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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

トランペット、オーディション、くりかえす夏の日

親友に嫌われてしまった主人公が、時間を逆戻りする力を手にいれて関係を修復しようとじたばたするお話です。


「……最低」


 そう言った有理(ゆうり)の顔を、私はきっと一生忘れない。

 時が戻せるものなら戻したい。

 私は願った。

 強く、強く、強く――



◇ root 2 - 1



 セミの声がうるさい。

 頭が熱い。そして暑い。

 どうして、と考えて、考えるまでもないことに気付いた。

 時間は昼休み、すなわち正午を越えたばかり。そして場所は高校の中庭にあるベンチだった。

 側に聖母マリア像のある中庭のベンチは、涼しい季節には人気のお弁当スポットだけど、直射日光照りつける真夏には、ちょっとした罰ゲームスポットだ。


 なんだか嫌な夢を見ていた気がする。長い長い、嫌な夢。

 頭を振って、まとわりつくような不安を振り払う。

 立ち上がって、ジャンパースカートの制服についた埃を手で払った。

 背中にブラウスが汗でペったりとはりついているのが感じられる。


「あーいたいた、夏鈴(かりん)、あんた、なにやってんのそんなとこで」


 やってきたのは、私の親友。時任有理(ときとうゆうり)だった。


「えーと、昼寝?」

「昼休み始まった途端、ダッシュでベンチで昼寝始める奴とか初めて聞いた」

「ほら、天気もいいし」

「真夏の快晴は、そろそろいい天気というべきではないと思うわ」


 そういいながら、有理は校舎に向かって歩き始める。私を探すために出ては来たけど、見つかったら、もうこの炎天下に一秒でもいたくないらしい。

 あははと笑いながら、深く追及されなかったことに胸をなでおろした。


 実を言うと、私は自分がどうしてあのベンチに座っていたのか、よくわかっていなかった。

 昨日までの記憶はある。今日の朝、家を出た記憶も。

 それが、一時間目の授業あたりから、ベンチに座ってぼんやりしていた時までの記憶がないのだ。

 どうして?


「……ま、いっか」


 考えても分からないことは考えないに限る。

 私、日暮夏鈴(ひぐらしかりん)は深く物事を考えない生き物なのだ。





「オーディション、明日だね」


 涼しい校舎に入ったところで有理が口を開いた。

 私達が所属する吹奏楽部では、大会の前にオーディションが行われる。その結果で大会に出場するメンバーや、ソロなどの重要なパートが決まるのだ。


「有理で決まりでしょ」


 何が決まりなのかといえば、トランペットのソロのことだ。

 トランペットパートには二年生の有理と私、それに三年の野中先輩、あと、一年生が二人いる。

 野中先輩は高校になってから吹奏楽を始めた人で、優しくていい先輩だけど、実力的には小学校からやってる有理の方が上だった。


「うわーテスト勉強してないわー、自信ないわーって奴?」

「そんなんじゃないよ。ていうか、テスト勉強してないっていいながら成績いいのって、有理の方じゃん」

「そうだっけ?」


 そうである。

 美人で成績がよくて、おまけにトランペットも上手い。嫌なやつなのである。

 でも、嫌な奴だけど、性格はいい奴だ。同じパートの私はいつも有理に教えてもらってばかりだった。


「負けないからね」


 そんな有理が、音楽室に向かう階段に足をかけながら言った言葉の意味を、この時の私はよくわかっていなかった。





「三十八度五分……」


 ソファに横になった私に、お母さんが厳かに宣言した。

 頭はぼんやりしているけど、どこか痛いとかはないし、咳もない。頑張れば学校行けるのではと思ったのだけど、家を出ようとしたところでお母さんにつかまってしまった。

 そんなに学校が大好きというわけではないけど、部活には行きたい。それに今日はオーディションの当日なのだ。

 それでも、これだけ熱があることが分かってしまった以上、お母さんは絶対に私を家から出してくれないだろう。小さい頃、遠足の朝に熱を出して、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながらお母さんと格闘した記憶がよみがえった。


 だけど、


「……これでよかったのかも」


 パジャマに着替え直して、布団にもぐりこみながら、ぼんやりとそんなことを思った。

 オーディションでは大会に出場するメンバーとソロが決まる。一年生はまだまだ頼りないから、トランペットのメンバーは有理と私、野中先輩で決まりと言っていい。問題はソロだった。

