一年前に死んだはずの彼女が、一日限定で俺の家に帰ってきた
1)いつもより眩しい朝
一年前のあの夜から、俺の世界は止まって動かなくなった。
天真爛漫に笑う彼女──北島悠美を事故で亡くしてから、俺はただ悠美に怒られないためだけに、がらんどうの身体で今日をやり過ごす日々を送っていた。
二人で暮らすはずだったこの一軒家で、一人静かに冷え切った朝を迎える。
その静寂を不意に引き裂いたのは、玄関から甲高い音を響かせるインターホンだった。
「誰だよ……こんな朝っぱらから訪ねてくるのは。はーい……」
俺はそう呟いたあと、わざと気怠げに返事をしてインターホンのモニターへ億劫な足取りで向かい、目を向けた。
だが、そこに映し出された見覚えのあるシルエットを目にした瞬間、考えるよりも早く身体が動いていた。
俺は一目散に廊下を走り、ドアノブに手をかけて、勢い任せに扉を押し開けた。
すると、そこに立っていたのは──。
「……久しぶりっ……佑一くん!」
生前、何度も俺の絶望を救ってくれた、あの花が咲くような笑顔。俺の記憶の底にある姿そのままの、悠美だった。
「……悠……美……?」
「うん、正解。ほんとに……久しぶりだね」
眩しい朝光を背に受けて、彼女は生前と何一つ変わらない、太陽みたいな笑みを浮かべた。
「ゆ……夢……なのか?俺、ついに頭がおかしくなっちゃったのか……?」
絞り出すような俺の声に、悠美は「夢じゃないよ」と柔らかく笑って、俺の頬に手をそっと伸ばしてきた。
掌に触れられた瞬間から伝わってくる、じんわりとした温もり。あの日、病室で触れた冷たい感触とは違う、紛れもなく、確かに悠美の体温だった。
「……悠美……悠美……っ!」
次の瞬間、俺は華奢な身体を狂おしいほどに強く抱きしめていた。潰してしまうんじゃないかというくらい力いっぱいに。
この一年間、胸の底へ深く押し込め続けていた孤独と傷口が弾け飛び、熱い涙が止めどなく溢れ出した。
「会いたかった……。ずっと……ずっと会いたかった……!」
「うん。私もだよ、佑一くん。ずっと会いたかった。ごめんね、何も言わずにいなくなっちゃって……」
背中に回された小さな手が、あやすように優しく頭を撫でてくれる。その慈しみに満ちた温もりに包まれながら、俺は恥じらいを捨てて、押し寄せてくる感情に身を委ねて声を上げて泣いた。
どれくらいの時間、抱き合っていたのだろう。
ひとしきり涙を流し、ようやく心が落ち着いた俺は、名残惜しさを感じながらもゆっくりと悠美の身体を抱きしめていた力を緩めた。
「……ねぇ、入ってよ。ちょっと……状況が飲み込めてなくて。色々聞きたいこととか、話したいことがいっぱいあるんだ」
「そう……だよね。じゃあ、お邪魔しま……。いや、ただいまだよね」
「へへっ、そうだね。ここは俺たち二人の家なんだから」
悠美は嬉しそうに微笑むと、あの日と変わらない軽い足取りで玄関を上がり、リビングへと向かった。
二人で暮らすために買ったこの一軒家。悠美が亡くなってからのこの一年、まるで時が止まったかのように静まり返っていた部屋に、久々に彼女の明るい声が響く。
ソファに向かい合わせで座ると、俺は改めて悠美の顔をじっと見つめた。
目の前にいるのは、間違いなく悠美だ。
でも、どうしても頭のどこかで現実感が追いつかない。
「……なぁ悠美、本当に……どうして君はここにいるんだ? あの日の夜、事故で……」
「うん……。私はもう、この世界にはいない存在なんだ。一年前のあの日、確かに私は死んだ」
悠美は膝の上で手を重ね、少し申し訳なさそうに、でも優しく微笑みながら話し始めた。
「神様がね、ちょっとだけ意地悪だった私に、最後のチャンスをくれたんじゃないかって思うんだ。『あんなお別れの仕方じゃ、佑一くんが前に進めないでしょ』って。だから私がここにいるのは、佑一くんに会って、ちゃんとお別れを言うためだと思うの」
「お別れって……。悠美は、ずっとここにいられるよな?」
