備があるからだ。
何より、強くなる事を望むのであれば、
騎士団本部の練習量だけでは到底足りなくなる。
慣れないうちは、この規律のある習慣はとても辛かったが、
今では必要な時間に、自然と起きられる程になっていた。
この環境に慣れるかと不安にもなった事があるが、俺も成長しているのだな。
漸く人間としての暮らしにも慣れてきた様だ。
「いい天気だ……元素の力が満ちた朝だ。出来るだけ自然の恩恵を頂くとしよう」
窓から差し込む陽の光に目を細め、尻尾を揺らす。
瞼を閉じると、草の香りがした。
これで森の香りもすればいう事はないのだが、この王都では難しいだろう。
ユリアは俺が龍だと知ってからというもの、
俺が過ごしやすい様にと、屋敷の中の至る所に故郷の野草を配置してくれた。
他の使用人達には、雑草を飾るユリアのセンスに首を傾げているらしいが、
俺にとっては、とてもありがたい心遣いだ。
懐かしい故郷で嗅いだ草の香りを感じる事が出来るのだから。
外を眺めた後に視線を下して、傍らに眠る子猫姿のユリアが居る事を確認する。
最近新たに加わった俺の日課だ。ユリアはすぴすぴと寝息を立て丸まっていて、
その寝顔に思わず目元が緩んだ。
「よし……今日も大丈夫そうだ。鏡の影響はない」
求愛した雌の眠りを守るのは雄の大事な務めだ。
今日も俺はユリアの眠りを守れたと自身を誇る。毎晩、眠って俺の意識が遠のく際には、
ユリアの周りに厳重な結界を施していたが、大事には至らなくて良かった。
(俺が目を離した隙に、万が一にも連れ去られたり、
鏡の暴走で傷付いたりしては堪らないからな)
出来るだけ、闇属性がある俺が傍にいた方がいい。
そう思いながら、鼻先でユリアの顔に顔をすり寄せる。
子猫特有の甘い香りが鼻孔をくすぐった。
(……しかし、ユリアへの求愛を本格的に始めたものの、
やはり人間の娘が相手という事もあり、求愛の方は苦戦しているな。
動悸が酷くなってしまうし、どうも上手くいかない)
昨日は、思い切って俺の事をどう思っているのか、
何気ないふりで聞いてみたりもしたのだが……。
『……ユリア、リファの事は好きか?』
『はい、大好きですよ! ふわふわで、何時も一緒に居てくれますし』
『では、ティアルはどうだ?』
『勿論、大好きです!』
『じゃあ、俺は?』
『もちろ……え?』
『ん?』
リファやティアルの事を好きな事は分かっている。
だが、肝心な話はこの先だ。俺の事はユリアの中でどういう位置づけなのか、
嫌われてはいないと思うが、普通かそれとも……と思いつつ、
俺は若干期待を込めて聞いてみたのだ。
どさくさに紛れて、本音を言ってくれる気がして、
こんな言い方をしてみたのだが……物事は、そう上手くはいかないらしい。
こと、大事な事柄に至っては。
俺の番になったら、ユリアは顔を徐々に赤らめてうつむいてしまった。
おかしい……こんなに返事に困るものなのか?
『ユリア? 続きを……俺はその続きが聞きたい。
俺の事はどうだ? もちろん?』
『う……うう……ええと、あの……』
『ん?』
ぐぐっと顔を近づけて続きを促すが、なかなか言ってくれない。
待っている間に何もしないのも何なので、ユリアの額や触れた手のひら、
手の甲などにも口づけを繰り返して愛情表現もしてみた。
だが、それでも何も言ってくれない。
もしや……言う事も戸惑う程に、俺は好かれていないのだろうか?
なぜだ? この俺のどこが嫌なのだ? やはり種族の差があるせいか?
確かに俺はユリアの好む「可愛い毛玉」の姿ではないが、
俺はユリアをこの世で誰よりも大事にすると誓えるぞ?
