51・アデルバードのユリア観察日記
〇月△日 晴れ。
最近……ユリアの様子がおかしい気がする。
俺と目線を合わせると、顔がほんのりと赤くなるんだ。
熱を出したのかと思い、心配して額同士をくっつけて熱を測ったら、
物凄く動揺されて拒まれてしまった。
「だっ、大丈夫ですからっ!」
「しかし……また具合が悪くなったんじゃないのか?
ああ、そうだ。俺の部屋の暖炉がまだ点いているから暖かいだろう。
俺の部屋で眠るといい。ベッドも大きいし寝心地がいいから」
そう言ってユリアを俺の部屋で寝かしつけようとしたんだ。
節約だと言って、暖炉の火を点けないで着替えているせいだろう。
今度からはユリアの部屋もきちんと暖炉を使わせてやらないと。
これからますます冷えてくるからな。
「家計が心配だと言うのならば、心配ない。
俺が今まで以上に働いて、稼いで来ればいい話だ」
いつも自分を何かと気遣ってくれるユリアに、
これ以上、あまり苦労を掛けさせるわけにはいかないな。
誰かの護衛として副業するもよし、狩って来た物を売る事も出来る。
何なら、俺が龍体で燃料となる木材を運ぶ事だって出来るだろう。
「きゃあっ! 朝から素敵です!」
ユーディ達が何やらきゃあきゃあ煩かったが、今はユリアの体が心配だった。
人間は肌寒くなって来ると、具合が悪くなる事があるらしい。
これまでの事を考えれば、用心しておくに限るだろう。
急いで彼女の膝裏と肩に腕を回し、さっと抱き上げる。
早く寝かしつけてやらなくては……ここでは冷えてしまう。
「え……? アデル様っ!?」
「今日は休んでいるといい」
大丈夫だ。俺は人間の看病の仕方も勉強した。
以前ユリアが倒れた時の事を教訓として、いろいろな対策を考えて行動してきたのだ。
人間の世界は、情報を書物として残しているから便利だな、こういう時はとても助かる。
「いえっ! あの、熱があるわけじゃなくってですね?
あの? え? え? ……だっ、誰か~っ!?」
ユリアは先程から腕の中で暴れているのだが、俺は気にしない。
……可哀そうに、きっと熱で苦しくてもがいているのだろう。
直ぐに気づいてやれなかったこの俺を、どうか許して欲しい。
「きゃあああっ! ご主人様、朝から何て情熱的な!
これぞロマンスですね! お幸せにユリアさん!!」
「婚礼用のドレスは、私達に是非縫わせて下さいね~っ!!」
「「既成事実ばんざいっ!!」」
「ち、違いますから! ユーディ、イーア、 助けて下さい~っ!!」
急いでユリアを抱き上げたまま、階段を登り、二階へと上がる。
俺の部屋は東南の左端の大部屋、日差しの良く当たる部屋だ。
陽の光と庭の草木の匂いが、一番強く感じ取れる場所でもある。
自室の部屋のドアを足で蹴ると、ドアがぶち抜けてしまった。
む……どうやら力の加減を間違えてしまったらしい。
俺はその壊れたドアの残骸を無言で眺めた。
「……」
「あっ!? アデル様……ドアが……」
「大丈夫だ。問題ない」
「いえ! 問題ありますっ!!」
……ああ、分かっている。後で使用人達に仕事を増やすなと怒られるな。
まあ仕方ない。説教は覚悟しておこう……まずはユリアが優先だ。
両手が塞がっていたので一度ユリアを肩に担ぎ、
ベッドの上掛けを捲ってから、ユリアを寝かしつける。
……そうだ。服を着替えさせて体を拭いてやらなければ。
俺はいそいそとユリアの靴を脱がせてから、
胸元の釦に手を掛けると、それまで呆然と自分を見つめていたユリアが、
慌ててその上から俺の手を掴んできて止められた。
「ま――っ!? 待ってください!! タイム、タイムです!!」
「たいむ? ……なんだそれは? だが、このままでは寝苦しいだろう?
ああそうだ。着替えるのではなく、全部脱いで眠る方がいいのか?