淡い期待を込めて尋ねた俺に、悠美は静かに、無理をして作ったような笑顔でゆっくりと首を横に振った。
「ううん。いられるのは……今日、一日だけ」
「……一日……だけ……?」
「うん。正確には分からないけれど、今日の夜、零時を迎えたら、私は本当の場所へ帰らなければいけない、そんな気がするの。それにね……たぶん、今の私が見えたり、声が聞こえたりするのは、佑一くんだけなんだと思う」
「俺だけ……?」
「そう。ここに来る前にね、たくさんの人に会ったんだ。でも、挨拶をしても誰も見向きもしないの……。まぁ、だからね、佑一くん。泣いてばかりいたらもったいないよ? 私たちに二人に残されたのは、今日という時間だけなんだから」
悠美はそう言うと、いつもの天真爛漫な笑顔を浮かべてパンと手を叩いた。
「さあ! 一年ぶりに奇跡的に再会できたことだしさ、今日は二人で思いっきりデートしよっか!これから二人でするはずだったこと、今日で全部制覇しよ!」
「……うん、そうだね」
生前の悠美の像と姿がぴったり重なり、それが少し面白くて、俺は懐かしんで笑顔で返答した。
2) 二人だけの時間
雲ひとつない秋晴れの空の下、俺たちは一年ぶりに並んで街へと繰り出した。
「見て佑一くん! あそこにあんなおしゃれなカフェあったっけ!? 前は古本屋さんだったよね?」
「あぁ、半年前くらいに変わったんだよ。悠美が好きそうなお店だなって、通るたびにずっと思ってた」
はしゃぎながら前を歩く悠美の姿は、あまりにもいつも通りで、道行く人が誰も彼女を振り返らないことが不自然に思えてくる。
すれ違うサラリーマンも、犬の散歩をしているおばさんも、みんな悠美の体をすり抜けるように、まるでそこに誰もいないかのように通り過ぎていく。
(本当に、俺にしか見えていないんだな)
胸の奥が少しちくちくと痛むのを隠すように、俺は歩幅を強めて悠美の隣に並んだ。
「ねぇ、佑一くん。手、繋ご?」
悠美がいたずらっぽく微笑み、遠慮がちに右手を出してくる。
俺は迷わず、その小さな手を強く握りしめた。
その瞬間だった。
「……うわっ!?」
思わず声を上げて足を止めてしまった俺に、悠美が「どうしたの?」と首をかしげる。
俺は繋いだままの自分たちの手元を二度見した。
……消えている。
俺の右手と悠美の手、繋がっている手首から先が、まるで透明人間になったかのようにすっぽりと空間から消え去っていたのだ。
「ゆ、悠美……! 手! 俺の手が消えてる!」
「えっ!? やだ、本当だ! なにこれ、すごい!」
慌てる俺とは対照的に、悠美は目を見開いて面白がっている。
ふっと手を離すと、一瞬で俺の右手は元の姿を取り戻した。もう一度握ると、やっぱり繋いだ部分だけが空間から消える。
「ふふっ、そっか……私が触れている間は、そのモノも周りから消えちゃうみたいだね。神様からの、二人だけの秘密の魔法かな」
「魔法って……心臓に悪いよ。でも……」
俺はもう一度、今度はしっかりと彼女の手を握り直した。
「これなら、周りから『一人で空手を握って歩いてる変な奴』に見られないで済むな」
「あはは、 確かに! 佑一くんの手が片方浮いてるよりは、肘から先がない方が……ううん、どっちにしても怪しいよ!」
声を合わせて笑い合う。
消えた手から伝わってくる確かな温もりと柔らかさが、この不思議で愛おしい現実を俺に教えてくれていた。
周りの人の目には、俺が一人で笑っているように映っている。そのため、視線がかなり集まったが、そんなことはどうだってよかった。
喉が渇いた俺たちは、通りの角にあるテイクアウト専門のカフェに立ち寄ることにした。
「佑一くん、私アイスカフェラテがいいな!」
「わかった。すみません、アイスカフェラテとブレンドをひとつずつ」
店員に注文を伝え、会計を済ませてからそれを受け取る。悠美にカフェラテの手さげカップを渡した瞬間、フッとそのカップが空気中に消え去った。周りから見れば、注文したはずのカップが急に消えたように映るはずだが、幸い店員は奥の作業に夢中で気づいていなかった。