 四月の時点なら、間違いなくソロは有理だった。実力だけでいったら、去年の時点で有理がソロでもおかしくなかったと私は思っている。

 だけど、有理は今伸び悩んでいた。

 その間に、私が(自分でいうのもなんだけど)伸びてきてしまったのだ。

 今度のコンクールの課題曲が私の好きな勢いのある感じの曲なのも大きい。


「でもなあ……」


 有理と私の出会いは吹奏楽部だった。そして同じパートで一緒に行動している内に自然と仲良くなった。

 私は有理がどれだけ頑張ってるのかを見てきた。

 私が行ったり行かなかったりしている朝練を有理は毎日欠かさないし。たまに行った時でも、有理は先に来て部室の鍵を開けて練習していた。

 だから、ソロは有理が吹くべきだと思う。

「有理で決まりでしょ」と言ったのは私の本心だった。


 風邪でオーディションを休めば、ソロは有理に決まるかもしれない。

 そうなれば、私は有理と争わなくて済む。

 ぼんやりした頭で、そんなことを考えていたら、前に同じことを考えたような気がしてきた。


「あれ?」


 そうだ、明後日、熱が下がった私は学校に行く。

 登校したところで顧問の先生に呼び止められる。

 未来のことのはずなのに、見てきたように映像が頭に浮かんだ。

 そして、しばらく忙しくて私のオーディションの「追試」をしている暇がないと言われる。

 私は、それなら……と答える。


 そうだ、私は、


 ――この後、何が起きるのか、知ってる。



◆ root 1 - 1



「ソロ、辞退したってどういうこと」


 先生とオーディションの話をしてから数日後、私は険しい顔の有理に詰め寄られる。

 未来のことのはずなのに、その時の顔もはっきり思い出せた。


 有理は勘違いしてる。私はソロを辞退したわけではない。追試をしてくれなくていいと言っただけだ。


「同じでしょ。どうして、そんなことしたの」

「先生、忙しいみたいだし、体調管理できなかった私が悪いんだから」

「……」


 反論の言葉はない。だけど、納得は一ミリもしてない顔だった。


「だって、有理、いつも頑張ってたじゃん。私はほら、楽しく吹いてられればいいかなーって……」


 その先は続けられなかった。

 先程から変わらず、有理は険しい顔で私を睨みつけている。だけど、その目には涙が滲んでいた。その涙が目からこぼれたその時、


「……最低!」


 そう言い捨てて、有理は教室を出ていった。



◇ root 2 - 2



 頭を振って、いやな記憶を振り払う。

 これは、まだ起きていないこと。未来の記憶だ。

 スマホを取り出して日付を確認する。今日はオーディション当日。間違いない。


「過去に戻ってきたってこと?」


 なんで?

 確かに、こんなことになる前に戻りたいと私は願った。必死で願った。だけど、それで過去に戻れるなら誰も苦労はしない。


「……マリア、様?」


 我が校の七不思議のひとつ、夜になると歩きだすマリア像。

 それは、中庭のベンチ脇に設置されているマリア像が真夜中に歩き出すという噂話だ。

 本気でそれを信じている生徒はあまりいないと思うけど、なんだか怖いと誰も掃除をしたがらない。それで、なんとなく気の毒になって、私が当番の子と交代していつも掃除をしていた。

 そういえば、有理に罵られたあの日、私はそのマリア像に祈ったのだ。

 時間を戻してほしい、と。


「そんな力があったなんて……」


 昔話の笠地蔵みたいな話だ。

 真夜中に歩き出すというのも案外本当なのかもしれない。





 学校に向かうバスの中で考える。

 この後、先生からオーディションの追試の時間がしばらく取れないと言われる。

 そこで私はオーディションを辞退して、そのことがどういうわけか有理に伝わって怒らせてしまうわけだ。有理とは一年以上のつきあいだけど、時々あの子の地雷の場所が分からなくなる。

 だけど、今は結果がわかっているんだから簡単だ。要はちゃんとオーディションを受ければいいのだ。


 学校に着いて、教室に向かう。その途中で先生に呼び止められた。


「日暮、ちょっといいか」


 声をかけられた場所も言葉も記憶の通りだった(ちなみに、性別の分かりにくい口調だけど、女の先生である)。


(やっぱり、本当に過去に戻ってきたんだ……)


 先生の「オーディションの時間が……」という言葉に、喰い気味に答える。


「お願いします! 朝早くでも夜でも大丈夫です!」

「なんだやけにやる気だな、じゃあ、明日の朝七時からでもいいか?」

「はい!」


 これでよし。後はオーディションをしっかりやるだけだ。


「どうしたの夏鈴、やる気じゃない」


 教室で「よしっ」とか言っていたら、遊びに来ていた有理(本当は隣のクラスだ)につっこまれた。

 誰のせいだと……。





 部活帰りの河原の道は、この季節だとまだ明るい。

 人通りもまばらな広い空間で、私はトランペットを取り出した。

 オーディションを前に最後の練習、というよりもストレス発散が目的だった。

 学校だと、部室でもパート練習の教室でも、どうしてもそこら中からなにかしらの楽器が鳴っている状態で練習をすることになる。

 それはもう慣れたものではあるのだけど、たまに自分の音しかしない場所でトランペットを思いきり鳴らしたくなることがあるのだ。


 初めは簡単な音階から。まずは思いっきり大音量で吹く。

 空に私のトランペットの音色が吸い込まれていく。


「あー、気持ちいー!」


 頭の中のモヤモヤがスッキリする。

 昔好きだったアニメ映画で、屋根の上で鳩と一緒にトランペットを吹いていた男の子を思い出す。あれはきっとすごく気持ちいいんだろうな。





「トランペット、ソロ、日暮夏鈴」


 放課後の音楽室。全部員が見守る中で、オーディションの結果が発表された。ひそひそとささやき合う声から、皆の驚きが伝わってくる。

 驚いているのは私もだ。

 自分では「最近の私の演奏、かなり上手いのでは?」とか思ってはいた。だけど、その時は上手くできたと思ってたのを後で聴いてみたらひどい下手くそだったみたいな経験も多いので、自分の評価というのは信用できないところがあるのだ。

 とりあえず、周りの感想が信じられないとかありえないというものではなさそうなのにほっとする。それでも大方は有理がソロになると思っていたようだけど。


 周囲の反応はともかく、私にとって一番気になるのは有理の反応だった。おそるおそる、隣の有理に視線を移す。

 有理は呆然とした表情で前を見つめていた。そして、私の視線に気づいて振り返る。


「あ、あのさ」


 目があっても、私も何を言うのか考えていたわけではなくて、間が開いてしまう。有理はそんな私をじっと見て、フイと視線を逸らしてしまった。

 あれ……?


