第六話
「……殿、遠見殿!」
自分を呼ぶ声にまだ朧気だった意識がハッキリしてくる。
目の前には女の自分から見ても美しいと感嘆してしまう位、整ったアリシアの顔があった。
心配そうな表情に軽く笑顔で応えると、アリシアの手を借りて立ち上がり周囲を見渡す遠見。
「…ここが黒霧の森、ね。確かに不気味で視界が悪いわ。」
遠見はそう言うと早速アクティブスキルである索敵を用い、周辺の状況を確認する。
現在遠見が使用出来る索敵は初級という事もあり、その有効範囲はおよそ50m程である。
その有効範囲内にいる生物についてその大まかな位置と敵対性を認識する事が出来る。
周囲に敵が居ない事を確認すると、遠見は持ち込んだ自分のスマホを取り出す。
一志と同じMIST WANDERERを起動するとロード画面にメッセージが通知される。
<マスター:宮田一志との接続を確立しました。>
<プレイヤー認証を開始して下さい。>
MIST WANDERERは基本的にシングルプレイPRGであるため、本来なら他人のMIST WANDERER と連動するような事はない。
事実、一志がまだアリシアと出会う前はMIST WANDERER をプレイしている時、このような通知画面が表示された事はなかった。
これは遠見が試しにMIST WANDERER をダウンロードしてプレイヤー登録してみようとした際に、発覚、発生した現象である。
何度か試行して以下の事が判明している。
・プレイヤー認証はカメラのセルフ撮影機能を使用した自撮りで行う
・接続先である一志のMIST WANDERER を親として、機能制限が掛かった状態での起動となる
・使用出来る機能はインベントリ、マップ、チャット(それぞれ一部制限あり)
パーティー編成画面はグレーアウトされており、操作する事は出来なかった。
また、ステータス画面も閲覧は出来ても、変更や強化、新たにスキルの習得などは出来なかった。
現状まだ不明な点が多いが、それは今後検証を重ねていけばより明確になっていく筈だと遠見は考えている。
顔認証をパスし、アプリが起動する。新着通知を無視しすぐにマップを表示した。
黒霧の森の中で、現在地が表示される。マップ上には固まった青い点が二つ。
周囲を見渡し地形とマップを照らし合わせて進むべき方向を確認する。
「それじゃアリシアさん、さっき話した通り私が先行するから。索敵の状況は逐一共有するわ。」
「その上で私の弓で先制出来そうな場合は先制攻撃するから、討ち漏らしのフォローをお願いね。」
「はい、お任せ下さい。遠見殿の命はこの身に代えてもお守りします。」
「頼りにしてるわ。」
索敵スキルを使用し、脳内のマップ上に表示されている敵の内、回避出来る戦闘は極力避けて歩みを進める。
前回アリシアを死に追いやったゾンビナイト:ダンなどはその最たる例で、十分に距離を取って迂回して森の出口を目指す。
一部グールやスケルトンアーチャーなどの回避の難しい取り合わせの場合や遠距離から先制出来る場合は逆に積極的に交戦し、距離を詰める方針だ。
ゾンビやアーチャーなどを相手にしつつ、2人は黒霧の森を王都に向ってひた進む。前衛と後衛で役割を分けて敵に対処出来ている事、遠見の索敵やマップ機能など、アリシアが一人で行軍していた時とは比較にならない速度で歩みを進める事が出来た。
「左前方に居るわ。グールが1、まだ索敵上では現れていないけど、アーチャーが居る可能性も考えておきましょ。」
遠見はアリシアに注意を促しつつ小弓を引き絞る。
これまで弓に触れてこなかった遠見だが、パッシブスキルで弓術を取得した後は、極めて自然に弓を扱えるようになっていた。
知識としては勿論、積んだ筈のない経験まで体に染みついているかのような錯覚。感覚。