確かに何も身に着けてない方が、体を締め付けなくていいだろうな」
暖炉を点けて置いてやれば、この部屋も寒くは無いだろうし。
俺はユリアに裸になって寝る事を提案した。その方が楽だろうと。
するとどうだろう? ユリアはますます顔を赤くして首を振ってくる。
「いいいいえ! このままで大丈夫です!!」
ざざっと俺から後ずさって離れ、自身の両肩を抱いて震えていた。
……なぜだ? 俺は今、とても素晴らしい提案を言ったつもりだが?
裸で眠るのは楽でいいぞ? 人間の服はどうも締め付けるのでかなわん。
俺がここで暮らす前は、ずっとそうしていたからな?
人として暮らし始めてから、『裸族にだけはなるな』と、
ライオルディやラミルスに肩を掴まれて、
真っ先に何度も言われたのが疑問ではあるが、
俺は開放感があって、いいと思っているのだがな?
そういえば、ラミルスが『退化してどうするんだよっ!?』と言っていたが。
……悪い事なのだろうか? 俺は良い事だと思ったのだが。
「あの……ほ、本当に、このままで大丈夫ですから……っ」
「そうか? 遠慮しなくてもいいぞ?
ユリアは俺の大事な家族だ。だから俺のベッドも遠慮なく使ってくれていい」
「……アリガトウゴザイマス」
……最近、ユリアは俺と目線も合わせてくれなくなった気がする。
顔を赤らめて、そっぽを向いてしまうのだ。俺はなぜかそれが気に食わない。
ユリアの視界に入るのは、この俺だけでいいと思っているのに、
なぜ最近は、俺を余り見てくれなくなったのだろうか? 今、とても寂しい……。
ユリアの興味のある物を全て排除すれば、俺をまた見てくれるだろうか?
そんな事まで考えてしまう自分がいる。
(……いや、そうすればユリアが泣くかもしれないな、駄目か)
だからユリアの顎を掴んで、俺の方へと無理やり向かせた。
「俺を拒むな、俺の方を……俺だけを見ろ、ユリア」
「~~っ!?」
そう素直に伝えてみたら、ますますユリアが顔を赤くして震えていた。
ああ、やはり寒いのかと思い、俺は部屋にある暖炉に向けて炎を放った。
強い火力で小さかった炎が大きくなる。
「……よし、今度は火事にはならないな。すぐに暖かくなるからなユリア」
以前、厨房を火の海にして、使用人にとても怒られたので俺も学習した。
屋敷の中では、火の加減に注意するという事を……。
そして、その他の事を俺は考える。
(さて、他にしてやれる事は……ああ、思い出した。
先日、ユーディが俺にその手の本を貸してくれたな)
その中で男が寒がる娘に温もりを分けてやる方法が書いてあった。
よし、では俺もそれに習い、実践してみる事にしようか。
俺は、いそいそと靴を脱ぎ、ベッドの上に乗り上げた。
「え……? あの……アデル様……?」
「おいで……ユリア」
ベッドの端で丸くなっている彼女を抱かかえ、横になったら、
ユリアは腕の中で「うきゃああっ!」とおかしな声を上げていた。
(なぜこんなに騒ぐのだろう……もしかするとユリアにとって、
この人型は余り気に入らない容姿なのかもしれないな)
人は顔の醜悪で物事を決めるとか何とか聞いた事があるからな。
かといって、この顔を変える事は出来ない……どうしたものか。
ちなみに龍の姿では今まで通りだ。
いや、むしろ龍の姿でいる方が俺によくじゃれている気がする。
抱きついても来るし、寄り添って寛いだりもする。
頭もなでて来る。嫌われているわけではないと思うのだが……。
(ユリアはあちらの姿の方が好みなのだろうか?
どうも龍の姿と、人型の姿では反応が違う気がするんだが?)
ティアルやリファが同じ事をやっても怒らないのに、
俺が頬ずりをしたり、頬を舐めたり、頬にキスしたり、
匂いを嗅いだりすると怒るんだ。これは差別と言うものではないのか?
