31 私たちの意思
「どうした? 泣き喚くのはもう終わりか?」
もがき苦しむ私を見て、愉悦に浸っていたデニスがそう呟く。
けれど、私は彼の恫喝なんて耳にも入らなかった。もっとずっと、尊くて悲痛な叫びを聞いていたからだ。
「手を放すんだクレム。ほら、ナオが痛がっているだろう? ……なあ、頼む。いい加減に、目を覚ましてくれ」
真っ白な少女は、私を拘束したままピクリとも動かないクレムに縋り付き、震える声で訴え続ける。
その姿が、声音が、あまりにも痛ましくて、私は自分の惨状なんて気にもならなくなっていた。
今すぐ彼女を抱きしめたい。一緒に痛みを分かち合いたい。そう思うけれど、結局私は捕らわれたままで。
「ああ、なぜ私はこうまで無力なんだ。……世に何も為すことができないなら、なぜ知恵など得た。……泣くことすらできない私に、なぜ友など与えた」
端正な顔を悲痛に歪め、ミリーさんが慟哭する。
けれど、彼女はやはり涙を流すこともできず――
「ッ――」
それでも、切なる祈りは確かに届いた。
「え?」
腕の拘束が緩む。背中の圧迫感が無くなる。
全身を針金で縛りつけられたみたいに身動きできなかったのに、四肢の感覚が急に戻ってくる。その変化に、私は戸惑った。
「おいっお前何してるッ!」
デニスが椅子から立ち上がり、怒声を放つ。その間にも、私を押さえつける重量は完全に消え去った。そして、
「私は、いったい……」
困惑した声が耳朶を打つ。その美しく澄んだ響きを、聞き間違える筈がない。
「「クレムッ!」」
私は全身の痛みも忘れて立ち上がり、親友を抱きしめる。
ミリーさんも驚愕し、彼女のフードにしがみ付く。
「ナオ!? あなた、その顔――」
顔を腫らし、鼻血を流している私に、クレムが青い目を見開く。
ああ、いつものクレムだ。やっと彼女が戻ってきた。
「クソ、どうなってやがる。――おい! アングストの娘を拘束しろ!」
けれど、私たちの再開を阻む狼藉者が。
デニスに命じられ、手下の一人が突進してきたのだ。
「う――」
屈強な男が、まったくの無表情で走ってくる。
私はその威圧感に怯んでしまい、咄嗟に足が動かない。
だが次の瞬間、大男が車にでもはねられたかのように宙を舞った。
「な――」
空を飛んだ男は、壁際の書棚へとぶち当たり、凄まじい音を立てて地面に倒れ伏す。
いきなり目の当たりにした超常現象。でも、私ははっきりとその原因を見ていた。
まるで魔法のような光景だった。暴れ牛のように突っ込んできた大男を、クレムの細腕があさっての方向に投げとばしたのだ。
「お前たちが、ナオをこんな目に……」
フードの奥で、クレムの青い瞳が怒りに輝いている。
聡明な彼女は、一目で私たちの置かれた状況を把握したのだろう。彼女は私たちを庇うように、決然と一歩を踏み出す。
「……洗脳が解けたか。いくらなんでも早すぎるが、どういうことだ?」
部下がやられても、デニスは平然としている。やっぱり、コイツは他人を案じるような人間じゃない。
「面倒事ばかり起こしやがる。このままじゃ利益が消し飛びそうだ」
そう愚痴をこぼすと、デニスは指笛を吹く。
同時に、館に響く複数の足音。階下の手勢を呼び寄せたのだ。
「おい。糞ガキども。そろそろ俺は損切りもやむなしって気分になってきた。……これが最終勧告だ。抵抗は止めて俺の物になれ。断れば、文字通り「物」にしてやる」
彼が酷薄に宣言するや、執務室に男たちがなだれ込んできた。
総数十二名。全員が棍棒みたいな武器を持っている。
「クレム、ミリーさん……」
ようやく三人が揃った。でも、状況は悪くなる一方。私は目顔で二人に問う。すると、
「平気ですよ。――約束しましたよね。あなたはきっと、私たちが守ります」
クレムが透き通るような微笑を浮かべる。私を安心させるためだろうか。彼女がとても強いのはなんとなく分かる。けれど、この数を相手に戦うなんて無茶だ。
私ひとりなら、怖くたって我を張ることもできる。
でも、私の決断にクレムやミリーさんまで付き合わせることになったなら……
「……ナオに出会うまで、私は死人も同然でした。ひとりぼっちで、山奥で朽ち果てていくのをずっと待つだけの、木石と大差ない存在だったんです」
