5.~蒼黒騎士アデルバード~
「……今日も収穫は無し……か」
人間の少女、ユリアを保護して1ヶ月が経過した。
彼女の身なりから、直ぐに身元が判明すると思っていたが、
捜索届すら出されておらず、手がかりは未だ無いという事態に陥っていた。
記憶を失くしている上に、男所帯の多い所での生活では、
さぞ気も休まないだろう。ここには彼女を世話できる女使用人が居ないから、
必要に迫られて自分の事をし始めたのかもしれない。
(とはいえ……まさか、こんな所で働きたがる娘がいるとはな)
かと言って、血気盛んな騎士の宿舎に預けて寝泊りさせる方が危険だと思う。
伴侶が決まってない一人身の雄……いや、男も多いのだ。
そんな場所に若い娘を置いてはおけない。
俺がユリアの為に出来たのは、彼女を保護し後見人となってやる事、
支度金を渡し、知り合いの人間の王子に相談して若い娘用の衣服を貰う事位だ。
これまで人間の娘の世話などした事のない今の俺には、それが限界だと思う。
(今頃、彼女の親は必死になって探しているのだろうか?)
それとも皆が言うように、人買いにでも売ろうとしたから、
あのような華美な格好をわざとさせていたのか……?
俺は人間が同族をそんな事を平気でやる話に最初はとても驚いた。
龍族にとって雌は種族を増やしてくれる大切な存在だ。
それを物のように売り買いしてしまうなどと……やはり人間というのは醜いな。
もしかしたら彼女も、そんな扱いを同じ人間にされたのかもしれない。
(記憶が無いのは、思い出したくない事があったのか?)
そんな人間達から逃げたいのなら話は別になる。
それが事実なら、彼女の身柄をこんな一時的な保護ではなく、
騎士団の名の下でどこか遠い安全な場所へ匿う必要があるだろう。
ユリアに話せない何かがあるとしたら、捜査で知っていかなくては、
だが、それがこれ程に手間が掛かるとは思わなかった。
(戸籍も見つからないとは……どうなっているんだ)
得体の知れない娘は、俺にとって余計に脅威な存在だと言える。
なりゆきで俺の傍に置く事になってしまったが、どうなることか。
「なに……? ユリアが屋敷の外から出ようとしただと?」
数日後、想定していた事態が起きた。
あの娘が単独で屋敷の外へ出ようとしたと、使い魔のリファから報告をされた。
やはりあの娘も無理だったのか……という思いが俺の脳裏をよぎった。
「(――はい、傍に始終付いていたので大事には至りませんでしたが、
外へ出て、情報を探そうとしたのだと思われます)」
「……そうか、引き続きユリアの傍に居てくれるか」
傍に居たリファが彼女を制止し、屋敷の中に連れ戻したから良かったものの、
記憶の無い娘は赤子同然だ。勝手に出歩いて、悪い者に連れて行かれなくて安心した。
(……やはり、この俺が嫌で逃げ出そうとしたのか……)
一瞬、俺の脳裏に「間者」や「刺客」という言葉が思い浮かんだが、直ぐにそれを打ち消す。
(ないな、それは……あの娘は隙があり過ぎる)
ここ最近、正体を知られるような真似はしていない。まだ勘付かれてはいない筈だ。
何より始終リファが護衛も兼ねて付いているからな、万が一にも彼女に不審な点があれば、
今みたいに直ぐに俺に報告に来るだろう。
(屋敷を怖がっていたというが、今は楽しそうに働いているともいうし、
ともなると問題は俺の方だろうな)
ここは友となった人間の王子……ライオルディから住居として貰った屋敷。
俺の希望を最優先にした結果、この屋敷で暮らす事になった。
『君の要望に出来るだけ応える為に考えた結果、
私が個人で所有していた屋敷の一つを譲る事にするよ。
ここは広い部屋も多いから、手入れは大変だが体を休めるには十分だろう。