スキルや使っているエピック武器の性能もあるだろうが、遠見の放った矢は彼女のイメージした通り、霧の向こう、見えない敵を穿つ。
「ごゔぁぁっぁぁぁああぁぁ!!?」
狂ったような怒号が響き、霧の中から猛烈なスピードでグールが姿を現した。
肥大化した腕部を振り回しつつ視界に入ったアリシア目掛けて突進してくる。
アリシアは一呼吸すると振り下ろされた右腕を冷静に盾で受け止める。人間の膂力を越えた一撃は、盾の上からでもアリシアを地面に縫い留めた。
そのままアリシアを叩き潰さんとして、再度腕を振り上げたグールの頭部に遠見の放った矢が突き刺さる。
弱点である頭部への一撃に憎悪の対象を切り替えたグールが視線を変え、走り出そうとした瞬間、態勢を整えたアリシアが長剣でグールの両足を斬り払う。
ホーリーエンチャントが施された長剣は熱したナイフでバターを切り取るかのように、容易くグールの両足を切断しその機動力を奪った。
倒れたグールの頭部に返す刀で長剣を突き入れ、グールの活動が停止した事を視界の端で確認しつつ、アリシアは周囲の確認を行う。
グールが転倒したのを見た遠見はすかさず索敵スキルを発動する。グールの厄介な点はその膂力や機動力も然ることながら、雄叫びによって周囲の敵が集まってきてしまう事が上げられる。
スキルの取得に併せてステータスも向上させたとは言え、元々ただの一般人だった遠見は、自分が命の遣り取りを満足に出来るとは考えていない。
戦闘を極力減らすのは、王都に帰還するというアリシアの目的を優先するばかりではなく、死亡するというリスクを減らすためでもあった。
そんな戦闘を避けたい遠見の索敵スキルは無情にも新たな敵の発見を告げる。
ソナーのように感覚を空間に拡げて周囲の状況を感知した遠見は、引っ掛かった対象に意識を集中させる。
一度索敵スキルで認識した対象は同種族の場合、その判別も可能だった。
「進行方向にグールが2体、近すぎるわ。各個撃破は難しそう…。」
グールが2体、距離にして5mも離れていない位置で微動だにせず佇んでいる。
「そんな事まで分かってしまうとは…。索敵スキルというのは本当に便利なものですね。」
「そうね、事前に相手の位置や情報を知れるというのはものすごいアドバンテージよね。さて、どうしましょっか。」
結果として、アリシアが接敵してグールに先制した後、遠見が援護する形に決まった。
ターゲットを取るという意味でも先制は自分がするべきとアリシアが主張したためである。
可能な限り接敵して、先制攻撃により一体倒しきれればベスト、それが叶わない場合2体を同時に相手にすることになるが、アリシアとしては盾もなく、また戦闘経験の乏しい遠見にグールを近付けさせることは避けたかった。
念のためホーリーエンチャントを掛け直し、視界を遮る霧の中を慎重に進むアリシア。
薄らと人影を確認した瞬間、姿勢を低くして駆け出した。事前におおよその位置を遠見から説明されていたこともあり、グール以外の敵が居ない事も確認済みだった。
頭部を狙い斬撃を放つが、寸前で気取られてしまったらしく、アリシアの剣はグールの醜く膨れ上がった腕を切り裂くに留まった。
それでもグールの最大の脅威とも言える腕を潰せた事は大きなアドバンテージと言える。振り抜いた長剣をそのままに重心を移動させて盾による打撃を加えようとしたアリシアの視界の端で、もう一体のグールが飛び掛かってくる姿が映る。
「っ!!」
アリシアの盾を受けたグールが後方によろめく、その直後霧を裂いて飛来した矢がグールの頭部を貫いた。
一体目のグールに盾を直撃させたアリシアだったが、飛び掛かって来たグールの肥大化した腕による殴打を避ける事が出来ず、直撃を受けてしまっていた。
