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10 最後の夜
エマが七十歳になった年の、ある秋の夜。
彼女は店の奥の椅子に座っていた。息子が店を継ぎ、彼女はもうパンを焼いていなかった。しかし毎夜、ヴィクトルを待つためにここにいた。
「今日で最後かもしれません」エマは言った。「医者がそう言いました」
ヴィクトルは何も言わず、向かいの椅子に座った。
「私、幸せでした。毎日パンを焼いて、ヴィクトルさんと話をして。それだけの人生でしたけど、本当に幸せでした」
エマは窓の外を見た。満月が浮かんでいた。
「ヴィクトルさんに会えてよかった。永遠を生きる人に、有限の美しさを教えてもらえてよかった」
「私が教えた?」
「はい。ヴィクトルさんはいつも私を、大切なものを見るみたいに見ていてくれました。そのおかげで私は、自分の人生が大切なものだって気づけたんです」
エマはヴィクトルの手を取った。
「私がいなくなっても、誰かを見ていてあげてください。誰かの有限を大切に見ていてあげてください。それがヴィクトルさんが永遠を生きる意味だと思うから」
「約束する」
エマは微笑み、ゆっくりと目を閉じた。
「ありがとう、ヴィクトルさん。おやすみなさい」
その夜、エマは静かに息を引き取った。ヴィクトルは朝まで、彼女のそばにいた。