好きに使ってくれたまえ。アデルバード』
あの頃はまだ屋敷も綺麗で女性の使用人も多く、
嫌いな人間の匂いが気になるものの、管理は良く清潔で行き届いていたのだが、
今ではその見る影も無い、荒れ果てた惨状といった状態になってしまった。
(だが俺が満足して暮らすには、この屋敷位しかないしな)
龍である俺は、時々本来の姿に戻る必要がある。
普段は人型の姿で過ごし、少ない食料で体を維持しているが、
定期的に体に溜まり続ける龍気を、元の体に戻り発散しなければ身が持たない。
その為に、大きな広さを持つ部屋がある家が必要となった。
其処で貰った新しい縄張り。自分の巣は申し分ないほどに広い屋敷だった。
だが、人の暮らしに慣れていない上に、人と余り相容れたくない俺は、
屋敷に居る使用人達に、素性を隠したまま管理を任せていた。
若い娘なども当時は沢山居たのだが、やはり男よりも女の方が勘がいい。
それが子供に近いなら尚更、若ければ敏感に俺の力を感じ取る。
――そして、俺が新しい屋敷の主人となった時に、その異変は起きた。
『ひいい……っ!? いやあああっ!!』
俺の力を感じ取った女は例にもれず、泣き叫びながら逃げて行った。
その都度捕まえて記憶を消し、屋敷から望み通り出て行かせるのが日常で。
せめて必要最低限の場所だけはと頼んでいたのだが、
そうして屋敷に残ったのは、感覚の鈍い年老いた男達だけで、
若い男達は娘と共に暇を貰って辞めていく。大半は逃げる。
煩い人間の一人や二人居なくなっても、
別にいいかと思いながらも少し気になった……が、解決策は無い。
(俺は元々龍だ。人と共存しようと決めたからこそ、ここにいる)
それは、亡き同郷で暮らしていた親友の遺志を継ぐつもりでやっていたが。
(俺にはあいつのように、愛想よくは振る舞えないな)
野生育ちの俺は、人の常識は未だに理解できない点も多いし、戸惑う事も多い。
それでも人として今、この国で暮らして陰で努力している。
所詮相容れぬ存在なのだろうか。俺も人の居る所は騒がしくて好まないし。
(やはり、この俺が人間と共存していくのは無理があるのだろうか……?)
――そろそろ、ここでの生活も潮時なのかもしれん。
己の身の振り方を再び考え始めた折、俺はユリアと出会った。
※ ※ ※ ※
――……思い出すのは一ヶ月前のあの事件。
ローザンレイツ国内で、若い年頃の娘が相次いで姿を消すという、
「連続少女失踪事件」が発生し、この事態を重く見たこの国の王は、
直属の騎士団に命じて、この事件の解決を目指す事になった。
というのも、王族の関係者である縁戚の娘も、被害者の1人になってしまったからだった。
『……最初の娘が不明になって既に2日が経過している。早く見つけないとまずいな』
俺は所属する部下達を引き連れて、その捜索に当たっていた。
人間の命は78時間が限界といわれている。
つまりそれを過ぎれば、生存確率はかなり低くなると言えるだろう。
僅かな目撃者と手がかりを糸を手繰るように探り、その捜索の途中で、
俺は部下達の目を盗みつつ風の中から情報を読み取る。
人間の行う人海戦術は時間がかかり過ぎるからだ。
だから風の中に潜んでいる精霊や緑風龍の子供達から、話を聞く事にした。
『人間の女の子? なら、あっちの小屋でいっぱい見かけたよ』
『いたよ~』
『泣いていたよ~』
『……案内を頼めるか?』
アジトは龍の子供達の案内で、思っていたよりも直ぐに見つかった。
森に作られた簡素な石造りの民家、木々や木の葉で存在を隠されてはいるものの、
近づけばその全体像は把握できた。
(見張りらしき男が2名、裏手に1名、