 その後のパート練習の空気はひどかった。

 パートリーダーは三年の野中先輩だけど、先輩は高校から始めた組で、実力的には有理と私が引っ張るのがいつもの形だ。その一人である有理が、私の方を見ようともしない。一年生達は不安げに私と有理と先輩の顔を見比べるばかりだった。

 その理由がオーディションの結果なのは明らかだから、野中先輩も今は注意しづらいみたいだった。


(というか、オーディションに出なかったら怒ったくせに、出たら出たで無視してくるってどういうこと!?)


 どんよりとした空気の練習が終わると、私は中庭に走った。


「マリア様! もう一回、もう一回戻してください! 私、なんか間違えたみたいで」


 日が傾いて逆光になったマリア像は少し怖いけど、今はそれどころではない。

 私の言葉が終わると、マリア様の目が私を見た気がした。



◇ root 3 - 1



 セミの声がうるさい。

 頭が熱い。そして暑い。

 どうして、と考えて、考えるまでもないことに気付いた。

 時間は昼休み、すなわち正午を越えたばかり。そして場所は高校の中庭にあるベンチだった。涼しい季節には人気のお弁当スポットも、直射日光照りつける真夏には、ちょっとした罰ゲームスポットだった。


 なんだか嫌な夢を見ていた気がする。長い長い、嫌な……


「戻ってきた!」


 勢いよく立ち上がって、ベンチの側に立つマリア像を見やる。

 当たり前だけどマリア様は無表情。だけど、このマリア様には当たり前が通じないことを私は知ってしまった。

 両手を合わせて、マリア様に感謝のお祈りをささげる。


「南無南無」


 何か違う気がするけど、こういうのは気持ちだ。多分。


「あーいたいた、夏鈴、あんた、なにやってんのそんなとこで」


 いつか聞いた台詞を言いながら有理がやってきた。

 思わず、その顔を見つめてしまう。暑がりの癖にわざわざ私を探しにやってきてくれたのだろう。少し不機嫌そうだけど、それはいつものことだ。


「有理~」

「うわ、暑苦しい!」


 抱き着かれて嫌そうな顔をするけど、これもいつもの事。そんなことを言いながら、突き放したりはしないのだ。


「早く戻ろ、ていうか、なんでこんなとこにいるのよ」


 突き放しはしないけど、暑いのは嫌らしい。


「うーん、ちょっとマリア様にね」

「なにそれ。ああ、そういえばいつも掃除してるよね」


 気づいてたんだ。


「オーディション、明日だね」


 記憶の通りに有理が切り出す。繰り返してきた今だからわかるけど、有理の声には少し力みのようなものがあった。この時にはもう、有理は私に負けるかもしれないと思っていたのかもしれない。


「負けないからね」

「う、うん」



◇ root 3 - 2



 翌朝、目覚めた時の体調はやっぱりあまりよくなかった。熱を測ればきっとまた三十八度以上あるのだろう。だけど、今日は意地でも学校に行く。行ってオーディションを受ける。

 そうすれば、この体調で受けた私が有理より上になることはないはず。

 そのためにはまず、お母さんに見つからずに家を出ることだ。お母さんだって朝は忙しいから私を監視しているわけでもない。

 制服に着替えると、こっそり玄関に向かう。そして、玄関からリビングにいるお母さんに呼びかけた。


「朝練行ってくるー!」

「朝ごはんはー?」

「パンでも買ってくー」


 よしよし。なんとか誤魔化せた。

 私は元々朝練に行ったりいかなかったりなので、朝ごはんは勝手にトーストを焼いたりシリアルを食べたりしている。リビングに顔も出さないことはほとんどないけど、寝坊した時とか、そういう場合もなくはない。だから、お母さんも気にしていないようだった。