私の煩悶を読み取ったのか、クレムが静かに言葉を紡ぐ。
「けど、あなたと出会って私は救われた。もう一度、世界に居場所を見つけてみようと、そう思えるようになったんです」
クレムが肩越しに私を一瞥。青い瞳が、歓喜に輝いている。
「全部、ナオのお蔭なんです。――だから、私はどんな決断でも受け入れます。あなたの心を、聞かせてください」
力強く問われて、私の鼓動が跳ね上がる。
「私は…………」
視線を横へ動かすと、幽霊少女も頷いてくれる。
「私は、この人たちのお世話になんて、なりたくない」
友達からの全幅の信頼を受け、私は胸に蟠る思いを言葉にする。
「この国の法律なんて知らない。社会の仕組みなんてわかんない。――けど、弱い人たちを暴力で抑えつけて、脅して従わせて、幸せを奪い集めるなんて、きっと許されることじゃない」
体の震えが止まる。痛めつけられた体から、活力が溢れてくる。
自棄になってるんじゃない。胸を動かすこの力は、きっと勇気だ。
「だから、私たちはあなたには従いません。このお話は、絶対にお断りします」
この上なくはっきりと、私は悪党たちに否を突きつける。
怖いけど、悔いはない。後はもう、力尽きるまで抵抗するだけだ。
「……散々待たせた挙句、結局は決裂か。阿呆が、泣きながら後悔しろ。明日の昼でも同じセリフが言えると思うなよ」
「ッ――」
デニスがため息を付き、片手を上げる。配下の男たちが一斉に棍棒を抜いた。その時、
「ああ?」
一触即発の気配を押し留める、不可思議な現象が起きた。
× × ×
クレムの胸元から、淡い光が漏れている。
ランプの火とは明らかに異なる、白く清浄な輝き。
唐突な出来事に、デニスさえ呆気にとられて動けない。
その光を生み出したモノとは――
「それって、あの宝石?」
悪党に向けて啖呵を切ったばかりの私が、慌ててクレムを覗き込む。
彼女が胸元から取り出したのは、アングスト家の家宝の青い宝石だ。
空色の宝石が眩く発光し、執務室を照らしだしているのだ。
この現象、前にも見たことがある。
「おいおい、こいつはいったいどんな幸運だ? まさか一晩で二つも聖示物が手に入るなんてな!」
いち早く気付き、快哉を叫んだのはデニスだ。
――そうだ。これは確かに、聖示物の輝きだ。
でもなんで? いったい誰が? 脳裏に浮かんだ疑問は、一瞬で氷解する。
「――――」
青い宝石を祈るように握りしめ、神妙に目を瞑るクレム。
いや、まさしく今、彼女は祈りを捧げているのだ。
淑やかで穏やかな横顔。凛々しく、直向きで、何者にも侵し難い立ち姿。
きっと彼女は世界の理に、神様の奇跡に触れたのだ。
「そいつらを捕まえろ。殺すなよ。だが手足の一本や二本はへし折っても構わん」
興奮に笑み崩れたデニスが、残忍な指令を発する。
下知に従い、手下たちが一斉に飛びかかる。その時、
「判決は下された」
厳粛な声が、執務室に響く。
祈りを終えたクレムが、目を開く。たったそれだけのことで、殺到する男たちが足を止めた。
「デニス・ラーナー。略取、監禁、傷害の罪によりて、汝の名誉と権利を剥奪する」
朗々と罪状を告げるクレム。
その表情、立ち姿は神々しいまでに美しく、なのに、恐ろしく抗しがたい威風を纏っている。
傀儡となった男たちが動けない。人ならざるものが乗り移ったかのような雰囲気に、圧倒されているのだ。
「な――」
あの大悪党のデニスですら、クレムの変化に戸惑いを隠せない。
そして彼女は自らの胸元に手を伸ばし、青い宝石を掴む。
――転瞬、彼女は虚空に向けて腕を薙ぎ払った。
「えっ――」
突如として世に現れ出でた奇跡に、私は驚嘆を漏らす。
いつの間にか、クレムの手には剣が握られていた。
冴えわたる空のような、深い深い海のような、曇り一つない完全な蒼。彼女が手にしていたのは、切っ先から柄頭までが単一の素材で作られた、蒼い大剣だった。
宝石が姿を変えたその剣を、クレムは高々と天に掲げる。そして、
「汝、父母の接吻を受くることあたわじ。ただ伏して祈り、神の慈悲を乞うべし。
――罪は償われる」
厳かに、刑の執行を宣言した。




