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小さな星の願い

作者: 菊池まりな

十月の肌寒い夜、街の片隅にある小さな公園で、毎晩同じベンチに座る老人がいた。佐藤恵一おじいさん、七十三歳。三年前に最愛の妻・千鶴を亡くしてから、一人で狭いアパートに住んでいる。


夜になると決まって公園にやってくるのは、家にいると妻の思い出に押しつぶされそうになるからだった。ここなら、妻と一緒に見上げた星空を、一人でも眺めることができる。


「千鶴、今夜は星がきれいだよ」


そんな独り言を呟いていたある夜、公園の片隅で小さなすすり泣きが聞こえた。街灯の薄明かりの下で、一人の女の子が膝を抱えて泣いている。


恵一おじいさんは、ゆっくりと女の子に近づいた。


「どうしたんだい?こんな夜に一人で」恵一おじいさんが優しく声をかけると、女の子は驚いたように顔を上げた。大きな瞳には涙がいっぱい溜まっている。


「お母さんが...お母さんが病気で、もうすぐ天国に行っちゃうの」

女の子は震え声で答えた。

「お医者さんが『長くはない』って言ってた。でも、私まだお母さんと一緒にいたいよ。一人になっちゃうのが怖い」


「君の名前は?」

「田中ゆりです。七歳です」


ゆりちゃんの小さな手は冷たく震えていた。恵一おじいさんは、自分のマフラーを外してゆりちゃんの肩にそっとかけた。


「お母さんは入院中かい?」

「うん。でも面会時間が終わっちゃったから、おばあちゃんの家に帰らなきゃいけないの。でも、お母さんのそばにいたくて...」


ゆりちゃんの事情が少しずつ見えてきた。母親は末期がんで入院中、父親は幼い頃に亡くなり、今は母方の祖母に預けられている。祖母も高齢で体調が優れず、ゆりちゃんの心の支えになることは難しい状況だった。


恵一おじいさんは、ゆりちゃんの小さな手を自分の大きな手で包んだ。その温もりで、少しずつゆりちゃんの震えが止まった。


「じゃあ、おじいさんと一緒に星にお願いしよう。あの一番明るい星に」


二人は夜空を見上げた。秋の夜空には無数の星が瞬いている。


「星さん、ゆりちゃんのお母さんをお守りください」

恵一おじいさんが静かに祈った。

「星さん、お母さんと一緒の時間を、もう少しだけください」

ゆりちゃんも小さな手を合わせた。


「おじいさん、本当に星は願いを聞いてくれるの?」

「もちろんだよ。私の奥さんも、病気の時に星に祈ったら、最期まで私の手を握っていてくれた。星は、愛する人の気持ちを必ず届けてくれるんだ」


その言葉を聞いて、ゆりちゃんの表情に少しだけ光が戻った。



それから毎晩、ゆりちゃんと恵一おじいさんは公園で会うようになった。ゆりちゃんは病院から祖母の家に帰る途中で公園に寄り、恵一おじいさんは夕食後に必ずベンチで待っていた。


二人の間に、不思議な友情が生まれていた。


「おじいさんの奥さんはどんな人だったの?」ある夜、ゆりちゃんが聞いた。


「千鶴はね、小学校の先生だったんだ。君と同じくらいの子どもたちに、国語を教えていた」

恵一おじいさんの目が優しく細められた。

「料理が上手で、いつも『恵一さん、今日は何が食べたい?』って聞いてくれた。四十五年間、毎日だよ」


「私のお母さんも、私に『今日は何して遊ぼうか?』って聞いてくれる」

ゆりちゃんが嬉しそうに話した。

「お母さんは看護師さんなの。病気の人を助けるお仕事。でも今は、お母さんが病気になっちゃった」


恵一おじいさんは、ゆりちゃんの母親・美香さんが、まだ二十八歳の若い女性だということを知った。夫を事故で失い、女手一つでゆりちゃんを育ててきた。そんな時に病気が見つかった。