 喉がちょっと痛いけど、きっと気のせいだ。





「……吐きそう」


 バスを降りたところで、道端にしゃがみ込む。

 家にいたら、案外たいしたことないんじゃとか思ってたけど、やっぱりおとなしく寝ているのが正解だったみたいだ。

 だけど、ここはこらえるしかない。授業が始まったら保健室に行けばいい。それまでの辛抱だ。


 重い足取りで音楽室に辿りつくと、いつも通り鍵はもう開いていた。


「おはよお……」

「おはよう、って、あんた大丈夫?」


 私の顔を見た有理が立ち上がって、こっちに駆け寄ってきた。

 そんなにバレバレな顔をしてるんだろうか。

 有無を言わせず、私の額に手を伸ばしてくる。


「ちょっと、ひどい熱! なんで家で寝てないの!」

「だって、今日オーディションじゃん……」

「やむを得ない場合は日程ずらしてくれるって言ってたでしょ。先生には私が言っとくから、帰りなよ」

「大丈夫大丈夫、保健室で寝てれば落ち着くって」


 まだ何か言いたげだったけど、結局、大人しく寝ているならということで納得してくれた。


 宣言通り放課後まで保健室で寝て過ごして保健の先生に呆れられたりしつつ、なんとかオーディションを受けることができた。

 出来は、計画通り最悪だった。





 その後、私は二日間風邪で休むことになった。

 復帰した昼休み、隣のクラスに顔を出すと有理がいない。


「あれ? 有理は?」

「風邪で休みだって」


 吹奏楽部の友達が教えてくれた。

 私が風邪を引いたまま出てきたから、有理にうつしてしまったのかもしれない。


 放課後、部活に出ると有理の他にもちらほらと欠席が目立った。


「風邪が流行っているから、気を付けるようにな」


 先生の言葉が突き刺さる。私が抱えていた風邪のウイルスはそんなに凶悪だったのだろうか。


 翌日、学校に出てきた有理はマスクをしていた。


「夏鈴はもう大丈夫なの?」

「私は大丈夫。ごめん、私のせいで」

「別に夏鈴のせいじゃないでしょ。普通に流行ってるんだから」

「……」

「ま、気にするなら今後は具合が悪い時は無理して出てこないこと」


 私のせいだなんて、これっぽっちも思ってない口調だった。

 だけど、私は知ってる。私が家で寝ていた時間では、有理は風邪を引かなかったし、部内でも風邪を引いた子は多くなかった。

 有理は笑ってるけど、今日は練習も出ずに帰るらしい。朝練にももちろん来てなかった。

 楽器の練習は一日サボれば、取り戻すのに三日かかる。努力家の有理が、それで平気なわけがない。

 私は有理と別れると、すぐに中庭に向かった。



◇ root 4 - 1



 セミの声がうるさい。

 頭が熱い。そして暑い。

 どうして、と考えて、そして、


「はい、戻ってきたー!」


 昼休みのベンチで私は勢いよく立ち上がった。

 風邪を引いてオーディションに出る作戦が失敗したあと、今度はオーディションでちょっと下手に吹いてみる作戦をやってみた。

 結果は、これが有理にばれて絶交を言い渡された。

 そして、またマリア様に頼み込んで、元の時間に戻ってきたのである。


「はあ……」


 ため息をついて、ベンチに座り直す。


「いっそ、退部してやろうかな……」


 冗談で言って、もし私が退したら有理はどう思うんだろうなと思った。そうしたら、有理に嫌われないで済むんだろうか。

 吹奏楽は好きだ。

 トランペットが大好きだ。

 屋根の上の男の子に憧れて、私はトランペットを始めた。

 心が浮き立つようなファンファーレが大好きで、ずっとトランペットを吹いてきた。

 両親に買ってもらったトランペットも、今まで吹いてきた時間も、私にとっては宝物だ。

 だけど、私にとっては有理のことが同じくらい大切なのだ。

 ……そこまで考えたところで、


「そうだ、そろそろ有理がくる」

「私がどうかした?」


 心臓が跳ねた。いや、予定通りではあるんだけど。

 今の聞かれてないよねと思いながら、さりげなく話を逸らす。


「有理さ、私に何か言いたいことない?」

「なに急に。一人だけ突っ走るなーとか、周りの音聞けやコラとか?」

「……いや、それは言いたいことというか、いつも言われてることというか。なんかこう、普段はいえないようなこと!」


 反省はしてます。はい。


「そうだなー」


 考えながら、有理は校舎に向かって私に背を向ける。


「夏鈴がいてくれてよかった」

「へ?」


 私に対する普段言えないような不満を吐きだしてほしかったのだけど、何か予想外のものが飛んできた。

 背中を向けたままだから有理は私の動揺にも気づかない。


「中学の部活はギスギスしてたからさ、夏鈴と一緒にやれて今はすごく楽しいんだ」


 中学の時のことはあまり聞いたことがなかった。私は別に何もしていないけど……。





 ……余計わからなくなってしまった。


 例によって風邪を引いて、布団でうなりながら考える。

 有理は私がいてよかったと言ってくれたけど、それは私も同じだ。

 性格はきついけど面倒見のいい有理は、私にいろんなことを教えてくれた。演奏のことから、基礎的なトレーニングのやり方、心構えのことまで。

 中学までの私は、そんなに真剣にトランペットをやってきたわけじゃない。トランペットは好きだったけど、何より友達とはしゃいだりするのが楽しくて部活を続けてきたのだ。

 そんな私がソロに選ばれるかもしれないまでに成長できたのは有理のおかげだ。

 だから、有理が私のせいでソロの座を追われるなんて、そんなのはどう考えたっておかしい。そう考えるのは間違ってるんだろうか。





「明日の朝七時にお願いします」

「ん? あ、ああ、その時間なら大丈夫だ」


 朝の学校で、先生の言葉をショートカットするみたいにオーディションの追試をお願いした。

 だけど、そこで自分がどう演奏するべきなのか、私はさっぱりわからなくなってしまった。


 約束した早朝の音楽室で、私は冗談で考えていたことを先生に吐きだしていた。


「先生、私、退部しようかなーとか言ったら、どうしますか」

「ん? いや、本気で言っているなら、理由を聞かせてくれるか?」

「私、今度のオーディションでソロになるかもしれないですよね」


 先生は少し驚いた顔をして、だけどすぐにうなづいた。


「まあそうだな、今の日暮ならベストの演奏ができれば、ソロを取るのも十分有り得ると思うぞ」

「駄目です。私がソロになったら、きっと有理が傷つくんです」

「あのなあ、吹奏楽に限らずどんな部活でも競争ってのはそういうもんだ。時任だって、ソロを取られるのが嫌ならもっと努力するしかないだろう」

「有理は、もう十分頑張ってるじゃないですか!」

「それで、自分がソロになるくらいなら部活を辞めるってか? いや、確かに日暮の最近の成長は大したもんだが、その自信はどこからくるんだ」

「……」


 結果を見てきたからとは言えない。先生は呆れたようににため息をついた。


「やりたくないなら、別にやらんでいい。少し頭を冷やせ」

「……はい」


 その時、ガタンと、ドアの外で物音がした。

 誰かが廊下にいた? 朝の七時に?