乱暴に振り下ろされた巨大な腕により弾き飛ばされたアリシアは、2,3度跳ねつつぬかるんだ地面を転がっていった。
白銀の鎧の防御性能及び、対アンデッド効果により多少の威力は軽減されたものの、アリシアは数瞬の間意識を飛ばしてしまった。
索敵スキルで戦況を伺っていた遠見が、アリシアに追撃しようとするグールに向けて牽制するように矢を放つ。
だが、思考能力をほぼ持たないアンデッドにとって、牽制で自身の目の前の地面に突き刺さった矢など何の意味もないものであった。
怒号を上げつつ再び跳躍するグール、その赤く充血した目が捉えるのは朦朧とする頭を振り、立ち上がろうとしているアリシア。
「アリシアさんっ!上!!」
悲鳴のような遠見の叫び声を聴いたアリシアは咄嗟に長剣を掲げるように、上空へと突き入れた。
ホーリーエンチャントによって強化された長剣は振り下ろされたグールの握った拳に突き刺さり、その神聖な力によって組織を破壊していく。
だが振り下ろされた腕の勢いまでは殺せず、斬り分かれたグールの腕がアリシアに叩きつけられる形となった。
咄嗟の事で盾を構える事も出来なかったアリシアは肩と胸を強打され、吹き飛ばされてしまう。
すでに索敵で確認したアリシアの位置に駆け込んでいた遠見は、そのまま何度もグールに矢を放つ。
走りながらの射撃のため、精度は落ちているものの、それでも何本かがグールの頭部を貫きグールを行動不能にした。
索敵で周囲に敵が居ない事を確認した遠見は、倒れたまま動かないアリシアの元に駆けつけると膝を付いて抱き起こす。
アリシアは意識はあるものの、直ぐに立ち上がる事が出来ない程のダメージを負っているようだった。
遠見は身に着けているポーチから赤みがかった液体が入った小瓶を取り出すと、アリシアに飲むように促す。
今回アリシアの旅に同行するにあたって一志から持たされた体力回復ポーションである。
飲む事で効果を発揮し、傷付いた肉体を回復・復元させる事が出来る魔力を帯びた薬であるが、使用する毎に効果が弱まっていく特徴がある。
意識がない場合などには直接身体に振りかける事でも使用可能だ。
暫くして意識を完全に取り戻したアリシアは遠見に感謝の言葉を述べると、立ち上がり自身の状態を確認する。
「アリシアさんにばかり危険な役回りをさせちゃってごめんね…。」
そう立ち回る事を事前に決めていたとは言え、目の前で自分よりも若い、少女と言ってもいい歳の子が傷付いていく現実に遠見は悔しさと歯痒さを噛締める。
そう言って俯いてしまった遠見を見て、アリシアは慌てたように返す。
「い、いえっ、先ほどはグールに止めを刺して頂き感謝しています。私一人ではもっと手こずっていたか、突破出来ていなかったかもしれません。」
アリシアはそう言うと遠見の両手を取り、真っ直ぐ目を見つめて続ける。
「私は騎士です。この剣も盾も、この身の全ては民を、仲間を守る為にあるのです。」
「貴女が傷付かなくて良かった。私の事情に付き合ってくれている遠見殿を守れなかったら、悔やんでも悔やみきれないところでした。」
「アリシアさん…。」
「それに…」
遠見の手を離すとアリシアは長剣と盾を拾い、それを指でなぞりながら呟く。
「一志殿にも合わせる顔がなくなってしまいます。」
アリシアは顔を上げると準備を整え続ける。
「さぁ、それでは出立しましょう。大分教国側に近づいている筈です。」
アリシアの言葉を受け、スマホを取り出した遠見が現在地の確認をする。
まだ距離はあるが、順当に進めばそう遠くない内に森を抜けるだろう。
「オーケー、改めて気を引き締めていきましょう。」
「はい。」
そんな順調だった女騎士とOLの2人旅も、黒霧の森を抜け切る直前に最大の危機を迎える事になる。
