2 不思議な彼女
「変な事ばっかり聞いてごめんね。あ、そういえば自己紹介もまだだった。私は綾坂奈緒。アヤサカが名字で、ナオが名前。東京生まれの十七歳。どうぞよろしく!」
だいたい自分の置かれた状況が理解できて、それから世の不条理さに一通り不平を垂れ流した後、私は改めて目の前の少女に名乗った。
頭を抱えて唸り声を上げる私を心配そうに見守っていた彼女は、
「初めて御意を得ます。アヤサカ様」
と、淑やかにほほ笑む。
「んーん、ナオでいいよ。そんな丁寧に呼ばれたら緊張しちゃう。えっと、それであなたは……」
「あ、私はその……クレメントと申します」
「うん! あなたが私を助けてくれたんだよね? 色々ホントにありがとう。クレメントさん!」
「いえそんな……よろしければ、クレムとお呼び下さい。その、歳も近いようですし……」
「え、そうなの? ならもっと砕けた口調でいいのに」
お互い自己紹介を終えると、私はクレムさんに色々と質問した。
なんでもここはイシダール王国はタングル地方とやらにある、マトヤの村の近郊らしい。……何一つ聞き覚えのない地名に眩暈がするけど、まあいいや。そこでつまづいていてもしょうがない。
それで、クレムさんはこの小屋に一人で済んでいるらしい。私が溺れかけたあの泉と、その周辺の林の管理人的なことをしているそうだ。
日も暮れて家に帰ろうとしたところ、丁度木の又で蹲って気絶していた私を見つけ、家まで運んでくれたのだ。私はどれぐらい寝ていたのかと聞いたら、どうやら時間もまだそんなに経っていないらしい。
「ナオ様は、その、あんな場所で何を……ああ、いえ! 無理に仰らなくともいいんです! 不躾な質問でした、どうぞご放念ください! ……あの、陋屋にて何のおもてなしもできませんが、落ち着かれるまで幾らでも休んでいただいて構いませんので」
私からの質問が一段落すると、今度はクレムさんがおっかなびっくりと口を開き――そしてすぐに質問を撤回してしまった。
よくよく考えてみれば、年頃の女が素っ裸で林の中に転がっていたのだ。どう考えてもまともじゃない。何か余程の事情があるか、それとも凄惨な事件に巻き込まれたか。
クレムさんが過剰なまでに気を使うのも当然だ。
ただ、私としても変な誤解をされっぱなしでは困る。いや、事情があるのは当たっているけど、そもそも問題を解決するのに私一人じゃとても無理だ。
「あー、えっと、どう説明したもんかなぁ……まあいいや。クレムさん。今からめちゃくちゃ変な話をするけど、よかったら聞いてくれない? 危ない奴とか、手に余りそう、って思ったら、遠慮なく言ってくれていいからね」
そう長ったらしく前置きをして、私は自分の身に起きたとんでもない出来事について包み隠さず話し始めた。そして、
「「…………」」
山小屋に重たい沈黙が満ちる。
私が住んでいた地球という世界。
そして謎の声に導かれ、突然あの泉で目が覚めたこと。
それら全てを話し終えた後、クレムさんは何一つ言葉を発しなかった。
「…………」
恐る恐る彼女の様子を窺う。
青い瞳と視線が合うと、すっと目を伏せられてしまった。
あ、これ絶対ドン引きされたヤツだ。いや、そりゃそうだろうけど。しまった、やっぱり失敗したか……
「あー、えっと、ゴメンね。訳わかんないよね」
私が慌てて弁解しようとすると、
「いえ、そうではないのです、ただ……」
と、クレムさんは頭を振る。
「その、トウキョウ? という国の事はよく分かりませんが、彼方の地から唐突に移動してしまった。というお話は聞いたことがあります」
「マジで!?」
心当たりがある。と彼女が言うので、私は思わず大声を出してしまった。
「ま、まじ……? ああ、落ち着いてくださいナオ様」
ベッドから乗り出す私を、クレムさんが押し留める。
「……確認いたしますが、ナオ様はこちらのことを、何もご存じないのですね?」
「はい。まるきり全然わかりません」
私が自信をもって答えると、クレムさんは困ったような、それでいてどこか嬉しそうな表情を浮かべた。そして寝物語を聞かせるかのように、優しい声でこの世界の来歴を語り始める。
「では、まずこの世界を原初の混沌から創り上げた神様の御業について、お話しますね」
ん? いやちょっと話が大きくない?
