33 祈り
「お取込みの所、失礼いたします」
避難民とそれを取り囲む警備隊に近付いてきたのは、僧服を纏った中年の男性だった。年若い従者も二人連れて、一目で教会の人だと分かる。
「っ――」
その姿を見た途端、ジェフリーが気付かれないほど小さく舌打ちをする。
「こやつらは不逞の輩です。あまり近付かれませんよう」
と、表面上は敬意をもってそう告げる。部下と一緒に馬から降りて、恭しい態度だ。
ただ、中年の司祭さんはにこやかな笑みを浮かべるだけで、まともには取り合わない。
そして私たちの側までやってくると、
「先ほど、教会の前で熱心に祈りを捧げておられましたが、せっかくここまで足を運ばれたのですから、よければどうぞ、中に入られませんか」
そう声を掛けてきた。
「え――」
困惑する私、民衆からは安堵と歓喜の声が漏れる。
市警に絡まれた私たちを見兼ねて、教会が助け船を出してくれたのだ。
「あ、ありがとうござ――」
「なりませんぞ司祭殿!」
私の口から出たお礼の言葉を、ジェフリーのだみ声が遮る。
ことさら避難民を威圧するように胸を反り返らせ、
「届け出も無い集会、市道の不法な占拠、彼らは厳しく詮議する必要があります」
彼は有無を言わさぬ声でそう告げる。
「…………」
司祭様は微かに困惑の表情を浮かべ、若い従者と目線で何かを相談する。
私はもうテンパって、成り行きを見守るばかり。
貧民たちを避難させるにあたって、教会を頼るという話は出てこなかった。
オーリオラ教会の権威は絶大で、大陸中に影響力を持ち、その威信は国家をも上回るとはテオドラさんの談。
けれど、それだけ強い力を持つから、過去には王権と幾度とない衝突があったそうな。
両者の関係は今も微妙なパワーバランスで成り立っていて、どちらも積極的に波風を立てたりはしないらしい。
オストバーグ市警による貧民の一斉摘発は、根っこのところは宮廷貴族による政治闘争だから、教会に話を持って行っても介入してくれるかどうかは微妙。
もし藪を突いて蛇を出すことになればすべてが瓦解するから、計画からは除外したのだ。
でも、向こうから接触してきた場合は……どうすればいいんだろう。
「とはいえ、教会は拒む門を持ち合わせません。あそこまで熱心に祈りを捧げた方々を、蔑ろにする訳には……」
と、司祭様が控え目に抗弁する。
「ご尤もな話ですな。あなた方こそ、オーリオラの精神を体現する方々でしょう」
ジェフリーはうわべこそ教会の理念や博愛を褒め、司祭様を称賛するけど、頑なに私たちの身柄を引き渡そうとしない。
司祭様も、あまり強くは出られないみたい。やっぱり、立場的に無理をしているのかも。
「ならばせめて、どなたかお一人だけでも、代表の方に来ていただくのはどうでしょう。皆様の代わりに、マルヴィナ様と共に祈っていただければ……」
折衷案として、司祭様はそんな事を口にした。
「ううむ……時間を区切り、必ずこの場に戻すと約束いただけるのでしたら」
ジェフリーはまだ渋っていた様子だけど、流石にこれ以上突っぱねるのは難しいと判断したのか、その条件を呑んだ。
思いがけない展開に、群衆がざわめく。
誰も教会の意図が予想できない。そもそも、教会は私たちをどうする気なんだろう? 保護してくれるのか、それとも別の思惑があるのか。
ひとりだけ行ったところで、何になるのか。お祈りして、それで帰ってきて、捕まったら意味がない。呼び付けるということは、彼らも事情を知りたがっているのだろうか。
「ど、どうしようクレム……」
テオドラさんやシーラさんなら、すぐに思惑を見抜いて対策を立てられるんだろうけど、馬鹿な私にそんなの無理だ。
縋り付くようにして、親友に相談を持ちかける。すると、
「是非、ご厚意に甘えましょう。……ナオ。あなたに代表をお願いして、いいですか?」
彼女は決意を秘めた眼差しで、私にそう語りかけた。
