閉ざされた言の葉・8
それは、俺がユリアへの歩み寄りを決めた後の出来事。
記憶を失って数日……屋敷の中の異変に戸惑いつつ、半信半疑で過ごしていた。
今でも夢を見ているのではないかと俺は目を疑ったり、
周りに騙されているのではと思ったりもした。
それだけ今の世界は夢物語で、俺には実感のないものだった。
(ユリアと俺は以前のようになれるだろうか)
俺は見ていたから、目の前で断末魔を上げて魔物に喰われる所も、仲間が倒されていく所も。
それなのに、あの状態でどうやって仲間が生き延びられたのか、俺には理解できなかった。
ましてや、人間との共存が本当に出来るなんて。
ユリアと向き合い、彼女と以前のようになれるよう生きてみると決めてから、
俺は第三者の意見が知りたくて、分身ではない方の本体であるリオと話をしたいと思った。
(リオは、俺の立場に近いはずだ)
仲間が襲われる経験をし、人と暮らし始めたリオならと。
※ ※ ※ ※
『やあ、アデル……この姿で会うのは久しぶりだね』
目を覚ましたリオは以前よりとても弱っていたが、
俺と顔を会わせると嬉しそうに笑う。
事情を察した俺の親友に、『もう復讐はしなくていいんだよ』と言われて、
これまで死んだリオの遺志を継ぐことと復讐のために生きてきた俺は、
目的を見失い、なら、なぜ俺達はこんな所に居るのだと悩んだ。
最初、俺はリオがここに捕虜として囚われているせいだとも考えていたのだが……。
(ユリア達のあの様子では、とてもそんな風には見えなかったし)
どちらかというと正体を知りながら、親しみを持って尊重してくれているように見える。
リオは自分の分身に目と足の代わりをしてもらっているせいか、
今の俺の現状をとても理解してくれていた。
『……僕から話を聞いて、判断を仰ぎたいの?』
『お前は……なぜここに居る事を選んだのか、それを聞きたい。
アン、といったか? リオはあの娘と添い遂げる為にここでの生活を選んだのか?』
『ううん、僕は君達夫婦に救われたのが縁でここに居るんだよ。君達の家族としてね。
彼女はその経緯で知り合ったようなものかな』
『……お前はそれでいいのか?』
ここは人間の巣窟だ。いつ寝首を掻かれるかも分からないと思わないのか。
『確かに人間ばっかりで僕も最初はとても警戒していたよ。でも、今は少し違うかな。
僕の為に綺麗な花を飾ってくれたり、美味しいものを食べさせてくれたり、
絵本を持ってきて、この世界の事をいろいろ教えてくれたりしているんだ。
僕が早く馴染めるように、分身の僕にもみんな分け隔てなく接してくれるから、
ここは居心地が良いと分かってね……嬉しかったよ』
『……』
確かにそれは俺も感じていた。
ユリアは記憶のなくなった俺の為に、いろいろと気を使ってくれている。
『少なくとも、君の花嫁になったユリアは故郷を襲うような人間とは違うんじゃない?
あ、もちろん、僕のアンも違うよ。あの娘達は僕達の味方だと分かる。
ユリアは何があっても君のことは裏切らないだろうから、信頼してもいいと思うよ』
『……随分、気を許しているな』
人間に陥れられた事を覚えているはずなのに、リオは人間を許し始めているようだった。
元々人間に好意的だったから、許すことが出来たのかもしれないな。
この数年ここで生きてきた俺には、それが出来ずに苦労していたというのに。
『君が覚えてないから教えるけどね。
再会したばかりの僕は、君の力を利用して殺そうとした。
人間達が僕達にした仕打ちに怒り狂う魔物になって、それは酷い醜態をさらしていたよ。
ユリアはそんな僕から君を守るために、命がけで僕に盾突くような娘なんだよね。
人間の娘で伴侶の雄の為に牙をむくのは、そうそういないと思うよ?』
『ユリアが?』
震えながら、俺に必死に笑いかけていた娘だったのに。
『ああ、他の龍族ですら簡単に屠れる状態だったこの僕に対してだよ?
