運命の劇場、あるいは妄想の彼方
控えの間の安っぽい木の椅子が、真葉音の熱量に耐えかねて軋んでいるようだった。 彼女は瞳に「超麺町」の幻影を映し出し、朗々と口上を述べ始める。
「――理想の運命の出会い。わたしの名は刀真葉音。大好きな刀削麺を喰らうため、遙々この麺の聖地までやって来た。刀削麺の真髄、それはまず食感にあり! 外はもっちりと弾み、内は雲の如くふんわりと軽い。不規則な太さと厚みが、スープを気まぐれに抱き込み、ひと口ごとに千変万化の表情を見せる。そして付盛は、迷わず結晶菜。それこそが麺徒の正義であり、わたしの――」
「いい、いい。そういうのは、もういいから」
滔々と語る真葉音の言の葉を、和尚が鋭く、かつ無慈悲に切り捨てた。 「麺の魅力はもう耳にタコができるほど聞いたわ。理想の『出会い』の方を語りなさいよ」 「刀削麺の魅力を語らずして、どうして運命が成立するというの!」 真葉音が食ってかかると、和尚は「また始まった」とばかりに天を仰ぐ。その横で、本が堪えきれずに声を上げて笑った。 「ははは! 最高のコンビだな、君たちは」
真葉音は咳払いひとつ、再び身を乗り出した。その瞳は、もはや現実の倉庫など見ていない。 「……いい? よく聞いて。お店に入ると、そこはもう人気店特有の喧騒に包まれているの。店員さんは『列を詰めて! 順番に注文くださーい!』と声を張り上げ、客の列は蛇のようにうねり、秩序は崩壊寸前。誰が注文済みで、誰が未注文か、その境界が曖昧になった、その一瞬の空白に――」
彼女は一度、溜めてから声を潜める。 「運命の二人が、同時に『きた』と確信するの。そして、一糸乱れぬタイミングで口にするわ。――『麻婆刀削麺』と!」
「……麻婆刀削麺なんかい!」
和尚のツッコミが雷鳴のごとく響いた。本も不思議そうに首を傾げる。 「さっきの『正義の結晶菜』はどうしたんだい? 結晶菜のみの注文じゃないのか」 しかし、真葉音はどこ吹く風で、飄々と応じた。 「思想は結晶菜。けれど、欲望は麻婆なのよ」 「理想と注文が完全に別人じゃない。矛盾の塊ね」
和尚が一瞥をくれるが、真葉音の心は微動だにしない。むしろ深く息を吸い込み、きっぱりと言い放った。 「やり直し!」 和尚の号令で、真葉音は即座に仕切り直す。 「同時に――『特盛刀削麺、全付盛!』」 さらに真葉音は、わざとらしく声色を低く変え、理想の男性を演じ始めた。 「『……おや。偶然ですね、同じだ』」
和尚は即座に首を振る。 「同じじゃないわよ。麻婆は確かに抗い難いし、全付盛は豪華絢爛だけど。……本くん、どう思う?」 「……そうだね。名店巡りを嗜む人ほど、あえて特盛は頼まない気がするな。次のお店に差し支えるから」 本が至極冷静に補足するが、真葉音は引かない。 「でも運命なら、そんな理屈は超えてくるでしょ!」 「超えないわよ。運命はカロリーに挑んだりしないの」 「運命だから!」
真葉音が言い切る横で、本が「夢見がちだなあ」と小さく呟く。 それでも真葉音の独演会は止まらない。再び男性の声を演じ、うっとりと頬を染める。 「『偶然ですね。僕も特盛刀削麺、全付盛が好きなんです。この圧倒的な小麦の風味が活きてくるというか……』」 「死んでるって、それ」 和尚が頭を抱えた。 「刀削麺を敬いすぎて、脇役の付盛をずらっと並べ立てたせいで、主役の麺の座が完全に奪われてるじゃない。それ、もう刀削麺じゃなくて立派な『華膳』よ」
真葉音は、さらに声色を変えた。今度は少し控えめで、どこか誠実そうな響き。 「『あ、あの……実は、真葉音さんが以前考えていた“運命の出会い”の話、風の噂に聞いたことがあって。気づいたら……あなたの後ろに並んでいました』」
その言葉が落ちた瞬間、本が即座に、真顔で首をかしげた。
「……誰?」