 嫌な予感がして廊下に出る。

 走っていく後姿は、間違いなく、有理だった。





 昼休み、有理と同じクラスの友達に聞いたところ、有理は授業に出てきていないらしい。LIMEを送っても既読もつかない。

 放課後になったら探しに行こう、そう思っていた。


「夏鈴!」


 ホームルームが終わると同時に飛び込んできたのは、隣のクラスの友達だった。


「どうしたの!? 有理、見つかった?」


 首を振る。


「有理が……」

「どうしたの? 有理に何かあったの!?」

「……交通事故、だって」


 震えている友達から、なんとか話を聞きだした。彼女がホームルームで担任から聞いた話によると、


 有理が、交通事故にあって亡くなったということだった。



 その後、放課後の音楽室で、先生からも話があった。

 学校を欠席した有理は、駅前のアーケードを歩いていて、赤信号の横断歩道を渡ろうとして、前方不注意の乗用車にはねられたらしい。

 荷物は音楽室に置いたまま。一度学校に来た有理が、どうして授業に出ずに街中を歩き回っていたのかは、まだわかっていないということだった。


「おい、日暮!」


 先生が止めるのも聞かず、私は音楽室を飛び出した。上履きのまま外に飛び足して、中庭に走る。


「マリア様! 戻して、時間を!」


 ギュッと目を閉じる。

 だけど、少したってから目を開いても、そこは中庭のままだった。


「戻って、ない!? なんで? マリア様! お願い! 毎日ちゃんと掃除もするし、お供え物もするから!」


 あせってマリア様にまくし立てたけど、マリア様が反応することはなかった。


「なんで今回だけ……」


 体がガタガタ震えはじめる。

 もし、時間が戻らなかったら、どうなるの?

 有理は死んでしまって、そのまま、二度と会えなくなるってこと?

 ……嫌だ、そんなの絶対に嫌だ。

 そんなことになるために、何度も同じ時間を繰り返してきたわけじゃない。

 マリア様の像の台座に縋りついて、初めてここに着た時みたいに祈った。

 強く、強く、強く――


「お願い……」


 ゆっくりと、マリア様の目が動いた気がした。


 意識が薄れる。これまで時間を戻る時に感じた感覚だ。

 よかった。これで有理は……

 薄れていく意識の中で、ビキッと石が割れるような音を、私は聞いた気がした。



◇ root 1 - 2



 天井が見える。丸いカバーの室内灯は消えているけど、部屋は窓からの光でうっすらと明るかった。

 見慣れた、私の部屋の朝の光景だ。


「今、いつ!?」


 布団を跳ね除けて飛び起きる。

 そんな私の頭の中に有理の声が甦る。


「……最低!」


 直感的に、これは私が現実に言われたことだと、そう思った。

 何度も時間を巻き戻ってわかったことだけど、時間を戻った時の記憶は一応残っているのだけど、なんとなく夢で見たことみたいにぼんやりしている部分がある。

 それに比べると、今思い出した言葉には実感があったのだ。


 ……つまり?

 慌ててスマホの日付を確かめる。

 日付でいうなら、有理が事故に会った日から数日が過ぎていた。

 だけど、今感じた実感を信じるなら、この日付は最初に私が有理を怒らせてしまった日の翌日だ。


 急いでスマホでLIMEを起動する。有理に「いまどこ?」と、当たり障りのないメッセージを送る。朝練を欠かさない有理は、もう起きている時間だ。

 祈るような思いでLIMEを見守る。すると、しばらくしてメッセージが既読になった。

 返事は返ってこない。だけど、少なくとも有理はLIMEを見ている。

 生きている、ということだ。


「……はーーーーーーーーっ」


 息を吐きだして、布団に倒れ込む。

 どうして、これまでみたいに昼休みの中庭に戻らなかったのかはわからない。だけど、最悪の状態から抜け出すことができたのだから、今はそれで満足するしかない。

 朝練に行こう。有理はきっと来ているはず。





「有理!」


 音楽室に飛び込んできた私に有理が気づく。だけど、その視線はすぐにそらされた。間違いない。私はオーディションを辞退して有理を怒らせた時間に帰ってきたのだ。

 思わず、床にへなへなと座り込んでしまう。

 時間を往ったり来たりしたのが全部無駄になったことへの脱力感もある。だけど、そんなことより、有理が生きてそこにいることを確かめられて、安心したのが何よりの理由だった。