君は随分と、あの娘に大切にされているなって思ったんだ』
『……』
『アデル、僕はなりふり構わずに人間への復讐を選んだなれの果てがコレ。
だから君は、僕みたいに選択を間違えなくてよかったんだ。
きっと君の伴侶であるユリアが、良い方向へ導いてくれたんだね』
そう言って上掛けをめくるリオの足元は、震えたまま満足に動かすことが出来ていない。
いずれは回復すると言っても、これから沢山の辛い訓練が必要らしい。
『……長い間、魔物と同化していたからね。内側からやられているんだ。
驚異的な龍の再生能力でも、これの回復には時間がかかるみたいでね』
『……今ある選択が正しいと、お前は思うのか。
それでもうお前は故郷を捨てるつもりなのか?』
『故郷には帰れないんだよ僕は……これは、僕の贖罪だから。
分身の僕を使って、家族の様子を見に行くことはあるかもしれないけど。
……君は、あの花嫁になった娘を残して古巣に帰りたかったのかい? 本当に捨てられる?』
その時は、何も答えられなかった。
ユリアとの生活も、上手くできるのかまだ自信が無かったから。
俺の中に巣食ったものはとても強力で、今も俺を蝕んでいる。
暴走して傷つけてしまうくらいなら、いっそ……と、そう、思う事もある。
(もしも記憶があれば、違ったのだろうか)
失った記憶なんて、どうせたいしたことないと思っていたはずなのに、
今はないことがこんなにも不安だとは……。
『分からないんだ。今の俺は……ただ、ユリアには笑っていてほしい。
俺を想って泣いている姿は見たくない。傷つけたく……ない』
何をしたいのか、どうすればいいのか、頭の中をかき混ぜられるように混乱して、
これまでの生き方と、これからの生き方に悩んでしまっていたから。
すると、獣の瞳になったリオは俺の中にあるものをじっと見つめた。
黒くくすんだ塊……それが俺の心臓に根深く根付いているのを。
『厄介なものを植え付けられてしまったようだね……僕は以前、似たような状況だったけど、
それは僕の時とは違うタイプのもののようだ。だからごめん、僕には君を救えない』
『ああ、分かっている』
『でもね。どうすればいいのかは、アデルはもう分かっているはずだよ。
そんなものに負けてしまうほど、君達夫婦の絆は弱くないと僕は思うんだけど』
答えはもう俺の中にあると、リオはそう言って笑っていた。
(ああ――……そうだなリオ、最初から出来る訳がなかったんだ)
眠っているユリアが泣いているのを見た時、既にあの時から答えは出ていたのだろう。
残せない、残したくないとあの時に思った。
あんなに小さくか弱き花嫁を、自分が居なくなれば誰が守ってくれるのだ。
たった一人、悪しき人間達も居る場所に置いて行けるのか……と。
※ ※ ※ ※
「――ホンタイノオレ、モドッタ」
影から顔だけを出したものが俺に話しかける。 その声にふと思考から我に返った。
その頃、騎士団へ寄せられた情報では、
王都郊外で、荒くれ者たちが暴れているという知らせを受け、
俺の率いる蒼黒騎士団は沈静化のために馬に乗る最中だった。
先日、団長である俺が襲撃され、記憶を奪われた一件があったせいか、
同僚達の間には、いつもよりピリピリと張りつめた状態が続いている。
今回も罠じゃなければいいが……と、現場へ移動を始めていた俺の元へ、
足元の影から姿を現した俺の分身は、腕の中にある物を見せる。
その前足には紫色の蝶があり、それを俺に差し出してきた。
「それは……」
問う前に差し出された正体が分かった。
これは、あの娘の記憶の欠片だと。心が、体がそれを求めているのが分かるから。
その記憶の欠片は、淡く紫色に色づいた蝶の形を模しており、
俺がかつてイメージしたユリアの印象そのものだ。
蝶は俺の近くへ来ると、主が誰か分かったようで嬉しそうに羽音を立てる。
「――取り戻せたのか」
「ン……キズ、ツイテイナイ」
一週間前、目が覚めたあの時から、俺は激しい喪失感に襲われていた。
何かを取り戻さなければいけない、取り返さなければいけない。