和尚は腕を組み、呆れ果てた様子で埃の舞う天井を見上げた。 「すごいわ。妄想の大暴走。止める術がないわね」 「刀 真葉音」 本が、その姓名を噛みしめるように淡々と口にする。 「苗字に刀削麺の『刀』の一文字が入っているだけで、よくぞここまで純粋な溺愛に育ったものだ」
二人の嘆息を余所に、真葉音はまだ「運命の劇場」から帰還していなかった。 彼女は男性の声色のまま、きょとんと首を傾げてみせる。 「刀真葉音……?」 そして、並んでいる列の後方を懐かしげに眺める仕草をした。 「あ、もしかして……近所に住んでいた、削くん?」
彼女の一人芝居は続く。今度は少し声を低め、再会を喜ぶ青年の体だ。 「『そう。僕だよ、削だ。今はこっちの街で、刀削麺の専門店を営んでいるんだ』」 「えっ!」 真葉音は唐突に素に戻り、瞳を爛々と輝かせた。 「削くんのお店、絶対行きたい!」
「刀削麺屋に、嫁ごうとしている……」 本が静かに、ある種の真理に到達したかのような声で結論づける。和尚もすかさず現実の刃を突きつけた。 「いい、真葉音。その物語はね、近所に『削くん』という男が実在し、かつ、彼が現在進行形で刀削麺職人になっていないと成立しないのよ。……大丈夫?」
それでも真葉音は止まらない。再び熱を帯びた男性の声色で、妄想の幕を無理やりこじ開ける。 「『真葉音ちゃん。僕はね、ずっと君を探していたんだ。――結晶菜のように純粋な君を』」 「麻婆刀削麺を喰らっている口で言うな!」 和尚の即座の切り返しに、本も冷静さを保ったまま、別の死角から刺した。 「そもそも、その麻婆刀削麺……どうやって運んだんだい? 両手は全付盛の盆で塞がっているはずだろう」
物理法則に基づいた問いすら、真葉音の耳には届かない。 彼女は胸に手を当て、小さく吐息を漏らした。 「一体……どの運命が、わたしを待っているのかしら」 「はい、小休終了。現実に戻るわよ」 和尚のわざとらしいほど冷めた一言で、極彩色の妄想はぷつりと途切れた。
〇休日明け・倉庫控えの間
数日後。 週明けの控えの間の空気は、どんよりとした現実の重さを取り戻していた。 けれど真葉音の胸の奥では、まだありもしない運命が、小麦の香りと共に微かな湯気を立てている。
「お疲れさま」 本が軽く手を上げ、和尚もそれに続く。 ふと、本が足を止めて首を傾げた。 「あれ? 真葉音ちゃん、どうしたんだい。真っ白だよ」 「超麺町から帰還して、霊魂残影と化したのよ」 和尚が即答する。本は思い出したように笑みを浮かべた。 「ああ、例の『運命の出会い』か。休日の間、僕も気になっていたんだ。真葉音ちゃん、今ごろ誰かと同時に注文しているかなって。おかげで宮廷風の即食麺を食べる時も、彼女の顔が浮かんだよ」 「即食麺かーい!」 二人の笑い声が重なり、控えの間に弾んだ。
――けれど、もう一人の声が、足りない。 本が少しだけ声のトーンを落とし、探るように訊ねた。 「それで……実際のところ、どうだったの?」 和尚が肩をすくめる。 「……重度の腹痛と『運命の出会い』を果たしたらしいわよ。欲張って全付盛を完食したんですって」 「やるねえ、流石は真葉音ちゃん……あ、ごめん」 本は言いかけて、そのあまりの「無」の表情に言葉を飲み込んだ。
「霊魂残影の間は、気遣ってあげて」 和尚の声に促されるように、真葉音はようやくゆっくりと顔を上げた。 その表情は、さっきまでの飄々としたものとは一線を画す、妙に神妙な、暗い影を帯びたものだった。
「……ねえ。友だちのお母さんの、話なんだけど」 唐突な切り出しに、二人は言葉を失う。 「その人ね、典礼院に入庁して、わずか一節で職を辞したことがあるんだって。最初は『一年間は地方の巡府勤務』だと聞かされて、それを信じて務めていたらしいんだけど……」
真葉音は、慎重に言葉を選ぶように、絞り出すように続けた。
「巡府にね、同じ条件で入庁した先輩が、何人も残っているんだって。みんな口々に『一年間だけって聞いていたんだけど、まだなのかな』って……そう言いながら、もう何年も、そこに留まっているらしいの」