(何より俺はユリアの主人だ。彼女に何をしても良いと言う絶対的な権利がある)
そんな事を考えていると、ついてきたリファがベッドに飛び乗り、
俺とユリアの間に割り込んできた。
「……リファ」
「(主、この子は私にお任せを、主はどうぞお出かけ下さい)」
リファはそう言って、俺とユリアの間に割り込むように入り込み、
ユリアを庇うかのように、自身の大きな体で覆い隠してしまった。
前から思っていたが、主人から獲物を奪うとは何事だ。リファ。
事と次第によっては俺は本気で怒るぞ?
……いや、それより言っていいのだろうか?
「リファ……さっきからユリアが、下でもがいているぞ?」
「~……っ!! ん~っ!!」
「!?」
リファの下で、じたばたと必死にもがいているユリアが居た。
俺の言葉で、リファが慌てて少し体を浮かせると、
下からユリアの上半身が這い出てきて、ぜーぜーと呼吸を繰り返していた。
「……はあ……アデル様、わ、私は大丈夫ですので、
どうぞ、お気になさらずにお仕事に励んで下さいませ。
遅刻したら大変ですし、部下の皆さんが待っていますよ?」
ユリアは俺に仕事をしてくれと言うので、仕方なく出勤するが……。
心配だ。ユリアの様子が本当におかしいんだ。
せめて熱だけは取ってやろうと、額に口付けをしただけで、
あれ程に叫ばれるとは思わなかった。
(ティアルは何時も、おはようのキスをユリアの頬にしているのに、
なぜ俺は額にするのも駄目なんだ?)
生き物は優先順位をつけるものだ。
遊んでくれるもの、ご飯をくれるもの、身づくろいをしてくれるもの……。
それらを考えてみて、俺は余りユリアに接していないせいなのかと思った。
確かにリファやティアルの方が、彼女の傍に居るし遊んでいる。
(……つまり、俺はユリアの中ではリファ達よりも格下と言う事なのだろうか?)
そう思うと胸が痛い。
以前は、こんな事を気にしなかったのに……。
胸がちりちりとする。そしてその痛みは段々強くなっている気がした。
出会ったばかりの頃から、触れても泣き叫び、怯えなかった娘なのに、
最近では……避けられている気がして、胸がざわついて痛みを感じる。
怪我すらしていないのに、もしかしたらこれは病気の兆候なのだろうか?
俺は早速、出勤して来たラミルスに相談に行く事にした。
あいつは俺よりも人間に詳しい。きっと理由を知っているだろう。
何だかんだで奴には大変世話になっているな。いつか礼をしなくては。
※ ※ ※ ※
それから俺は、急いで街中を駆けて騎士団本部へとやって来た。
「ラミルス、聞いてくれ。相談があ――」
「――取り合えず。ユリアに直ぐに土下座して来い!」
「……まだ、俺は何も言っていないんだが?」
凄いな、ラミルスには読心術と言う能力があったのか。
俺は思わず感心してしまった。都会育ちの龍にはそんな力が備わるのか?
その様な知識を俺は知らない。もしかすれば、都会に暮らした事で、
突然変異を起こしたのかも知れないな。
そんな事を俺が思っていると……。
「流石にこう何度も何度も来られれば、俺だって学習するわ!
どうせそのパターンだと、お前の相談はユリアがらみだろう?」
「ああ」
「んで、こんなに頻繁に何かやらかすのは、お前が朴念仁の俺様だからだよ。
まず俺の所に来る前に、胸に手を添えてよく考えろと言っただろうが!」
「ああ、当ててみたぞ? ――ユリアの胸で」
ユリアの胸に手を当てて、目を閉じ、俺は何が原因なのかよく考えたとも。
「片手では分からなかったので、両手でもやってみたが分からなかった」
俺がそう言った瞬間に、ラミルスは地面の中に頭をめり込ませていた。
なぜか、傍で聞き耳を立てていた同胞達も同じ事をしている。
「……ラミルス? どうした?」
「~~っ!!」
……前から思っていたが、これは新しい人間界での遊びだろうか?