何かに枯渇したようなその状況。
空虚なものを埋める為に憎しみだけが増幅していき、
俺の自我すら侵食していくようだった。
それが何者かに奪われてしまったせいだとは気づけたが、まだ正体はつかんでおらず、
また、自分が動くことで敵に勘付かれてしまうのはまずいと思った。
代わりに動かしたのは、俺の記憶が残っている分身。
奪われたものが何かを俺は思い出せないが、まだ記憶が残っている分身には分かる。
その“匂い”がどんなものであったか、それがどんな“温もり”を持っていたか。
どんな”安らぎ”をもたらしてくれていたのか……この分身達はよく記憶していた。
だから俺は表向きいつも通りの生活をすごし、敵の目を欺いている一方で、
奪われたものを分身に密かに追わせていた。
(邪な思いを持つものが闇にまぎれて動く習性は、人間も同じだな)
情報が必要だった。敵の目的と、奪ったものを探し出す為の時間も。
その為に敵を泳がせる為の時間を、取り戻すために静観を決め込んだ。
「……ようやく、か」
失われていた時間は一週間と少し、だが、それだけあれば十分だ。
本来なら花嫁と一緒に過ごせたはずだった尊く愛おしい時間を、俺は無情にも奪われた。
引き離された時間を思えば、十分な報復理由だろう。
この件は人の法ではなく、伴侶である雄に裁かせると。
それを既にライオルディには許可を貰っている。
「それを」
「ヒツヨウカ?」
記憶が戻れば、また人間の娘に執着する日々が戻ってくる。
一度取り戻してしまえば、再び本能に振り回されることもあるだろう。
このまま花嫁を忘れたまま、元の自分の生き方をすることも選べると。
そう、分身は言いたいのだろうが……。
「……当たり前だ。それは俺のものだ」
失ったものが、もう何であるのかは分かっている。
きっと生涯で一番大切なもの、何をもってしても守りたいと思うもの、
俺はそれがあの娘、ユリアなのだと今なら分かる。
彼女と過ごして、思い出したい、思い出してやりたいと思った。
「ナラ、イイ……ワタスマエニ、ケイコクダ」
「また警告か? 今度はなんだ」
「ユリアノキオク、モドッテモ……ジブン、バッスルナ」
なぜかと問いかければ、俺が花嫁に手を挙げてしまった事を必ず後悔し、
彼女を傷つけたその手を「二度と同じ過ちをしないように」潰すことをするだろうと。
「オレガキズツクト、ユリアガカナシム……ユリアモ、キズツク、ダカラセメルナ」
「俺が……?」
「ソウダ。オレ、ダイジニスル。マエニ、ユリアト、ヤクソクシタ」
どんなに苦しくても、良心の呵責に責められようと耐えろと言われ、俺は静かに頷いた。
ああ、確かに俺がそうなれば彼女は泣いてしまうのだろう。
この短期間、共に過ごしてみて、それは俺も実感していた。
俺がどんなに彼女への償いをしたいと願っていたとしても。
渡された欠片はとても軽い。だが触れただけで満ち足りた何かを感じた。
その欠片からあふれてくる淡い光、
それだけで体の中に巣食っていたものが取り除かれていくのが分かる。
これはきっとユリアの力の残滓。それがこの欠片の中にも残っていたのだろう。
”ソノニクシミハ、ユリアニ、イヤシテモラエ”
ああ、今ならその言葉の意味が分かる。
俺はこんな時でもあの娘に救われるのか。
思い出の中のユリアによって、俺の中の禍々しいものが消えていった。
「ホンタイ、テキガ、ユリア、ネラッテイル、イケ」
「分かっている。こちらの件は一時的にお前に任せる」
交差する大小の影。
(ユリア……)
名を呼ぶだけで心が震える。その名の意味がようやく分かる。
”アデル様”
彼女に名を呼ばれるだけで、凍えていた気持ちが溶かされ満たされていく。
愛し愛されていた者だけが宿すことが出来る印、それをユリアは持っていた。
番の龍だけが分かる、瞳の中に映る薔薇の刻印を。
確かにあの娘との記憶は奪われていた。それと同時にあの娘に抱く感情も壊されていた。
引き換えに埋め込まれた愛するものを憎悪し、殺意を抱くよう仕向けられていたようだ。
