第2話 恋の情報戦
「わかった。その恋、私が成功させるわ」
史織は胸を張り、どこからともなく分厚い一冊を取り出した。
「これはまさに――『孫子の兵法』の出番ね!」
「え、兵法って……戦争の本でしょ?
恋愛に関係あるの?」
美智は思わず眉をひそめる。
「あるに決まってるじゃない。
まずは“始計篇”。
『算多きは勝ち、算少なきは勝たず』よ」
「算って……何?」
「事前の勝算のこと」
史織は迷いなく頷いた。
「まずやるべきは、彼の情報収集。
趣味、食べ物の好み、家族構成。
全部よ」
「そ、そんなこと……できるかな……」
「できるわ。
恋の戦場で勝つのは、情報を制した者よ」
美智はごくりと喉を鳴らした。
本当に――いよいよ“軍議”が始まったのだと、実感する。
***
翌日放課後。
二人は再び図書室に集まっていた。
夕陽が差し込む窓辺で、史織は歴史書を閉じ、真剣な顔で言った。
「あいつのことを調べてきたわ。
これを頭に叩き込んで、徹底的に『彼好みの女子』を演じるのよ」
「演じるって……それって、騙すことになるんじゃ」
史織は、大きくため息をつくと、首を振った。
「孫子も言っているわ。
『兵は詭道なり』。
ある意味、恋愛は騙し合いよ」
「いい、美智。
『能なるもこれに不能を示す』。
できることも、できないふりをする。
これが勝利への鉄則よ」
「……」
「もっとも、あなたの場合は、できないことを『できるふり』をするんだけどね」
「それって、もっとひどいんじゃ?」
「とにかく、あなたの『素の自分』をさらけ出すのは、相手を陥落させた後で十分だわ!」
「そうなのかなあ……」
「そうなの!」
史織は、美智の疑問を打ち切り、話題を戻した。
「つべこべ言わずに、まずはデートまでに“サッカーの知識”を叩き込みなさい。
特に、峻の推しチーム『アトランティス』は完璧に」
「えっ……どうして?」
史織は指を一本立てる。
「初デートではね、男子は会話をリードしなきゃって思ってるもの。
だから、その話題にちゃんと応じられることが重要なの」
なるほど、と美智は思う。
「峻はサッカーが好き。
サッカーの話題になる確率は高い。
共通の話題=好感度アップ。
簡単でしょ?」
「……でも、もしサッカーの話にならなかったら?」
不安げに尋ねると、史織は余裕の笑みを浮かべた。
「そのときは、“会話のさしすせそ”よ」
「……なにそれ」
「さ=さすがですね。
し=知らなかったです。
す=すごい。
せ=センスいいですね。
そ=そうなんだ」
「それを繰り返すだけでいいわ」
「……本当に、それで?」
美智は半信半疑だ。
史織はふいにページをめくる手を止めた。
「そうそう。お弁当の件だけど」
「えっ? お弁当作るの?」
美智は思わず目を見開いた。
「当然でしょ。
“胃袋を掴め”は恋愛の基本よ」
史織はさらりと言い切る。
「峻はガッツリ系が好き。
カツサンドとか、唐揚げとか……作れる?」
「……や、やってみる……」
美智は自信なさげに答え、肩を落とした。
「それから重要情報」
史織はさらに続ける。
「あいつの好みは、“一生懸命な女子”よ」
「一生懸命……私、一生懸命に見える?」
「全然。いつも余裕ぶってるもの」
「うぅ……じゃあ、一生懸命してる“風”に見せなきゃ……!」
史織は畳みかけるように言う。
「家族構成は両親と、小三の弟。
飼ってる犬は柴犬の“小太郎”。
好きな色はアトランティスのチームカラー、マリンブルー。
初恋は幼稚園のころの――」
「待って、待って!」
美智は慌ててノートを取り出した。
「そんなに一気に言われても、覚えきれない……!」
必死にペンを走らせる美智を見て、史織は腕を組む。
「情報は“力”。
これだけあれば、会話の入り口はいくらでも作れるわ」
(本当に……うまくやれるのかな)
ノートにびっしり並ぶ文字。
それを見つめながら、美智は胸の奥に広がる不安を感じていた。
***
帰宅後。
美智はスマホを手に、必死に調べていた。
「オフサイド……フォーメーション……」
画面を睨みつける。
「なにそれ。呪文?」
理解不能な単語の洪水に、頭痛がしてくる。
「アトランティスのエースは……カリム・サリム……」
声に出してみる。
「カリム……サリム……」
「……もう! 本当に呪文じゃない!」
美智はベッドに倒れ込み、天井を仰いだ。
***
デート前日。
美智は台所に立ち、慣れない手つきで卵を割った。
「よし、卵焼き……」
――じゅうっ。
不穏な音とともに、フライパンから煙が立ち上る。
「えっ!? なんで黒いの!?」
慌てて火を止めるが、卵焼きは見事に炭化していた。
続けて作ったサンドイッチは形が崩れ、唐揚げは油の温度を誤って真っ黒。
テーブルに並ぶ失敗作を前に、美智は呆然と立ち尽くした。
「……無理。私、料理向いてない……」
情けない声が漏れる。
結局、助けを求めると、母は苦笑しながら袖をまくった。
「仕方ないわね。見てなさい」
包丁の音が軽快に鳴り、卵焼きはふっくら、唐揚げはこんがりきつね色。
サンドイッチも、見事に整っていく。
その手際に、美智はただ見守るしかなかった。
「……ありがとう。でも、私の失敗作、どうすれば……?」
恐る恐る尋ねると、母はきっぱり言った。
「全部、あなたが食べなさい。
作ったものを無駄にするのは一番だめよ」
美智はしゅんと肩を落とし、焦げた唐揚げを見つめた。
不格好な失敗作。
明日のデートへの不安が、じわじわと胸を満たしていく。