 いつもなら後ろから抱き着くところだけど、今はそうもいかない。

 そんなことを考えていると、有理が練習を始めた。というより、私に中断させられたのを再開したのだろう。

 今は考えがまとまらない。私も楽器を取り出して練習をすることにした。



◇ root 1 - 3



「マリア様……」


 昼休み。今回だけいつものように中庭で目を覚まさなかったことが気になって中庭にやってきてみると、マリア像に異変が起きていた。

 顔を真っ二つにするように、大きな亀裂が入っていたのだ。

 この時間に戻ってくる直前、意識を失う途中で聞いた音を思い出した。あれは、像がひび割れた音だったのだろう。

 ひびが入っていても像の表情は変わらない。当たり前だけど。

 マリア様は顔色も変えないし何も言わないから、本当のことはわからない。だけど、マリア様はきっと、最後の力を振り絞って私を元の時間に戻してくれたのだ。


 掃除の時間は放課後だけど、私はバケツに水を汲んできて、手入れ用の布巾を絞った。頭の上から汚れを丁寧にふき取っていく。痛いという感覚があるのかはわからないけど、ひび割れた部分にできるだけ触らないように。


「馬鹿みたい」


 毎日掃除をしていた私へのお礼だったのかもしれないけど、それでせっかく綺麗になった顔にヒビが入ってたんじゃ意味がないじゃないか。


「……馬鹿みたい」


 だけど、それは私のせいだ。

 マリア様が何度もチャンスをくれたのに、結局、何も変えることができなかった。

 何をやってたんだろう。私は。

 泣きそうになりながら、それでも手を動かす。像と台座を綺麗にし終える頃には、休み時間の終わりが近づいていた。


 もうマリア様の力を頼ることはできない。

 こんな状態でまだ不思議な力が使えるのかわからないし、使えたとしてもまた最悪の結果になってしまった場合、今度こそ戻ってこられなくなるかもしれない。

 それに、こんな姿になったマリア様に、これ以上わがままを言うことなんてできなかった。





「ごめん!」


 パート練習が始まる前の教室で、私は有理に頭を下げていた。

 有理とこれからも友達でいたいと思うなら、結局、とにかく謝って仲直りするしかない。

 だいたいにおいて、有理と私が喧嘩をして、有理の方が悪かったことなんてほとんどないのだ。

 ……いや、もちろん私にも言い分はあるんだけど。

 そんなことをごにょごにょと考えてしまうのは、結局、私は有理と仲直りしたいとは思っているけど、有理が何をそんなに怒っているのか、肝心のところが分かっていないからだった。

 そして、そんなあやふやな謝罪を受け入れてくれる有理ではなかった。


「なんのことを謝ってるのかわかんない」

「それは……」

「なんでオーディション受けなかったの!? 私に譲るため?」

「だって、私にいろんなこと教えてくれたのは有理だよ! なのに、有理を差し置いてソロなんてできるわけないよ!」

「調子にのらないで! 私より上手くなったつもりなの!?」


 だって、実際、オーディションを受けたら勝ったのは私じゃないか。

 ……もちろん、それは別の時間でのことだから言うわけにはいかないけど。


「はいストーップ」


 私が言いよどんだわずかな間に、パートリーダーの野中先輩が入ってきた。後ろには一緒にここまできたらしい部長と、教室に入るに入れないでいる一年生達がいた。


「喧嘩は練習の後にしてね」


 先輩は笑顔だったけど、有無を言わせない迫力があった。





 練習後、楽器を片付けた私は野中先輩と向かい合って座っていた。

 有理は部長に呼ばれて出ていったから、もしかしたら、向こうは向こうで喧嘩の原因を聞かれているのかもしれない。


「喧嘩の理由は……って、ソロのことよね」

「……はい」


 先輩は一つため息をつくと、


「ていうかー、それなら先輩の私に譲ってくれるべきじゃないのー」


 何か似合わない口調で似合わないことを言いだした。


「え……いや、だって」


 さすがに先輩と有理では実力が違い過ぎる。だけど、それを直接指摘するのはさすがに失礼だ。


「冗談。わたしはソロを吹きたいって思ってないもの」


 あっさりと元の口調に戻る。よかった……どうしようかと思った。

 でも本当だろうか。誰だって、吹けるものならソロを吹きたいものじゃないのかな。


「今は二人についてくので精いっぱいだしね。でもそれと同じよ。私のやる気はともかくとして、三年の私より時任さんや日暮さんの方が上手いからソロを任される。今回の曲で日暮さんの方が時任さんよりふさわしいなら、日暮さんがソロをやるべきなのよ」