けれど……あの娘が、ユリアが今も必死になって繋ごうとしてくれている。
俺と結んだ。その縁を、想いを……。
「ユリアの元に……俺も帰りたい」
――ユリアが、今も俺の帰りを待っていてくれるから。
だから、俺はこの国全ての龍脈に自らの力を注ぎ込み、分身が動きやすいようにした。
龍脈が活性化すれば、俺の分身が敵の正体をつかみやすくなると見込んでだ。
例えその行為が……弱体化した俺にとって自殺行為に近い状況であったとしても。
断片的に届いた情報で読み取れたのは、
敵の狙いが俺の花嫁になったユリアだということで、
俺の執着を削いでいる間に、さらう事だけが分かっていた。
(だが読みが甘かったな。俺は自分のものには徹底的にマーキングをする)
記憶とて例外ではなかった。彼女への想いもユリア自身もそれだけの執着があった。
だから俺の分身であるものに回収を任せた。あれの存在を敵はまだ知らないようだったから。
闇の中を駆けながら受け取った欠片が体に馴染んでいく。
記憶は俺の中へと溶けるように吸い込まれていった。それと同時に徐々に蘇っていく記憶。
楽しい思い出も、辛かった思い出も、ユリアと共に過ごした大切なものだ。
誰にもゆずれない。ゆずる訳にはいかない。
「ああ、こんなに温かかったのだな」
ユリア……これでようやく君ときちんと向き合える。
まぶたを閉じると、これまでの事が蘇る。
俺がユリアと出会い、変わっていくさまを。
俺が流浪の末に、人間の王子ライオルディと出会い、
人間の世界に辿り着き、住み着いた時、いろいろな事を考えた。
最初は確かに同胞の敵討ちしか頭になかった。
自分はどうなってもいい、それが終わればどうなろうと構わないと自棄になって、
その一方でリオの叶えられなかった望みを、叶えてやれない自分がもどかしかった。
(俺はあいつと違って愛想もなく、強くもなかったから)
このまま人の群れの中で朽ちていくのかと……心まで凍らせていた俺に、
温かな日差しが照らされるようになったのは、 奇跡にも近い出会いからだった。
『アデル様、お帰りなさいませ。
季節のお花を飾ってみたんですけど、この位の香りはアデル様でも大丈夫ですか?』
『今日は南のお部屋の空気を入れ替えて、お掃除したんですよ、
もうすぐ其処でくつろげるようになりますから、待っていてくださいね』
『アデル様、私、お友達が出来たんです』
知り合ったユリアは春を告げるように、静まり返った屋敷の中を明るく照らしてくれていた。
楽しげに話してくれる何気ない普段の報告も、淡々とした日々だけを過ごしてきた俺には、
寂しさを埋める唯一の慰めとなっていた。その微笑みが、声が、存在が俺を癒してくれる。
憎しみと同胞を失った悲しみに囚われて生きていた俺を救ってくれたんだ。
『それで、ですね……』
『……ああ』
俺は上手く話せる話題もなく、ほとんど相槌をするだけだったが、
それでもユリアはいつも楽しげに俺に接してくれた。
こうして他愛無い会話をしたのはいつ以来だろうか。
家族と同胞達を失ってから、俺は誰かとこんなささやかな言葉すら、
交わすのを避けていた気がする。
(ああ、ああ、そうだった)
涙がこぼれる。頬にある印が僅かに熱くなった気がした。
先日、ユリアが恐る恐る触れようとしたその場所が。
(誰かと分かち合う感情を、ユリアは蘇らせてくれたんだ……)
ユリアと出会うまでは、俺はただ生きているだけの存在だった。
抜け殻だった俺に、生きている喜びを実感させてくれた。
自分の居場所だと思える場所を作ってくれた。
「そうだな……やはり、リオの言うとおりだった」
(だが、そんな君にまた俺は愚かな真似を)
よりによって、ユリアにまた辛い思いをさせてしまった。
大事にすると、もう泣かせないとあれほど決めていたのに、
人間の悪意によって自ら壊してしまう所だった。
(そうだ。よりによって、この俺がユリアに……っ!)
例えまがい物の殺意でも、一瞬でも彼女を憎んでしまった。
何も知らず、帰りの遅い俺を心配して待ってくれたユリアに、俺は……っ!!