窓から中にも人影があるのを見るに、最低でも5人以上は居るな)
そして全員武器を手に武装しているのを見るに、どうやら当たりだろう。
こんな人里離れた所で武器を構えているような場所が、怪しくない訳がない。
どうやら男達は、今は使われていない古い民家をアジトとして使っているようだ。
(確かにここならば、人の目を盗んで事が運べるな……)
鉄格子のある部屋を囲んでいる事から、組織ぐるみの人攫いらしい。
『……お前達は後ろから静かに回り込め、二手に分かれよう。油断するなよ。』
行動は迅速にしないと娘達に被害が及ぶ、
動転して敵味方問わずに切りつける者、娘を盾にして逃げようとする者もいるだろう。
人質を傷つけられないうちに解決しなければいけない。
手分けをして、俺は事件の犯人グループを抑える事にした。
娘達が連れ去られてから既に数日が経過しており、中には衰弱の激しい者も居るはずだ。
これ以上時間が経てば、娘達の体力が持たなくなる可能性が高い。
『一人残らず逃がすな、歯向かえば容赦しなくていい。
だが2、3人は証人に生かしておけ』
力の強い者でなければ、俺が倒される事など無い。
切られた傷は直ぐに塞がり、流れた血も直ぐに止まるからだ。
相手に気取られぬうちに一斉にアジトに居る男達に切りかかる。
この場合、逃げられないように相手の足を狙うのが一番だが、
抵抗が激しくもなれば、そうそう足に切りつけるのは難しくなってくる。
『なっ、なんだてめえら!?』
『やべえ! おい場所が割れたぞ逃げろ!!』
刃向かってくる者、逃げ惑う者と様々だ。
剣と剣がぶつかり合う音が小さな部屋の中で響き、
そこかしこで男の怒号や娘達の悲鳴が上がる。
ご丁寧な事に、地下室まであつらえていたようだな。
俺は次々にねじ伏せながら、泣いて一塊になっている娘達に、
「身を低くしていろ!」
と指示を出す。そのまま振り向きざまに、
背後から切りつけて来ようとした男の肩に、深々と剣を突き刺した。
部下達と共に小競り合いの末、娘の傍に居た犯人達の戦力をそぎ捕縛し、
閉じ込められていた娘達も無事に保護する事に成功する。
下手に抵抗しなかったお陰で、幸いにも娘達には外傷は見られなかった。
ただ、青ざめた顔のまま泣き叫んで、部下達にすがり付いて手が付けられない有様だった。
盗賊よりも俺の存在の方が怖がらせる気がしたので、娘達の対応を部下に任せ、
俺はアジトから出て辺りを見回す。思ったよりも早く終わりそうだ。
『後は残党が他にも居ないか、周辺の捜索を……』
これで全て終わるかと思ったが……気付くとリファが傍にいない事に気づく。
『……リファ? 何処へ行った?』
リファは俺と同じように、人間に乱獲された事で絶滅に追いやられた獣だ。
その為に人嫌いが激しくてこの俺でしか懐かないから、
誰かについて行ったという事は無いと思うが……。
傷だらけで冒険者達に倒されそうになった所を俺が保護して以来、
リファは俺を主人と認め、何時も傍に付き添い従っていた。
そのリファが、俺に黙って勝手に動くのは初めての事だった。
『クウン~……』
『リファ? 今までどこへ行っていた?』
しばらくして、リファは草木を掻き分けるようにして戻ってきた。
気を失っている一人の娘をその背に乗せて。
『――っ、どうしたリファ、その娘は何処で見つけた?』
リファはつい先程まで歩いてきた道を振り返り、
この先で見つけたのだと報告してきた。
ハチミツ色の髪をした若い娘、うつぶせてあるために顔は見られないが肌は白く。
さらわれた娘の中でも仕立ての良い服を見るに、かなり身なりの良い娘のようだ。
何処かの貴族の令嬢か、資産家の商人の娘だろうか?