 先輩のいうことはきっと正しい。

 先輩より有理の方が上手いから有理がソロを吹く。そのことを自然に受け入れていたんだから、もし仮に、私の方が上手く吹けるなら、私がソロをやるべきなのだ。でも……

 納得しきれない顔の私に、先輩は少し表情を緩めた。


「本当はね、日暮さんの気持ちもわかるの。でも、時任さんにとっては不正解だったってことね。部にとってもだけど」

「……はい」

「時任さんも複雑だから、言い方がきつくなっちゃったんだろうけどね」


 複雑、か……。

 有理にソロをやりたい気持ちがあるのは間違いないと思う。だけど、私にそれを譲られたくはないんだろうか。


「大丈夫よ。時任さんがいい子だってことは日暮さんが一番よく知ってるでしょ?」


 それは知ってる。部の誰よりも知ってる。

 だけど、


「有理が私がいい子だって知ってるかはわからないですけど」


 先輩がおかしそうに笑った。


「それは世界中の誰よりも知ってると思う」


 何かそんなにおかしかったのかはわからない。だけど、私は有理があの日言ってくれたことを思い出した。


 ――夏鈴がいてくれてよかった


 私は何かを失敗して、有理を怒らせてしまった。だけど、有理が私のことがどうしようもなく嫌いだとか、そんなことはきっとないのだ。

 ……世界中の誰よりもかはわからないけど。


「……他のパートでも、みんな悩んだりしてるんでしょうか」

「そりゃあね。部長は『譲れないものがあるなら、最後はトロンボーンで殴り合うしかないのだー』って言ってたわね」


 部長がトロンボーンを振りかぶって殴り合ってる絵面が頭をよぎった(絶対真似しないでください)。


「……部長らしいですね」

「ねー、脳筋でやになっちゃうわ」


 先輩は誰に対しても優しいのに、部長に対するコメントだけはいつも遠慮がない。


「でも、時任さんも案外そっちの人かもね」

「……あー」


 思わず笑ってしまった。理が有ると書いて有理。理論派で曲がったことが嫌いな有理は、確かに部長サイドの人間な気がする。


「……確かに」

「でしょ?」


 二人で笑う。笑って、少しだけスッキリした。

 問題はまだ何も解決してない。でも、私達には見守ってくれている人がいる。この世の終わりみたいに感じていたけど、まだ何も終わってなんかいないんだと、少しだけそう思えた。



◇ root 1 - 4



 話が終わって、音楽室に寄っていくという先輩と別れて下駄箱に向かう。

 その途中で、階段を降りる有理を見つけた。

 あの日見た有理の後姿を思い出す。あの時間での有理は、そのまま私の前から永遠にいなくなってしまった。


「有理!」


 衝動的に叫んだ私の声に有理が立ち止まる。

 無視されなかっただけましだけど、有理は振り返らない。

 何を話すかなんて考えてない。だけど、このまま有理を見送ったら、あの日のことが繰り返されるような嫌な想像が頭をよぎった。


「私、有理がいてくれてよかった!」


 気づいたら叫んでた。

 私には今も有理がどうしてあんなに怒ったのかわからない。

 わからないけど、大切なことを伝えないまま終わるのは絶対に嫌だ。


「中学の部活はダラダラしてて、あれはあれで楽しかったけど、有理と会って、練習するのが楽しくなった! どんどん自分が上達していくのがわかって嬉しかった! 性格きついくせに、本当はいい奴で、有理と一緒にいる時間が大好きだった!」


 有理が驚いたみたいな顔をして振り返る。

 やっと私の方を向いてくれた、そんな気がした。

 そして、少しためらうみたいに視線をふらつかせる。


「……そんなの、私だってそうだよ」


 有理の声は、どこか弱弱しくて、もしかすると有理は泣いているのかもしれなかった。


「中学の時は、私だけ必死になって、誰もついてこなくて、ずっと一人だった。私だって、夏鈴がいたから……」


 それは有理があの日私に言ってくれた言葉だった。だけど、今の有理は途中で言葉を詰まらせる。

 それは、階段を最後の一歩まで降りた私が有理の前に立ったからだった。

 有理はバツの悪そうな顔で目を逸らした。


「……ごめん。最低は言い過ぎた」

「有理……」

「……でも、あんなこと二度としないで」

「うん……ごめん」


 私の答えを聞いて、力が抜けたみたいに有理が微笑んだ。

 私も力が抜ける。涙腺が緩む。


「有理~!」


 私は泣いてる顔を誤魔化すみたいに、有理の肩に顔をうずめて抱き着いた。

 でも、ごまかす必要なんてなかった。

 有理の顔もきっと似たようなものだったから。



◇ root 1 - 5



「時任、日暮、明日オーディションやるぞ」


 翌日の部活時間。パート練習に向かう私達を先生が呼び止めた。

 オーディションは終わったはずだけど……。


「お前らのとこのソロだけまだ決まらんから、もう一回だ」


 そんなの初めて聞いた。いや、この時は私がオーディションを受けてないから、やっぱりもう一回やるというのはわからなくはないんだけど。

 ……せっかく丸く収まったのにいらんことを。


「約束、だからね」


 有理が少し不安げな様子で釘を刺した。


「う、うん」


 さすがに、これはもう本気でやるしかない。





「トランペット、ソロ、日暮夏鈴」


 全部員が見守る中で、オーディションの結果が発表された。ひそひそとささやき合う声から、皆の驚きが伝わってくる。

 やっぱり大方は有理がソロになると思っていたようだ。

 ……は、いいとして、私は隣の有理におそるおそる視線を移す。

 有理は私の視線に気づくとこちらを見て……ふいと目を逸らした。

 ……これじゃ元通りだ。

 私にはもう有理が何を考えているのかさっぱりわからない。

 頭を抱えていたら、いきなりバンと背中を叩かれた。


「あいたっ」


 振り返ると、有理が私から離れていくところだった。

 ……えーと?