流行と言うのは理解に苦しむ、くだらない事まで流行るからな。
「ラミルス、俺は今とても真面目に相談しているのだ。
早く俺の話を聞いてくれないか? とても焦っているんだ」
彼女に触れてから、ユリアが顔を余計に真っ赤にして口を利いてくれなくなった。
リファにもなぜか分からないが、凄い勢いで部屋を追い出されたんだ。
「俺の部屋なのに、主人であるこの俺が追い出されたんだぞ?
これは怒って抗議するべきじゃないのか? それとも違うのか?」
俺はそう言って、腰に控えている剣の鞘を使い、
つんつんと、地面に頭を突っ込んでいるラミルスの頭を突く。
すると覚醒したラミルスが、「全力で謝って来い!!」と叫んでいた。
そして、ラミルス達を始めとする同胞達がそろって号泣するのを見た。
……どうやら俺はまた何か間違えたらしい。これは土下座コースと言う奴か?
「さっ、触ったのかよ!? ユリアの胸の方を!?
おま、お前……っ、とんでもない奴だとは前々から思っていたけれど、
まさか其処までやらかすとは……っ!!」
「……胸に手を当てろと言ったのは、お前じゃないか」
「ユリアのじゃねえよ!! お前の胸だ!!」
そうなのか……それをもっと早く言って欲しかった。
お陰で俺は、ユリアに口を利いて貰えなくなったではないか。
「ユリアに”ラミルスが指示して来たから”だと、説明するだけではいけなかったのか……」
「――うおおおいっ! ちょっと待て!?
お前、今、さらっと俺に止めをさすような事をしてきたのか!?
それって俺が全面的にお前をけしかけた事に繋がるじゃねえかよ!!
うああああっ! ユリアに絶対に誤解された! 嫌われた~っ!!」
ラミルスは頭を抱えながら、ごろごろと地面を転がって唸り声を上げている。
誤解も何も、お前が俺にそう言ったからではないか。
俺は素直にお前の言葉に従い、実行しただけなのだが?
では、改めて自分の胸に手を添えて考える……。
(……うむ、何も分からん。なぜだ?)
俺が真面目に考えていると、ラミルスは顔を真っ赤にして起き上がっていた。
なぜか俺の前で手をワキワキとして、
「俺なんか、女の子と手を繋いだ事すら無いのに、胸、女の子の胸を」
……と、何やらぶつぶつ言っている。
そんなに手を繋ぎたいのならば、ローディナ達にでもやればいいだろう?
冒険の最中なら、さり気なく出来る可能性があると指南書には書いてあったぞ?
「……つ、つかぬ事を聞くが感触は……?」
「……何がだ?」
「ユリアの……だな、その……」
何をもじもじしているんだ? 気色悪いぞ?
しかし何だ? ユリアの……かんしょく……?
ああ、ユリアの今日の差し入れの菓子は何だと聞いて来たのか。
そんなもの、具合が悪かったのだから無理に決まってるだろう。
お前にやる物は何も無いからな。
「おやつの間食の方じゃねえよ!!」
「そうなのか?」
「俺が聞いたのは、ユリアの胸の感触はどうだったという意味で……あ、いや」
ほう……そんな事を聞いてどうするんだ?
まさかユリアに触れようとか考えているのか?
だとしたら……この場で葬るが?
(彼女は俺の物だ。俺の許可なく勝手に他の龍が触れるのは許さん)
俺は持っていた剣を鞘から引き抜いた。
手は抜かない、今使える最強最大の攻撃魔法を放つ為に、
身の内の魔力と、大気に混ざる元素をイメージしつつ、練り合わせる。
刀身に魔力が流れ、闇の焔が剣先に現れだすのを確認すると、
ゆらりとそれを振り上げて構えた。
「ユリアには触れさせん。今まで世話になったから――……。
礼として、一思いに一撃で終わらせてやろう、ラミルス。
なに、直ぐに終わる。安心しろ」
「うおおおいっ!? 待て! 冗談だ冗談!!」
奴は首を大きく振ると、大慌てで逃げて行った。
……逃がしたか、逃げ足だけは速い奴だ。
だが、俺が間違った事で、ユリアが怒ったという事は分かったぞ?
「と、とにかくだ! アデルバード!!
お前は人間の女心が分らなさすぎなんだよっ!!