マップでは間もなく黒霧の森を抜け、そのまま平野を突っ切れば王都が見えてくるというまさにその時、遠見の索敵スキルが異変を察知した。
これまでにない強大で禍々しい気配に、咄嗟にスマホを手に取りMIST WANDERER からマップ情報を確認する。
黒霧の森を抜け切る直前、一際大きな1本の古木がそびえ立っているのだが、索敵スキルと照らし合わせると、その大樹と重なるように大きな黒点が表示されている。
「アリシアさん、前方の大きな樹付近に敵性反応よ。これまでのものと比較にならない位大きな反応。」
遠見の言葉を聴き、アリシアは自分でも湧き上がる様々な感情を抑えきれずにいた。
恐怖、絶望、焦燥、それらをぐちゃぐちゃに混ぜ込んだような、黒く暗い感覚。
歯を食いしばり長剣を握り締める。
「この感覚、間違いありません。」
「我ら騎士団を壊滅させたあの大型の異形のものです…!」
慎重に歩みを進める二人の前に、開けた広場のような空間と其処に隣接する巨大な樹木が現れた。
アリシアによると、この大樹は本来ダルクス大森林の奥に多数存在しており、何故かこの1本だけ此処に立っているとの事だった。
馬を使って森を抜ける際のルートはこの大樹より更に西側に存在しているため、森への入口を目指す上でのランドマークでもあったらしい。
「…遠見殿、もしもの時は私を捨て置いて逃げて下さい。時間稼ぎ位はしてみせます。」
「んー…、どうかしら?私の少ない経験でも、こういうイベント的な戦いって…」
遠見がそこまで口にしたところで、大樹の頂上から耳を劈く咆哮が響き渡る。
瞬間、大樹の頂上から大きな黒い影が跳躍し二人の前に着地した。着地の衝撃で薄っすらとかかっていた霧は吹き飛び、抉れた地面から大量の砂利や石が弾き飛んでくる。
土煙が晴れ、姿を現したその異形は身の丈5mはあろうかという人型の怪物だった。
醜く膨れ上がった巨体に反して、窪んだ眼窩の奥にある不気味な赤い眼光が目の前の獲物を睨めつけている。
身体の表面は鱗なのかイボなのか不明な斑点状の突起が拡がっており、その醜悪さに一役買っていた。
「うわ。これは生理的に受け付けないわ…。」
「このような姿をしていたとは…。」
そんな嫌悪感丸出しの2人とは裏腹に、その異形は咆哮を一つ上げると、開戦の合図とばかりにその巨体に見合わない速度で突進し始める。
幸運にも距離が空いていた事と、初手は様子見をするよう話し合っていたため、この突進は無傷で回避する事に成功した。
突進を見送った遠見がその無防備な背中に矢を射ろうと小弓を引き絞ったところで、背後に感じた気配に咄嗟に振り向いて矢を放つ。
至近距離で頭を射抜かれたゾンビがフラフラと数歩進んでから倒れる。
一瞬頭が真っ白になった遠見だったが、冷静さを取り戻すとすぐに索敵スキルを発動した。
「…ちょっとコレ…、嘘でしょ…。」
遠見の傍まで戻って来たアリシアが、絶望的な表情を浮かべる遠見の様子に気付き、遅れて周囲の異常さに気付く。
「そんな、いつの間にこれほど大量に…?」
アリシアと遠見の周りには大量のゾンビが出現しており、それらは遠見だけでなくアリシアも獲物と認識しているようだった。
「無理無理無理無理っ!」
現代を生きる地球人の遠見にとってゾンビという存在は、当たり前だが創作物の中の存在であり、実際に目にすることなど本来はあり得ない。
これまでは霧の見辛いのと、距離もあってゲーム感覚で対処出来ていた部分が大きかっただけだった。
ハッキリと人の形を残しているゾンビを、視認出来るような距離で、しかも大量に囲まれているという今の状況では、冷静さを保てという方が無理な話である。
テンパりながらもダガーを振り回し、近付くゾンビを何体か倒す事に成功するが、ついには死角から近付いてきていたゾンビに押し倒されてしまう。