「うわ……悠美が持ってる間はカップも消えるんだな」
「ふふっ、透明なカフェラテ。なんだか不思議な味覚がしそうだね」
「なんだよそれ、多分だけど視覚的な問題のみで、味は絶対変わんないと思うぞ」
「……ふふ、佑一くんのそういう真面目なところもね」
「ん?何か言った?」
「ううん。なんでもない、よっ!」
悠美は俺に軽く肩をぶつけたあと、嬉しそうにストローを口に含み、美味しそうに目を細めた。俺たちの手元からはカップが見えないけれど、ストローを吸う彼女の喉がキュッと動く様子が可愛くて、思わず胸がキュンと締め付けられた。
俺たちはそのまま、大学時代によく訪れていた思い出の公園へと足を進めた。
並木道には色鮮やかな落ち葉が敷き詰められており、サクサクと踏みしめる音が響く。
公園の中央にある大きな池の周りには、当時と変わらないベンチが残っていた。
「あ! 佑一くん、見て! あのベンチ!」
悠美が指さしたのは、大学二年の秋、俺たちが付き合い始めた思い出の場所──平田公園だった。ここでよく、手を繋ぎながら日が暮れるまで過ごしていたなと思い、ふとその映像が鮮明に蘇ってきた。
隣にいる悠美には、この思い出を共有することはしなかった。というよりできなかった。俺にとってあの時間は、何よりも大切な思い出で、もちろん悠美には同じ事を思っていて欲しかった。
でも、全てを話すのは悠美が今日限りで居なくなってしまうからだと、そうなるのを受け入れている自分がいるような気がして、俺はそれが不快でしょうがなかったからだ。
二人でベンチに腰を下ろすと、冷たい秋風が吹き抜ける。けれど、隣にいる悠美から伝わる温もりのおかげで、寒さなんてちっとも感じなかった。
「懐かしいね……。今から6年前だっけ?あの時、佑一くんすごく緊張しててさ、手がすっごく汗ばんでたんだよ?」
「……そっか、覚えてたんだ。でもよしてくれ、その昔話は」
「だって本当だもん! 『好きです、付き合ってください』って言うのに、何回噛んだと思ってんの?」
「あの時は心臓が破裂しそうだったんだよ……。告白すること自体が俺にとっちゃ初めてだったし……」
照れくさそうに頭をかく俺を見て、悠美はいたずらっぽく、でもどこか愛おしそうにクスクスと笑う。
この一年間、冷え切っていた俺の心が、彼女の笑い声で少しずつ満たされていく。ずっと奪われていた「当たり前の日常」と「幸せな時間」が、今確かにここに戻ってきていた。
「ねぇ、佑一くん!次はあの通りにあるアクセサリーショップに行こ! 私が当時働いてたお店、今どんな感じになってるのか気になる!」
「ああ、行こう。悠美がやりたいこと、全部付き合うよ」
止まっていた俺たちの時間が、再び力強く動き出そうとしていた。
3) 一年越しの予約
俺たちは悠美の願望通り、一年前、悠美が亡くなる前まで働いていたアクセサリーショップ──ブレスクを訪れた。
今でもこの道を通る俺にとってはいつも見る風景で、懐かしさなど微塵もない。ただただ孤独感と現実を突きつけられる景色でしかなかった。
しかし悠美にとっては──。
「うわぁー!懐かしいなぁ……。そうだ!まだいるかな、中山さん。佑一くんも何回か会ったことあるはずだよね。覚えてない?私と同じくらい美人の」
悠美はそう言って、長い亜麻色の髪を靡かせて、ウインクをする。
「いや自分で言うんかい、まぁ否定はしないが。まだいるんじゃないか?一年って長いようで短いし。……いや、そうでもないか」
違うな、感じ方は人それぞれだ。最近の俺にとって、一年というのは長くて、終わりが近づいているように感じないものだった。きっと毎日が退屈だったからだと思う。少なくとも、一年前のあの日まではそうじゃなかった。それはきっと、悠美がいたからだろう。