「くっ……!」
いっそここで自分を殺してやりたい衝動が生まれるが、
分身の言葉を思い出し必死に耐えた。
”アデル様”
脳裏にユリアの声が響き、我に返る。
「ユリ……ア……」
空虚な以前の抜け殻に戻った俺を、ユリアは受け入れようとしてくれた。
きっと記憶が戻らないままで俺が壊れてしまっても、
ユリアは俺と共に居ようとしてくれていただろう。
救おうとしてくれたのだろう。
“もう一度、私の事を知ってほしいです。アデル様”
震えながら笑いかけていたユリア。
その言葉を俺に伝えるのは、どんなに辛かった事だろう……。
生涯の愛を誓った夫に拒まれ、傷つけられたりもしたのに、
彼女は笑ってくれた。俺に笑いかけて怖がらなくていいと言ってくれていた。
手を……差し伸べてくれたんだ。
忘れてしまったことを責めたりもしない、我が花嫁。
だから、その優しさにとても安心できた。彼女の傍が心地よいものだと分かった。
それと同時に、俺もまた……。
「ユリア」
共に過ごした愛おしい記憶を抱き、もう一度元の自分へと戻ろう。
向かうはユリアの居る屋敷へ。
分身は先行して、俺が向かうはずだった場所に代わりに向かった。
敵の目的は俺の大事な花嫁を壊す事で、俺への復讐を果たそうとしている。
「よくも……よくもユリアを」
花嫁と過ごせた貴重な時間を奪われたことへの怒りも重なり、
最早、この元凶を作った者達を、一人残らず生かしておく気は俺にはなかった。
※ ※ ※ ※
その晩、ある獣の怒りを買った一つの組織が、この世から完全に消滅した。
壊滅ではなく、その名の通り消滅だった。
首謀者はもちろん、組織にくみしていた者達は一人残らず姿を消し、
彼らがどんなものであったかすら記録には残らなかった。
連なる者たちも含めて丸ごと消え去っていたのだから。
けれど騎士団がこの件に介入し、解決したわけではない。
彼らが現場に辿り着いた時には、既に事態は収束しており、
そこにあったのはアジト本部は丸ごと消え、地面ごと抉り取られている状態。
人の気配すらそこにはなく、もはや生存者すらないだろうと思われる。
何かの獣に襲われたであろう爪痕と、壊れたわずかな残骸があるのみだった。
そこで組織の騒動に巻き込まれた一般の人間達は、奇跡的にも無事だった。
襲われる寸前で、何者かによって救われたと、口々にそう証言したと言う。
『黒い龍のぬいぐるみが現れ、犯人達から庇ってくれたあと、
一人の青年がその龍を従えて闇の中に引きずり込んだ』と……。
暗がりでその男の顔を見た者は、誰一人としていなかったという。
しかし、その証言は無かったものとされ、目撃者の記憶からも消されることになった。
それは国で密かに作られた龍を保護する規約に基づき、
密かに抹消されたからに他ならなかった。
※ ※ ※ ※
「――……とと、うっかり寝てしまいました」
あれからアデル様が私達を助けに来てくれて、再び仕事に戻るのを見送った後、
既に2時間が経過していた。ちびアデル様にもう大丈夫だと教えてもらったけれど、
未だに気持ちがそわそわして、確かめたくてアデル様の帰りを玄関先で待っていた。
ちびアデル様達は、『ネテテ、イイゾ?』と言われたけれど、
『やっぱり帰ってきたアデル様に、お帰りなさいって言って、出迎えてあげたいです』
そう、私がちびアデル様に言ったら、
ちょっとぷくーっと頬を膨らませて、やきもちを焼いたように見えたけど。
『……キョウダケ、ホンタイニ、ユズル』
『ちびアデル様?』
『オレモ、ガンバッタ、デモ……ホンタイノオレモ、ユリア、ミステナカッタカラ』
なんて、納得してくれたようでした。
……もしも、見捨てるようなことになっていたらどうなっていたんだろう? 気になる。
玄関近くの長椅子に座って待っていたけれど、持っていた本も読み終えてしまい、
ふと横を見ると、ちびアデル様もちびちびアデル様も、
仲良く寄り添い、ぴすぴすと小さな寝息を立てて、すっかり寝てしまっているではないか。
(眠る時は、ぬいぐるみから出てもいいと思うんだけど)
私が気に入っているからと言う理由で、出来るだけこの格好でいたがるんだよね。
もふもふに加えて、ぷっくりしたお腹を晒して眠るこの無防備さに、
思わずつんつんしたくなるのを我慢して、その姿を見守る。
「今日……ちびアデル様は、すごく頑張ってくれたんですね」
帰ってからお風呂に入れてあげて、乾かした後、
ちびアデル様はとても疲れていたらしく、私の横によじ登って寝転がると、
直ぐに寝入ってしまったようで……気づけば、ちびちびアデル様までつられて寝ていた。
「ずっと守ってくれたんですね。ありがとうございました」
本体のアデル様の分まで、頑張って守ってくれていた事を私は知っている。
だからずっと気が張っていたのだろう、ようやく事態の解決が見えて、
一気に疲れが出てしまったようだ。よく休ませてあげないと。
「おやすみなさい、私の小さな旦那様」
眠っている小さなアデル様達の額に、それぞれ軽くキスをすると、
ふにゃっと寝ながら笑ったように見えた……ふふ、可愛い。
(……アデル様も早く、帰ってこないかな)
そんな私の膝の上には、一輪の薔薇の花があった。
別れ際にアデル様に伸ばしたその手に、舞い降りてきた一輪の薔薇。
私はその薔薇をくるくる指先で回して、香りを楽しむ。
もう嗅ぎ慣れていたはずのその香りは、私の気持ちを満たしてくれていた。
“愛している”
