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河童日和

作者: 風元

 その朝、ぽかりと目が覚めた。


 けたたましい目覚ましの音がなければ起きられない私にしてみれば、年に一度か二度の珍事。

 時計を見れば六時二十八分。

 布団から腕だけ出して、カーテンを開けた。

 窓から見上げる藍色の空。まだ薄暗いが、雲はなく、丸く切った和紙のような月がほわりと浮いていた。


 昨日は、夕方にアパートが揺れるような雷がどかんと一度鳴った。

 それを合図に振り出した、やけっぱちのような大雨の音が夜通しうるさかったたけれど。


 今日はきれいに晴れそうだ。


 この一週間はぐずついた天気だったので太陽が顔を出すだけで気分がいい。

 まして、それが日曜日となれば、なおのこと。

 室内を占拠する生乾きの洗濯物をやっつけようと、私は勢いをつけてベッドから降りた。

  

 大気がだんだんとオレンジ色に染まり、地面から湯気が立ち昇ってきている。


 霜柱が立つ地面を歩き、サクサクという音と感触を楽しむ。

 寝巻き兼用のジャージの上に半纏を羽織った姿で、ハンガーに吊ってあった生乾きの洗濯物を外に干す。


「おはよう、千恵子さん」

 

 隣の一軒家に住む大家のお婆さんが箒を手に、道路の濡れ落ち葉を集めていた。

「おはようございます。いつも、こんなに早くから掃除をしてくれてたんですか?」

「まさか、今日は特別さぁね」

 にこにこと、老婆は笑う。

「いい河童日和になりそうだからね」

「河童日和? カッパってあの日本昔話の河童ですか?」

 首を傾げた私に、大家さんは頷いた。

 いつものように割烹着のポケットから出した黒飴を私にくれたので、礼を言って受け取る。

 大家さんは黒飴を口に入れた私を満足そうに見上げると、

「水がぬくむほど暖かくて、川から河童が顔をだすような日だからな。若い人はこんな言葉知らないかい?」

 口をもごもごさせながら、私は頷く。

 確かに河童日和なんて、初めて聞く言葉だ。

 

 この街の中央を流れる三瓶川には、河童が棲んでいたという。

 そのため、河童の嫁入り婿入りをはじめ、一山いくらで売れるほどの河童伝承が残っている。

 そこから推測するに、河童日和という言葉はこの土地独特の言い回しかもしれないな。


 もっと詳しく図書館で調べてみるかと、無駄知識増強計画を夢中でたてていたら、ブルッと体が震えた。


「ほれほれ、そんな薄着で風邪をひくぞ。暖かくなりそうだからといって、まだ朝早いんだから」

 気のいい大家さんに追い立てられ、私は自分の部屋に戻る。


 今日は気温も上がりそうだ。

 使い勝手よく整えた台所に立ち、私は大きく伸びをした。


 マグカップに牛乳と粉末コーヒーを入れて、電子レンジに放り込む。

 賞味期限が三日ほど過ぎた食パンにマヨネーズを塗って、ハムをはさむ。

 

 中学生だった時に飛行機事故で豪快にお隠れになった母さんの、一日の活力は朝食からの教えは骨の髄まで染み込んでいるようだ。


 もともと母子家庭だったため、母の事故であやうくこの街から遠く離れた施設へ送られそうになった。

 そんな私を、高校卒業まで引き取ってくれたのは中学校の担任の先生だった。

 引き取られて浅い頃、居候の申し訳なさから、パンに目玉焼きの朝食を作ったら、ものすごくびっくりされた。先生の奥さんも教師なので、朝食抜きが普通だったらしい。

 その日、先生はパンを五枚、奥さんも三枚も食べてくれた。食べてくれるのを見ていたら、ああ、ここにいていいんだなと、何故か安心したのを今でも覚えている。


 その嬉しさがあったため、食事の支度は積極的に手伝った。


 だからこそ、一人暮らしをはじめる時に、お前は食事だけはきちんと自炊ができそうだからちょっとだけ安心だと頭を撫でられたのだが。


 朝だけは家できちんと食べるものに、昼は大学の学食、夜はコンビニか居酒屋だ。

 母さん、せっかくなら、元気に暮らすには三食きちんと食べる、と教え込んで欲しかったよ。

 もっとも、昨今の女子大学生の食事事情なんて、大概こんなものだろうけどね。


 一週間分の掃除と洗濯をやり終えると、太陽は高く昇っていた。

 掃除のために開けてあった窓から空を見上げると、朝の予感通り快晴だった。

 風もなく、睦月とは思えない強い陽射しが照らしている。

 以前に読んだ本によれば、こんな日のことを『光のひかりのはる』というそうだ。

 光の春。

 立春が過ぎて、陽の光が日増しに強くなり、余寒厳しい中にもどこか春の訪れを感じる日を表す言葉。日本ならではの綺麗な表現だなと感動して、その語源などを調べたら、元はロシア語の「ベスナー・スベータ(光の春)」で、気象キャスターの倉嶋厚さんという方が広めたと知って驚いた。