人間の男の様に、見え透いた言葉で雌を騙したりなんてしない、
俺は何時でも行動でユリアへの愛情を示す事が出来る。
必要ならば、血の契約をしてでも、生涯ユリアを慈しみ守る事を誓えるのに。
『……す、素敵なご主人様だと思っております?』
……模範的な解答だ。
だが、なぜ疑問形なんだ? それに今、かなり間があったぞ?
『いや、そうじゃない。俺の事を好きか嫌いかで聞いているんだ。
俺はユリアの事が……』
『……っ!?』
俺が素直に自分の想いをユリアに伝えようとした時、
ユリアは更に顔を赤らめて、ぱっと両耳をふさいだかと思えば、
『そんな事、は、恥ずかしくて言えません~っ!!』
……と叫びながら、俺から逃げてしまった。
『……ユ、ユリア?』
逃げたユリアに手を伸ばすが、彼女は部屋の中に逃げ込んでしまった。
……どうやら俺は、ユリアにとって「恥ずかしい」レベルの雄らしい。
それも、“勿論”と付く事から、決定的な恥ずかしい要素を含むのだろう。
人間の目線からして口に出すのもためらう程の……。
(知らなかった……お、俺は……恥ずかしい雄なのか?!)
それはつまり、人間の娘の感性で言うのならば、
隣に並ぶ事も恥だという事だろうか?
昨日の事を思い出すたび、俺の心は沈む。
あの後、結局ユリアは子猫姿となって先に寝入ってしまい、
話の続きをする事が出来なくなってしまった。
一体、この俺の何が気に食わないのだろうか?
鏡に自分の姿を映して見ても、何処がどう駄目なのかも分からない。
俺自身が持つフェロモンはユリアには効かないようだし、
他の者に外見について相談するも、これといった問題は無いと言われた。
人間の醜悪など、俺には余りよく分からないのだが……本当に困った。
「やはり……金色の髪が無いのが原因か?
ユリアは金色の髪をしているし……同じ種族を求めているのかも知れない」
その考えは理解できない訳じゃない。
種の保存の為に、龍も同じ種族の同胞を伴侶に求める。
ならば、ユリアの選択は「当然」の本能だろう。
昔の俺が、同じ種族の雌を伴侶にと望んでいたように。
「……金の髪……人型となっても俺の髪は正反対の黒い髪だ。
ユリアの理想にはほど遠いという事なのか……」
打ちのめされる種族の壁。
金髪無しで、一体どうすれば彼女の心が手に入るのだろう?
ローディナ達にユリアの好みについて、それとなく相談するも、
『頑張って下さい!』と目を輝かせて言われるだけで、何の参考にもならない。
それどころか、むしろこの状況を喜んでいる気がする。
「他の者達は、俺の気持ちに気づいているようなのだが……。
なぜだろう? ユリアにはなかなか伝わらない」
ユリアが俺を好意的に思ってくれているのならば、
俺も彼女に想いを伝えて、抱きしめて……。
すぐにでも人間のやっている婚姻の準備も整えてやれるのに……。
(一体どうしたらいいんだ?)
俺は、これまでのユリアとのやり取りを考える。
(狩りで得た獲物の肉をあげたら、涙目でお礼を言うものの、
菓子を買って来た時よりも反応は良くなかったな……。
人間の娘にも、甲斐性のある雄は喜ばれるはずなのだが……)
『――……あ、ありがとうございます……』
昨日もそう言って、口元を引くつかせていたユリア。
どう見ても、余り喜んでいないように見えた。
結局、俺が狩りで得てユリアに捧げた上等な肉の数々は、
その後、俺の夕食へと変わってしまったな。
今にして思えば、肝心な事をユリアに話していなかったせいだろう。
あの肉は、他の誰でもないユリアの為だけに狩ってきた肉であると……。
どうも俺は、言葉にして伝えるのが苦手だ。
『あの、私では流石にあのお肉を裁くのは出来なかったので、
コックのおじ様にお願いして、私は味付けだけをやりました。
アデル様のリク……ええと、ご注文で、今日は沢山お作りしましたので、
お腹いっぱい召し上がって下さいね』
……と、にこにこ笑ってテーブルに料理を並べていたユリア。
ユリアの為に狩ってきたのに、俺が食べてどうするのだ?