『(主、怪我をしています。どうか早めの治癒を)』
『怪我を……? 確かに血の匂いがするな……分かった見せてみろ。
他に娘は居なかったんだな? この娘だけか、傍に犯人は?』
『(はい、居ませんでした。どさくさに紛れて逃げ出したのかもしれません)』
その時ふと思った。
なぜ自分はこの娘の存在に”気づけなかった”のだろうかと。
嗅覚は俺もリファとそう大差ない能力があるのに。
人間の匂いを嗅ぎ分けられないなど、これまで一度たりともなかった。
俺には何も感じなかった。それが少し引っかかる。
『息は……まだあるな。だが、顔色がかなり悪い』
娘の頭から血が出ている。先ほどの騒動で逃げ出そうとして切りつけられたのか?
(この娘の血の匂いすら、連れてこられるまで俺には分からなかった)
それはそうとあの人間嫌いのリファが、
わざわざ自分の背中に乗せて連れて来るなんて、珍しい事もあるものだ。
何時もならば、人に触れられるのすら毛嫌いする程なのに。
俺の命令がなかったら、人間を助けるなどやりたがらなかったのだから。
身を低くしたリファの横にしゃがみ込み、
娘を一度地面に降ろして顔を上向かせ、そっと口付けた。
……俺は高い魔力を持ち、以前はあらゆる属性の魔法を扱えたが、
ある時から闇属性以外の魔法と、治癒魔法の一切が使えなくなった。
だが、その代わり俺の体の全てが治癒の効果がある。
龍族の血肉は高い効果をもたらす霊薬の材料にもなるからだ。
直接口付ける事で気を流し込み、同調させる事で体の回復を早めた。
『うわあああっ!? 団長、何してるんですか!?』
直後、強い力で部下の一人に引き離された。顔が真っ赤だ。
『……何をしているとは何だ? 見ていて分からないのか? 人命救助だ』
俺は傷を治してやっているだろう。そう伝えてやった。
『じ、じじじ人命救助って……』
『ふむ、もう一回した方がいいか?』
『うわあああっ! だっ、駄目ですって団長!!』
部下に頭をがしりとつかまれて、顔を近づけるのを制止される。
俺の素性は限られた者達しか知らないが、他の者には特殊体質だとは伝えてある。
その為、圧倒的な力を見せ付けて団長と言うこの地位に就いたのだ。
自分よりも、弱い者の部下になどなりたくないからな。
『相手は女の子ですよ?! どう見たって嫁入り前のお嬢さんじゃないですか!
しかも、本人が気絶している間に勝手に口付けするなんて!?
いくら気に入ったとしても、そ、そう言うのはきちんと段階を踏んでからです!!
あと、女の子相手に、舐めて治そうなんて思っちゃ駄目ですから!』
意気込んで言われたが……そういうものなのか? 分からん。
しかし、今助けないと死ぬと思うがな、この娘は。
(……まあいい、今のでとりあえず出血は止まっただろうから)
さて、何処かに運んで寝かせねばならないな……どうするか?
寄宿舎に救護室があるが、あそこでは始終誰かに見ていて貰う必要がある。
悩みに悩んで、結局これしか選択肢が無い事に気づいた。
『リ――……』
リファを呼ぼうと後ろを振り返ったら、
いつの間にか、リファと部下の間に異様な空気が流れているではないか、何事だ。
自分達を引きはがした部下の男……名前は何だったか?
