夜闇
公園の片隅で、小さな闇が蠢いた。
猫だ。日が沈みかける薄暗い中、そこだけ一足先に夜が来たように、黒い猫が丸まっていた。
固く目を閉じていて、ぱっと見では生きているかどうかの判断は難しい。しかしよく見れば、首から尾にかけた丸みがかったシルエットがゆったりと上下しているのがわかった。
街灯が点り、夜の訪れを告げる。
それが合図だったかのように、猫の目がゆっくりと開かれた。
黄色く光る瞳は、しかし何かを諦めるように、すぐに伏せられた。猫の顔が歪む。気怠げに首を背中に回して、舐め始めた。街灯に照らされて、黒い毛がてらてらと光る。他の毛色と比べて、赤黒いようにも見える。猫は顔の位置を戻し、「ふう」と小さく息を吐いた。
「怪我しているの?」
不意に、人間の声が聞こえた。
黒くゆったりとしたワンピースを着た女性が、猫を覗き込んでいる。六十歳前後だろうか、ふんわりとしたショートヘアは白髪で、街灯の明かりを受けてキラキラと光っていた。首元には、ラベンダー色のストールを巻いている。
彼女は、心配そうに顔をしかめ、口元に手を添えていた。猫は答えないが、金色の瞳を彼女に向ける。
「まあ」
女性は小さく声を漏らした。そうして「ふふふ」と笑う。
「あなたの目、お月様みたいね」
じっと、彼らが見つめ合う。
「うちにいらっしゃい。手当てしてあげるから」
女性は沈黙を破り、困ったような笑顔を猫に向けた。猫は変わらず、じっと彼女を見つめている。
「……触るわよ」
女性は意を決したようにそう言って、口をキュッと結んだ。恐る恐るといった様子で、猫に手を伸ばす。
猫の手が素早く動き、弧を描いた。伸ばしかけていた手が、一瞬で女性の胸元に引き寄せられる。
「ひゃっ」
「シャー」
女性が息を飲むのと、猫が顔を崩して鳴くのは、ほぼ同時だった。
女性の胸元の手には、一本の赤い線が引かれていた。女性はその傷を抑えると、困ったように猫に笑いかけた。
「……やるわね」
猫は口を閉じて、探るように彼女の顔を見つめていた。その目がふっと閉じる。とん、と頭が地面に着いた。女性の顔に、焦りの色が浮かぶ。
「猫ちゃん?」
女性の呼びかけに反応はない。女性は素早くストールを取ると、そっと猫を包み込んで抱き上げた。
「大丈夫よ。動物病院が、近くにあったはず」
女性は硬い声で言って、踵を返した。迷いなく、走り出す。それは、彼女にとっての全力疾走のように見えた。
街灯の下、静寂が訪れる。
***
日もすっかり沈んでしまい、暗闇の中を女性は走る。
腕に抱かれた猫は動かず、彼女の動きに合わせて上下にだけ揺れていた。
「……おかしいわね。もうずいぶん走ったのに」
少し息を切らして、彼女は言う。その声は心細げだ。
「大丈夫よ。今日は膝の調子も良いみたい。まだまだ走れそう」
女性は腕の中に語りかけた。腕の中の闇がもそりと動く。顔を出したらしく、二つの月がきらりと光ったように見えた。彼女は安心させようとしてか、支える片方の手でぽんぽんと優しくその体を叩いた。
「大丈夫。大丈夫」
手の動きに合わせて、小さく言う。
それは猫に向けて、そして自分に向けて言っているようだった。
「さ、もう少し」
気を取り直したように彼女は足を踏み出した。
たったった、と軽快なリズムで道を進む。闇は一段と深くなったようだった。
「……やっぱり、おかしいわね。動物病院、あの公園からそんなに離れていないと思っていたのに」
足音が止まり、不安そうな女性の声が暗闇に響く。
「せめて月が出ていたら良かったのに……」
「にゃおう」
彼女の言葉を受けてか、猫が鳴いた。「返事してくれたの?」と嬉しそうな女性の声が続く。どこから光を吸収しているのか、猫の目がきらりと黄色く光った。「あら」と女性が笑った。
「そうね。あなたがいたわね」