俺は贈った肉を全てユリアに食べさせたくて狩って来たのに……。
ユリアは俺が、肉料理が食べたいと催促したと思ったのだろう。
俺はユリアに喜んで欲しかったのに、俺が喜んではいけない気がするんだが?
そう思いつつも、ユリアが『どうぞお召し上がりください』と言うので、
ユリアの笑顔を曇らせたくなくて、俺は用意された肉を口に含んだ。
……少し複雑な気持ちだったが、ユリアも一緒に食事をするので、
全てを俺が食べる訳じゃないと、なんとか自分を納得させた。
こうして、俺が計画した求愛行動の一つは失敗に終わっていたのである。
だが、ユリアの傍で食べる肉の味はとても美味い事に気づいた。
(海で狩ってきた魚は、凄く喜んでくれたのだが……。
ユリアは肉の美味さが分からないのだろうか?)
そういえば、前に腐った豆を喜んで食べていたな。
俺の脳裏では、野ざらしの中で必死に数粒の豆を持って飢えをしのぐ、
ユリアの哀れな姿が目に浮かんで、思わず目頭が熱くなった。
肉さえも食べられなかった生活か……なんて不憫なのだろう。
龍の俺からしたら、それは拷問だ。肉を満足に食べられないなんて……。
何時かユリアには、生肉を食べる喜びを教えてやりたい。
しかしあれだ。そろそろ俺の求愛行動を見直す事も考えなくては。
究極の求愛方法である薔薇の贈り物にも、ユリアは戸惑っているし、
彼女の好みには合わないのかも知れない。
何か他に良い方法はないだろうか? ユリアを虜にする方法は?
俺がどんなにユリアを想って欲しているか、分かってもらわなくては……。
(肉をただ手渡すだけでは、俺の愛情が分かるものではないようだ。
人間の娘相手では、どうも上手くいかない事が多いな)
だが、それは龍であった俺の感覚、人間の男としてここで暮らすのであれば、
もっと俺はユリアの意志を尊重し、伝えられる存在にならなくてはいけない。
「もっともっと人間の事を学ばなければ……ユリアの隣に居られるように」
眠るユリアを見つめたまま思案する。今まで戦う知識ばかりを詰め込み過ぎて、
その他の事は何も学んで来なかった事が悔やまれる。
強くなる知識以外は必要ないと思い、興味もなかったのだから仕方がないが、
もう少し、他の事にも目を向けても良かったのに。
今は……余計だと思った情報が何よりも知りたい。
ユリアを手に入れる方法、若い娘の好みをもっと学ぶ必要がある。
「ユリア……」
求愛した娘と過ごす。この静かな時間……孤独だった感情が満たされる。
俺は、ユリアがこうして傍らで眠る事を許してくれた事が嬉しかった。
とりあえず、これは一歩前進しているのではないだろうか?
