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03 今日しかないから
それから、ヴィクトルは毎夜、パン屋を訪れるようになった。
エマは不思議な少女だった。なぜヴィクトルがいつも夜にしか来ないのか、なぜパンを買わないのか、質問しなかった。ただ、パンを焼き、茶を入れ、時々話をした。
「父が死んでから、私が店をやっているんです」ある夜、エマはそう言った。「三ヶ月前、急に倒れて。でも、店は続けようって決めたんです。私が焼くパンは父のパンには全然及ばないですけど、毎日少しずつ上手くなっている気がするんです」
「お前は、怖くないのか」ヴィクトルは訊いた。「一人で店を続けることが」
「怖いです。毎日怖いです。でも、怖いからってやめるわけにはいかないでしょう?」
「なぜだ」
「だって、今日しかないから」
「どういう意味だ」
「昨日はもうないし、明日はまだ来ていない。私にあるのは今日だけなんです。今日のパンを焼くこと。今日できることを今日やること。それだけなんです」
エマは竈から焼きあがったパンを取り出した。黄金色の皮。香ばしい匂いが店中に広がった。
「ほら、見てください。今日のパン、上手く焼けました」
ヴィクトルはその顔を見つめた。八百年の間に見たどの顔よりも、その顔は眩しかった。