「いてくれたらいいんだけどなぁ。あの時みたいに話せなくてもいいから、一目見られるだけで……」
悠美はそう言って、俺の手をガッシリと握った。俺の勘違いなのかもしれないが、心なしかそれは、デートの初めに手を握られたときよりの力より、ずっと強いように感じた。
「よし、入ろっか」
俺がそう言うと、悠美は「うん!」と少し緊張したように頷いた。
店内に入ると優しく心地よいアロマの香りと、ショーケースに飾られた繊細な製品たちがキラキラと光を反射して迎えてくれた。
奥のレジカウンターには、女性店員──中山瑞穂さんが立っていた。悠美絡みで何度か会ったことがあるため面識はあるが、相変わらず品のある美しい人だ。
「あ……中山さんだ!」
悠美の目がぱっと輝く。
足を早めてカウンターへと向かい、嬉しそうに彼女の顔を覗き込んだ。
「中山さん!お久しぶりです!私です、北島悠美です!」
無邪気に声をかける悠美。しかし、中山さんは手元の在庫ノートに視線を落としたまま、ピクリとも動かない。
当然だ。中山さんには悠美の姿も見えなければ、その声も届いていないのだから。
悠美は一瞬寂しそうな顔をしたが、すぐに笑顔を作って「相変わらず、綺麗だなぁ」と小さく呟いた。
そして、そっと中山さんの手元に置かれたディスプレイ用のリングに触れる。その瞬間、悠美の手に触れたリングがフッと空間から消えた。
『触れている間は消える』という、俺たちだけの秘密の現象。
誰も気づかない店内で、俺と悠美だけがその小さな奇跡を共有している。
悠美はリングをすぐには手放さなかった。
俺は居た堪れない気持ちになった。でも、顔には出していないはずだ。
しかし、悠美がこっちに視線を移してすぐに。
「よしっ、顔も見られたし満足! 佑一くん、行こっか」
「……あぁ」
強がるように、クルリと振り返った悠美の表情を、俺は見逃さなかった。今すぐにでも声をかけて抱きしめたい。でも、容易にそれができないからこそ、俺は繋いだ手を強く握り返すことしかできなかった。
*
お店を出る頃には、空は茜色から群青色へとグラデーションを描いていた。街灯が一つ、また一つと街を照らし始めていた。
残された時間が、刻一刻と削られている証拠だった。
「ねぇ、悠美。そろそろ行こっか」
「え、どこに?」
「それは、着いてからのお楽しみだよ」
「えぇ〜なにそれ、気になるじゃん!早く行こっ、待ちきれないよ!」
悠美は無意識なのか、それともそうすることしかできなかったのだろうか。笑顔に影をちらつかせながら、小走りにさせられるくらいには強い力で俺の手を引いた。
悠美の考えていることが、俺にはすぐにわかった。悠美についても、俺が何を考えているか、わかっていただろう。でもお互いに、それを口にすることは一切しなかった。
*
該当に灯された夜道を歩いて行く。その先に俺たちを待ち受けていたのは──。
「ねぇ、ここって……」
「うん。一年前、二人で来るはずだったレストラン。あ、高級レストラン」
「ふふっ、卑しい男」
「ハッハッハッ、これでも大手に勤めておりますので」
「アハハッ、ほんと変なの」
まだ冗談を言い合える空気であることに俺は安堵し、俺たちはレストランに足を踏み入れた。ガラス張りのビルの中階層にあるそのレストランは、落ち着いたジャズが流れ、窓からは街の夜景が一望できる大人の空間だった。
「深見佑一様、お二人様……でお間違いなかったですか?」
「はい、二名で」
「……お待ちしておりました。では、席のご案内をさせていただきますね」
恭しく案内されたのは、夜景が綺麗に見える窓際のテーブル席。俺が座る椅子を店員が引き、悠美と苦笑いをして向かい合って座った。
周りの客や店員から見れば、俺は『連れがいないのに、一人でコース料理を頼んでいる寂しい男』に見えているだろう。時折、隣の席から不審そうな視線が向けられる。
けれど、俺の目にははっきりと見えていた。