嫌いであったのなら、傍に近づけるのも嫌な筈だから……。
俺は少し体の位置をずらし、龍体のままユリアの寝顔を見つめた。
普段の人間の姿ではなく、魔道具で変わった子猫の姿のユリアを。
真っ白な毛並みはふわふわで、力を込めたら壊れてしまう。
そんな危うさがあるので、今の姿では余り触れる事が出来ない。
だが、この幸せそうに眠る姿は、見ているだけで俺の心を癒してくれた。
「みい~……?」
寝言を言いながら、俺の差し出した尻尾の先を前足でぎゅっと抱きしめ、
すやすやと幸せそうに眠っているのをいい事に、
今のうちにユリアの匂いを心置きなく嗅いでおいた。
彼女が起きている時に匂いを嗅ぐ事をすれば、ユリアに怒られるし、
リファにも「(やりすぎです)」と、頭をはたかれて妨害されてしまうからだ。
(今日一日、ユリアから離れても耐えられるように、
ユリアの匂いを覚えておかなくては……)
龍の本能が目覚め、求愛する雄にとって、
対象の雌と離れるのは精神的な苦痛を感じる。
これで遠征の仕事にでもなったら、俺は発狂するかもしれん。
下手をすると自我を失い、雌を取り戻そうと暴れる者だって居る位だ。
俺の場合もまた、例外なくユリアと離れる事が苦痛で仕方がない。
だが、今の俺にはユリアの生活を守る義務が出来た。
ユリアを人間の世界で不自由なく養うには、
俺はこれに耐えて働かなくてはならない。
(ユリアに認められて俺を選んで貰う為に、
俺はこの試練に耐えなくてはならない。
人間としてここで暮らすと、ユリアの傍で生きると決めたのだから)
だからこの時間は、ユリアを大いに堪能出来る至福の時間だ。
眠っているユリアには悪いが、今日一日を乗り切る為に許して欲しい。
思う存分、求愛する娘を愛でられる事が幸せで、
俺は上機嫌でユリアの寝顔を見つめた。
(今日はどんな品をユリアに贈ろうか……)
そんな事を俺が考えている時だった。
「みにゃあ~……」
ユリアが突然、むにゃむにゃと何やら寝言を言い出したのだ。
一体何を言っているのだろう? 興味がわいて耳を澄ませてみれば、
ユリアはその時、俺が予想もしない衝撃的な一言をつぶやいていたのである。
「みい……(ハンバーグ)」
その言葉を聞いて俺は首を傾げた。ハンバーグ?
これまでユリアの話す寝言は、よく分からない単語が多かったのだが、
今回のはその中でも、俺に与える威力が強すぎたのだ。
「ハンバーグ……今まで聞いた事がない名前だ。
名前からするに、男の名前……か? ユ、ユリアが他の男の名前を……!?」
くらりとめまいがした。俺以外の雄の名を口にするユリア。
その現実に打ちのめされ、呆然とする自分がいる。
人懐こい彼女の事だ。その可能性が無い訳ではない。
きっと何処かで、無邪気なユリアを見初めて欲した者が居たのだろう。
この俺のように……。
「ハンバーグ。誰だ? 一体誰なんだ?
何だか強そうな名前だな……となると、騎士団の関係者か冒険者か?
!? も、もしや、リハエルだけでなく、その男もユリアの気を引いて……?
……何てことだ。これは早々に調べてユリアから排除しておかなくては」
そう俺が決意していた矢先で、ユリアは更に衝撃の言葉をつぶやいた。
「みいみい……みい(ハンバーグ……大好き)」
「!?」
俺はぎょっと目を見開き、衝撃を受けて固まる。
今……今ユリアは何と言った?
好き……好きだと? しかも「大好き」!?
……何度もその言葉が俺の頭の中で響き、体が小刻みに震えだす。
そ、それは、この俺が何よりもユリアから聞きたかった言葉ではないかっ!
だが、それは俺に向けられた言葉じゃない。
(ま、まままままさか…っ!)
まさか、夢の中でユリアが他の雄に愛をささやいているのか!?
俺の知らない所で、既にそんな関係になった存在が居ると……。
知らなかった。自分は何も知らなかったのだ。
ユリアが既に思いを寄せる雄が居た事を……っ!!
「ユ……ユリア……?」
余りのショックで、俺は目を見開いたまま、
ゆっくりと体は傾いてばたりと倒れた。
ぴくぴくと体はけいれんし、身動きがしばらく取れない程の衝撃。
誰かに致命的な攻撃をされた訳ではないのに、
一瞬で瀕死状態におちいってしまう。
それだけ、求愛する娘が発した言葉は俺にとって破壊力があった。
現に俺の心臓は、ショックのあまり一度止まりかけたぞ。
(ユリアの愛を……どこかの雄に、かっさらわれたという事か?)