真葉音の呟きが落ちると、控えの間はしんと静まり返った。 本が小さく息を吐き、苦笑を浮かべる。 「いきなり真剣な顔をしたと思ったら……巡府に彷徨う霊魂残影の怪談だったか」 彼は努めて軽やかに、場をいつもの笑いに戻そうとした。けれど真葉音の胸の奥に澱のように残った不安は、容易には消え去らない。 愛する小麦の香りの向こう側で、倉庫の時間が、静かに、重く、雪のように降り積もっていく気配がした。
「しかもね」 和尚が、少し声を落として身を乗り出す。 「今のわたしたちの状況に、あまりに似すぎていると思わない……?」 真葉音は深く、深く首肯した。 「そのお母さんが入庁した局っていうのが、ね……」 和尚と本が、同時に息を呑んで続きを待つ。真葉音は溜めてから、こう言い放った。 「……昨日、わたしが寝る前に見た夢の話なんだけど!」
一拍の沈黙。 「えええ!?」 本が椅子を鳴らして叫んだ。 「真葉音ちゃん、夢の国・超麺町から帰ってきて見た夢が、それ? 縁起が悪すぎるよ」 「なんかさ」 和尚が探るように、真葉音の瞳を覗き込む。 「本宮へ行けるかどうか、本当は不安になってきたんじゃない?」 「……本宮、希望を出したんだ?」 本が改めて真葉音を見た。 「わたしも真葉音も、当然のように本宮を第一希望にしているわ」 和尚が言い切り、ちらりと本に視線を流す。 「本くんは……違うの?」
「あ、うん。オレはこのまま、太井炭に残るよ」
「……そっか」 真葉音はそれだけを返した。 その一言が落ちた瞬間、控えの間の天井が、わずかに遠のいたような気がした。窓から差し込む冬の光の中で、踊る埃の粒がやけにゆっくりと、永遠を刻むように漂って見える。
和尚が、湿っぽさを振り払うようにニヤリと笑った。 「まさか、『オレはこの生まれ育った町が好きだからね』なんて、お決まりの台詞は吐かないでしょうね!」 本は困ったように肩をすくめる。 「……太井炭って街が、好きだからね」 「あ、言ってる!」 三人は同時に吹き出した。笑い声が木の卓に弾け、薄暗い壁に跳ね返り、やがて静かに沈んでいく。
けれど、その後に訪れた沈黙は、さっきまでとは明らかに質が違っていた。 三人の脳裏には、それぞれ別の景色が広がっている。 本が見ているのは、慣れ親しんだ太井炭の町並みだろう。炭の匂い、黒ずんだ煙突、夕暮れに長く伸びる坂道の影。彼の背中には、その風景が離れがたく貼り付いている。 対して真葉音は、自分の胸の奥に、まだ見ぬ異郷の景色を抱いている。白い石畳、高い柱廊、そして、無限に広がる本宮の空。
同じ卓を囲み、同じ空気を吸っていても、三人の視線はもはや違う方角を向いている。笑いで埋めたはずの距離が、残酷なほど鮮明に、その輪郭を現していた。
その時、重苦しい空気を勢いよく切り裂く声が響いた。 「刀削麺、残り一杯だよ!」 階下の「壮築楼」の奥から届いた、甲高く、よく通る声。 それを合図に、静止していた世界が動き出した。ざわめきが一瞬で波立ち、椅子が引かれ、器の触れ合う音が重奏となって響く。 三人は反射的に顔を上げた。 自分たちの不確かな未来の話は、まだ卓の上に置き去りにされたまま。
そこへ、さらに場を踏み荒らすような喧騒が飛び込んできた。
「おいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおい! 大変だ、配属発表の日が、ついに公示されたぞ!」