「うーん、多分、脳筋族の言葉で頑張れって意味じゃない?」


 脳筋族語に詳しい野中先輩が解説してくれた。


「ええ……」


 日本語で言ってくれ。

 とは思うけど、応援してくれてるということはわかった。

 ……それを素直に言いづらい気持ちだってことも。


 もしかすると、と思う。

 前の時だって、有理には少し時間が必要だったというだけなのかもしれない。



◇ root 1 - 6



「うえー、最悪ー」


 とうとうやってきた大会当日。発表された演奏順を見た美咲の反応がそれだった。

 美咲は有理と同じクラスの吹奏楽部員。別の時間では有理の交通事故を私に知らせてくれた子だ。

 その有理は今は私の隣で「順番なんて関係ないでしょ」と強がっている。ちょっと表情が硬いけど。

 ちなみに、何が最悪なのかというと、私達の演奏順が全国大会の常連である京濠大付属高校のすぐ後だったのだ。

 私達も今回は今までよりもいい演奏ができるはずだと思っているけど、全国レベルの演奏を先に聞いてしまうと審査する人の耳は厳しくなりそうだし、自分達は自信を無くしそうだしで、あまり嬉しい順番ではなかった。

 でも、


「順番なんて関係ないよ」


 有理の言ったことは正しい。だから、私もその言葉を繰り返した。





 時間が立つのはあっという間で、いつの間にか私達はステージの上にいた。

 京濠大付属の演奏は予想通り完璧で、同じ高校生とは思えなかった。


(駄目だ。集中しなきゃ)


 トランペットの出番はまだだけど、演奏はもう始まっている。

 静かな導入で、ここまでミスらしいミスはない。譜面は完璧になぞれている。


(でも、固い)


 委縮してるのがわかるようだった。


 ――あんな完璧な演奏の後じゃ仕方ない。


 いつもの私ならそう思うところだった。

 だけど、どうしてだろう。

 今日の私は、この状況をなんとかしたい。そんな風に思っていた。


 もうすぐ、トランペットのソロ。私の出番だ。

 楽器を構える指に力が入る。

 指揮を振る先生と目があった-―


 しん、と静まり返ったホールに、夜の終わりを告げるトランペットが鳴り響く。

 山を、谷を、野原を隅々まで照らしていく、朝日のような朗々とした調べ。

 客席がはっと目を覚ましたように、こちらを注目したのがわかった。


 ああ、最高に気持ちいい!

 誰もいない河原での演奏も好きだけど、たくさんの人に聞いてもらいながら自分の演奏だけを響かせるのは比べ物にならない快感だ。

 私は本番に弱い方ではないけど、こんなにも緊張することなく、のびのびと自分の演奏ができるのは自分でも少し意外だった。


 朝の光を表現するようなゆったりしたフレーズが終わると、旋律は次第に緊張感を帯びていく。

 ラッパが、騎兵隊の到着を知らせる。

 客席の緊張と期待が高まっていくのが肌で感じられた。


 有理に叱られながら何度も練習した指の運び、息遣い。頭で考えることなく、身体が自然にトランペットを響かせてゆく。

 無心で演奏する頭の中、唐突に私は気づいた。


 今まで心のどこかで、有理のことをなんてややこしい奴なんだって思ってた。でも、それは有理だけじゃないんだ。

 私だってそんなに単純じゃなかった。

 有理がソロを吹くべきだって言っていたくせに、本当はこんなにも大舞台で皆の先頭に立って吹いてみたかった。

 私は自分で自分の望みが分かっていなかったんだ。


 だから、有理はあんなに怒ったんだ。


 本当はこんなにソロを吹きたかったのに、それを譲るなんて簡単に言うから。

 勝手に自分で自分の気持ちを押し殺そうとしてたから。

 だから、怒ったんだ。

 ……自分だって、ソロを私に取られたら口も聞きたくないくらい悔しいくせに。


 認めるよ。

 私はソロが吹きたかった。

 自分の音しかしない空間で、たくさんの人に向かって一心に吹いてみたかった。

 皆の先頭に立って、突っ走ってみたかった。


 ――だから、今日だけは、


(ついてきて! 有理!)


 私は有理にテレパシーをおくる。

 ソロパートが終わる。他のトランペットが私の旋律に重なってくる。

 有理の繊細な音色。それが、テレパシーが届いたみたいに私の一直線な音と重なりあう。二人の音が溶け合って昇華する。

 先輩の生真面目で暖かい音が、私達二人をしっかり支えてくれる。

 トランペットに導かれるように、他の楽器の音が次々となだれ込んでいく。


 先生の指揮がいつもより大きい。

 もっと、もっと、と私達を煽り立てる。

 序盤の縮こまった演奏が、このクライマックスのための布石だったみたいだった。

 打楽器が鳴り響く。

 音の洪水がホールを満たす。

 頭の中が真っ白になる――


 私は知ってる。

 最悪に見える道だって、その先に何があるかなんて行ってみなくちゃわからない。

 そこを乗り越えて、初めて見えてくるものだってあるんだ。





 鳴りやまない拍手に見送られて、私達はステージを後にした。

 始まりは固かったけど、最後には堂々と演奏を終えることができた。


 皆、やり切った満足感と本番が終わった解放感で、あちこちで賑やかにはしゃいでいる。

 いつもは厳しい先生や部長も、今だけは満足げな表情だった。


 そんな周りの様子を、どこかまだふわふわした頭で眺めていると、 ふと有理と目があった。

 まだ少し息が弾んだまま、私は有理に問いかける。


「どうだった?」


 私の言葉が言い終わる前に、有理の両腕がふわりと私を抱きしめる。


「……最高だった」


 有理の言葉が、私の胸にじんわりと染み込んでいった。


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