どうも俺は長く付き合わないと、人間の顔を見分けるのが苦手のようで、
まして興味さえなければ、なかなか部下であろうと名前も匂いも覚えるのには難儀していた。
が、今はそれどころじゃないな。
その部下の男は俺から娘を引き受けようとしたらしいが、
それを見たリファがすごい剣幕で威嚇を始めたようだった。
『グルルルル……ガウッ!! ガウガウ!!』
『うわああっ?!』
部下の男が喚かれ飛びのいている間に、リファが娘の間に立ちはだかる。
『…………』
『団長! リファをどうにかして下さい、彼女を保護できません!』
『……リファは、お前から娘を守ろうとしているんだろう』
『そんなっ!? 俺悪くないのに?』
リファのけたたましく吠える声に、
仕事を終えた部下達が何事だと、わらわら集まって取り囲む。
その男達の中心に居るのは、あの怪我をした娘だ。
『ガウ! ガウガウ!!』
するとリファは、その大きな体躯で上に覆いかぶさって、
娘の姿を周囲の好奇な目から隠そうとする。近寄るな、触るなとしきりに吠えていた。
こんな事は今まで一度たりとてなかったリファの様子に、俺はあっけにとられた。
まさか娘のはちみつ色の髪の色が、自分の好物だと勘違いして、
獲物を渡すまいとしているのだろうかと思ったが、それも違うようだ。
なぜかは分からないが、リファが娘を部下から必死に守ろうとしている事は分かった。
『(主、屋敷に連れて行かせて下さい。この者達には任せたくありません)』
そう言ってリファは娘の様子を伺いながら、彼女の頬を何度も舐めている。
どうやら体温が下がらないように、娘の体を温めようとしているのか。
先程から、ぴったりとくっ付いて離れないな……。
(あのリファが、これ程に人間に世話を焼きたがるのも珍しいものだ。
気に入った匂いでもするのだろうか? 俺には分からんが)
俺の縄張りに、人間の娘を連れて行くのは気が進まないが……仕方がない。
ふと……一度、気を失ったままの娘の頬を撫でる。
「……?」
なぜ、そうしようとしたのかは俺にも分からない。
けれど、何か……そう”何か”がこの娘を見て、引っかかるものを感じる。
まるで、そうまるで、俺はこの娘とどこかで会っているような……?
(ばかな、初対面の筈だ)
人間の娘に知り合いなど居ない。
『――……リファ、その娘を俺の屋敷に連れて行け。丁重にな。
あとで医者をそちらに向かわせる』
『キャン!』
直ぐに命令を受けたリファは、娘を再び背に乗せて風を切りながら姿を消した。
リファは風の属性を持っている。こういう時に移動する時は便利だな。
『ちょ、既成事実、お持ち帰り? いや! 寝こみを襲うのは不味いですよ!!
もしや一目惚れでもしたんですか!? そうなんですか団長!』
『違う、誰が手を出すか、それとも何か? 汗臭い寄宿舎にでも娘を保護しろと?
それこそあの娘にとっては不味いだろう。騎士とはいっても、所詮は雄だからな。
年頃のあの娘を見て発情でもされたら手に負えない』
『雄って……団長~』
番を大事にする龍族にとって、人間の雄の節操のなさは未だに理解できない。
相手をとっかえひっかえして付き合うなど、俺にはとんでもない行為でしかなかった。
個体では弱い種族で、それだけ種を残す本能が強く出ているのかもしれないが、
若い娘がいるだけで目の色を変える部下達を、これまでたくさん見てきたからな。
この俺が責任者として引率している所で、そんな真似をさせる訳にはいかない。
俺は”人間の娘”なんて興味はないから、少なくともその面では安全だろう。
『とにかくだ。他の保護した娘は順番に身元が分かるように調書を取れ。
怪我をしている者は手当てを、本日中に帰れる者は、直ぐに親元に連絡して帰せ。
数人はここに残って現状維持と検分を任せる。何かあれば角笛を吹いて知らせろ』
民家で保護した娘達は衰弱しているものの、先程の娘よりは大事ないようだ。
剣を片手に、俺はざっと指示を出すと再び残党の捜索に当たる。
すると、遠くで反対方向へと逃げる足音を聞きつけた。
(交代に来た仲間が気付いて、逃げたようだな)
どんなに上手く逃げても、龍の素早さには敵わない。そして俺には嗅覚も強い。
獲物を狩る時の感覚で、木々をかき分けて逃げ惑う犯人の後ろ姿を追う。
今回の仕事は比較的簡単に済み、犯人達にそれ程強い人間は居ないようだ。
相手が罠や毒などで仕掛けない限りは、楽に倒せるだろう。
(問題は、手加減の加減が未だに分からない所か)
隠れていた残党も、次々に闇魔法で影を地面に縛り付ける事で身動きを封じ、
昏倒させてから縛り上げ、次々に部下に任せて連行させた。
(やはり、こいつらは匂いをたどれたな……。
では、なぜあの娘は匂いがしなかったのだろう?)
