5 幽霊少女
窓から差し込む光が、室内を優しく照らす。
「ふんふふーん」
私は上機嫌に鼻歌を歌いながら、囲炉裏の傍までハーブの乗ったまな板を持って行く。そしてくつくつと音を立てている鍋に、それらをざっと投入。大きめの木匙でかき混ぜてひと煮立ち。そのままスープを味見する。
「んー、まあまあかな?」
ちょっと塩味が濃い気もするけど、パンと一緒に食べるならこれぐらいで丁度いいだろう。カチカチのパンでもスープに浸して食べたら、きっと美味しい。
「ん、ううん……」
丁度スープが出来上がり、鍋を鉤から外してテーブルの鍋敷きに乗せたところで、ベッドから声がする。
「あ、起きた? ごめん! 台所にあった食材ちょっと借りちゃった」
「にゅ……ううん……うー?」
「ははあ、割と寝起き悪いタイプなんだ」
私は調理器具をテーブルに置いて、パタパタとベッドに駆け寄る。
クレムさんはむにゃむにゃとまだ夢うつつだ。きっちりと結い上げていた黒髪も乱れに乱れ、青い目を瞬かせる様はまるで子猫のよう。
「――えっ、ナオ様!? あ、そうだ!」
「はーい落ち着いてー。落ち着いてくださーい」
昨晩の出来事を思い出したのか、クレムさんはベッドから勢いよく起き上がる。そんな彼女を制して、私は濡れタオルを差し出す。
「洗面桶はあっちのでよかったかな? お水汲んで来たから、朝ごはんの前に身支度ね」
「え? は、はい……」
有無を言わさぬ口調で彼女を追い立て、その間に乱れたベッドを軽く整える。
昨夜は大変だった。
幽霊に出会って失神してしまったクレムさんを担いで小屋まで連れ帰り、それから自分も倒れるように就寝。
それでも幸い回復力には自信があるので、朝にはばっちり目が覚めた。
クレムさんはまだ寝ていたので、まあ、少しでも恩義を返そうと、勝手に朝餉の支度を始めたのだ。
「いい香り……ナオ様が作られたのですか」
「うん。ささ、座って座って!」
そうこうしているうちにクレムさんが戻ってきた。私は鍋からお椀にスープをよそい、パンを配膳する。
そうして二人向かい合わせで席に着くと、
「……あの、昨日の事は、夢ではなかったんですよね」
と、クレムさんが気まずそうに尋ねてくる。
「あー、うん。あの子ね。一応、今は小屋の外に居てもらってるんだけど……」
「うっ――」
私がそう答えると、彼女はびくりと肩を震わせる。
どうやら随分幽霊が怖いらしい。あの子に席を外しておいてもらってよかった。
別に血塗れだったり首が取れたりするわけでもないし、あれだけはっきり見えて意思疎通もできるんだから、私としては全然まったく怖くないんだけど、やっぱり文化的な背景なんだろうか。ある種のタブーに触れるとか。
「クレムさんが怖いなら、もう少し離れるようにお願いしようか?」
「…………いいえ。その必要はありません。私も、あの方に幾つかお聞きしたいことがありますし」
「うん。わかった。じゃあ入ってもらうね」
彼女が気丈にそう答えたので、私は窓から外に声を掛ける。すると、
「おわ! 壁もテーブルも関係なしですか!」
幽霊少女は壁に寄せた食卓のど真ん中を突っ切って入室してきた。別に害はないんだけど、鍋の上を女の子の首が通って行くのは不気味過ぎる。
「ん? ああそうか。食事に埃を掛けるような真似は避けるべきだったか。謝罪しよう」
真っ白な少女は心底不思議そうな顔をした後、思い出したかのようにそう口にする。
見た目はいいとこのお嬢様なのに、やっぱりかなり変わってるなあこの子。
「……あの、もう部屋の中に?」
「あ、そうか、すぐそっちに行くね」
幽霊の姿が見えないクレムさんは不安そうだ。私は慌てて席を立ち、彼女の隣に座り直す。そして、
「――ッ」
触れようとすると、クレムさんが小さな悲鳴を上げて手をひっこめた。
「ごめん……馴れ馴れしかった?」
思いがけない反応に、私も驚いて体が固まる。
「あっ! いえ、すみません……そういう訳では、ないのですが……」