そう彼は確かに言ってくれた。
「もう……これも贈られない可能性もあったのに」
アデル様は私に再び花を贈ってくれた。
彼の想いの結晶でもある、その花を。
「ふふ、嬉しい……」
すれ違っていたのはほんの数日の事だけれど、
やはり半身という意識が、この私にも芽生えているのだろう、
拒絶されていたここ数日の事が、とても堪えてしまったから。
取り乱さずに済んでいたのは、彼が私の為に用意してくれた小さなアデル様達が、
私を必死になって支えてくれていたからだ。
本当にどうなる事かと思っていたけれど……。
「でも、やっぱり帰って来てくれた」
それが何より嬉しい。
やがて、靴音が近づいてくるのが聞こえて、私ははっと立ち上がる。
呼び鈴が鳴らずに、無造作に開け放たれた両開きのドア。
其処には待ちかねた人が笑顔で私を見つめていた。
その表情で、私はやっぱり夢じゃないんだと確信した。
「ユリア」
胸が高鳴る。全身が歓喜に震えているようで、
急いで帰ってきた彼に駆け寄り、その手を伸ばした。
「アデル様、お帰りなさい!!」
「ユリア!」
両腕を伸ばすと、アデル様もそれに応えて受け止めてくれた。
「アデル……さま」
「ああ……」
もうずっとしていなかった抱擁がこんなにも愛おしく感じる。
当たり前に過ごしていた日々が、こんなにも大切なものだと実感した。
「おかえり……なさい、アデル様、お帰りなさい」
「ああ、ユリア、ただいま……遅くなって本当にすまなかった。
それと長い間、屋敷の留守を守ってくれてありがとう」
その言葉は、これまでの事を意味しているのだろう。
「はい!」
私は満面の笑みでそれに応える。 彼の頬にあった痣はすっかり消え去っていた。
(……よかった)
安堵してアデル様の頬をなでていると、
アデル様は私達の間に大量の薔薇の花を咲かせた。
両腕にあふれるほどの花を受け取り、私はアデル様を見上げる。
アデル様はその様子を見て、満足そうに笑っていた。
「離れていた間、ずっと君に贈れなかったからな」
それは、離れていた期間を埋める想いを詰め込んだ花が。
私が一番好きだと話した時のことを彼は覚えていてくれて、
そして記憶を取り戻した後、その時の約束を守ってくれていた。
「ありがとうございます」
「……」
アデル様にお礼を言うと、肩を引き寄せられそのまま花ごと抱きしめられる。
「……手はもう本当に大丈夫か?」
「え? あ、はい大丈夫です」
「そう……か、ユリア、記憶がなかったとはいえ本当にすまなかった。
君を不安がらせたことも……何か他に、俺に願う事はないか?」
「え?」
「これまで君を悲しませてしまった詫びをしたい……。
何でもいい、何か欲しいものでもあれば用意する、俺にして欲しい事はあるか?
君の悲しみに比べれば、そんなものでは埋め合わせにもならないとは思うが……」
「……何でもいいのですか?」
「ああ、なんでも」
欲しいもの……その言葉に私は過剰なほどに反応した。
もちろんある。ものすごく欲しいものが、今の私にはあるのだ。
「あの、なら私――」
だから私は一つ、こんなお願いごとをした。
※ ※ ※ ※
「――……で?その状況になっていると?」
次の日の昼ごろ。
ラミスさんに呆れ顔で言われ、私は顔を真っ赤にしてこくりと頷いた。
そんな私は現在、アデル様の膝の上におさまっている。
騎士団に顔を出しに来たローディナとリーディナもこの話に加わって、
この二人って本当に仲がいいわよねと生暖かい目で見られてしまうが、
最初に言っておきますが、不可抗力です。これだけはご理解願いたい。
『アデル様とまた……手を繋ぎたいです』
私がアデル様にお願いしたのは、そんなささやかな願いだった。
(だって、私にとっては切実だったんだもの)
アデル様が私を忘れてしまった時、いつも当たり前に手を繋いでいた事を思いだした。
出かける際には決まって手を繋いで歩いていたから。
まだ想いを交わしていなかった時でさえ、恋人繋ぎで歩いた事もあるのに、
いざ、それが出来なくなって、アデル様に触れるのすら拒まれたあの時、
アデル様と手を繋げない寂しさが私を襲った。
だってもう二度と、こんなこと出来ないかもしれないと思っていたから。
「もう一度、ちょっと手を繋ぐだけでもいいから、
アデル様としたいなって思ったん……ですよ」
アデル様には『そんなことでいいのか?』って言われたんですよね。
もっと高いものとか、大それた望みとかでもいいと言ってくれたんですけど、
これはお金とかでは引き換えに出来ない、とても貴重な事なんですと言ったら、
それでお願い通りにすぐ手を繋いでくれました。
アデル様にしか叶えてもらえないお願いでしたから、
私は彼が応えてくれただけで満足だったんです。
『はい、えへへ、幸せです。アデル様』
手が繋げた瞬間、思わず涙があふれてきて、頬を伝った。
伝わる彼の温もりに、やっと元の私達の生活を取り戻せたんだと実感できた。
『そう……か、だから俺は君といつも手をつないでいた方の手が気になっていたのか』
『え?』
『いや……なんでもない』
でも、アデル様はそれだけで終わらなかった。
その場で少しだけ手をつないで満足するつもりだった私は、
願いどおりに指をからめて繋いでくれた事に、照れ笑いをしながら浮かれていたら。
『……』
『あれ、アデル様?』
『ユリア……一週間以上離れていた俺の渇きを癒してくれるか?』
『はい? 喉が渇いているんですか?