「――へ、え、わ、私!?」
いきなり大役を仰せつかって、反射的に無理だと答えそうになる私。
だって、私の頭で交渉なんてできないし、お祈りだって作法もしらない。でも。
「ッ……」
縋るような表情に、私はすぐに親友の胸の内を読み取った。
ここは、私が行くしかない。
フードを深くかぶって顔を隠しているけど、クレムはその出自故に大っぴらに教会に出入りできない。騒ぎを聞きつけて見物人も出てきたし、衆目に身を晒すことそのものがリスクなのだ。
それに、避難民たちを支え、守ることができるのも彼女を置いて他にない。
彼女がこの場を離れてしまえば、避難民たちは市警のプレッシャーに抗えず、崩壊してしまうかもしれない。
そしてクレムを除けば、この場で事件の詳細を知っているのは私だけだ。
私しか、適任者はいないんだ。
「……わかった。行ってくるよ」
親友の切なる願いに、私は覚悟を決める。
頑張って教会に窮状を説明する。とにかく熱心にお祈りする。最悪、ピアソン一家の人たちが来るまでの時間だけでも稼げればいい。
丁度、雨も上がった。私は重たい雨具を脱ぐ。
雲間から差し込む日差しを浴びて、雨に濡れた大聖堂はより一層美しく輝いている。
「あ、平気ですよ司祭様。よかったら皆さんにお説法してあげてくれませんか」
先導しようとする司祭様にお願いして、群衆の元に残ってもらう。
教会の人の前では、警備隊も無茶なことはできないだろうし。
「ぃよしっ!」
私はふんと力を入れて、雨に濡れた石畳を歩き出す。
胸を張り、足取り軽く、たったひとりで、堂々と。
広場の真ん中を歩く私を、誰も彼もが怪訝に見詰める。視線の嵐に曝されても、私は少しもたじろがない。
クレムとミリー、テオドラさん、シーラさん、ユニスさん、ピアソン一家の人々。他にもたくさんの協力者、それになにより、貧民街の人々も。
数えきれないほど多くの人が勇気と知恵を振り絞り、此処まで来たんだ。
私の背中には、みんなが付いている。怖いはずなんてない。
目の前には壮麗な大聖堂が聳えている。
私はこの街に来て初めて、その門を潜った。
× × ×
大聖堂の中は、外観に負けず劣らず美しかった。
アーチ状の天井は驚くほど高くて、室内なのにとても開放的な印象。
細緻な装飾を施された列柱に、聖典をモチーフにしたであろう壁画、聖人と思しき彫像や、私にはよくわかんない儀式用の品も展示され、堂内は荘厳な空気に満ちている。
長い歴史と、人々の信仰心が積み重ねられた、そこはまさに至純の聖域だった。
でも、不思議と息苦しい感じは全然しない。それどころか、なぜか心が安らぎ、落ち着いていくのを感じる。
その理由はやっぱり、正面に鎮座する彼女のお蔭なのだろう。
大聖堂の最奥、ステンドグラスの光に照らされる場所に、その像はあった。
ベールを纏い、胸の前で手を組む女性の立像。
面差しは穏やかで美しく、子を見守る母のような暖かな微笑を湛えている。
背後には美しい装飾の施された円環があり、神聖さを際立たせている。
彼女こそ、オーリオラの教えを唱え、教会の礎を築いた聖女、マルヴィナ様だ。
「…………」
私は信徒席の間を通りながら、祭壇へと歩み寄る。
マルヴィナ様の石像を眺めていると、なぜか胸が詰まり、形容できない感情が付き上げてくる。
会ったことも無い、残した教えすら知らないのに、懐かしいような、嬉しいような、悲しいような、言葉にできない思いが去来する。
私はずっと、この人に会いたかったようにさえ感じるのだ。
引き寄せられるようにマルヴィナ様へと近づいていく私。でも、その歩みは唐突に止まる。祭壇前に、見知った人影を見つけたからだ。
「遠目ではよく分からなかったが、やはり君だったか」
「ケンプ様っ!」
祭壇前に立っていたのは、豪奢な僧服を身に着けた白髭の老人、ケンプ枢機卿猊下だ。