「ぎゃーーーーー!!!」
完全にパニックに陥った遠見は噛み付こうと大口を開けて迫るゾンビの顔を両手で抑え、必死に抵抗している。
そこにアリシアの長剣が白い軌跡を残し一閃、ゾンビの首が斬り飛ばされると遠見は慌ててゾンビの身体を押しのけ立ち上がる。
アリシアが遠見に接近するゾンビを斬り払う中、冷静さを欠いた遠見がそれでも必死に索敵スキルを発動させる。
「っ!!」
スキルが発動した瞬間、遠見はゾンビと交戦中のアリシアの背中を力の限り突き飛ばした。直後響き渡る衝突音と衝撃。
前のめりに倒れたアリシアは更に押し寄せる衝撃によって何度も地面を転がっていった。
「一体、何が…。」
幸いにも武器を手放さずに済んだアリシアは長剣を構えつつ、周囲の状況を確認する。
土煙が晴れた時、其処には両手を重ね地面を叩きつけた格好の異形の姿があり、その手元では光の粒が離散していった。
「遠見殿…?」
異形が高所から両腕で地を叩きつけ、その衝撃で吹き飛ばされたことを瞬時に理解する。
そしてそこに居た筈の守るべき仲間の姿がない事も。衝撃の直前に確かに、遠見の手で突き飛ばされた。鎧越しでも分かった。
民を、仲間を守るのが騎士だと、必ず守ると約束した。なのに。
また自分は守られた。仲間が命を落とした。自分を助ける為に。これまでの事から、自分は恐らく死んでもまた復活する。
でも遠見にはその確実な保証がない、ないのだ。
去来する様々な感情、アリシアは気付くと異形に向かって駆けていた。あらん限りの大声を張り上げて。
赤く濁った眼光でアリシアを睨みつけると異形は右腕をアリシアに向けて振り払う。
ホーリーエンチャントで強化された長剣を力の限り叩きつける。
アリシアの長剣はその刀身を異形の腕の半ばまで食い込ませると勢いが殺され止まってしまう。
そして強引に振り回された事で、根本付近で折られてしまった。
後方に着地したアリシアは効果の切れてしまった折れた長剣に再度ホーリーエンチャントを発動する。
現在のアリシアでは3回が限度と一志に忠告されていたが、構わずにスキルを行使した。
魔力切れにより意識が飛びかけるが、アリシアは唇を噛締めて何とか意識を保った。
噛み切られた口の端から血を流しつつ、アリシアは長剣を構え再び異形に向けて駆け出した。
先ほどの攻撃によりまだ右腕にダメージがあるためか、異形は右腕をダラリと下げたまま、アリシアに向けて左腕を叩きつける。
ギリギリのタイミングで前方に飛び込み回避するが、遅れてやってきた衝撃波に呑まれ地面を転がされてしまう。
欠けた長剣を地面に縫い留め、木の葉のように舞う身体を固定すると、アリシアは異形を睨みつける。
異形はアリシアの長剣で半ばまで斬られていた右腕を左手で掴むと、強引に引き千切った。
これには頭に血が上っていたアリシアも驚きの声を上げる。
「自分で引き千切っただと…?!」
異形は自身の右腕をまるで棍棒のように握りこむと上から横からアリシアに向けて振り回し始めた。
元々あったリーチ差が倍近くになってしまった事で、そこからアリシアは異形に近付く事も出来ず、ついには横薙ぎに払われた一撃を受けて絶命してしまう。
バラバラに散らかったゾンビの死骸が転がる中、異形の上げた怨嗟の咆哮が森中に轟いていた。
遠見は目を開くとまだ覚醒しきっていない頭で微睡ながらボンヤリと考える。
何だか悪い夢を見ていた気がする。ホラー映画はよく見るが、どちらかというと精神的、心理的に恐怖を募るジャンルを好んでいた。
そんな自分があろうことかゾンビに追い掛け回される夢だ。思い返してみても恐怖しかない。
モニターの中のゾンビは特殊メイクでそれっぽく見せた人間が演じているものだ。詳しくは知らないが、大体そういうものだろう。