「いや、いきなり触るのはマナー違反でしょ。ごめんね。でも触らないとこの子と話しできないから。……どこなら触ってもいい?」
そう私が尋ねると、クレムさんはすこしだけ迷ったように視線を泳がせ、
「いえ、別に、どこに触れていただいても、構いません」
と、真っ赤な顔で俯いてそう言った。なんか、身構えられるとこっちも緊張するなぁ。
「あー、うん。じゃあ手で」
気恥ずかしさを追い払うように、私はクレムさんの手を握った。いや、肩とか背中でも良かったんだけど、長い事触っていると腕が疲れそうだし。
「これで、私が認識できるようになったのか」
「……はい。はっきりと」
女の子は私たちの対面に座る。別に直接椅子に乗っかっている訳ではなく、その位置に浮かんでいるだけらしい。流石は幽霊。
「さて、質問とはなんだろうか。私としても、君らには興味が尽きない」
と、話の口を切る女の子。だが、
「ね、食べながらお話しようよ。お行儀悪いけどさ、スープ冷めちゃうし」
私はそう提案する。いや、温かいものは温かい内に食べないと美味しさ半減だし。それに、
「君はご飯食べないの? 呑み込めなくても、味や匂いだけでもさ」
私は女の子にそう尋ねる。食事は大勢で食べればもっと美味しい。幽霊だからって仲間外れは可哀想。けど、
「気遣いだけ戴いておこう。生憎、私にはそれらの感覚が分からなくてな」
と、少女はそう答える。相変わらず無表情だが、どこか寂しそうに見えるのは気のせいだろうか。
「ただ、そうだな。先に食事を済ませてしまうといい。なに、気にするな。私は時間を気にするような身ではないからな」
女の子がそう言うので、私たちは仕方なく食事を始めた。
手を放そうか? と目顔でクレムさんに語りかけるも、彼女は私の右手を握りっぱなしにしている。たぶん、幽霊が見えなくなるのが怖いのだろう。
まあ、スープとパンなら左手だけでも何とか食べられる。
クレムさんが食前の祈りを捧げ、私たちは食事を始める。すると、
「――ッ!! 美味しい!」
スプーンを口に運んだ途端、彼女がそう声を上げた。
「口に合った? よかった」
心からの賛辞を受け取り、私も思わず笑顔になる。
「……すごく美味しいです。……その、色んな味が複雑に絡み合って、それでいてこう、えっと……」
と、クレムさんが恥ずかしがりながらも食レポをしてくれる。いやぁ、勝手に台所を借りて下手なモノ作ったら流石にダサすぎるので、私もほっと一安心。
「時間も無かったし、あんまり手の込んだのはできなかったんだけどね」
「いえ、それでも凄いです。同じ豆のスープなのに、なぜ私が作ったものとこうまで違うのでしょう……」
「玉ねぎと人参の皮があったからそれで出汁をとって、ニンニク炒めて香り出して、干し肉ちょっとと豆を煮て、外にローズマリーがあったから摘んできて……」
と、私はクレムさんにレシピを話す。すると、
「すみません。昨日はあんな粗末な食事を出してしまって……」
最初は喜んでくれていたのに、なぜか彼女が急にしょぼくれてしまう。
「いやいや全然! すっごく美味しかったよ! お腹も空いてたし、温かかったし!」
大慌てでフォローする私。
まあ、昨夜の食事が大味だったのは事実だけど、別に食べれらないほどじゃなかったし。いや、流石に施してもらって文句を垂れるほど恩知らずじゃないよ。
「でも自分の家と勝手が違うから、作るの結構手間取っちゃって。その子にもいっぱい助けてもらったんだよ」
話題を変えようと、私は調理中に起きたハプニングを話す。
何せこっちは現代っ子なのだから、いきなり囲炉裏で料理しようとしても出来る訳がない。そんな私を見兼ねて、幽霊少女が色々と助言をしてくれたのだ。
火打石の使い方から、よくわからない食材の説明まで、特にトラブルもなく食事を調えることができたのは、間違いなくこの子のお蔭だ。
「……そんなことが」