どこの雄かは分からないが、
既にユリアの心はハンバーグに奪われているのか。
眠っているユリアを起こし、この俺では駄目なのかと問いただしたいが、
ユリアの眠りを妨げてはいけないから、ぐっと耐えた。
体の弱い娘なのだ。出来るだけ休ませてやりたい。
(ああ、しかし、しかしだ。この俺の満たされぬ想いはどうすればいい?)
俺の心は激しく揺れていた。乱れていた。
遠くない未来で、ユリアは俺を捨てて人間の男の元へと行くのだろうか?
それを考えるだけで、俺は立ち直れそうになかった。
未だかつて経験した事のない、胸の痛みを感じる。
初めて感じる、これまでとは別の痛みを感じて焦燥感に駆られた。
ユリアのいない生活など、俺にはもう考えられない程大事なのに。
このまま彼女を失えば、嫉妬に狂って悪龍へと変じてしまいそうだ。
「俺はまだ、寝言でさえ呼ばれた事すらないのに……っ!
おのれハンバーグめ……お前はユリアに一体何をして喜ばれたのだ?
俺は未だに分からずに悩んでいるというのに……」
自分はきっと何処かで出遅れてしまったのだろう。自覚するのも遅かったから。
俺が傍にいない隙を狙い、ユリアに愛をささやいた輩が居る。
変な者が寄り付かないように、リファを護衛に付かせていたのに、何たる失態だ。
後でリファを叱っておかなくては。
ユリアの心を占めているという、
“ハンバーグ”なる、新たな恋敵に嫉妬を募らせつつも、
俺はユリアが眠っているうちに、震えながら本日分のノルマの薔薇を作る。
ショックを受けたままなので、何時もよりも大変だった。
(ユリアが……嫌だ。誰にも渡したくないのに)
息も絶え絶えになりながら、それでも俺はユリアへの愛を捧げる。
(もう少し……もう少しで全ての力が戻るのに……。
早く、早くしなければ、ユリアが他の雄に取られてしまう)
今日に限っては手元が震えて、上手くいかない。
何時もならば、もう少し早く出来たはずなのに、
一つ作るだけで、かなりの集中力を必要としていた。
それは俺が余りに動揺していたせいだろう。
もっと強くなり、頼れる存在にならなければ、
ユリアの愛をどこぞの雄……いや、男に取られてしまう。
「み……す~……」
「う……ごほっ……ユ、ユリ……」
なんて幸せな寝顔なんだ。それ程にその男が好きなのか!
傍らでユリアの気になる寝言を聞きながら、意識を集中して薔薇を作る。
ユリアを愛しい、愛しいと感じながら、一つずつユリアへの想いを込めた。
だが今日は視界が歪みながらの作業、俺の目には涙が浮かんでいた。
俺には足りないもの、俺には足りない魅力、
それがハンバーグにはあると気づいて、俺は打ちのめされていた。
(ユリアを失いたくない、傍に居たい……それすらもだめなのか?)
まだ、まだ間に合うはずだと自分に言い聞かせつつ、
震える前足で、必死になってユリアに贈る薔薇を作る。
作り終われば飾りつけだ。よろめきながらも体を起こす。
俺はまだ眠っているユリアを起こさない様に、ベッドへと運んだ。
「ユリア……ユリアの為に作った薔薇なんだ。
君だけが俺の幸い。君だけが俺の望む伴侶、花嫁だ」
一番良くできたと思う薔薇をユリアの小さな前足にはさみ、
残りの薔薇で彼女を囲む。飾っている途中で誘惑に負けて、
再びユリアの匂いを嗅いだ。
俺の作った薔薇の香りが付いている事に安心する。
それだけで、先ほど受けたダメージが少し回復した。
この香りは破邪の香の役目も持つから、
特に念入りにユリアの体に身に着けさせたい。
彼女が全ての災厄から守られるようにと、願いを込めて。
「……ユリア」
本当は毛づくろいもしてやりたいのだが、
俺がやると、牙で怪我をするとリファに怒られるだろうから、ぐっと耐える。
何より、ユリアが舐めるのを許してくれないんだ。
未だに俺はリファ達よりも格が下だと言う事に、更に打ちのめされる。
何てことだ。この俺が格下の扱いを受けたままとは……っ!
