40 対峙
塔の壁面は当然ながら吹きさらしで、冷たい夜風が容赦なく叩き付けてくる。
高さは地上から三十メートルぐらいあるだろうか。下を見るとくらくらと眩暈がするので、私は意識して空を見上げる。
私たちは毛糸の聖示物を頼りにして、シーラさんの捕らえられた塔の外壁をよじ登っていた。
「騒がしいな。何かあったのか?」
塔に設けられた採光窓から、困惑した男の声が聞こえる。
中にいる見張りがピアソン一家と警備隊の小競り合いに気付いたらしく、苛立ち紛れに歩き回っているらしい。
「――――」
採光窓の隣で壁に張り付いているクレムが下を向き、目顔で私にもう少し耐えるよう指示する。
私は無言でぶんぶん頷いて、細い毛糸を頼りに石壁に両足をしっかり固定する。うう、風で身体が揺さぶられてめっちゃ怖い。クレムは眉一つ動かさないのに、情けない限りだ。
そうして私が懸命に耐えていると、ふとクレムが動きを見せた。
ロープを支えに壁面をとんと蹴り、採光窓へと身を躍らせたのだ。
丁度、特殊部隊が突入する時みたいな華麗な動き。すると中から、
「な、うお――」
男の人のくぐもった唸り声が聞こえるも、一瞬で静かになった。そして、
「もう上がってきても平気です」
窓から顔を覗かせたクレムが、小声でそう指示する。
私は毛糸にお願いして、自動運搬で塔の中へ。
そこは上端部に設けられた小さな部屋で、床には鎧を身に着けた兵隊が倒れている。
「こ、この人やっつけちゃったの?」
「つぼを突いて昏倒させました。暫くは目を覚まさないでしょう」
驚く私に、クレムがなんてことないようにそう告げる。
いや、つぼを突いて気絶させるなんて、漫画みたいな話だけど、実際に男性が倒れているのだから信じるしかない。
この子が習得した整体術は、もとは心を決められなかった死刑囚を鎮めるために編み出されたものらしい。普段は医療にしか使わないけど、戦いの場で使えばこんなことが出来るんだ。
「鍵は、これでしょうか?」
私が呆けている間に、クレムは男の身体を探り、大きな鍵束を見つける。
「シーラが囚われているのはこの上の部屋だ。急ぎたまえ」
と、ミリーが告げる。彼女が絶えず周囲を偵察してくれるから、私たちは迷わずに進むことができるんだ。
「わ、わかった。シーラさん大丈夫? 怪我してない?」
「外傷はないが、怒り心頭に発しているな。ナオ、なんとか宥めてやってくれ」
幽霊少女に促されるまま、私たちは螺旋階段を上って塔の上端部へ。部屋は分厚い木の扉で隔てられていて、私たちは闇の中を手探りで鍵を合わせる。そして、
「やった、開いた!」
ガチャリと音がして錠前が外れる。閂を外して中に入ると、
「あなたたち何考えてるの!? 来るなって言ったでしょう!」
鬼の形相のシーラさんに怒鳴りつけられた。
「おわ、ご、ごめんなさい……」
流石に叫べるような状況じゃないけど、シーラさんは金色の瞳を爛々と輝かせ、私たちを睨みつける。
今までに見たことないほど本気の怒りに、私は思わず小さくなる。
けれど、彼女が怒っているのは私や避難民を案じてのことだから、不思議と怖くは無い。むしろ、胸の内に芽生えるのは、彼女に再び会えた喜びだけだ。
「もう来てしまったのだ。ここでの議論が有害無益なことなど分かっていよう。――さ、縛めを解いてやれ」
冷静に指摘するミリーに、シーラさんもぐっと押し黙ってしまう。
クレムはさっきから彼女の手枷と足枷を外そうとしているけど、鍵が多くてなかなか当たりを引けない。そこで私は、
「これを外して!」
そうストールにお願いする。
すると、毛糸の聖示物は燐光と共にほどけて、糸先を鍵穴へと滑り込ませた。そして何の手ごたえも無いまま、かちゃりと枷が外れる。