存在を隠すような隠密系の魔法は、使われた形跡もなかったというのに……。
(はちみつ色の髪、柔らかな肌だった)
――あの娘の名は、何というのだろう?
「……っ、何を馬鹿な。なぜそんな事を気にする」
触れた手を見つめ、あの娘を思い出すと振り切るように歩き出した。
※ ※ ※ ※
事態の収束を確認すると王都へ戻り、解決したと報告を伝令で伝えた後、
後の事後処理を部下に任せると、俺は屋敷へ戻る。
屋敷にある一つの客室……使用人と俺の部屋以外では唯一綺麗な場所だ。
元々ライオルディの持ち家だった事もあり、使用人達はあいつが来た時の為にと、
最低限整えてくれた場所。だが、今までライオルディが泊まった事はない。
だから、この屋敷に若い娘の来客など珍しい事で、俺も使用人も落ち着かないようだ。
その部屋にあるベッドに寝かされた娘は、顔色がまだ悪かった。
傍には始終付き添っていただろうリファの姿がある。
『……リファ、もしかしてずっと付いていたのか?』
『(……はい)』
尻尾がぱたぱたと揺れて……まるでその辺で人間に買われている犬という生き物のようだ。
なぜかリファは、見つけた時からこの娘を気に入っているな。
ベッドの上で寝かされた娘の体温が下がらぬように、その大きな体で包んでいた。
……さて、怪我は一応治してやったが、疲労から来る熱が出ているようだ。
取りあえず、体に付いた泥と血を落としてやらなくては。
人間の娘はとても清潔好きだと言うからな
(……やはり俺がやらなくては駄目か)
そうだ。この屋敷には女の使用人が居ないじゃないか。
その上、ここには女用の着替えが一つも無いんだが。
『……仕方がない、不本意だが俺の物を貸してやるか』
自分の物に人間の匂いが付くのは嫌だが……諦める。
(俺の使い魔が拾った以上は、俺にも責任がある)
人間の男よりも、この俺が世話をしてやる方が安全だろう。
そう決めて一度自室へ行き、紺色のシャツを手に取り、部屋に戻ると、
ささっと眠ったままの娘を清めて着替えさせてやる。
「……この俺が、まさか人間の世話までするようになるとはな」
リファはずっと娘に付き添っているつもりのようだ。
水を張った桶を運んできた使用人の男にも威嚇して、
彼女の傍に、人間の男が近づかないようにしている。
『リファ、一体何の気まぐれだ? この娘が気になるのか?』
『クウン……キュウ~……』
時折ベッドの上に上がっては顔色を見つめ、尻尾でぱたぱたと寝かしつけ……。
頬ずりしながら回復を待っているように見える。娘を見つめる目はなんだか優しげだ。
『……リファ、間違えるな……その娘はお前の子供ではないからな』
『……』
『お前のその行動は……まるで子を見守る母親のようだ』
一体何がこの獣をそうさせるのか、そう考えて娘に再び近づく。
リファは俺が娘に触れる事には何も言って来ないようだ。
ベッドに体を乗り上げると、みしみしと音を立てた。
俺の体で娘を潰さないようにしないとな。
顔を近づけて匂いを嗅ぐと今度は嗅ぎ取れた。
なぜだろう、その辺の人間の娘とは違う何かを感じた。水と風の匂いがする。
(そうか、リファは同じ属性を娘が持つから仲間かと思ったのかもな……)
……そう思っていると、ふと今度は妙な感覚がする。
『音色……?』
人の耳には聞こえないがささやかな……。
何かの音色が彼女の体内から響いている。
しかし、それは一瞬のうちに聞こえなくなった。俺は思わず手をかざす。
『……この娘は、一体何者だ?』
娘の流れる血に訴えて、娘に眠る属性を探し出す。
しかしそれは音を立てて弾かれ、何も感じられなくなった。
『……っ』
こんな娘に、この俺の力を弾かれるとは……。
強い術を使ったなら、その反動は強かっただろう。
あの時、部下に回復を任せなかった判断は正しかったようだ。
「待て……まさか、この娘には属性というものが無いのか?」
先程、感じたはずの水と風の気配も消えている。完全にだ。
そんなはずは無い。生まれたての赤子でさえも属性は持っているはずなのに。
(やはり属性すらない、魔力すらないのか?)