これでは、俺は「ハンバーグ」にずっと勝てないままではないか!!
……だが、ユリアは人間の娘、ただ強さだけを求める龍社会と違い、
人間の娘である彼女は、俺とは違った価値観を求めるのだろう。
つまり……「強さ」よりも他に求められる要素があるという事だ。
「やはりあれか? ふわふわの毛玉がないとダメなのか?
それとも、先日部下が持って居た雑誌に書いてあった……。
”家庭的な男”と言うのがないからなのだろうか?」
毛玉は無理だが、家庭的と言うのは努力で何とかなりそうだ。
何気なく部下に聞いたら、家事が出来る男をそう呼ぶらしい。
「家事……というと、料理……というものだろうか?
普段、ユリア達がやっている事を俺も出来た方がいいのか。
確かに、俺には難しい能力だが……」
そうだ。考えてみれば、リハエルは家事全般が出来ると前に聞いた事がある。
聖職者は自身の世話が出来ないといけないとか、なんとかで……。
「……家事か」
一方、俺にはその才能が全くない。
だが待て、何にでも初めはあると思うのだ。
厨房の一度や二度、粉々に吹き飛ばす事は誰でもやっているのではないか?
炎上しかけて毎度コックに怒られても続けるべきだったのかもしれない。
「ならば、なんとかコックに頼んで……いや、断られるか。
では、ライオルディに頼んで城の厨房を貸して貰えないか頼むか。
以前作ったプリンなら、あの頃よりももっと上手く出来るはずだ」
城の厨房は広い、例え大火事になっても大した被害にはならないだろう。
その為の対策は色々施してある筈だ。
(よし、ユリア見ていてくれ。俺は必ず”家庭的な男”とやらになって見せるぞ)
打倒ハンバーグ。奴よりも家庭的な男を目指すのだ。
「み~……?」
小さな子猫姿のユリアが寝転がり、自由になった尻尾の先で、
ユリアの頭を優しくなでる。
ふわふわと小さい毛玉のようなユリア。愛らしい俺の最愛の娘。
この姿は可愛らしいのだが、最近人型のユリアを余り見かけなくなった気がした。
それが、何となく寂しく感じる。
(人型のユリアも愛でたい……)
人間の事は未だに嫌いだが、ユリアは人間だと分かっていても好きだ。
だから人型のユリアに触れられるのは嫌いじゃない。
「ん?」
ふと、背後に気配を感じて振り返ると、
どうやらリファと共に眠っていたティアルが起きたらしい。
もぞもぞとリファのお腹の下から出てきたティアルは、
俺が起きている事に気づくと、眠たげな眼をこすりながらベッドに近づいてきて、
俺の足元に抱き付いた。
「みい、アデル、オハヨウナノ」
「あ……ああ、ティアル、早いな」
「みい! ティアル、ハヤオキ」
ティアルは前足を使い、ぺろぺろと顔を洗うと、
リファの元へ戻り、「オハヨウ」とリファの頬にキスをする。
「……クウン?」
「みい、リファ、オハヨウ?」
リファはちらりと目を開けティアルを見た後、再び寝入ってしまった。
まだ眠いのだろう。ティアルはそんなリファの顔をなでている。
それから戻ってきたティアルは、ベッドをよじ登り、
並べられた薔薇を避けながら、子猫姿で眠るユリアの頬にもキスをしていた。
これが、ティアルの朝の習慣らしい。
「みい……ユリア、マダ、ネムネム?」
「ああ、だから寝かしておいてくれるか?」
「みい、ハーイ。ティアル、イイコ。ユリア、ネンネ、ネンネナノ」
ユリアの頭を前足でなでるティアルの姿。
こうして見ると、本当にユリアの兄弟のようだ。
いつも思うが、ティアルはこういう事をしても怒られないな。
俺と同じ「黒き獣」でもあるのに……。
やはりティアルは子供だからとユリアが許容しているせいだろうか?
