3 歌声の主は?
夜の静寂に響く、微かな歌声。
最初は風の音か、鳥でも鳴いているのだろうと思ったけど、間違いなく人の、それも小さな子供の声だ。
「え、何で……」
一度意識してしまうと、気になって眼が冴えてくる。
結局、私は寝なおすこともできず、ベッドから起き上がった。
窓は板戸を降ろしているので、部屋は真っ暗だ。闇の向こうで、クレムさんの気配だけがぼんやりと感じ取れる。
「誰か、外にいるのかな」
その歌声が気になった私は、ベッドから降りて手探りで部屋を移動する。
クレムさんを起こさないよう、抜き足差し足。壁伝いに動けば、すぐに扉は見つかった。
もちろん、こっそり出ていくつもりはない。既に特大のトラブルに巻き込まれているのに、これ以上変なことに首を突っ込みたくはない。
けれど、こんな夜更けに、しかも子供が外を出歩いているのはちょっと気になる。歌声がただの聞き間違いならよし。違ったなら……どうしよう?
「う、けっこう寒いなぁ」
扉を開けて外に出ると、夜風が遠慮なく吹き付けてくる。なるだけ早く疑問を解決して、さっさと布団に戻ろう。そう思っていると、
「わぁ、綺麗……」
夜空に瞬く星の美しさに、私は一目で虜になった。
「すごい……こんな星空見たことない……」
墨色の羅紗に宝石箱をひっくり返したかのような、それこそおとぎ話でしか見ることのできない星空だ。
そして満天の星も美しいが、一際目を引くのが冴え冴えと輝く月だ。
薄青色に光る月は、どう見ても地球で見たそれより大きく見える。加えて、月の文様も記憶とは全然違う。
星座を確かめるには知識不足だけど、お月様を見ただけで、私はここが異世界だということを改めて認識する。
「あ、違った」
しばし星空に見惚れていた私は、夜風に乗って届く歌声に我を取り戻した。
外に出て聞いてみれば、もう間違いない。
これは歌だ。それも人間の女の子の。
「う~ん、どうしよう、これ」
事態がはっきりしたところで、私は改めて思い悩む。
時計は無いけど、どう考えても子供が出歩く時間じゃない。
それに、迷子で泣いているというならともかく、歌声と言うのが不気味だ。
クレムさんから聞いた話には出てこなかったが、これはひょっとして物の怪の類ではなかろうか。この世界は異世界で、しかも魔法のアイテムまで実在するなら、モンスターの一つや二つ、出てきても全然不思議じゃない。
「うわ、怖くなってきた」
こっちから近づかなくても、向こうから来るんじゃないか。
想像してしまうと、にわかに背筋に震えが走る。
私は急いで小屋の中に戻ると、扉を開けたまま、藁山の上で丸くなっているクレムさんに声を掛ける。
「ごめん、クレムさん。ちょっと起きてくれないかな」
肩に手を当て、体を軽く揺する。
「うぅ……うにゅ?」
何度か声を掛けると、なんとも可愛らしい寝言を発してクレムさんが起き上がった。
そして闇の中でもなお輝く青い瞳で私を見詰めると、
「靴下からくるみが出てきましたよ?」
「へっ?」
なにやらとろんとした表情で変なことを言い出した。
「リスのお弁当です。お返しに揚げ菓子をあげるんです」
「あのークレムさん? ……もしかして、寝ぼけてます?」
「――? ――ッ!!」
猫のように手で顔を擦って、それから数秒。
ようやく頭がしゃっきりした彼女は、もう面白いぐらいわたわたと慌てだした。
「――ななな、ナオ様! い、如何なされたのですか!?」
「寝起きドッキリ大成功です」
「ど、どっきり!?」
顔を真っ赤にして、目には涙まで浮かべて狼狽するクレムさん。このリアクションを天然でするんだからとんでもない子だな。
「あ、いや違った。大変なの。ちょっと危ないかも」
ともあれ、夜中に変な子供の声が聞こえたことを彼女に伝える。
事情を聞かされた彼女は、一転して凛々しい表情になり、
「迷子でしょうか? 夜の林は危険です。早急に保護しなければなりませんね」
と、迷いなく言い切った。
「……でも不気味じゃない? これ、何か怪物とかじゃないの? 近付いても大丈夫?」
私がそう尋ねると、彼女は口元をほんの僅かに緩め、
「怪物なんていませんよ。きっとマトヤの村のお子様でしょう」
そう断言する。そしてランプに火を灯すと、手早く夜歩きの準備をする。
「そんな、決めてかかって平気かな……」
それでも不安な私に、クレムさんは穏やかな声で説明する。
曰く、この世界には幽霊や怪物はいないのだと。民話やおとぎ話の中には出てくるが、それは子供を訓育するためで、悪人や悪徳を誇張した存在なのだと言う。
