第四話
アリシアが目を開けると、何度となく目にしてきた光景が飛び込んできた。陰鬱な空気が立ち込める汚泥と腐臭の中、鬱蒼と生い茂る深い森。
一つ息を漏らすと周囲を警戒しつつ、再度自分の装備を確認する。遠い世界の恩人に贈られた白く輝く鎧に、手に馴染み始めた長剣、泥によりぬかるんだ地面を踏み締めるブーツ、そして新たに手にした盾を構える。
「よし。」
先ほど周りを確認した際に、今いる場所が何処かを把握したアリシアは迷いのない足取りで進み始める。
アリシアが目を覚ましたのは、前回命を落としたグールとの遭遇地点より少し手前の大樹の木陰だった。もっとも日の光が殆ど差し込まない黒霧の森においては木陰などないようなものではあるが。
アリシアは考える。黒霧の森には演習や司教様の護衛任務などで幾度となく訪れているが、今回のようなゾンビの大量発生やましてグールの出現など明らかに異常だ。
そして前回、これまで死んでから聖石の力で甦った時、一度倒したゾンビがどうなっているか、一志にその旨を質問された。そして答えることが出来なかった。黒霧の森では少数ではあるが、ゾンビは再現なく出現するといって差し支えないものであり、これまで倒したゾンビのことを気に留めた事などなかったのである。
周囲を見渡し、記憶にある地形を辿ると頭部を両断されたゾンビを複数発見した。剣筋や地面に残された足跡の踏み込み等から、それが自分の手によるものだと確信する。
当たり前だ、生物は死んだら生き返ったりしない。ゾンビなのだから生物ではないかもしれないが同じ事だろう。
聖女様や大司教様の奇跡ですら死者蘇生など不可能なのに、汚れた異形如きが甦るなど烏滸がましいにもほどがあるというものだ。
心の内でそう毒づくと、気を取り直しアリシアは孤独な行軍を再開する。程なくしてアリシアは前回グールと戦い命を落とした沼地に辿り着いた。
相変わらず霧が立ち込めており、視界が狭く、この中を無暗に突き進むのが危険であるのは明らかだった。
アリシアは身を屈め、一志に教わった通りに沼を迂回して進んだ。前方に現れた朽木の陰に滑り込むと同時に、ドカッという衝撃音と共に木片が飛び散る。
この視界の悪さをものともせずに適確にこちらを射抜いてくるスケルトンアーチャーに戦慄しつつ、アリシアは冷静に状況を確認するよう努める。
騎士団の演習でも弓矢を使った襲撃に備える訓練は行っている、盾や鎧で急所さえ防げば切り抜けられる筈だ。
次々と飛んできては深く朽木を抉っていくスケルトンアーチャーの放つ矢。入射角度から見ても複数方向から射られているだろう。
弾除けに使っている朽木が完全に破壊される直前にアリシアは飛び出す、放たれた矢の射線上を避けるように頭を低くして走りだした。
次のバリケード代わりになる木の影を霧の中に見つけると、方向を微修正する。その時、視界の端に黒い人影のようなものが入り込む。
木陰に飛び込むと同時に態勢を入れ替えて、片膝を付くと長剣を構える。背後には衝撃音。アリシアは意識を前方の霧の中に置き、視えない霧の中からの襲撃に備える。
先ほどと比べて飛んでくる矢の数が少ないように感じる。射程圏外に出たのか、こちらを見失ったのか。
「ホーリーエンチャント」
一志のアドバイスに従い新たに習得した聖属性スキルで自らの長剣を強化したのと、暴力的な怒声を上げた人影が走り出したのはほぼ同じタイミングだった。
グールはゾンビの上位互換と言える存在であり、一般的には肥大化した腕と噛み付きによる攻撃を用いる。腕が肥大化するケースが多いのは元が人間であり、必然的に腕を使う事が多いためであると考えられている。
しかし今アリシアの目の前に飛び込んできたグールは明らかに異常な形状をしていた。
「何なのだ、こいつは…。」
アリシアがこれまで見てきたグールと比較して明らかに大柄であり、さらに首から上にかけて三角形に肥大化していた。
元が人間であるとして、頭部が5倍近く巨大化している。
アリシアがその醜悪さに辟易としていると、グールは雄叫びを上げながら突進してきた。両手をだらりと下げ、その巨大な頭部にある大口を開き真っ直ぐに突っ込んでくる。
グールの横を抜けるように避けると、すれ違いざまに長剣を振り下ろす。聖属性が付与された斬撃はほとんど何の抵抗もなくグールの左足を切断した。
グールに振り向くより先にアリシアは先ほどの木陰に視線をやると、姿勢を低くしたまま飛び込む。視線の端で霧を裂き飛来する矢と風切り音、それは先ほどまでアリシアが居た位置を射抜いていた。
痩せ細った朽木を背にアリシアはグールに向き直る。