なんて羨ましい……。
その後ティアルは「みい、アデルモ」と、俺の鼻先にキスをしてくる。
ティアルは可愛いと思うが、俺は雄だぞティアル。
どうせならば、俺はティアルよりユリアにして欲しい。
まあいい、子供だし言っても分からないだろうしな。
「……俺に年の離れた弟が居たら、こんな感じなのだろうか?」
「みい?」
ティアルの無邪気な顔を見ると、ついつい許してしまう。
尻尾の先でティアルの頭をなでると、俺は名残惜しげにユリアから離れた。
ずっと傍に居たいが、そろそろ剣の鍛練をする頃合だ。
俺はティアルが机の上でビスケットを食べ始める所を横目で見ると、
人型になって、昨晩脱ぎ捨てた服を拾い着替える。
「みい……」
軽くボタンを留めていると、背後で元気の無い声がする。
振り返るとティアルはなぜか耳と尻尾を垂らして、しょぼんと項垂れていた。
俺が不思議に思って近づくと、ティアルはうるんだ眼を俺に向けて来る。
そして、ティアルのお腹の音がくるくると鳴っていた。
どうやらティアルは、お腹が空いて起きて来たらしい。
「みい~シケッテル……」
「ああ、昨日は大雨だったからな、湿気が室内に入ってきてしまったんだろう」
「みい……オイシクナイ」
ティアルはそう言いながら、ベッドで眠るユリアをちらりと見た。
起こすかどうか悩んでいるのだろう。
「みい~……ユリア、ネムネム、オコス、カワイソウ」
その間も、きゅるきゅると鳴るティアルの腹。
ユリアは相変わらずハンバーグへの愛をささやいている真っ最中らしく、
ご機嫌に尻尾を揺らして眠っている。
俺は俺でユリアの言葉の続きが気になるし、
ティアルはユリアにお腹が空いたと訴えようかと悩み、
二匹しておろおろとしてしまった。
「そうだ。ティアル、つかぬ事を聞くが、
ハンバーグという人間の雄を知っているか?」
「み?」
「ティアルは会った事がないか? そいつの居場所は?
知っているのなら教えてくれ、俺はその雄に大事な用がある」
「み? ティアル、シラナイ」
「そうか……ティアルは知らないのか……」
首を振るティアルに、俺はがっくりと項垂れる。
早くその男を見つけて手を引いてもらわないと……。
必要ならばユリアをかけて決闘する事も考えているのに。
そんな事を俺が思っていると……。
「みい、ティアル、イイコナノ。ユリア、オコサナイノ」
何か思いついたのか、こくこくと頷いていたティアルは、
机の上からぴょんと飛び降りて、てちてちと部屋の外を出て行った。
そして俺も我に返る。
「……っ、ユリアの事は気になるが、俺も鍛練をしなくては……」
俺はユリアの事が気になりながらも、壁に立て掛けてある剣を手に取り、
部屋の外に出て庭へ向かう。日々の鍛練を休むなんてもっての外だ。
今よりも更に強くなる。それが俺の目標でもある。
ユリアを怖がらせ、家族や同胞の仇を打つ為にも力が必要だった。
そうして庭に出てみれば、庭先に小さな黒い毛玉を発見する。
近づいてみると、それは先ほど部屋から出て行ったティアルだった。
「……ティアル?」
「み?」
呼ぶとティアルは振り返った。その前足にはいっぱいの木の実がある。
この時期は庭で果実が取れる事を思い出したのだろう。
普段、リファから食べられる木の実の採り方を教わっていたおかげで、
嬉しそうに俺に話しかけてきた。
「みい、リファ、タベモノ、オシエテモラッタ~みいみい」
「そうか、良かったな」
「みいみい、イタダキマスナノ」
小ぶりのリンゴを美味しそうに、しゃくしゃくと音を立てて食べている。
出会った頃に比べて、ティアルもたくましくなった気がするな。
以前は腹が空いたとたんに泣く事もあったのだから。
だが待て、ティアル……其処は俺の膝の上だ。
なぜ、俺の膝の上に座って食べようとするんだ?