「でもミュステリオン? 魔法のアイテムはあるんでしょ?」
尚も私が食い下がると、クレムさんはクスリと笑って、
「聖示物は神様の恩寵ですから。人に害を為したり、怪物を生み出したりはしませんよ。枢機卿猊下も、そんなことはありえないと仰っていましたし」
そう答える。
「いや、私が現在進行形で難儀してるのは、ソレのせいかもなんですけど……」
「……そう、でしたね」
思わず私が突っ込んでしまうと、クレムさんの表情が硬く強張る。
「まさか、万が一にもってことで。だって夜の林に子供の歌だよ? 怖いじゃん!」
機嫌を損ねてしまったかと私が弁解すると、クレムさんは小さく頭を振り、
「いいえ、確かに異常事態であることに違いはありません。怪物でなかったとしても、ならず者が子供をかどわかしている可能性があります。気を引き締めましょう」
「あ、そっか……」
そういう展開もあるのか。思いつかなかった。
ここは異世界、それも多分、時代や文明はかなり昔。治安だって現代の日本とは比べ物にならないぐらい悪い筈だ。
「え、でもそれじゃあ私たちだって危ないじゃん!」
「はい。だからナオ様はここで待っていてください。おおよその方角だけ教えていただければ、私が見て参りますから」
「いや、それ解決になってないからね!? 怪我したらどうすんのよ!?」
私が語気を強めると、クレムさんは目を見開いて驚き、それから透き通るような微笑を浮かべた。
「……お心遣い、ありがとうございます。けれど、安心してください。私、こう見えても少しは腕に覚えがありますので」
そういって、彼女は部屋の隅に立てかけてあった棒を手に取った。
彼女の身長とほとんど変わらない長さの棒。ただの棒じゃない。あれは木製の剣だ。
クレムさんはフードつきの外套を纏うと、木剣を革製のベルトで背中に固定する。
「では行って参ります」
彼女は涼やかな声で私に告げる。
「ま、待って! 私も行く!」
反射的に、声が出ていた。
こんなにいい子が、こんなに素敵な子が、見ず知らずの子供の為に、一人で危ない場所に行こうとしているのだ。
彼女を一人にするもんかと、私は恐怖を無理矢理頭の中から叩きだす。
「お気持ちは嬉しいのですが……」
「声聞いたのは私だもん! ばっちり案内してみせるから!」
押し留めようとするクレムさんに、私ははっきりと宣言する。
「……わかりました。よろしくお願いします。ですが、もし危険を感じたら、直ぐに逃げて下さいね」
絶対に譲らないと目で訴えると、クレムさんは困ったような顔をして、それから嬉しそうに頷いた。
「よし。それじゃあ行こう!」
話もまとまったので、私とクレムさんは小屋から出発する。
「声がしたのはどちらからですか?」
「えっと、たぶんあっちの方」
準備に結構時間を取られてしまったので、歌声は既に止んでいた。それでも私は、さっき聞こえた方角を指差す。
「川の方ですね。分かりました。足元に気を付けて進みましょう」
クレムさんから貰ったブーツで、足回りは完璧だ。ガイド役の私は、夜の林をずんずん歩く。すると、
「あ、これこれ! また歌い始めたみたい! でもさっきよりは遠いかも……」
またしても、あの歌声が夜風に乗って聞こえてきた。
やっぱり聞き違いではなかった。子供は確かにいるのだ。
私は声のする方角を絞り込もうと、耳に手を当てて夜の林を探る。
木々のざわめきに、虫の声、鳥の鳴き声……それから、クレムさんの困惑した息遣い。
「あ、あの……」
「え、なに? どうしたの?」
背後から遠慮がちに声を掛けられ、私は慌てて振り向く。すると彼女はひどく気まずそうな顔をして、
「私には何も聞こえないのですが……よほど小さな声なのですか?」
そう首を傾げた。
× × ×
疑問符を頭の上に浮かべながら、夜の林を歩くこと数分。
「その、ホントに聞こえない?」
「……はい。私にはまったく」
夜闇に響く可憐な歌声は、もう歌詞が聞き取れそうなほどはっきりと聞こえる。
けれど、同行するクレムさんはさっきからしきりに首を傾げ、本当に歌声がするのかと問うてくる。彼女には、この声が全然聞こえないらしい。
「「…………」」
沈黙が立ち込める。
いま何か喋るとすっごく言い訳がましくなりそうだし、クレムさんも、たぶんこれ以上聞くと非難がましくなりそうって気を使ってる。
いや、私だってこんなことになるなんて思ってなかったよ?
