1 苦しい記憶
神さまはいないんだと思う。
だって世界はこんなにも混沌で、煩雑としているから。
ガラという大陸には、無数の国々がある。
その国々の中に、アステアという国が存在する。
その国のあるごく普通の町には、不穏な噂があった。
“町のどこかに、文字で祟る呪い師がいる”
この噂の真偽は未だ不明であるが、町の人々は心の中でこっそり信じている。
————この町には、奴が必ずいると。
「―――っていう風に町の人たちから思われてるらしいんだけど、すごくない?」
『嬉しそうにするな、馬鹿者』
「相変わらず酷い言い草だなー」
私はペンを机に置き、月が昇っている夜空を見上げた。
「見て見て、このムーディーな雰囲気!まさに“呪い師”って感じがしない?」
ニコニコと机に笑いかけると、深いため息をつかれた。
『はあーーー。…………まあ、お前が変わっているというのは事実だ』
ため息をついた“メガネ”は、「やれやれ」というように全身を横に振った。
「まあ、しゃべる無機物を所有してるだけでもヤバい人物だもんね」
茶色のおしゃれなメガネを見て、苦笑した。
この喋る眼鏡は、度が入っていない伊達メガネだ。
レンズの部分は大き目で、かけると知的な女性に早変わり!
『普通の人間がメガネに話しかけ続けるはずがない』
「おっしゃる通りで……」
そう、このメガネは最初から喋っていたわけではない。
ただ私が話しかけ続けていると、魂が宿ったのか知らないが突然自我をもった。
まあ、この話はもう済んだことだ。
「仕方ないじゃん。だって、ここ異世界よ?寂しさに狂って無機物に話しかけちゃうことだってあるでしょ?」
この世界は、私がいた世界ではない。
所謂、剣と魔術の世界。
この世界の人々は誰もが剣も扱えるし、魔術で身体強化できる。
ただ、魔法という奇跡のようなものは幻の存在だと考えられているらしい。
この世界の人の認識は「なんか昔は魔法っていうすげーのがあったらしい」みたいな感じ。
じゃあ、どうやって私はここの来たのかって?
答えは簡単。
ほぼ幻みたいな魔法でこの世界によばれた。
よんだのはこの世界の王族たち。
魔方陣を囲んでいた面々は、誰もが威厳を放っていたのを覚えている。
そんな人たちの熱い視線を受けて、私はこの世界に降りたった。
だがしかし!
…………よばれたのは私じゃなかった。
私の隣にいた男性が、本当によびたかった人物だった。
不要な異邦人となった私は、当たり障りのない言葉で王宮の外———つまり、この家に追いやられた。
「これが国家権力……」
『口封じに消されなくてよかったな』
「怖いこと言わないでよ」
メガネが言っていることも理解できる。
でも、その心配はない。
なぜなら、私は“無能”だったから。
「一通りの能力測ってから放逐って……残酷すぎない?」
私になんの能力もないとわかるや否や、彼らは手の平を返した。
あの時の感覚は、今でも思い出せる。
1年も前のことを鮮明に覚えている自分の女々しさに嫌気が差す。
そんな自己嫌悪をしている私に、メガネが追い打ちをかけてくる。
『世の中は弱肉強食だ』
「無機物のくせに生意気な……」
『なんだ、やるか?』
「いえ、なんでもありません」
このメガネを怒らせると厄介だ。
拗ねられたら後のご機嫌取りがすごい面倒。
やはり無機物でも、その所有者の性格と似るのだろうか。
「とにかく、今はこの文章を完成させないと」
紙に書いているのは、元の世界の文字。
「明日……いやもう日をまたいでるから今日が納品日だからね……」
羊皮紙にでかでかと書かれた文字たち。
これを求める奇特な人々が一定数いるのだ。
この仕事のせいで、私が“呪い師”だと噂されてしまっている。
『いつ見ても、おかしな文字だな』
「失敬な。元の世界じゃこれが共通言語だったんですけど?」
この世界の人たちにとって、私の世界の文字は摩訶不思議に見えるらしい。
だからこそ、この文字が書かれた紙があるマニアたちに売れている。
そう、呪術とか魔術とかに傾倒している人たちとか。
「これが呪いの呪文だとか古代の魔術語だとか、みんな想像力豊かだよね」
ちなみに、ここに書いた文字は「生麦生米生卵」だ。
中身がないにもほどがある。
『それを利用して売り捌いてる奴がお前だろ』
「生きるためには致し方なし!」
生きるためには資金が必要。
でも、この世界では知り合いも伝手もなにもない。
働かないといけないけど、元の世界では社会に出る前の雛鳥だったのだ。
楽して生きられるなら、なんだって利用する。
「王宮の人からもらったお金は怖くて使えないし……」
マニアたちから収益を吸い取れるようになった時、私は彼らからもらった金額を集め直した。初期費用で使ったお金も、しっかりと集めた。
すべては、王宮との縁を完全に断ち切るため。
この家も住処として提供されているけど、近々遠くに引っ越す予定だ。
彼らとの縁は、完全に断ち切っておきたい。
『まあ、お前のしたいようにすればいい』
「メガネ……」
このメガネには、私の心などお見通しだろう。
それでも、メガネは何も言わなかった。
ちっぽけな私のプライドについて、何も言わないでくれた。
(見返してやる、なんてね)
この世界で見られることすらなかった異邦人。
見捨てられたちっぽけな人間のささやかな反抗。
この世界に来た時の記憶は、魚の骨のように喉に刺さって抜けていない。
次の日、私は厄介な人物と遭遇することになる。
私にとって忘れがたい、苦い記憶を呼び起こす存在。
…………“異邦の英雄”と呼ばれる、その人が。