控えの間の静寂を粉々に粉砕して飛び込んできたのは、口だった。 その名の通り、一度開きだすと止まらない弁舌と、過剰なまでのエネルギーを撒き散らす男だ。 「……今年も、例年通り十二節一日じゃないのかい?」 本が、耳を押さえながら冷静に返す。 「おいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおい! 当てるなよ! そこは驚くところだろう!」 「『おい』が多いわよ」 和尚が即座に、刺すようなツッコミを入れる。だが、口はそんなことで怯むような殊勝な男ではない。 「おいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおい! それで、みんなはどこを希望しているんだ?」 「わたしと和尚さまが本宮で、本くんはこの街……太井炭に残るの」 真葉音が答えると、和尚は腕を組み、口を値踏みするように見た。 「口くんは? ……あ、『おい』抜きで教えて」
「本宮希望だよ! おいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおい! 真葉音ちゃんに和尚ちゃん、僕ら三人一緒だね!」
口が歓喜の声を上げる一方で、本は「あ……」と小さく声を漏らし、ふっと視線を落とした。 本宮へ行く者。この街に残る者。その境界線が、口の騒がしい宣言によって、より残酷なまでに明確に引き直された瞬間だった。 気まずい沈黙が流れかけたその時、本が真葉音の抱えていた「中祐の作品解説集」を指さした。
「……それ、少し見せてもらってもいいかな?」 「あ、どうぞ!」 真葉音が差し出した冊子を、本がパラパラとめくる。その中に挟まっていた、画家本人の近影が写った魔導写真が、ふいに三人の目に飛び込んできた。
「(……っ! いっ、イケメン!)」
和尚の反応は、もはや条件反射に近かった。先ほどまでの「頼れる年長者」のような凛とした空気はどこへやら、その瞳は獲物を狙う鷹のように鋭く輝いている。
「倉庫勤務者なら、希望すれば貰えますよ」 本の穏やかな声に、和尚が鼻息荒く身を乗り出す。 「絶対、貰った方がいいわ。これ、今すぐ申請できるの?」
「倉庫勤務者なら、希望すれば貰えますよ」 本が穏やかに、どこか確信を持った口調で言った。 「絶対、貰った方がいいです!」 真葉音も身を乗り出し、瞳を輝かせる。 「最高傑作です。私、本当に大好きなんです!」
「あ……ありがとうございます」 控えの間の入口で、いつの間にか立ち止まっていた男が、少し驚いたように、けれど丁寧に頭を下げた。その立ち居振る舞いには、埃っぽい倉庫には不釣り合いなほどの気品が漂っている。 和尚の目が見開かれた。 「も、もしかして……」 「本宮の方ですか!?」 二人の声がぴたりと重なる。
「ええ」 男は静かに頷いた。 「これを制作した内の一人です。色彩の最終確認をしているのですが、どうしても工場生産だと、微細な差が出てしまいまして。直接現物を確認しに来たのです」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、真葉音は弾かれたように立ち上がった。 「本、お持ちしますね! すぐに!」 「何冊必要ですか? 予備も含めて用意します」 和尚も続く。 控えの間を、不安と期待、そして予期せぬ「本宮の風」がもたらした高揚感が一気に満たしていく。
「……良いのですか? さっき倉庫を覗いた時は、かなり厳重に梱包されているようでしたが」 男が遠慮がちに、少し困ったような笑みを浮かべる。真葉音は即座に、眩しいほどの笑顔で返した。 「お任せください。倉庫の主を、舐めてもらっては困ります」 その声音には、自分でも驚くほどの妙な自信が宿っていた。
真葉音と和尚は、飛ぶような足取りで連れ立って倉庫の奥へと消えていった。 一人残された本に対し、男は少し不思議そうな、感心したような顔を向けた。 「……すごく、気の利く方々ですね」 「あ、はい……」 本は、自分が褒められたわけでもないのに、なぜか誇らしいような、それでいて気恥ずかしいような心地で、曖昧に頷くことしかできなかった。