あと、ユリアに対する俺への誤解は、お前が責任持って説明しておくんだぞ?!」
……建物の影に隠れて顔だけ覗かせるラミルスに、
そう捨て台詞のように言われて、人間の娘の女心と言う物を知るべく、
俺は休憩時間に、育児書を再び手に取った。
ラミルスには、この本を『封印しろ』と言われていたが、
俺にはまだまだ無知な点がある為に手放せない。
保護をし、俺が守ると誓った娘なのだ。当然だろう?
龍はその名と血に掛けて誓いを守る。
龍の誓いは絶対だ。違える事等ありえない。
「女心……か……」
もうユリアは、育てる必要が無いとも言われているのだが、
まだまだ人間の娘の生態や習性には分からぬ点が多い。
ユリアの趣味、思考などは特に分からない事ばかりだ。
というのも、ユリアが奇抜な行動ばかりするから、
俺は未だに彼女自身というものを良く分かっていない事が多い。
(先日は騎士の真似事をしていたので、剣の稽古をしたいのかと思えば、
音の出る箱を奏でて遊んでいたな……)
ティアルと踊っていたかと思えば、
ヨガとかなんとかいう、珍妙な体制のまま固まっていることをしていたりもし、
見ていて楽しげにやっているので放任しているが、時々心配する事がある。
ただ腐った豆を嬉しそうに食べていたのを見た時、俺は衝撃を受けた。
よほど、保護される前は酷い食べ物を食べさせられていたのではないかと。
明るく振舞っているのも、辛い経験から記憶を失くしてしまったせいなのではないか。
だとしたら、俺はユリアの心の傷を癒してやらなくては。
(そうか、ユリアが食べ物に異様に執着するのは、その時の生活による反動か……)
そうだな、この際だ。ユリアの好みや動向を知るのも大切だと思う。
※ ※ ※ ※
仕事を終えて家に帰ると、ユリアはすっかり元気ですと言ってくれたのだが、
俺が顔を近づけると、再び頬がほんのり赤らんだ……。
やはり、まだ寝ていた方がいいのではないか?
そうだ……その前に俺は、ユリアに土下座をした方がいいだろう。
取り合えずユリアの機嫌を直して貰おうと、玄関の入り口で謝っておく。
「……先程は突然触れてすまなかったユリア」
「え? あああ、あの、顔を上げて下さいアデル様」
ユリアは慌てていたが、俺は取り返しのつかない事をしたようなのだ。
ラミルスいわく、この俺がユリアにやった行為は、
龍の逆鱗をむしり取るに匹敵する行為らしい。
ならば、ここは俺がこうして頭を下げるのが道理、
許して貰えるのならば何でもしよう。
「はあ……いえ、心配をさせたのは私の……。
その、個人的なもののせいなので、どうぞお気になさらないで下さい。アデル様。
あ……でも……その、体に触るのはちょっと止めて欲しいのですが?」
「どうしてだ? 俺はいつでもユリアに触れていたいのだが?」
そう素直に告げたら、ユリアはまた顔が赤くなっている。
やっぱりまだ熱があるんじゃないのか?
そう思って手を伸ばすが、伸ばした手からユリアは逃げてしまい……。
「とにかく、もういいですからっ!」
……と両手を振って言われてしまった。
「しかし……それでは俺の気が済まない」
「ええと……でも……あ、それじゃあ、明日はお仕事がお休みでしたよね?