クレムさんは私にこの世界の宗教? 神話? をつらつらと語り出した。
正直、宗教の話をされてもちんぷんかんぷんだけど、非常識な身の上話を聞いてもらった手前、私だけ居眠りはできない。
じょうこの民? 聖女様? 専門用語はよく分からないけど、幸い要点だけを掻い摘んで教えてくれるので、何とか脱落せずについていける。
クレムさんが宗教に熱心なのかと思ったのだけど、これ多分、この世界で最低限覚えておかなきゃいけない常識だ。
その証拠に、クレムさんは宗教的、文化的にNGなことは念入りに教えてくれる。人前でやるとヤバいこと、喋ると不味いことはちゃんと覚えないと。
まあ、こちとら現代の日本人代表なので、マナーにはそれなりに自信ありますとも。訳の分からない語学技能が身についているので、敬語はばっちり使えるし。
「そして、聖女マルヴィナ様の「とりなしの祈り」によって、世界には再び神威が顕現する事となりました。それが聖示物。……ナオ様のご事情に関係するかもしれない事物です」
そうしてクレムさんの話を聞いているうちに、何やら彼女の顔つきが変わった。
あ、これ多分話の核心だ。
「そのミュステリオンっていうのは、何なの?」
「一口に申し上げるのは難しいのですが、神様の御業を宿した器物。と理解していただければよろしいかと」
私が尋ねると、クレムさんは詳しく事例を引いて説明してくれる。
その聖示物というのは、清く正しい人間が心から神様に祈った時に現れる、とんでもない力を秘めた品物らしい。
例えば、着けて触るだけでどんな病気や怪我も癒せる手袋。
例えば、水をかけるだけであっという間に植物が育つ如雨露。
例えば、悪人をひとりでにやっつけてくれる剣。
――まるで、おとぎ話に出てくる魔法のアイテムだ。
「……それが、私に関係しているの?」
「おそらくは、ですが。遠方から瞬く間に移動できる靴。などもあるそうですので、ナオ様が巻き込まれた事件というのも、聖示物が関わっているのではないかと……」
「なるほど……」
そう頷いてみるも、どうも素直には納得しがたい。
実物を見たことがないので何とも言えないが、例え魔法のアイテムとはいえ、地球から宇宙だか次元だかを隔てて人間を連れてこられるものだろうか?
ただ、この世界に魔法やら何やらの不思議パワーがあるのは理解した。
クレムさんの話では、実際にその聖示物というのは現役バリバリで活躍しているそうで、この世界では人の営みになくてはならない存在だそうな。
「じゃあその中に、私を元の場所に戻せる物があるかもってこと?」
「はい。――いえ、その、あくまでも可能性の話ですが……」
「それだけで十分だよ! 教えてくれてありがとう!」
実際問題、ホントに助かった。私ひとりじゃ地球への帰り方なんて見当もつかなかったのだ。たとえ可能性が低くても、ゼロから比べれば大きな進歩だ。
「それで、その聖示物っていうのは何処に行けば使えるの? っていうか、私が勝手に使わせてもらっていいものなの?」
「それは……少し、難しいかと思います」
ただ、やはりと言うべきか、凄まじい力を持つ聖示物は、そのほとんどを教会や国が所有しており、管理も厳格らしい。
しかも、聖示物は誰にでも扱える代物ではなく、それを用いて奇跡を引き起こせるのは、託宣者と呼ばれる特別な人間だけだというのだ。
「その、ナオ様の特殊なご事情を理解していただければ、きっと教会の方々もお力添えをしてくださると思うのですが……」
クレムさんはそう言って私を慰めてくれるが、なにやら決まりが悪そうだ。
無理も無い。私は自分の話を裏付けできるような証拠を何一つ持っていないのだ。
教会だの王宮だのに出向いて「私を異世界に帰すためにお宝を使わせてくれ」なんてのたまえば、どう考えても牢屋行きだ。
私の話を全て信じてくれた上で、ここまで親身に助言してくれるクレムさんが特別なのだ。ああ、この子、ホントのホントに良い人なんだなぁ。