「ご、ご無沙汰してます。その説はどうも、ご迷惑おかけしました!」
と、私は慌ててぺこりと頭を下げる。
この偉い聖職者のお爺さんとは、多少の面識がある。
初めてオストバーグに来た時、偶然出会って少しお話をしたのだ。ただ、この人はクレムのことを知っていて、それで騒動になっちゃって、……今思えば、あの時はかなり失礼なことも言ってしまったように思う。
落ち着いてから手紙を出してみようと思ってたんだけど、色々事件がありすぎて、ついぞ暇がなかったのだ。
「確か、ナオ君といったか。……あの子は、元気にしているかね?」
と、どこか気遣わしげな面持ちでケンプ様が問いかける。もちろんクレムのことだ。この人、陰ながらあの子のことを心配してくれてたんだ。
「はい。お蔭さまですぐ仲直りできました。……今は外で、みんなと一緒にいます」
そう説明する。大司教様は無言で頷くと、
「君たちはいったい何をしていたのかね。あの表の人々は? 警備隊と諍いを起こしたのは何故だね」
重ねてそう問いかける。
やっぱり、教会の人も事情が分からず困惑していたみたい。
そりゃあそうだ。警備隊の活発化には気付いていただろうけど、貧民街の一斉摘発はほんの数日前に決まったことだし、人々が避難する理由も分からない筈。
けど、教会は貧民街への支援活動も熱心に行っていたし、ただ事ではないと見て介入してくれたのだろう。
それで、とにかく貧民の保護と、それが無理でも事情を把握しようとしたに違いない。
人目を憚ってか、お堂にはごく少数の人しかいない。枢機卿様自ら応対してくれたのは、群衆から出てきたのが私に見えたからだそうな。
「詳しい話を、聞かせてもらえるかね」
と、ケンプ様は深刻そうに問いかける。
「はい。もちろんです。――でも、先にお祈りをさせてもらっていいですか?」
と、私は笑ってそう答える。
「ッ――」
遠巻きに私を眺めていた僧侶たちが、明らかに色を成す。枢機卿様の質問を後回しにしたんだから、怒るのも当然だろう。けれど、
「ほっほ、そうであったな。――まずは家主に挨拶を。覚えていてくれて、私も嬉しいよ」
ケンプ様はさも楽しげに笑うと、私を祭壇前へと導いてくれた。
ここは神の御家だもの。何をするにしても、まずはお祈りが優先。ほかならぬ枢機卿様が教えてくれたマナーだ。
「さあ、此処に。……私も共に祈ろう」
マルヴィナ様の前に跪き、両手を合わせる私。
お爺さんも隣で手を合わせてくれる。
そうして、祈りの時が過ぎる。
作法なんて何も分からないけど、とにかく心の中で思いを告げる。
枢機卿様は隣で聖句を唱えてくれる。きっと私たちの為に祈ってくれてるんだ。
静かで清く、穏やかで豊かな時間が流れる。
心の中で思いを告げていると、ふと自分の意識が薄れていくような気がする。
意識の輪郭が淡く溶け、私の境が無くなってしまったような。
でも、不安は少しも感じない。むしろ、何か大きなものに抱きとめられたような、安らぎと喜びがあって。
「――ナオ君!」
「――ふぁ!」
それからどれだけ時間が経ったのか、私はケンプ様の呼び声で我に返った。
いけない、めっちゃ熱中してた。
お祈りなんて初詣とお盆くらいしかしないのに、なんでこんなに身が入っちゃったのか。
「す、すみません!」
「いやいや、私も祈りを妨げたくはなかったのだが……君と話をせねばならんのでな」
枢機卿様はそう仰ってくれる。
そうだ。私が教会に呼ばれたのは、外の状況を説明する為だ。熱心にお祈りしてたら、なんだか前後の事まで忘れちゃった。
「え、えっと、あのですね……」
慌てると頭が真っ白になって、どこから説明したものか迷ってしまう。
けれど、お爺さんはそんな私を見て、嬉しそうに微笑むと、
「座ってゆっくり話しなさい。……その後、あの子とはどうだね?」
と、信徒席に私を案内してくれて、そのまま横に腰掛けてくださった。