よし。これで後はシーラさんを連れて逃げるだけだ。私たちは彼女を連れて牢の外に。けれど、
「ッ――」
階段を降りたところで、シーラさんがすとんと腰を落としてしまった。
慌てて彼女を支える私。すると、
「ご、ごめんなさいね。しっかりしないと……」
そう溢して立ち上がろうとするシーラさんの手が、小刻みに震えている。
やっぱり彼女、相当無理してる。
肉体的な負担ももちろんだけど、精神的にも辛かったに違いない。
あの暗くて狭い部屋で、兵隊たちの敵意に囲まれながら、ずっと一人で恐怖に堪えていたんだ。いったいどれだけ過酷な戦いだったのかなんて、想像もできない。
それでも気丈に振る舞う彼女に、私は心から尊敬の念を抱く。そして、
「だいじょーぶ。へいちゃらですって」
私は思わず、シーラさんをそっと抱きしめていた。
「な、ナオさん!?」
緊迫した状況で、いきなりセクハラをかました私に、シーラさんは戸惑いの声を漏らす。けれど、
「それより早くみんなを安心させたげないと。――テオドラさんにユニスさん、トッドさんにピアソン一家の皆さん。それに、クレイグさんだって。あなたのことが大好きな人は、沢山いるんです。もちろん私たちも。……だから、もうちょっとだけ頑張りましょ?」
私は心に浮かんだ言葉を、そのまま彼女の耳元でささやく。
「…………」
シーラさんの小さな体から、次第に震えが消えていく。
「――もう。私の方が年上なのよ? そんな風に言われたら、威厳も何もないじゃない」
そして彼女は、いつもの可愛らしく頼もしいお姉さんに戻ると、茶目っ気たっぷりにそう告げる。
私はなにやら嬉しくなって、
「ふふ、たまにはいいじゃないですか。いつも頼りっぱなしですし!」
にんまり笑顔でそう答える。
そうして、気力を奮い立たせたシーラさんを連れてまた移動。ただ、
「どうしよう。また窓から逃げる?」
私はミリーに逃走ルートを尋ねる。
毛糸のロープは細いし、流石に三人を一度に運ぶとなるとちょっと怖い。
ロープが自動で降ろしてくれるけど、塔の壁面は湾曲しているから、体を保持するだけでもかなり力を使う。シーラさんは体調が万全じゃないし、もしものことがあったら大変だ。
「……まだ下の兵隊たちは気付いていないだろう。途中まで階段で降りて、歩廊から地上を目指せばどうだ?」
幽霊少女はそう提案してくれる。
市壁の壁は垂直だし、壁の内側なら風もそんなにない。シーラさんでも十分安全に降りられる筈。
「わかった。そうする」
「では行きましょう」
私とクレムは頷いて答えると、階下へ続く階段を目指す。
ミリーが先に立って偵察してくれて、クレムが不意の遭遇に備える。私はシーラさんを介添えしながらその後ろへ続く。
塔の中は真っ暗で、気を抜けば足を踏み外しそうになる。
私は慎重に足元を探りながら、一歩一歩確実に、なるべく静かに階段を降りる。
そうして辿り着いたのは、比較的天井の高い広間。歩廊と塔を繋ぐ接続点だ。
ここからは下ではなく、横に移動する。城壁の上を走り抜け、距離を稼いだらロープを使って地上に降りる。
後は予め用意してある荷馬車に潜りこめば、馭者さんがセーフハウスまで運んでくれる。
作戦の残りを数え、思わず気を緩めてしまう私。
――階下から物々しい声が聞こえてきたのは、その時だ。
× × ×
「急げお前ら! 上だッ!」
「もう逃げ出したかもしれん、死体にしてでも捕らえろッ!」
床下から聞こえる男たちの怒鳴り声。同時に大勢が階段を駆け登る音がする。
「な、何で……」
殺到する兵隊たちの気配に、私は怯えるより先に困惑を浮かべてしまう。
何故、シーラさんの逃走に気付かれたんだろう? テオドラさんたちは上手く兵隊を誘導してくれたし、私たちが兵隊に遭遇したとしても、彼らも目的までは分からない筈。あ、もしかしたら壁をよじ登る姿を見られてしまったのかも……