ほっとしたような声だった。独りで心細いと思っていたのかもしれない。
「ごめんなさい。どうやら迷ってしまったみたいなの」
申し訳なさそうに女性は言葉を続ける。「どうしましょうねえ」と笑う声は、独りじゃないと気がついたためか、いくらか余裕があるようだ。
「あっ」
二つの月が動いた。彼女の胸の高さから足下へ。
手の重量感を失って驚いたのか、女性の慌てた声が聞こえた。
「猫ちゃん」
再び不安そうな声に戻ってしまった女性は、消えた小さな相棒の姿を探しているようだった。
「にゃおう」
猫の声に顔を向けると、暗闇の中に二つの小さな月が浮かんでいて、それは女性に向いているようだった。まるで、彼女を読んでいるように。女性もそう思ったのか、猫についていくと決めたようだった。
進んでは止まる小さな歩幅の足音に、ゆっくりと進む足音が続く。
闇がまた、一段と深くなった。
***
「リッちゃん?」
「きゃっ」
不意に男性の声が聞こえた。驚いたのか、女性の小さい悲鳴が上がる。
暗闇の中で相手の顔も自分の手元もわからない。わかるのは、そこに人がいるらしいという感覚だけ。
「そこにいるのは、田辺リツさん?」
男性の不安そうな声が続いた。女性は戸惑ったように「ええ」と答えた。男性の方は相手がわかって安心したようで、「ああ良かった」と息を吐くような声が聞こえた。
「あなたは……誰?」
訝しげな女性の声が続く。男性は名乗らなかったことに今気づいたように、「ああ、ごめんごめん」と謝ってから、「結城慎一郎だよ」と続けた。
「えっ」
女性――リツの驚いたような声。「慎一郎さん……?」と確かめるような声が続き、「ははっ」と男性――慎一郎の笑う声が続いた。
「声だけじゃわからないね。今夜は闇が深いから。でも、そう、慎一郎だよ」
「まあ……」
慎一郎の言葉を聞いて、思わずといった形で漏れたような、リツの声。驚きの中に懐かしさを滲んでいるようだった。「どうしてこんなところに……」と独り言のように続く。
慎一郎の笑い声がした。
「それはこちらの台詞だよ。でも、そうだな。明日、出立することが決まってね。こんな時間だけれど、気分転換に足が向いたんだ」
「明日、出立……?」
不思議そうに聞き返したリツの声だったが、何かに気づいたようにハッと息を飲んだ。
「駄目よ、行ってはいけないわ」
「え?」
不思議そうに聞き返した慎一郎だったが、小さく笑って「それは難しいなあ」と続けた。
「そんな……どうしたら……」
焦っているような、リツの少し荒い息遣いが聞こえる。
「私……私、あなたにひどいことを……」
リツの震える声に、慎一郎も思い出したように「ああ」と笑った。
「……そうだね。それなりに悩んだけど、仕方なかったと思っているよ。あの時は、ああいう巡り合わせだったんだ」
その声はどこか諦めているようだ。
その声を聞いて思うところがあったのか、リツが慌てたように続ける。
「私、あなたのこと好きだったのに……噂に振り回されてしまって、凄く後悔していたの」
悲しげな声はそこで途切れた。
リツのもどかしいような荒い息遣いと、穏やかな慎一郎の息遣いが聞こえる。
「僕のこと、好きだった?」
しばらく続いた沈黙の後、慎一郎がリツに尋ねた。
その声は静かで穏やかで、感情はあまり感じられない。
「ええ。あなたのこと、大好きだった」
答えるリツの声は力強く、しかし少し震えているようだった。慎一郎が深く息を吐く。
「嬉しい」
晴れやかな声が響いた。
暗闇で見えないが、きっと笑っているに違いないと思えるような、そんな声だった。
「リッちゃん、そろそろ帰りな。送っていってあげたいけど……ごめんね」
「慎一郎さん、明日の出立はどうしても行ってしまうの?」
「仕事だからね。帰ってきたら……また会えると良いね」