だって私だけに声が聞こえるとか考える訳ないし。
気まずい空気に重たい沈黙。
ひょっとして幻聴じゃないかって疑い始めると、もう自分が信じられなくなってくる。
「も、もうちょっとじゃないかな! あそこ開けてるし」
もう何でもいいからちゃんと居てくれ! と願いながら、私はせかせか歩く。
「そろそろ川辺に出ます。声を落としてください。大きな石も多いので、足元に注意を」
と、クレムさんが慎重に行動するよう促す。そうだ。まだ不審者の可能性も除外できないのだ。騒ぐと危ない。
「えっと、うん。ごめん……」
私はクレムさんに促され、木立の陰に身を寄せる。
そして川辺に目を向ければ――冴え返る月光の下、妖精のように美しい少女が居た。
「お星さまがでたよ
さあお休み
小さなくつと頭巾を脱いで
あたたかいベッドにお入り
お月さまが見ているよ
さあお休み
甘い夢が待ってるよ
神さまはずっとあなたの中で
やさしくやさしく笑っているよ
さあお休み
お日さまとまた会うまで」
小川のせせらぎを伴奏に、星と月だけを観客に、小さな女の子が伸びやかに歌う。
優しく暖かな、それでいてどこか物悲しい子守唄。
大きな岩の上に立つ少女は、その見た目からして普通ではなかった。
年の頃は五つか六つ? ようやく小学校に上がったぐらいに見える。
どこから見ても子供なのに、大人の佇まいを同居させた不思議な立ち姿。
顔立ちは天使のように愛らしい。クレムさんもとんでもない美人だけど、ちょっと浮世離れした、現実感のない綺麗さだ。
ひざ裏まで届こうかという艶やかなロングヘアに、着ているのは舞踏会から抜け出してきたような、フリルのたっぷりついた豪奢なドレス。
そして何よりおかしいのが、彼女の色だ。
その少女は、髪の色からドレス、靴にいたるまで、全身が雪のように真っ白なのだ。
「ほら! ほら! 居たよ女の子!!」
少女の格好を訝しむより、まず安堵が先に来る。
良かった。幻聴じゃなかった。これで何もいなかったらいよいよ自分の正気を疑うところだった。だが、
「……あの、どこに女の子が居るのですか?」
振り返ってみれば、クレムさんが困惑顔でこちらを眺めている。
「――いや、ほら、あそこの岩の上に立ってるじゃん」
「すみません。やはり私には何も……」
「……え、マジで?」
クレムさんが申し訳なさそうに頷く。その表情が何とも形容しがたい。引いてるのか、困ってるのか、心配してるのか。すると、
「大丈夫ですよ。少し疲れていらっしゃるだけです。今日は本当に、大変なことが立て続けにあったんですから。……さあ、家に戻って、ゆっくり体を休めましょう?」
クレムさんが妙に優しい笑顔で、私を気遣ってくれる。
――あ、ヤバい。これ可哀想な子認定されかかってる。