これでは俺が動けないではないか。鍛練の練習が出来ないぞ?
「みい?」
「……仕方ないな、早く食べろ」
「みい、ハーイ」
無邪気な瞳を見ると俺は弱い。俺はティアルの頭をなでながら諦めた。
ティアルは普段、リファやユリアに抱き上げられて食べている事が多い。
きっとそれが定位置となってしまったのだろう。
一通り食べ終わったティアルは、けぷんと息を吐いた後に膝の上から降りた。
そして今度は、庭の隅で飼われているひなり獣と交渉を始めたようだ。
以前、俺がユリアの為に狩って来た獣だ。
「みい、ヒナリケモノノママ~、オチチ、チョウダイ~?」
まだ食べる気か!? どうやら乳を貰おうとしているらしい。
あの小さい体で良く食べるものだ。思わず感心する。
ああ、いかん、早く鍛錬をせねば。
「さて……始めるか」
ティアル達から離れた所まで移動して、俺は素振りを始めた。
人間の姿の時は龍の時と違って筋肉の使い方も違う。
意識を集中して、何度も何度も振り、一手ずつの迷いなく振り下ろす。
空間を切り刻むように、迷わずに。
探している魔物の行方は分からず、あれから音沙汰がない。
奴の目的はなんなのか、それさえも分からないまま、時だけが無駄に流れていた。
段々苛立ちながらも、俺は奴が再び人前に出てくる時を待っていると考える。
その時、自分は今度こそあの魔物を倒せるようにならなくては。
「必ず見つけ出さなければ。ユリアにあいつが二度と傷つけられないように……」
あの宿敵との対決が、この腕に掛かっていると信じて……。
モータル……”死ぬべき運命”という名の魔物。
いつか必ず決着を付けなければと思った。ユリアとの未来の為にも。
※ ※ ※ ※
「――……おはようございます。アデル様」
「ああ、おはよう……ユリア」
数時間後、お腹がいっぱいになって再び寝入ったティアルと入れ替わりに、
元の姿に戻ったユリアが、ブラシを片手に俺の部屋へとやって来た。
何時もの様に、贈り物の薔薇の礼を聞いた後、
俺は彼女の頬をなでながら、ユリアに大人しく髪をすかれていた。
「え? ビスケットが? それはティアルに悪い事をしましたね。
では後で、フライパンで焼き直しておきます」
「……それでビスケットが元の食感になるのか?」
「はい、色目や風味は多少変わりますけど、
一度、火にかける事で湿気が飛ぶんです。かまどで軽く焼いてもいいですね。
それで冷ますと、元のサクサクとした食感に戻るんですよ」
なるほど、ならばティアルの機嫌は直るな。
残るは俺の問題だ。俺はユリアに事の真相を聞き出そうとするも、
ユリアはそそくさと、「ちょ、朝食の支度をしてまいりますね!」と、
俺の前から離れて行ってしまった。
……また逃げられてしまった気がするのは、俺の気のせいか?
もっと触りたかったのに残念だ。今日はまだ首筋に顔を埋めていないのだが……。
「結局聞けなかったな……ハンバーグ、一体、奴は何者なんだ?」
そんな俺がハンバーグの正体を知るのは、
仕事をなんとか終えて、急いで帰宅した後の事になるという事を、
この時の俺は知る由もなかった。
憎き宿敵、”ハンバーグ”は、俺が思っていたよりも早く対面できたのだが、
ハンバーグは、俺が憎むべき相手ではなかった。
ユリアが大好きだと言っていたハンバーグ。俺も好きになったぞ。