にこやかな、穏やかな慎一郎の声。
対するリツはもどかしそうな、少し辛そうな声色だった。
「充分、気をつけて。また……いつか、会えるわね?」
相手を気遣う言葉は、力強かった。
「うん。また、いつか」
慎一郎も力強く返す。頷いたような気配も感じられた。
闇が深くなる。
「ほら、彼が待ってるみたいだ」
慎一郎が促した先には、小さな丸い光が二つ。
「猫ちゃん?」
リツは思い出したように、そちらに足を向けたようだった。足音が遠ざかっていく。
「最後に、会えて良かった」
暗闇の中、一人残された慎一郎がぽつりと心を残した。
***
「ふふふ」
笑い声に反応したのか、ベッドに横になっているリツの枕元に丸くなっていた黒い猫が、顔を上げて彼女を見た。
その毛はかつてほど漆黒ではなく、所々に白い毛が混ざっているようだ。太く丸みを帯びた尾が揺れる。
猫の反応がわかったらしく、リツも猫へ視線を向けた。
「あなたと会った日を思い出したの。月が綺麗な夜だったわねえ」
リツの言葉に、猫は返事をするように小さく鳴いた。
金色の目で、リツをじっと見つめている。
「あの日、慎一郎さんに会ったんだったわ。……どうして忘れていたのかしら」
リツは微笑む。不思議そうに、悲しそうに。
リツは黒猫に語りかけるように言葉を続ける。
「慎一郎さんはね、私の幼なじみ。ずっと好きで、彼からも想われていると思っていたのだけれど、彼が就職してから、彼と付き合っているという人から連絡があって……彼は自分のものだから、彼とは会ってくれるなって。私、慎一郎さんに何も聞いていなかったのに、その電話の方を信じてしまって」
そこで言葉を切ったリツは、小さく咳き込んだ。
猫がその顔を覗き込むようにしてじっと見ている。
「……慎一郎さんに誘われて、映画を見に行ったのだけれど、私、電話のことが気になってしまって彼と一言も口を効かなかった。すごく気まずかった。帰り際、彼が『楽しかった?』って聞いてきたの。不機嫌だったのを指摘されたんだと思って、カッとなって、彼のせいなのにって思ってしまって、それで私、『女たらしと歩くなんてとても恥ずかしかった』って言ってしまったの。彼、驚いた顔をしていたわ。……彼とはそれっきり。ずうっと謝りたくて、気になっていたのに、そのうち彼、仕事で遠くへ行くことになってね。その旅の途中で……」
再び言葉が切れる。大きく息を吸い、吐く音が続き、リツは遠くを見つめるような顔になった。
「事故に遭ってしまったのね」
リツの言葉に、猫の目が細まる。
「お通夜の席で、女性に泣かれたわ。ごめんなさいって。彼に想いを伝えたけれど、断られて、悔しかったんだって。彼……あの日のデートで、プロポーズしてくれるつもりだったみたいね。それを止めたくて、彼女は私に電話をしたみたい。私……彼女がとても憎かったけれど、私の言葉は取り消せないし、彼はもう帰ってこないから……」
リツは深く息を吐いた。布団から手を出して猫を撫でる。猫は気持ちよさそうに目を閉じた。
「あの日、あなたが彼に会わせてくれたの?」
リツは笑いながら尋ねる。猫は目を閉じたまま、彼女に撫でられるがままとなっていた。
やがて彼女は手を布団の中に戻し、疲れたように息を吐いて天井に目を向けた。
「あれはあなたが見せてくれた夢だったのかしらね。慎一郎さんが出発する前日に会うことはなかったし、見送りにも行けなかったもの。それにあの日は、いつの間にか動物病院の前にいて……ふふ、とても不思議な体験だったわ」
思い出すようにリツは笑う。嬉しそうに、懐かしそうに。
「また、あなたと夜の散歩に行きたいわねえ」
そう言ってゆっくりと目を閉じた彼女の顔に、猫は自分の額を擦り付けた。
了
Copyright(C)2024-此村奏兎