 春を感じるというのは人種や種族には関係ないのだろう。


 掃除機を片付け、洗面所の前に立ち髪を整える。

 

 今日は絵に描いたような光の春で、おそらくこれが河童日和。

 さて、天気の良い休日だ。

 残り半日を家でゴロゴロというのも捨てがたいけど、この冬に買った若草色のコートのポケットにサイフをつっこんで、スニーカーを履いた。


 河童日和なら、河童にちなんで川にでも行きましょうか。


 スニーカーが枯れ草を踏む。

 昨晩の雨で、三瓶川の水は黒く深い。

 母さんが好きだった餡子類が美味しい和菓子屋。その店で購入した、オハギが入ったビニール袋をブラブラさせながら、川沿いを歩く。

 見渡す限り、稲を刈り取られた丸坊主の茶色の田んぼ。その中央に流れる大きな川。

 土手のススキが銀色の穂を揺らす。

 

 こんな日に、川沿いの農道をそぞろ歩きたいのは、私だけじゃなかったようだ。


「加藤、加藤千恵子じゃないか!」

「奥田先生! おひさしぶりです」

 中学三年のときの担任教師、私の恩人の奥田先生。

「千恵子さん、おひさしぶりね」

 その横に立つ奥田夫人は、ふっくらした頬で相変わらずきれいに微笑んでいた。

「ご夫婦でお出かけですか?」

「散歩だ。天気があんまりからな。お前は?」

「散歩です。やっぱり天気に誘われて」


「お、く、だ、せんせ~い!」


 女の子の鮮やかな声が響いた。複数の笑い声と足音が近づいてくる。

「よお、お前ら」

「こんにちは」

 ピンクのリップクリームで唇を染めた、華やかな服の少女たち。

「奥さんですか、はじめましてー」

「さっき、向うで松戸くんにも会ったよ」

「あ、娘さんですか?」

「うわぁ、美人さんですね」

「はじめまして。先生のかわいい生徒です」

「いや、私は先生の」

「良かったね、娘さん。先生に似てなくて」

「そうじゃなくて、私は」

「加藤はお前達の先輩だぞ」

「今日は川見物に来る人が多いみたい」

「先生、何かおごってよ」

 女子中学生のマシンガントーク。一方的に話をする、超音波のような黄色い声は苦手だ。

「先生、私はこれで」

「おお。また遊びにこいや」

 

 私は先生と別れて、暖かな陽射しの中を歩き出す。


「こんにちは」

「こんにちは、いいお天気ですね」

 途中で、アパートの住人ともすれ違う。

 釣り人も出ているようだ。

 この川は鮒や泥鰌なども豊富で、それを食べに来た真っ白いサギが、中州で羽つくろいをしていた。


「あれ?」


 水面に浮かんでいる緑のキュウリ。

 川にキュウリがあるということだけでも変なのに、そのキュウリは流れを逆流していた。

 息を詰めてキュウリの行方を見守っていると、一本の釣り竿に辿りついた。

 どっと肩の力が抜ける。


 なんだ、誰かがキュウリを餌に釣をしているのか。


 けれど、次の瞬間疑問が湧きあがる。

 キュウリを餌に、何を釣ろうとしているのだろう?

 ススキが邪魔をして、ここからは謎の釣り人が見えない。

 好奇心を刺激され、私は土手を降りた。


 釣り人はこげ茶色の作業着を着た小ぢんまりとした老人だった。

 かなりの高齢だろうに、飄々と竹の釣り竿を振っている。


「何を釣ってるんですか?」


 驚かさないように、私はそっと声を掛けた。

「河童じゃ」

「えっ?」

「河童じゃ、河童。

 古今東西キュウリで釣るのは河童に決まっておろう。河童はキュウリが大好物じゃで」

 出っ張ったお腹をそらし、おじいさんは何故か大威張りだった。

 