ごめんなさい、アデル様が疲れていたのに気づかずに……ではすぐにお茶を……』
そういえば、ここ最近は余り召し上がったりしてなかったですよね。
では厨房へ行こうかと体を傾けたが、繋いでいた手は離れずに、
むしろぐいっと引き寄せられ、アデル様の胸元に顔を埋める形になった。
『アデル様?』
『……』
いつまでたっても手を離さないアデル様に不審に思い、
顔を見上げたら、アデル様はやたら潤んだ目で顔を近づけてきて。
『!?』
私に深く深く口づけをし、戸惑う私を散々翻弄したかと思ったら、
ようやく手を離してくれた……が。
今度は私のひざ裏に腕をまわし、担ぎ上げて、
寝室に連れて行こうとしているのに気づいた。
『ユリアが珍しくしてくれた願いだ。少しと言わず沢山かまってやろう』
『へ? いえ、私そんなつもりで言ったわけじゃ?
あの、ちょ、だ、誰か~っ!? アデル様にさらわれる――っ!!』
『大丈夫だユリア。屋敷にいる連中は君が恥ずかしくないよう、俺が全員眠らせておいた。
……まあ、リオとアンフィールはこの程度の魔力は平気だろうが、
流石に夫婦の時間を邪魔するような、愚かな真似はしないだろうな』
そういえば、長椅子で眠っているちびアデル様達が、さっきから動いていない……。
あの子達に限っては気絶させたのではないだろうか?
『なんてことーっ! ご主人様権限をこんな所で行使しなくても!
アデル様、才能の無駄遣いですよーっ!?』
担がれたことで、バラバラと落ちた薔薇の花を勿体ないと思っていたら、
運ばれる行く先々で、光る薔薇の花を作って埋め尽くしてくれた。
足元を照らす明かりがとても綺麗だけど、これは以前ちびアデル様達がやってくれたもので……。
『……アデル様?』
『俺だって、やる気になれば出来る』
――やっぱり張り合っている。
その時思い出した。この旦那様は花嫁の事になると、
暇さえあれば全意識を集中してしまうことに。
そして、記憶を取り戻した今、アデル様はある意味無敵だった。
『えーと? そうだ。あ、あの、お夕食は?』
『今はいい、今はとにかくユリアだ』
『じゃあ、沐浴! 仕事帰りですし、さっぱりしたいですよね? ね!?』
『さっき寄宿舎で済ませた。汚れた格好でユリアには触れられないからな。
……なんだ? もしかして一緒に入りたかったのか?』
さわさわと、腰をなで始めるアデル様が、ちょ、まって、違うから!