「お引き回しをお願いできる方も、私ではご紹介できそうにありませんし……」
そう感慨にふけっていると、クレムさんはなんと心底申し訳なさそうに俯いてしまう。
「あ、いやいや! 全然平気だよ! そこはそれ、色々手立てを考えればいいだけだし!」
塞ぎこんでしまった彼女を元気づけるため、私ははしゃいで腕まくりをしてみせる。
「……ふふっ」
そんな私の空元気に反応したのか、クレムさんが小さく声を漏らした。
凛とした見た目の、でもどこか寂しげな彼女が見せた、可愛らしい微笑み。
釣られて私もにっこりと笑顔になる。すると、
「う――」
ぐぅぅ、と部屋に響く間の抜けた音。私の腹の虫が空気を読まずに騒ぎ出したのだ。
「ああ、申し訳ありません。すぐに膳を支度しますね」
と、クレムさんはぱたぱたと囲炉裏の方に歩いていく。
「……はい。ご馳走になります」
私は顔を真っ赤にして、その背中に礼を述べた。
× × ×
そして、私は豆のスープとパンを食べ、再びベッドに横になった。
クレムさんの寝床を使わせてもらうのは気が引けて、床で寝ると言ったのだが、彼女は意外と頑固なところがあるらしく、私が床で寝るのを絶対に許さなかった。
あれだけ話しこんだので、すっかり夜も更けてしまった。温かいスープを飲んだので体調は結構回復したが、疲労はまだ抜けていない。
「お疲れでしょうし、どうぞゆっくりお休みください。……その、ナオ様さえよろしければ、幾日でも泊まってくださって構いませんから」
部屋の明かりを消し、床に引いた寝藁の上に座りながら、クレムさんがそんなことを口にした。
迷惑ばかり掛け通しで、私には何一つお返しできることなんてないのに、それでも彼女はいくらでも自分を頼ってくれていいと言う。
思わず裏を疑ってしまいそうになるほど、非常識なまでの親切心。
でも、この子の言葉に嘘なんて一欠けらもないだろうことは、私にもはっきり分かった。
これだけ美人で、喋っているだけで分かるほど頭が良くて。
それなのに、こんな山奥で、狭苦しい小屋で、たった独りで暮らしている不思議な少女。
いったい彼女にはどんな事情があるのだろう。
何度も疑問は頭に浮かんで、それでも、結局尋ねることはできなかった。
「ねえ、まだ起きてる? クレムさん」
「……はい。なんでしょう?」
ただ、私はきっと、この出会いは運命なんだと思う。
いったい誰が、何のために私をこの世界に連れてきたのかは分からない。
それでも、この子と出会えたことは、奇跡のような幸運だ。私を誘拐した奴には、彼女に免じて罪一等を減らしてやってもいい。
「ありがとう。私、あなたに会えて嬉しかったよ」
そして私は、胸の内の感情をそのまま言葉にする。すると、
「――っ! あ、……えっと、その」
闇の向こうで、息を呑む気配。クレムさんが身動ぎしたのか、寝藁がパキパキと音を立てる。それから少しして、
「……その、私も、あの……うぅ……」
と、羞恥に染まった可愛らしい声が返ってくる。あの美人さんが顔を真っ赤にしているのを想像して、私は忍び笑いを漏らしてしまう。
「も、もう! いきなり何をおっしゃるのですか」
「あっはは、ごめん、ごめんって! でも本心だから、ね」
からかわれたと思ったのか、クレムさんが声音を尖らせる。
愉快に笑い飛ばして謝ったけど、いや、真っ暗でよかった。私だって思わず本音を口走ってしまって、結構恥ずかしかったのだ。
そうして、私が異世界で過ごす初めての夜は更けていく。――筈だった。
「……うゅ……あれ?」
寝入ってしまってからどれだけ経ったか。
私は奇妙な旋律を耳にして、目を覚ました。
「……え、歌?」
高く澄んだ少女の声。
伸びやかで美しく、穏やかで優しく、それでいてどこか物悲しい歌声。
激動の一日は、まだ終わってなかった。
――私はこの夜、もう一つの運命に出会う。