でも自分が体験したアレは、間違いなく元人間だったと確信させるほどリアルだった。それだけの熱量を感じてしまった。
遠距離から弓で射ている間はまだよかった、霧で細部までは見えなかったし、何の忌避感、罪悪感もなく対処出来ていたと思う。
しかしダガーで斬りつけた時の感触だけは別物だった。肉を斬った感触がまだ手に残っている。汚らしい濁った血が噴き出る様子も思い出せる。
欠損して至るところが赤黒く染まった顔と開けられた血塗れの大口。白く黄色い濁った目。
遠見はそっと目を閉じる。
きっと恐怖を完全には拭えない、今はまだ。
そんなに簡単に割り切れるような経験は積んできていない。
でも、どうであれもう手は下している。この手で矢を放ち、ダガーを振るった。
だからあとは飲み込むだけなんだろう。
そこまで考えて遠見ははたと気付く。
「ここって宮田君の寝室、よね。」
初めてアリシアと会った時、彼女を抱えてベッドまで連れて行った時に見た部屋の様子を覚えていたため、間違いなくここは後輩社員、宮田一志の私室であると言える。
そこまで考えて、遠見は自分が無事にウィルナードから戻って来られた事を理解した。原理は全くもって不明だが、期待通りの検証結果に胸の内で満足すると共に、急速に湧き上がる安堵感も感じていた。
不意に自分の右側に気配を感じた遠見はそちらに顔を向ける。
今までどうして気付かなかったのかという程の至近距離にアリシアが横たわっていた。
一志との話の中で、現状ウィルナードからこちらに戻ってくる方法はあちらの世界で死ぬ事だけと聞いていた。
アリシアが今目の前にいるということは、つまりそういう事なのだろうと遠見は考える。
あの時、索敵スキルで大型の怪物の事を探ったら、真上に存在を感じた。咄嗟の判断で彼女だけでもと考えたが、間に合わなかったのかもしれない。
「それにしても…」
改めて超至近距離でアリシアの顔を観察する遠見。これまで生きてきた中で美人はそれなりに目にしてきたと思う、何なら自分もよくその手の言葉は言われたりもする。
そんな自分から見ても手放しで美しいと感じる。肌もきめ細かく、スタイルも整っている。
美しい艶やかな髪と同じ銀色の睫毛、整った眉。
「睫毛長ぁ…」
マジマジと見つめていると部屋の向こう、扉をノックする音が耳に入る。
「先輩、起きてますか?」
遠見はアリシアを起こさないようそっと起き上がるとベッドから出る。
ここで初めて自分の恰好を確認する遠見、白いワンピース、それは初めて目にした時にアリシアが着ていたものと同じものに見えた。
「起きてるわよ、どうぞ。」
まぁ、ここは貴方の部屋なんだけどね、と胸の内で呟きつつ遠見は部屋に入ってきた一志の方を見やる。
「気分はどうですか?体調に何か変化や違和感はありませんか?」
一志は持っていたトレイをサイドテーブルに置くと、遠見にマグカップを手渡す。
マグカップから紅茶の良い香りが鼻腔をくすぐる。遠見はカップを両手で抱えるように持つと、ゆっくりとテーブルに腰掛けた。
「いいえ、特に不調は感じないわ。」
「取り合えず、私が帰って来た時の状況を教えてくれる?」
さりげなくアリシアの様子を見ていた一志は部屋の隅に片づけていた丸椅子を引っ張り出し、遠見の正面に座る。
「まずは、先輩無事に戻って来てくれてありがとうございます。こう見えて実はかなり心配していました。」
一志は真剣な面持ちで遠見を見つめる。
「心配してくれてありがと。色々あったけどとても意義のある経験をする事が出来たと思うわ。」
「それじゃ現状の報告と新たに判明した事象があればお願い。」
真剣だった表情からどこか神妙な顔つきになった一志は、居住まいを正すと話し始める。