「お待たせいたしました!」 和尚の凛とした声が響き、真葉音は丁寧に畳まれた布鞄を差し出した。 「これ、先月の行事で余った備品なのですが……角が傷つかないよう、中に入れておきました」 「ありがとうございます。……本当に助かります」 男は恭しく布鞄を受け取り、丁寧に頭を下げた。その指先が、真葉音たちが手際よく揃えた本の束を愛おしそうに撫でる。 「では、早速本宮に持ち帰ります。……また、お会いできるかもしれませんね」
「お気をつけて!」 二人が見送る中、男の背中が控えの間から消えていく。 その気配が完全に消えたと確信した瞬間、和尚が深いため息とともに、小さく息を吸い込んだ。
「……イ、イケメンだった……」
その呟きは、先ほどまでの「有能な官吏」の仮面を剥ぎ取り、一人の女子としての切実な本音に満ちていた。
余韻に浸る間もなく、間髪入れずにあの嵐のような声が飛び込んできた。
「おいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおい! 大変だ、今の男……あの宮廷画家の中祐本人だってよ!」
「「ええっ!?」」
真葉音と和尚の声が、今日一番の見事な重なりを見せた。差し出した布鞄、整えた本の束――あの瞬間のすべてが、憧れの本人へ向けたものだったのだ。驚きと、もっと気の利いたことを言えばよかったという後悔が、控えの間を激しく揺さぶった。
〇十二節一日・早朝
太井炭の街は、夜の間にうっすらと雪化粧をしていた。 空気は刃物のように鋭く澄み、吐き出す息は白くほどけて闇に消えていく。
真葉音は、いつになく震える指先を官服のポケットにねじ込み、「天速渡線」の始発を待っていた。 今日。この日の、この掲示板の一行で、私の人生が決まる。 本宮へ行き、あの煌びやかな行事運営の最前線に立つ未来を掴むのか。それとも、あの夢に見たように――霊魂残影となって、埃っぽいシャッターの前で虚しく時間を積み重ねていくのか。
(……それだけは、嫌)
そう強く念じなければ、寒さと不安で足がすくみそうだった。 ふと見れば、ホームの端に見慣れた背中が立っていた。
「……本くん、早いね」 「あ、真葉音ちゃん」
本は少し間を置いて、気恥ずかしそうに眉を下げて笑った。 「今日はさすがに……寝付けなくてさ」
そう言って、本は天速渡線のワイヤーを見上げた。まだ夜が明けきらぬ薄明の中、彼の横顔はどこか遠く、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。 始発の到着を告げる魔導式の鐘の音が、静かな朝の底に響き渡る。 運命は、もう後戻りできない速さで動き出していた。
太井炭巡府。 その巨大な掲示板の前には、発表の魔導パネルをひと目見ようと、入庁一年の若き官吏たちが黒山の人だかりを作っていた。
「おいおいおいおいおい!」
絶叫に近い叫び声が、合格発表に沸く広場を切り裂いた。 人波の向こう側、必死な形相で走り去っていく口くんの背中が、雑踏に紛れて一瞬だけ跳ねる。彼が目にした文字がどんな残酷なものだったのか、わざわざ問い直すまでもない。
「……真葉音、行くわよ」
隣に立つ和尚さまが、落ち着いた、けれどどこか弾んだ声で私を促した。 彼女の手が、私の背中をぽんと軽く叩く。その心地よい衝撃で、心臓の奥に冷たく固まっていた緊張の塊が、しゅわしゅわと音を立ててほどけていった。
私たちの目の前で、巨大な発表用の魔導パネルが起動する。 低い唸り音とともに、パネルの表面が青白く発光し始めた。文字はすぐには像を結ばない。じれったいほどゆっくりと、もったいぶるような仕草で、空中に光の粒が浮かび上がっていく。
【行事運営局・正式配属先一覧】
文字が完成しきるのを待てず、私は乱暴に視線を滑らせていた。 「刀」、あるいは「普現寺」の文字を、食い入るように探す。
普現寺 和尚 …… 本宮・行事運営第一課 刀 真葉音 …… 本宮・行事運営第一課
「……やった」
絞り出した声は、自分でも驚くほど小さく、震えていた。 「……本宮。本宮だ……!」