 大好物に決まっているのか、キュウリ。

 河童だって個々によって、好き嫌いがあったてもいいんじゃないかな。

 少なくとも私だったらキュウリなんかでは釣られたりしないぞ。


 前提条件から間違えている馬鹿らしいことを、真剣に考えていた私などにはおかまいなしで、

「それ、和菓子の京筑堂さんの袋だな。中はなんじゃ」

 おじいさんはビニール袋をじっと見ていた。

「……オハギですが」

「そうか、オハギか。わしはオハギが大好物じゃよ」

 おじいさんは真ん丸い大きな目を糸のように細めて、子供のように笑った。

 にこにこにこ。おじいさんは笑う。

 にこにこにこ。笑い続ける。

 にこにこにこ。オハギをもらえるものだと信じて疑わない、子犬を装った古狸の眼差しに私は負けた。

「もしよかったら、少し食べますか?」


 さらりとした漉し餡が舌の上で溶ける。甘みが強いのにさっぱりとしているというのは名人芸だろう。

 芸術の域に達している上品さを舌で慈しみ、私はゆっくりと食べていたが、おじいさんは腹を減らした獣のようにばくばくと食べていた。


 ちっとは、味わって喰え。


 私の心の声が聞こえたかのように、彼がひょいと顔をあげた。

「お茶が欲しいな」

「あります」

 私は半分あきれながら、袋からペットボトルの緑茶を取り出す。

「それを飲んじまったら、お前さんの分がなくなっちまうじゃろう」

「二本買ってあるから大丈夫です」

 そう言って、もう一本を出してみせた。

「そうか、なら遠慮なく」

 皺だらけの手がボトルをがしっと掴み取る。

 図々しいのか、遠慮深いのか、わからない人だなぁ。


 まぁ、それはいい。とにかく本題に入ろう。


「河童を釣ったことはあるんですか?」

 他人からすると笑い話のことを、私は真顔で問うた。

「わしはここで三十年ほど河童を釣っておる」

 大口を空けて、バクリとオハギを食べる。

「じゃが、一度も釣れたことがない」

「ないのかよっ!」

 脊髄反射で突っ込みをいれた私に、じいさんは視線を泳がせた。

「仕方ないじゃろう。釣りに適した河童日和が年に一度か二度しかないんだから」

 いや、それ以前にキュウリを餌に釣ろうとする方に問題が。

 と。

 あれ?

「河童日和って光の春、この時期の天気が良い日のことでしょう?」

 だったら、もっとありそうなんですけど。

「違うぞ。雷が一度だけなった翌日の暖かな冬の日だ」

「雷も必要条件なんですか」

 大家さんはそんなこと言ってなかったな。

「そうじゃ。

 河童は寒い間は川底で冬眠しているんじゃ。だが、川の底にも響くようなドーンと鳴った雷の音で目を覚まし、次の日が暖かければ、その陽気に誘われてふらふらと、ぞろぞろ表に出てきたもんなんじゃが」

「はぁ。ぞろぞろ、ですか」

「そうじゃ。ぞろぞろ、じゃ。

 昔はこの三瓶川にたくさんの河童が住んで、人とも狸とも仲良く暮らしていたんだが、みんなどこへいっちまったんだろうなぁ」


 そういった老人の顔は本当に寂しそうだった。


 まだ釣りを続けるというおじいさんと別れて、私はさらに川上に向かった。

 結局、私が一個食べている間に、おじいさんは一つ残して全部食べた。一つだけ残しておくあたりが、やっぱりよく分からない。

 河童が人と仲良く、はともかく、狸とも仲良くしていたのは初耳だ。

 私が知らない河童の話はまだまだあるのだろうな、などと考えているうちに目的に到着した。


 人の背丈より高いススキに覆われた、秘密の場所。川の流れのせいで、ここは深い淵になっている。 

 落ちないようにバランスをとりながら、そっと片手を水に入れた。陽射しと、流れ込んでいる地下水のせいか、思ったより冷たくない。


 今日は河童日和だから……。


 水中で招くように私は指を動かす。

 ゆっくり、ひらりひらりと。

 小指から順番に指を折っていくと……。

 ぬめりをおびた手が私の指先を握った。

 水かきのある手を私は握り返す。


「母さん」


 海に落ちた飛行機から自力で泳いで帰ってきた豪快な母。

 もっとも、さすがにダメージは大きく、人として暮らす力は失ってしまったようだ。

 そのため、今は川に隠れて棲んでいる。

「母さんの好きなオハギとお茶を買ってきたから、後で食べてね」

 もう一度、強く手が握られる。

 たとえ親子でも本性に戻った姿を見せるのはタブーらしい。

 事故以来、母の姿を見たことはないが、下手に見て、二度と会えなくなるよりはマシだ。


 母さんは私の手を握る。

 私も母さんの手を握る。


 三瓶川にはかつて河童が棲んでいた。

 河童は情が深く、惚れやすかったので、人のところへ婿入り嫁入りしたらしい。

 母さんのように、河童の姿を持つほど濃い血のものはさすがに珍しいが、街にはそれと知らず河童の血をひく人がたくさんいるようだ。


 河童日和。


 河童の子孫達が、暖かな陽気につられて、三瓶川の川沿いをふらふらと、ぞろぞろ歩いている。

 今日はいい休日だ。


  

    

 

                 

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[良い点] オチが良かったです。 [気になる点] さらりとした漉し餡が下の上で溶ける。 誤字報告です。 [一言] 河童に釣られてやってきました。いいですよね、河童。
[良い点] あったかくて素敵な話だと思います。現代+妖怪+ほのぼの、代行物です。ペットボトル2本の伏線もきっちり回収されていてよかったと思います。
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