足を切断されたグールは直立しての移動を諦めたのか、獣のように両手足で這ったまま突っ込んできていた。目前に迫るその巨大な頭部に、アリシアは反射的に長剣を突き入れる。
口内から頭部を貫き破壊したが突進の勢いまでは殺せず、朽木毎吹き飛ばされるアリシア。周囲を警戒しながら盾を構え、霧の向こうに遮蔽物になるものを探す。吹き飛ばされた時、
不運にも自分が来たルートを見失ってしまっていた。
一瞬背筋にビリビリとした悪寒が走った。直感的に盾をそちらに向けて身を隠す。直後腕に伝わる衝撃、咄嗟におおまかな射線を確認したアリシアは意を決して矢の飛来した方向に駆け出した。
矢を盾で受けた時、衝撃に違和感を感じた。獲物を射るのに適切な距離を保てていないかのような、半端な威力と言えばいいだろうか。
アリシアの予想通り、スケルトンアーチャーはすぐ近くにいた。霧の中でその影を確認したアリシアは盾を構えながら接近し、その身体を袈裟斬りにする。ホーリーエンチャントによる聖属性は一切の慈悲なくアンデッドを浄化する。
斬撃が効き辛い筈のスケルトンが一撃で掻き消えるように消滅する様子に、改めて自らのスキルに瞠目するアリシアだった。
一志がすまほなる魔道具を用いて説明してくれた情報からすると、スケルトンアーチャーは最低でも3体いるという事だった。
その内1体は倒したから、残るは少なくとも2体。
周囲への警戒に最大限気を張りながら、アリシアは自分の現在いる位置を何とか確認しようとしていた。
濃い霧の中、誤ったルートを進んでしまうのは避けたかった。演習で何度も訪れたとは言え、何も森中を踏破した訳ではないのだ。その上、深い霧と周囲にはアンデッド。
カチャ……
カチャ……
周辺への警戒をするアリシアの耳に金属音が僅かに聴こえた。
金属と金属をぶつけたような音、そして不定期ではあるが一定のリズムがあるように感じる。
慎重に音の聴こえてくる方向に歩みを進めるアリシア、次第にハッキリと聞こえる金属音。
前方に人影が見える、アリシアは長剣を握りしめて、何時でも振るえるように軽く構えた。
その人影の周辺には元人間と思われる身体のパーツがバラバラになって散らばっていた。
恐らく、すべてアンデッドのものだろう、バラバラの肉片は至るところで腐敗が進んでいる。
また、倒し切れていないアンデッドがビクビクと小刻みに蠢いている。
そしてその中心に立っているものが身に着けている鎧は、アリシアもよく知っているそれであった。
生き残りがいた。
あれほどの凄惨なアンデッド、大型の異形による蹂躙を逃げおおせた者がいた。
感極まったアリシアが声を掛けて近寄ろうとしたその時、その騎士がゆっくりと振り返る。
その顔を見たアリシアの口からは掛けようと思っていた声ではなく、「ひゅっ…」という息が漏れるような、逆に吸い込んだような変な音が零れた。
下顎が損壊して一部を残すのみとなっており、こちらを見ている双眸は明らかに光を失っている。
鎧は胸から肩口までが血の赤と泥で汚く変色しており、至るところが破壊されボロボロになっている。
変わり果てた姿になった元同僚の騎士を目の当たりにしたアリシアは思考が止まってしまっていた。
ダン=ヒュンゼン、アリシアより2つ先輩にあたる騎士で、実直な性格と確かな剣技で若手騎士の中でも、これからを期待されている一人だった。
直接師事した事はないが、別の騎士との模擬戦や演習中の動きなど、学ぶべきところの多い規範となる騎士だった。
私より余程実力があり、経験も積んでいた。…でもきっと、いや間違いなく死んでいる。
これは騎士ダンではなく、アンデッドなのだ。構えなければ、剣を握って、盾を持って。目の前にいるモノは、もう同じ志を持った仲間ではない。
アリシアの視界が滲む。あれはアンデッドだ。騎士ではない、人ではない。
心の何処かでこういう可能性があることを考えていた筈だ。ゾンビは人の死体が魔と負のエネルギーを伴って生じる。
それが騎士には当てはまらないなどという事はないのだ。私だって死んで、場合によってはああなることだってあり得た。
いや、すでに私は何度も死んでいるのだ。見てくれこそ人のままだが、目の前にいる騎士だったこの男と何が違うというのだろうか。
私はまだ人なのだろうか、それとも人の形をした別の何かなのだろうか。
頭が真っ白になったまま、纏まりきらないグチャグチャな思考がアリシアの全てを遅くする。
歯を食いしばり、震える手で懸命に長剣を握りしめ
視点のハッキリと定まらない虚ろな目で周囲を一瞥したアンデッドの騎士は、ダラリと下げた長剣を地面に引き摺りながらフラフラと歩き始める。
そのすぐ背後では首から上を失った女騎士の躯が薄っすらと光を纏うと、霧が晴れるかのように消えていった。