隣を見れば、あの冷静な和尚さまが「よしっ」と小さく拳を握りしめている。その年相応な仕草を見て、ようやく私のなかでも実感が追いついてきた。エリートが集う第一課。そこが、今日からの私たちの居場所になる。
喜びが肺の奥でパンパンに膨らみ、今にも弾けそうになる。 私はこの高揚を共有したくて、反射的に周囲を見渡した。
少し離れた場所、人混みの縁に、本くんが立っていた。 彼は他の喧騒から切り離されたように、ただ一人、静かにパネルを凝視している。感情の読み取れない横顔。その視線の先にあるのは、私たちが見つめていたのとは別の行だった。
井 本 …… 太井炭巡府
希望通りだ。 彼は、埃っぽくて騒がしいあの太井炭に残った。それも、裏方の倉庫番ではない。街の中枢である巡府の本部だ。間違いなく、彼が熱望していた場所。
――太井炭という街が好きだから。
本くんが、ふっと口元を緩めたのが分かった。 それは本宮行きの切符を手にした私たちと同じくらい、清々しい「勝利」の顔だった。
同じ学び舎で過ごした日々は、ここで終わりを告げる。 青白い魔導パネルの光の下、私たちの歩む軌道は、鮮やかで、決定的な二つの方向へと分かれていった。
あの日、彼が「太井炭が好きだ」と言った声が、ふいに耳の奥で蘇る。 喜ばしいはずの結果なのに、胸の奥には正体のわからない違和感が居座っていた。小さくて冷たい隙間風が、心のどこかをすうっと吹き抜けていく。
「……真葉音、行こう」
和尚さまが、少しだけ声を落として言った。 「本宮への引越し準備、今日から始めなきゃなんだから」
私はもう一度だけ、群衆の中に佇む本くんの背中を視界に焼き付けてから、短く頷いた。 「……うん」
一歩を踏み出すと、掲示板の青白い光はまたたく間に背後へと遠ざかっていった。 振り返りそうになる首を必死に押さえつけ、私はそのまま倉庫のシャッターへと向かう。あの掲示板を、あの背中を、これ以上見てしまったら。せっかく手にした「正解」が、音を立てて崩れてしまいそうな気がしたから。
―――その日の夕暮れ。
本宮への異動が決まった職員には、すでに「天速渡線」の定期券が配られていた。 控えの間はひっそりと静まり返り、祭りのあとのような静寂が満ちている。
私は一人、硬い椅子に腰かけ、掌の上の銀色のカードをじっと見つめていた。 冷たいはずの金属片が、握りしめていたせいか、妙に生々しい体温を帯びている。
「……おめでとう。真葉音ちゃん」
不意に背後からかけられた声に、肩が大きく跳ねた。 振り返ると、そこには本くんが立っていた。いつもと変わらない、少し眠たげな、けれどどこか核心を突くような瞳。
「あ、ありがとう……。本くんも、希望通りで、よかったね」
努めて明るく振る舞う私に、彼は小さく頷いた。 「うん。……でもさ」
彼は私の隣に腰を下ろすと、魔導通信鏡を取り出して手慣れた様子で操作しはじめる。 画面に映し出されたのは、いつか二人で眺めた『刀削麺名店堪能の巡行』の紹介ページだった。
「太井炭から本宮まで、天速渡線で十五分なんだよね」
「……え?」
不意を突かれて顔を上げると、本くんの視線は画面に固定されたままだった。 「だからさ。本宮の社食の刀削麺に飽きたら、いつでも太井炭に来なよ。案内するから。……いや、案内させろっていうか」
言い終わる頃には、彼の耳がほんのりと赤く染まっていた。 その拙い気遣いが、私の喉の奥に詰まっていた言葉を、優しく溶かしていく。
「……十五分。そう、だよね。巡行って呼ぶほど、遠くないもんね」
「そう。……だから、これは『さよなら』じゃないよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で吹き荒れていた冷たい隙間風が、ふっと止んだ。 代わりに、出来立てのスープから立ち上る湯気のような温もりが、私の心を満たしていく。
銀色の定期券が、今度は確かな重みを持って、私の手の中に収まった。