なら、明日お願いしたい事があります」
ユリアはそう言って微笑んでいた。
頼みごととは何だろうか……と思いつつ、それで機嫌を直してくれるのならと、
俺は承諾し、ユリアと過ごした今日の記録をここに記しておく事にする。
※ ※ ※ ※
……次の日の午後、屋敷の厨房からふんわりと甘い良い香りがした。
俺の嗅覚はそれを敏感に感じ取る。なぜだろう、鼓動が高鳴った。
だが、俺はプリンの一件以来、
厨房への出入りをコックに禁止されてしまっているから、
覗きたくても、覗きに行く事が出来なかった。
この香りは……俺が出入り禁止にもなった。
あの製菓店の前で嗅いだ匂いによく似ている気がする。
(何を作っているのだろうか……気になるな)
そう思ったが、厨房を覗く勇気は無かった。
しばらくすると俺の居た私室のドアを静かにノックする音がしたので、
すぐに返事をすると、ユリアがアップルタルトという物を焼いて持って来てくれた。
人間とは本当にいろいろな調理法を思いつくものだ。
ユリアは焼きたてのタルトに、ナイフで丁寧に切り分けて木の皿に盛り付ける。
タルトの横に甘みを加えたクリームと、香りのある葉を添えて、
こちらにその皿をそっと差し出してくれた。
「お口に合えば良いのですが……試食、お願いできますか?」
どうやら昨日の謝罪を許す条件がこれらしい。
(た、食べても良いのか? ユリアが折角焼いたものだろう?)
彼女が菓子に使う食材は、自分の給料から出していると聞いた。
と、言う事は……これはユリアの「獲物」である。
主人が部下や使い魔に褒美として買い与えるものとは違うのだ。
そんな俺に対し、ユリアは「どうぞお召し上がり下さい」と言って、
横でお茶をカップに注いでくれた。茶葉はライオルディがくれた物らしい。
「焼き菓子に合うお茶が欲しいので、お勧めをみんなに聞いていたんですが、
そうしたらルディ王子様から、いつも飲んでいるという茶葉の缶を頂いたんですよ」
「ああ……いい、香りだな……」
そう言いながら、俺の意識は目の前の焼き菓子に集中する。
全意識が目の前の菓子に向いていた。
思わず、隠していた尾が出て揺れてしまいそうだった。
いいのだろうか、これでは褒美だ。謝罪にはならないのではないか?
「ふふっ、どうぞお召し上がり下さい」
誘惑には勝てず、結局は差し出されたフォークを手に取り、タルトに刺す。
リンゴは生で食べるものだとばかり思っていたが、
砂糖とスパイスで甘く煮詰めたリンゴも、タルトという部分も、とても美味しかった。
口の中に広がるほど良い酸味に甘さが加わって、香ばしい香りが後から来る。
ああ、うまい……。
まさか屋敷の中で、店で売っている様な菓子が食べられるとは……。
人間は食材を美味く使う方法を良く知っていると思う。
時々ユリアが作ってくれるものは、変わった形や味をしているものが多いが、
不思議にもどれも美味しいと感じられた。
野生で生えていた香りの良い植物は、これまで沢山見た事があったが、
こんな使い道があると知っていたのなら、もっと早く知りたかったものだ。
……最も、知った所でそれを作る事が俺には出来ないのだが。
(俺には料理の才能が壊滅的に無いらしいからな。
厨房を破壊しようとした為に、みんなに泣かれてしまったし……)
夢中で口の中に頬張る。
……至福。
「……お味はいかがでしょうか? リンゴが好きだと仰っていましたので。
おじ様にかまどを手伝って頂いて、試行錯誤で作ってみたんですよ。
焼き加減が分からなくて、少し焦がしてしまいましたが」
「いや、十分だ。焼き加減も綺麗だな」
保護した当初は、何も出来ない娘だとばかり思っていたのだが、
こうして見ると、彼女は何処かで教育を受けていたらしい。
記憶は無いのに手際よく作業していると、コックの方から報告を受けている。
だから今では、安心して厨房の出入りを許せるようになっていた。
「アデル様?」
「ああ……初めて食べたが美味いな。
ライオルディが用意してくれた菓子とも違う。
こんな食べ方があるなんて知らなかった。 ありがとう……ユリア」
自然と顔がほころぶと、ユリアも微笑んでくれた。