「お母さんね、『ゆりは強い子だから大丈夫』って言うけど、私は強くないよ。本当は毎日泣きたい」


「泣いてもいいんだよ。強い人ほど、時には泣くものだ」


恵一おじいさんは、自分も妻を亡くした時、人前で涙を流すことができず、一人で泣いていた夜のことを思い出した。


二週間が過ぎた頃、ゆりちゃんの表情に変化が現れた。病院でお母さんと過ごす時間を、以前よりも大切に感じられるようになったのだ。


「おじいさんが教えてくれたの。『今という時間は二度と戻ってこないから、一瞬一瞬を大切にしなさい』って」


ゆりちゃんは、お母さんと手をつないでいる時の温もり、お母さんの声、笑顔の一つ一つを心に刻むようになった。


そして恵一おじいさんも変わっていった。ゆりちゃんのために用意した温かいココアを持参するようになり、ゆりちゃんが寒がらないよう毛布を持ってくるようになった。


「おじいさん、私のおじいちゃんになってくれる?」

ある夜、ゆりちゃんが小さな声で聞いた。


「もちろんだとも。私にも、本当の孫ができたみたいだ」


二人は、血のつながりはないけれど、本当の家族のような絆を育んでいた。



三週間目のある夜、ゆりちゃんは公園に来なかった。恵一おじいさんは朝まで待ち続けた。


翌日の夕方、ゆりちゃんの祖母から電話があった。美香さんが昨夜、静かに息を引き取ったという知らせだった。


恵一おじいさんは急いで病院に駆けつけた。病室で、ゆりちゃんは母親のベッドサイドで小さく丸くなって眠っていた。


看護師の山田さんが話してくれた。


「美香さん、最期まで意識がはっきりしていらして。ゆりちゃんの手をずっと握って、『星のおじいちゃんに感謝してる』って何度もおっしゃってました。『あの方のおかげで、ゆりと最後まで心を通わせることができた』って」


「そして、ゆりちゃんも立派でした。お母さんに『私、もう大丈夫だよ。星のおじいちゃんが教えてくれたもの。愛は心の中で永遠に続くって』と言って」


恵一おじいさんの頬を涙が伝った。その時、ゆりちゃんがゆっくりと目を覚ました。


「おじいちゃん...」


二人は静かに抱き合った。ゆりちゃんの小さな体は、この三週間でずいぶんやせてしまっていたが、その瞳には以前よりも強い光が宿っていた。




それから一週間後、ゆりちゃんは隣県に住む叔母夫妻に引き取られることになった。お別れの日、公園のベンチで二人は最後の時を過ごした。


十一月の風は冷たかったが、二人の心は温かかった。


「おじいちゃん、星のお願い、本当に叶ったよ」

ゆりちゃんが曇りのない笑顔で言った。

「お母さん、最期まで私の手を握ってくれた。そして、『天国で待ってるけど、ゆりはまだまだ地上で頑張りなさい』って言ってくれたの」


「そうだね。君は本当に強い子だ。お母さんも、きっと安心して旅立てたと思う」


ゆりちゃんは小さなポケットから何かを取り出した。それは、お母さんからもらった小さな星の形をしたペンダントだった。シルバーの表面に「ゆり 愛をこめて お母さんより」と刻まれている。


「これ、おじいちゃんにあげる。お母さんが『恵一おじいちゃんは私たちの天使だった』って言ってたから。このペンダントがあれば、いつでも私たちのこと思い出してね」


恵一おじいさんは、その小さなペンダントを震える手で受け取った。


「ありがとう、ゆり。私も君にあげたいものがあるんだ」


恵一おじいさんは、胸ポケットから小さな写真を取り出した。千鶴さんと一緒に星空を見上げている古い写真だった。


「これは私の宝物だった。でも今は、君に持っていてもらいたい。新しい家族と幸せになるんだよ」



ゆりちゃんが新しい家族と一緒に車で去っていく姿を見送りながら、佐藤おじいさんは星を見上げた。


「ありがとう。私にも新しい生きる意味をくれて」


その夜から、佐藤おじいさんは毎晩同じベンチに座り、困っている人がいないか見守るようになった。星のペンダントを胸に、小さな優しさを街に灯し続けている。


時々、遠くから手紙が届く。ゆりちゃんは新しい家族と幸せに暮らし、将来は看護師さんになりたいと書いてある。


佐藤おじいさんは返事を書く。


「星は今夜も明るく光っているよ。君の夢を、ずっと応援している」


小さな出会いが、二つの心に大きな光を灯した物語だった。


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