無いという事は、知識だけで言うのならばこの娘は生きていない事になる。
それなのに……娘は命の躍動がある。これはどういう事か。
リファはこの娘に惹かれる何かがあるらしい。
という事は、普通の人間ではないのかもしれない。
そもそもリファが人間を慕うのが珍しい位だ。
だからこそ、リファは惹かれているのか?
『……一体……』
再度、意識を集中してもそれ以上の異変は起きない。
気の乱れは多少あるが、それは熱を持っているせいだろう。
とりあえずは熱を取っておいてやろうと、俺は娘の額に自分の額をくっ付ける。
意識を集中すると、俺の体は見る見るうちに冷えていった。
――その瞬間。娘は目を覚ました。
虚ろだった瞳が、光を取り戻していく……。
娘と目が合って、どくりと俺の中の何かが反応した。
まるで、この娘が目覚めるのを長い間待ち焦がれていたような、そんな感覚。
(――すみれ色の瞳……だと?)
それは人の中では珍しい紫色の瞳、自分よりは薄いが確かに紫だ。
いや、そんな筈は無い。もうこの瞳をしているものは「俺以外」はもう居ない筈。
この娘は人間で、龍の眷属ではない事は確かだ……それなのに……。
(ああ……俺のせいか)
そうだ先ほど……俺が怪我を治す為に直接口付けをした事で、
龍としてマーキングした形になっていた事を思い出した。
マーキングしたものは何であれ、龍の所有の証となるからな。
獲物としてであろうと、伴侶としてであろうと、配下に下る者であろうとも……。
不本意でそうなったがマーキングした以上、この娘は俺のものになった。
『名前は……あの……』
目を覚ました娘に調書を取ろうとしたら、
彼女はユリアという名前以外は思い出せないらしい。
そうしてユリアは俺の眷属に近しい存在になった。
今後どうなるにせよ、変わる事が無いだろう。
娘……ユリアが俺の正体に気づき、どんなに俺を怖がって逃げたとしても……。
※ ※ ※ ※
「――お帰りなさいませ、ご主人様」
「……ああ」
「お荷物、お部屋に運びますね」
そのユリアが、俺の屋敷で住み込みで働きたいと言い出し、
息せき切って、この俺を笑顔で迎えに来るとは予想だにしない展開だった……。
「今日はですね。使っていないお部屋を探検したんですよ」
「そう……か」
(怖がるどころか懐かれた。こんな娘は初めてだ)
ユリアは俺に笑いかける。くるくる、ころころとその表情はめまぐるしく動く。
その日の他愛無い会話に慰められたのは、いつ以来だろう。
これ程に誰かと言葉を交わしたのはいつ以来だろう。
俺は家族を失って以来、こんなに誰かと話したのは初めての気がする。
もっとも話すのは、殆どユリアの方だったが。
(屋敷を出ようとしたのは、俺から逃げようとしたからではなく、ただの散歩だったのか)
そう思うと、なぜか娘の頭をなでたくなる。誰だって懐かれれば悪い気などしない。
「アデル様?」
「ん」
楽しそうなユリアの姿を見て、なんだか俺もつられて温かい気持ちになる。
故郷に居た時の、懐かしい気持ちも思い出せた。
だからリファが、この娘を保護者のように見てしまう気持ちが、多少、分かった気がした。