こちらで人の暮らしを始めて、色々と慣れない環境で苦労も多いが、
こんな穏やかに暮す時間がある事を、ユリアは俺に教えてくれる。
「お代わりはありますから、沢山召し上がって下さいね?」
「ああ……」
ふと、その時……俺はある事が気になった。
これはユリアの獲物のはずなのに、俺だけがユリアの作った物を食べている。
それに食べている間、ずっと彼女を立たせている事がとても気になったのだ。
その傍らには、リファとティアルがうるうるとした目で見ていた。
「みい……」
「クウン~……」
「……」
自分の手元にある皿に目が行く。
この地に来てから今まで気にならなかった事、何も感じ無かった事……。
けれど、俺はその時なんだか”寂しい”と感じた。
それはこれまで、俺が忘れていた感覚。
「……ユリア」
「はい、お茶のお代わりでしょうか?」
「いや……良ければ君も一緒に食べないか?」
「え……?」
俺は席を立つと、目の前の席の椅子を引いた。
長い間、俺は1人で行動する事も多かった。それが当然だと慣れてしまっていた。
だから、今、この時まで俺は忘れていた感覚があったのだ。
差し出されれば、深く考えずにケーキをホールごと食べたりもしていたが、
俺はその時、ユリアをちゃんと家族として接したいと思った。
「家族……とは、おいしい物は群れで共に分かち合うものだ。
だから、これからは出来るだけ共に食事も、お茶も……一緒にしないか?」
「え……あの、ですが、私はアデル様のメイドで……。
冒険中はともかく、ここで同席するのは流石に……その……」
「メイドである前に、君は俺の大事な家族だ。そうだろう?」
「アデル様……」
「嫌なら……無理にとは言わないが……」
「い、いいえ! 同席させていただきます!」
彼女が同意してくれた事に、内心、ほっと安堵する。
本当はこれを言うのに凄く緊張していた。
ユリアが義務感や恩返しから接しているだけだとすれば、
俺の誘いは、彼女にとって迷惑かもしれないと思えたから、
拒否される可能性の方が高かっただろうし。
(家族とこうして一緒に食事をする喜び……俺はずっと忘れていた)
孤独に過ごす事に慣れたと思っていたのに、
その寂しさは何時だって抱えたままで変わらなかった。
目まぐるしく過ぎて行く日々に、気付かないようにしていただけなのだろう。
「クウン~キュウキュウ」
「みいみい、アデル、ティアルモ、ティアルモ~」
リファとティアルが俺の足に纏わり付いていた。俺はその姿に口元が緩む。
「ああ……ユリア、リファとティアルの分も頼めるか?」
「はい、それでは私は……この予備に温めていたカップを使わせて頂きますね?」
そうしてテーブルには、俺とユリア、リファ、ティアルの分の皿が並べられた。
今までは自分の取り分が減ると考えただろうが……。
そんな事も気にならず、自分だけで食べるよりもいい、そう気付けた。
ユリアも、リファも、ティアルも嬉しそうに俺を見ている。
俺もそんな姿を見て、胸が温かくなり嬉しいと感じた。
「では、お言葉に甘えまして、ご一緒させて頂きますね? いただきます……」
「みい、イタダキマス、ナノ」
「クウン」
「ああ……」
茶を飲むのも忘れて夢中で食べた。
ティアルもリファも嬉しそうに食べている。
ユリアはカップを持ちながら、そんな俺達をにこにこと眺めていた。
こうしてゆっくりと時間を過ごし、甘い物を口に出来るのならば、
俺が人間の世界に来た甲斐もあるだろう。
「ふふ……こういうのも良いですね。アデル様」
「ああ、そうだな」
これが今の……俺の家族の形。
……だが何時かはユリアを、本物の家族の元へと帰さなければならない。
それまでの「仮初の家族」である事を……俺は忘れていない。
(ユリアがこのまま人の悪意に晒されなければ良いが……。
龍である俺にまで、こうして分け隔てなく接してくれる優しい娘だ。
家族の元に戻した時、彼女の家族が温かく迎えてくれたらいいのだがな……)
心の中でユリアの今後を思う。幸せになってほしいと思ってもいた。
家族になろうと言った気持ちは今でも変わらない。
この屋敷では、ユリアを可愛がっている使用人達も沢山居るし、
気の合う同性の同僚や友人も居る。リファも俺も傍で守ってやれるのだ。