「あー、まず謝っておきます。遠見さんが戻って来た時、その、今着ているそのワンピースを着ていたんですよね。で、MIST WANDERER でインベントリから防具を装備する時、つまり元々遠見さんが着ていた服なんですが…。」
そこまで言うと一志はスマホを触り始めた。そしてそのまま自分のスマホを遠見に手渡す。
話を聴きながら、胡乱げな表情で一志を見ていた遠見だが、受け取ったスマホを見て表情が固まる。
インベントリ(一志のプレイアブルキャラクタであるイッシーのもの)内にそれとなく見覚えのあるアイテムが表示されている。
2Dドットで表示されているがこれは自分の着ていた服であろうことは想像がつく。
問題なのはそこに着けていた下着まで表示されている事だ。
「宮田くん。」
「違うんですよ、これは不可抗力であってそもそも僕の意思なんて1mmも関係してないですから大体誰も想像…」
「宮田くん。」
先ほどとは打って変わって明らかに言葉に怒気が含まれているのを感じた一志は、両手を上げて即座に口を閉じた。
「ちょっと試してみたい事があるから、このままスマホ借りるわね。」
「どうぞどうぞ。」
「ちなみにこのアイテム、タップして詳細確認とかした?」
下着のアイテムアイコンをタップした際に、実にいらん情報まで表示された事を確認した遠見が質問を口にする。
「あはは、嫌だなぁ先輩。いくらゲームのアイテムとは言え、女性の下着ですよ?軽々に触ったりしませんて。」
「ふーん。貴方はこの白いハンカチみたいなアイテムを一目で下着だと理解出来たのね。」
「………。」
スマホから顔を上げた遠見のジト目が突き刺さる中、背中に嫌な汗が流れるのを感じながら懸命に目を逸らす一志。
明後日の方向に向けていた視線の端で何かが一瞬光ったのに気付いた一志は視線を遠見に戻す。
そこには昼間一緒に出掛けていた時の恰好に戻った遠見が自分の服を確認していた。
「はい、これ返すわね。」
「あ、はい。」
そう言ってスマホを一志に返した遠見は、そのまま今度は自分のスマホをポケットから取り出す。
実は先ほどのイッシーのインベントリ内に自分のスマホもアイテムとして保管されていたので、それをゲーム内の自分のインベントリに移していた。
「でもこれは由々しき問題ね、これって私の持っているアイテム、装備が宮田君のインベントリに移されるって事よね?」
「そうなりますね。……あ、僕の方で設定の変更が出来そうです。」
「装備を変えた時に私の服がどっちのインベントリに入ったかは確認してなかったけど、スマホは確かに私が持っていたわ。」
スマホの設定を調べている一志を尻目に遠見は自分の記憶を整理する。
「でもさっきは確かに宮田君のキャラクターが所持している事になっていた。…いつ?契機は?」
「先輩、分りましたよ。」
首だけ一志の方を向いた遠見は続きを促す。
「向こうの世界、ウィルナードで死亡した時に取得していたアイテムを拠点内に移す設定になっていました。」
「ついでに僕のキャラであるイッシーが拠点インベントリに紐づいてましたね。この設定を外してみたら、別途拠点にインベントリを設置出来るようです。
ただ、ちょっと問題がありまして…。」
そう言うと一志は再びスマホの画面を遠見に見せる。
そこには次のようなシステムメッセージが表示されていた。
<新たにインベントリに設定する→冷蔵庫>
「………。」
無言で自分を見てくる遠見の視線に耐え切れず、苦し気に言葉を漏らす。
「内容量の問題なんですかね、確かに我が家で最も容積が大きいのは冷蔵庫ですが…。」
「え、じゃあまた向こうで死んでこっち戻ってきたら、私の服も下着も宮田家の冷蔵庫に送られるって事?」
一志は目を閉じ想像する。妙齢の女性の下着が昨日の残り物と並んで冷やされているところを。シュール過ぎて泣ける。