テーブルの向こうで、窓の外に広がる眩い夜景に目を輝かせ、ドレスアップしたかのように美しく映える悠美の姿が。
「佑一くん、すごいサプライズだよ……。こんなところ予約してくれてたなんて」
「喜んでくれたならよかったよ。俺さ、ずっとこの景色を悠美に見せたかったんだ。だから……ほんとうによかった。」
「うん、本当に嬉しい。ありがとね」
運ばれてくる色鮮やかな料理。
フォークとナイフを持つ悠美の手元で、料理が一瞬消えては、口に運ばれるたびに消えていく。
そのシュールで愛おしい光景に、俺たちはクスクスと笑い合った。
「うっわ、これすっごく美味しい……! 」
「へへっ。 一年待った甲斐があった、とでも言うべきかな」
ガラス越しに見える街の明かりが、悠美の瞳の中でキラキラと反射していた。
そんな中俺は、おそらくこの瞬間だけは、世界で一番俺たちが幸せだなのだと思っていた。
4)渡せなかったもの
夢のようなディナーを終え、俺たちは夜の静けさに包まれた我が家へと帰ってきた。
玄関の鍵を開け、明かりを灯す。二人で住むはずだった一軒家。朝までは、ただの冷たくて広い空洞だったこの場所が、今は悠美の温もりと匂いで満たされている。
「ふぅー、美味しかったし、楽しかったぁ……! やっぱり、佑一くんと過ごすお家が一番落ち着くね」
悠美はそう言って、リビングのソファに倒れ込むように腰かけた。
腕時計に目をやると、時刻はすでに22時を回っていた。
俺たちに残された時間は、あと2時間しかない。
二人でリビングのソファに向かい合わせで座り、たわいのない思い出話を笑い合いながら重ねていく。
しかし、時間が経つにつれて二人の間の会話には少しずつ間が空くようになっていった。
時計の針が、カチカチという一定のリズムを刻む。そしてその音だけが、重たく部屋に鳴り響いている。
しんもりとした切ない空気の中、壁掛け時計の長針が「11」を指した。
23時──。
ふと、悠美が少し悪戯っぽく微笑んで、俺の顔を覗き込んできた。
「ねぇ、佑一くん……。あのレストランで、本当は私に何か渡すものがあったんじゃない?」
胸が、ドクンと大きく跳ね上がった。
「……バレてた?」
「ふふ、隠しても無駄だよ。だってあの日の夜、佑一くんが何かを用意してくれていたんだろうなって、なんとなく分かってたんだから。……あー、でも本当に私が想像しているとおりのものなのかがわかんないなぁ〜。佑一くん、答え合わせ、してくれる?」
「……うん、ちょっと待ってて」
悠美は優しく、どこか慈しむような目元で俺を見つめている。
俺は「ふぅ」と息を吐いて立ち上がり、奥の寝室へと向かった。
クローゼットの奥深く、1年間大切に仕舞い込んでいた小さな革張りの箱。この1年、開けることすら恐ろしかったそのケースを、震える指先で取り出した。
リビングに戻り、悠美の目の前に立つ。
膝をつき、ゆっくりと箱を開いた。
中に収まっているのは、家の中の照明の光を受けて控えめに輝く、一粒のシンプルなダイヤモンドリング。
「あの日……これを渡して、ちゃんと言おうって……思ってたんだ」
視界が涙で歪んで、悠美の顔が滲んで見える。喉の奥がキュッと絞めつけられるような感覚を覚えながら、俺は1年越しの言葉を紡いだ。
「北島悠美さん。俺、今日のデートでわかったよ。俺には……やっぱり悠美がいないとダメみたいなんだ。だからっ……こんな俺ですけど、結婚して下さい」
ずっとずっと言いたかった言葉。あの日、永遠に失われたはずだった約束。
悠美は口元に手を当て、瞳からボロボロと大きな涙をこぼした。
そして、溢れ出る涙を拭おうともせず、心からの満面の笑みを咲かせた。
「……はい! 喜んで!」
悠美が左手を差し出してくる。
俺は震える手でリングを取り出し、彼女の薬指へとそっと滑らせた。
指輪のサイズは、あの日測った通りぴったりだった。
指輪が指に収まった瞬間、指輪と悠美の手がフッと空間に馴染み、ふたりだけの『透明な魔法』でキラキラと輝きを放った。