『い、いいいえええ、ちょ、待ってください。話せば分かる』
『待たない。俺は十分過ぎるほどに我慢した。
あの連中が邪魔してこなければ、君ともっと一緒に過ごせたと言うのに……』
それから……アデル様は問答無用で私のお願いをとことん続行してくれた。
散々私を愛でまくり、かまい倒した後、手を離したりしなければいけない時は、
始終至近距離で張り付かれた。
そして現在の私はと言えば、アデル様の膝の上が定位置になっていて、
彼と手を繋ぎつつ、アデル様は空いた方の右手で届けられた書類に目を通していた。
時折キスして来たり、胸に顔を埋めてきたり、匂いを嗅がれたり、やりたい放題だ。
え? それいつもの事じゃんってツッコミは無しにして欲しい。
これでも抵抗しているんだよ。無駄な努力で終わっているけどさ。
(ただ、いつもよりも構いっぷりが激しいんだよね。この人、いや龍か)
記憶にない花嫁と引き離された影響は、
ここで溺愛発作による花嫁欠乏症を引き起こし、反動を引き起こしていたらしい。
(ちびアデル様が珍しくゆずったのは、それを見越してですね)
花嫁欠乏症状が暴走して、これ以上、私への被害が加速しないように、
未然に防ごうとしたようだ。 未然でコレとは……本気で暴走したらどうなるんだろ。
恐ろしくて考えたくもないが。嫁として把握しておくべきだろうか?
まあ、どちらにせよ私は逃げられぬ運命であることは間違いない。
そう、アデル様に心ごと囚われた私は、逃げる気など最初からないのです。
そんな訳で、花嫁は旦那様のご機嫌取りをがんばります。はい。
「ユリアを寂しがらせたのはもちろんだが、俺も寂しかった……。
俺の孤独を埋めてくれるのは、ユリアの温もりだけだからな」
ゆえに、癒してもらうために今現在もこうしているのだと。
でもまさか、職場に花嫁同伴で連れてくるほどだとは思ってもみなかった。
手を繋いで、さも当然のように王都に居る住民に見られながらの同伴出勤は、
かなり羞恥プレイだったよ。
騎士団の受付の所では、「ああ、またか」なんて顔をされて、
フリーパスで私まで通されてしまったのには驚いたけど。
きっと裏で殿下が許可を出しているに違いない。
いいのかな、上司の人は見て見ぬふりをしてくれたようだけど。
「いいじゃない。アンタ達のバカップルぶりは元々王都でも有名だったんだし」
「ゆ、有名!? そんな……」
リーディナの救いにもならない言葉に、私はがっくりと項垂れた。
「そうねえ、おしどり夫婦とか、公衆の面前で恥ずかしいまでの愛を語らう夫婦とか、
いろいろ言われているみたいだけど、どれも好意的だし、いいんじゃない?
今回の件も、夫婦喧嘩から仲直りしただけとか言えば納得されるでしょ」
「ローディナまで、うう」
「そういえばさ、アデルバード様が記憶失っていても、
相変わらず王都の中でいちゃついていたって聞いたけど、ホント?」
「……本当、です」
素直に白状したら、記憶を奪ったくらいでは引き離せないほどの吸引力か! ……なんて、
双子姉妹は楽しげに人の事をネタにして笑われてしまった。
だから頼みの綱であるラミスさんに助け船を頼もうとしたら、
その視界をアデル様によって塞がれたではないか。
「駄目だ。ユリアはこっちだ」
「ふわっ!?」
顔を引き寄せられて、私はアデル様に顔を埋める形になってしまった。
どんだけやきもち焼きなんだ。
「……あーどうやら俺達はお邪魔のようだし、行こうか」
「そうですね~これだけ当てつけられちゃうと私達も困っちゃうわ」
「ふふ、末永くお幸せに。またねユリア」
み、見放されてしまったじゃないですか!?
一件落着して、みんなに報告できたのは喜ばしかったけど、
このいちゃつきぶりを見せつけるだけになってしまったよ。
ちゃんとお騒がせしたことをお詫びもしたかったのに。
二人きりになったその場所で、
アデル様は頬を摺り寄せてきたり、私の額に口づけて上機嫌だ。
「ユリア、これで二人きりだな」
「もう、わざとやったでしょ、アデル様」
「帰ったら、ユリアの作ったプリンが食べたい」
「……うう、はい、分かりました」
でもアデル様が最大の弱点である私は、結局そんな彼を許してしまう。
私はいつだってアデル様に甘い、そう以前言われた言葉が脳裏を過る。
否定はできません。だってアデル様の笑顔が好きなんだもの……。
だからこれは、夫婦に起きた試練の1つだと思って、
後でそんなこともあったねと、いつか思い出として懐かしく思う日が来るのだろう。
こうしてすれ違ってしまった私達は、再び元の日常を取り戻し、
騒がしくも楽しい思い出を紡いでいく。
もう二度と、離れぬようにと互いが祈りを込めながら、
1つの試練を乗り越えて、夫婦としての絆を確かめ合っていた。
~FIN~