「宮田君。」
声のトーンから空気感を適確に読み取った結果、一志は居住まいを正し背筋を伸ばして遠見に向き直る。
「次、私が死に戻ってくるまでに解決しておくこと。最優先で対処しなさい。」
「イエス、サー!全てこの宮田にお任せ下さい。」
遠見のこの指令を達成すべく一志は大型のガベージボックスの購入を検討したのだが、その後すぐに遠見が解決策を発見したため、その話はお流れになった。
何の事はない、アイテムに関してそれぞれのキャラクターで保持する設定にも出来たのだ。これによりいちいち拠点インベントリからアイテムを移すという手間は省けるようになった。
また、事の発端である装備が強制解除される現象については、根幹的な仕様なのか一切変更は出来なかった。
これについては不明ながらも死ぬ事でキャラクター情報が不可逆的な要素を除き、リセットされるのではないかという結論に至った。
なお装備についてだが、MIST WANDERER のキャラクターは身体の各部位にアイテムを装備する事が出来るのだが、所謂アンダーウェア(下着に相当)については男女それぞれ標準で設定されていた。
女性の場合は絹の白いワンピースと黒の下履きであり、遠見やアリシアが死んで戻って来た時に装備していたものがそうである。
このアンダーウェアを外す(MIST WANDERER 準拠以外のものを装備する)ことは可能だが、死亡した際に設定済のアンダーウェアに強制的に置き換わるため、
結果として強制お着替えのような現象が発生していたのである。
このアンダーウェアは幾つかある中から選択可能であり、吟味に吟味を重ねた遠見が選んだのは身体にフィットするタイプのショートパンツとクロップドキャミソールのような形状のものである。
遠見曰く、これが一番生地も厚いし、邪魔にならないらしい。ちょっと何を言ってるか分からない、といった一志をよそに独断でアリシアの設定も変更される事となった。
アリシアは深い暗闇の中、浮かぶように沈むように揺蕩っていた。そう感じていた。
この感覚には覚えがある…。あぁ、自分はまた死んだのだ。
周囲には何もない。此処には独りだ。静かに瞳を閉じる。瞼の裏に浮かんできたのは今際の際まで共にいた一人の弓使い。
自分の為に世界を跨いでくれた優しくて親切な人。初めて弓を扱ったとは思えない精密な射撃、驚くべき索敵能力。
道中自分を気遣って色々な話をしてくれた。応えるように自分も様々な話を切りだした。地球という世界の事、ウィルナードの事、教国の事。そして騎士団の事。
最後に見た彼女の顔はどんな表情だったか、ハッキリと覚えていない。
あの時、あの異形の叩きつけられた拳の下で彼女は消えてしまった。一瞬の事だった。
思えばあの大量のゾンビ共は目眩ましだったのだろう。偶然ではない、きっとあの異形が呼び寄せたのだ。
騎士団が壊滅の憂き目に遭った時に湧き出た大量のゾンビも恐らく。
目の前で何度も命が消えていった。力の限り手を伸ばしても届かない、何とか掴みかけても掌から零れ落ちていく。
自分の命ももう何度も散った。
挫けそうになる心を何とか繋ぎ止め、必死になってもがいてきた。文字通り命を懸けて。
縁あって身に余るような武具を賜り、本来手にする事の出来ない力も手に入れる事が出来た。
それでも。
それでも自分はまた無様にも死んだのだ。
自分の弱さが憎い。まるで呪いのように冷たく重くこの身に圧し掛かってくる。
「強く、なりたい。だが、私は…。」
少しずつ意識が覚醒して視界が拡がっていく感覚、深く暗い水底から水面に浮上していくような浮遊感。
幾度かの死を通じてアリシアは理解していた。
そしてアリシアは心に薄暗い感情を抱えたまま目を覚ました。