「ナオっ、早くこちらに! 逃げますよ」
呆気にとられた私の腕を、クレムが引っ張る。
そうだ。今は一刻も早く彼らから逃れないと。私は彼女に導かれるまま、歩廊へ続く木戸をくぐる。
そうして後ろ手に扉を閉めると、兵隊たちの足音が通り過ぎていく。よかった。まずは上階に確認に行ったんだ。
少しの間だけでも時間が稼げると安堵するも、次の瞬間、私は正面から近づいてくる兵隊の姿を目にする。
彼我の距離は十メートルも無い。丁度鉢合わせしてしまったのだろう。
「いたぞ、女――」
歩廊で出くわした五人の兵隊が、私たちを指差して叫ぶ――間もなく、口を開いた男が駆け寄ったクレムによって打ち倒された。
「な、糞――」
疾風のように踏み込んだフード姿の少女は、一瞬のうちに掌打を繰り出すと、二人目の兵隊の顎を正確に打ち抜いた。
「ッ――」
けれど、奇襲が通じたのはそこまでだった。
腐っても相手はプロの兵隊だ。彼らは直ぐに混乱から立ち直ると、散会して距離を取り、一斉に腰の剣を抜く。
「あの子を守って!」
鈍く輝く刃を見た瞬間、私は反射的にそう叫んでいた。すると、
「な!」
「うお、なんだこれはッ!」
毛糸のロープが蛇のようにうねり進み、兵隊たちの足を絡め取る。その超常現象に気を取られた隙に、
「が――」
パンパンパンと、乾いた音がひとつながりになって聞こえる。クレムが兵隊たちをあっという間に倒してしまったのだ。
「嘘でしょ………」
絶句するのはシーラさんだ。まさか、あんな華奢な少女がこんなに強いとは思わなかったのだろう。
気持ちはよく分かる。前に戦ったところを見たことがある私でさえ、未だに見た目とのギャップには驚くもの。でも、
「…………」
倒れ伏した兵隊を眺めるクレムは、いつもと雰囲気がまるで違っていて、青い瞳にはおよそ感情の色が見えない。
まるで機械にでもなってしまったかのような親友の姿は、何度見てもあまり好きにはなれない。けれど、その人ならざる者のような彼女になら、どんな敵だって倒してしまいそうな雰囲気がある。
「へ、ちょ、ちょっとどうしたの!?」
呆然とクレムの活躍を眺めていると、突然彼女はその場にしゃがみこみ、兵隊が取り落した剣を手にした。もう彼らは気絶しているのに、いったい何をする気だろう。
疑問に思う暇も無く、彼女は私たちの元に駆け寄ると、そのまま塔に繋がる扉へと向かう。そして両開きの扉の取っ手に剣を差し込み、即席の閂にすると、
「今の内です。早く逃げましょう!」
緊迫した表情でそう語りかける。
「あ、うん……」
そうだ。呆気にとられている場合じゃなかった。危機を脱した訳じゃないんだから。
でも、この子が私たちを守ろうと思ってくれていることがはっきりと伝わって、今更ながらに胸が熱くなる。
あの感情を押し殺した姿だって、きっとその為のモノ。怖がっちゃ駄目だ。
「よし行こう!」
クレムに勇気付けられた私たちは、闇に伸びる石造りの歩廊を走り出す。なるべく塔から離れて、こっそりと地面に降りるんだ。
でも、兵隊が駆けつけてきたということは、ピアソン一家はどうなったんだろう。下からは人が争う音が聞こえるから、きっとまだ戦ってくれているとは思うけど。
彼らは私たちを置いて逃げないだろうから、早く離脱して合図を送らないと。私たちの懸命に歩廊を駆ける。
けれどその時、眼前に新たな人影が。
市壁の外階段を駆け登って現れたのは、逆立つ金髪に髭を蓄えたライオンのような大男、オストバーグ市警備隊の隊長、ジェフリー・アランだ。
「見つけたぞ雌犬共がッ!!」
ジェフリーは私たちの姿を目にするや、激昂と共に腰の剣を抜き払った。