「……綺麗。すごく……嬉しい」
悠美は指輪を見つめながら、声を詰まらせて泣いた。
俺は彼女を強く抱きしめた。もう、涙を止めることはできなかった。
5)いつかまた会えると信じて
抱きしめ合う二人の体温が、ゆっくりと重なり合う。
指輪をはめた悠美の左手は、夜の部屋の中で優しく愛おしい光を纏っていた。
ふと見上げると、壁掛け時計の針は「23時50分」を過ぎていた。
刻一刻と迫るその時を前に、悠美の身体がほんの少しだけ透け始めていることに気づいた。
「あ……」
「時間……みたいだね」
悠美は寂しそうに、でもどこか晴れやかな笑顔を浮かべた。
指先からパラパラと、光の粒子のようなものが微かに舞い散り、空気中に溶けていく。
「ダメだ……悠美、やっと会えたのに……!」
俺は必死で彼女の身体を力いっぱい抱きしめ直した。
だけど、先ほどまで確かに感じられていた彼女の温もりが、すーっと手の中からすり抜けていくような、圧倒的な寂しさが襲いかかる。 同時にあの日、病院で触れた彼女の体温が蘇る。
「佑一くん、聞いて」
悠美は優しく俺の頬に両手を添えた。その手はもう半透明で、俺の肌をすり抜けてしまいそうだった。
「こんなにも私を愛してくれてありがとう。だから、先に死んじゃってごめん。本当に……ごめんね。でもね、私は佑一くんと出会えて、本当に幸せだった」
「悠美……っ」
「今日ね、神様がくれた奇跡のおかげで、一年前の心残りが消えたの。ずっと待ってた言葉も……こんなに素敵な指輪と一緒に貰えたから」
悠美は涙でいっぱいの瞳を細め、薬指の指輪を愛おしそうに見つめた。
「まぁ、欲を言えばこれからの生活に憧れもあったよ。だけどね、私は死んじゃったの。もうこの世界にはいないの。そんな私が、今日こんなにもいいものを貰えたんだから、これ以上はもう何も望めない。もう、止まったままの場所にいちゃダメだよ。明日からは……ちゃんと自分のために、前を向いて生きてね」
「そんなの……どうやって。 悠美がいない世界で、俺がどうやって──」
「できるよ」
悠美はきっぱりと、でも溢れるほどの愛を込めて言った。
「だって、佑一くんは私が世界で一番好きになった、かっこよくて強い人なんだから」
時計の長針が、カチリと12の数字に重なる。
零時──。
「……あ、もう行かなくちゃ」
「待っ……」
「奇跡をくれてありがとう、神様。それと……愛してくれてありがとう、佑一くん」
悠美は最後に、今日一番の、あの日と似通った太陽のような笑顔を咲かせた。
手を伸ばした瞬間、彼女の身体は光の粒子となってフッと弾け、静かな夜の空気の中へと消え去った。
抱きしめていた両腕には、もう誰もいない。
ただ、静寂だけがリビングを包み込んでいた。
俺は床に伏し、声を枯らして泣き続けた。
彼女が消えたその場所で、何度も、何度も名前を呼びながら。
*
カーテンの隙間から、眩しい朝日が差し込んでいた。
鳥のさえずりと、爽やかな朝風の音が耳に届く。
俺はリビングの床で、浅い眠りから目を覚ました。
夢だったのだろうか。
あの温もりも、笑顔も、ぜんぶ俺の都合のいい幻だったのだろうか。
重い身体を起こし、ぼんやりと空を見上げる。
昨日までの、あのがらんどうで冷たかった胸の奥に、不思議とほんのりとした温かさが残っていた。
ふと、ソファの脇のテーブルに目をやる。
そこには、昨日ふたりでテイクアウトしたカフェの空のカップと──
悠美がはめていたはずの、あのダイヤモンドリングが、朝光を受けてキラキラと輝いていた。
「……夢じゃ、なかったんだな」
指輪をそっと手に取り、愛おしく胸に抱きしめる。
窓を開けると、澄み切った青空がどこまでも広がっていた。
「……行ってらっしゃい、悠美」
空に向かってそう呟いた俺の頬を、爽やかな秋風が優しく撫でて通り過ぎていった。
止まっていた俺の世界が、静かに、けれど確かに、未来に向かって動き始めた。