危険からは出来るだけ遠ざけられるだろう。
(ただでさえ、あの鏡の宿主に選ばれた事もある。
良からぬ考えの者がこれを知れば、ユリアを攫う者も出て来るだろう。
幸い、リハエルがこの件を教会側に伏せてくれているから、今はまだ平気だが、
万一という事もあるからな……)
聖女などに祀り上げられては、ユリアが可哀想だ。
ユリア自身は普通の娘だというのに。
出来るだけ、俺はその脅威から守ってやりたいと思っている。
けれど、自分はあくまで保護した身、身内が現れて彼女を返せと言われたら、
人間のしきたりに従わなければいけない。分かっている。分かっているはずなのに。
……龍の本能だけで許されるのなら、問答無用でユリアを取り上げるのだが、
そんな事をしたら、ユリアはきっと泣くだろう。それだけは避けたい。
ユリアが泣くと、俺の心臓がいつも痛み出すのだ。
(……龍は、好意を持った雌を大事にする。
どんな結末を迎えても、俺は彼女の幸せを願っているだろう)
ここへ来てから、ずっとユリアは家族を思って泣いていた。
それを俺は誰よりもよく知っているから……。
彼女が家族の元へ帰りたいと望むのならば、
俺はユリアの意思を尊重して、故郷へ帰らせてやるだろう。
それなのに、ユリアがここにずっと住んでくれたらと考えてしまう。
彼女が俺の傍に居るのが当たり前になっていたのに、
それを失ってしまったら……もう、声を傍で聞く事すら出来なくなってしまうんだ。
そうなれば俺は狂ってしまうのではないだろうか?
(――いつかは……ユリアは俺を見なくなる……忘れられる立場になる)
これは俺の我がままだろうか?
またこんな事をラミルスに言ったら、自分勝手な奴だと怒られてしまいそうだ。
ユリアは……俺の正体が龍と知っていても、
排除しようと刃物を向けて来ない。売ろうともしない。
歩み寄り俺を理解し、否定せず、怖がらずに接してくれる優しい娘だ。
だからこそ危険でもあった。その優しさが仇となる事は世の中多くあると。
(ユリア……か)
ユリア……その名はこの国や隣国でも比較的よく使われる名前らしい。
その為、捜索も思ったように上手く進まず、難攻状態。
気が付けば、半年以上の月日が経過している。
彼女の両親は、今頃必死に探しているのだろうか?
(俺はユリアを家族として見ている……が、
ユリアは帰りたいだろうな、生まれ育った場所と家族を恋しがる。
それは種族が違えど変わらぬ感情だ……俺のように……)
今でも、住み慣れた暮らしに戻れるのならば俺も帰りたい。
帰巣本能が、どんな種族にもあるだろう。
俺はユリアが家族の元へ帰る時が来る日を恐れていた。
何時かユリアは俺の元から去る日がやって来る。
そうしたらもう二度と会えず、誰かの為に、この手料理を振舞うのだろう。
彼女が笑顔を向けて、それを受け取り、当たり前のように料理を口にする者が……。
ユリアの幸せが其処にあるのならと、一応頭では理解はしているつもりなのだが、
胸がこんなにもズキズキと痛む。この痛みは本当に何なのだろう?
(俺以外の雄に、笑顔を向けるのを見るのは嫌だ……)
その者は彼女を果たして命がけでも守ってやれる奴なのか?
身の内に宿した得体のしれない鏡を持つ事を知っていても、
変わらずに彼女を労り、傍に居てくれるだろうか?
そんな事を俺は考えて恐れている。
万一の時を考えれば、俺よりも弱い者に譲りたくは無い。
(ユリアを守れる者で無ければ、俺は譲る気は無い……)
そう、誰にも譲りたくない。ユリアは俺の女である。
ユリアが泣くような未来があるのなら、俺はそれを何としてでも壊す。
俺は自分の手のひらを見つめた。
全身に纏わり付く苦しみは、徐々に薄らいでいるように思える。
それと同時に、失った力が戻り始めているのを見ると、
俺が人間への憎しみが和らいで来たせいなのだろうか……?
だが、その代わりに別の痛みが俺を襲った。
――ああ……そうか……これが……。
龍は初めて好意を寄せた雌の幸せを祈る。そしてその心を欲しいと思った。
それが人の世で言う、初恋に似た状況なのだと、
俺は少しずつ自覚し始め、それを持て余していた……。