クレムさんが、幽霊さんを見てぼそりと呟く。
うんうん。怖いのは分かるけど、少しでも苦手意識が無くなってくれれば嬉しいぞ。
向かいに座る女の子も、なんだか楽しそうに見えるのは気のせいかな。まあ、表情は一ミリも変わってないんだけど。
「あ、そうだ!」
私は唐突に思い立ち、スープをすくった木匙を女の子へと突き出す。
「はい。あ~ん!」
「…………食事はできない。と言った筈だが?」
「感じ感じ! 真似だけでも楽しいかもしれないし」
割と辛辣なセリフを吐かれたけど、私はぐいっとスプーンを伸ばす。
ほんとにただの勘なんだけど、この子、見た目ほどクールなタイプじゃないと思う。どちらかというと、ずっと何かを我慢して、遠慮して、だから周りに壁を作ってるんじゃないかな。丁度、私の……
「――ッ! ま、待て……」
「え?」
すると、女の子が急に大声を上げた。
あれほど無表情だった子が、目を見開き、ハッキリと驚いている。
「え、なに、どうしたの? 大丈夫?」
「こ、これは…………」
少女はスプーンに顔を近づけると、怪訝な声を発する。
「まさか……これは、これが……匂い、か?」
声音は冷静そのものだけど、はっきりと混乱しているのが分かる。
「馬鹿な……ありえない。今までこんなことは……」
「えっと、ひょっとして香りがするの?」
困惑する少女に尋ねると、彼女は小さく頷く。その仕草が妙に可愛くて、
「じゃあほら、味も分かるかも。食べて食べて!」
と、私は煽ってしまう。
幽霊さんはしばらく迷っていたが、やがて意を決して、目の前のスプーンにぱくりと食いついた。そして、
「~~~~~~ッ!!」
声にならない呻きを発し、目を鈴のように見開き、小さな手をぶんぶん振って、幽霊少女が悶絶する。
「うわっ! ちょ、え、え? ヤバくない!?」
余りに過剰な反応に、慌てて手をひっこめる。すると、スプーンはスープを湛えたまま、彼女の唇からするりと抜けだした。
「あ、あの、どうぞお気を確かに!」
クレムさんも、女の子を案じて思わず声を掛ける。
そして、その少女はというと、体をわなわな震えさせた挙句、テーブルに突っ伏して動かなくなってしまった。
「……え、私これ、やらかしちゃった?」
「ど、どうでしょうか……」
声を掛けても動かない幽霊さんへと顔を近づけ、様子を窺う。すると、
「信じられない……」
呆然とした様子で、女の子がむくりと起き上がった。
「君は一体何者だ? 私には今まで、視覚と聴覚以外の感覚はなかったのだ。それが、こんな……こんな……」
と、うわ言のように呟く。
「よかった。無事みたい」
「は、はい……」
未だにうんうん唸る女の子を見て、私たちは顔を見合わせて安堵する。
どうやら、初めて味を感じたことで、ここまで衝撃を受けてしまったらしい。目と耳しか使えない生活というのがどんなのか想像できないけど、いきなり未知の感覚が目覚めたら混乱も当たり前か。
「ごめんねひどいことして。具合とか悪くない?」
ともあれ、私の思いつきで混乱させてしまったのは事実だ。
それに、味覚が目覚めたばかりの人に、濃い味付けのスープはどう考えても不向きだ。幽霊に体調があるのかは知らないけど、悪影響は出ないだろうか。だが、
「いや、それはない。少し、驚いただけだ……」
と、女の子は首を振る。どう見ても少し、って感じのリアクションじゃなかったけど、とにかく本人が平気と言うなら一安心だ。ただ、
「…………」
彼女の視線が、私のスープに注がれている。本人気付いてないっぽいけど、ひょっとしてこれ……。
「ね、よければもう一杯、どう?」
私はもう一度スープをすくい直し、女の子の前に差し出す。
彼女は無表情のままで何やら考え込んでいたようだが、やがて、
「…………食べる」
と、ちょっと照れたような、拗ねたような、可愛らしい声でそう告げた。
ああ良かった。これで全員参加だ。
ほら、食事はみんなですればもっと美味しいんだから。