15 恐怖の子
「――へ!?」
張りつめていたところを急に横から話しかけられ、私は間抜けな声を上げる。
振り向いてみれば、そこには僧衣を纏い、豊かな白髭を蓄えた背の高いお爺さんが。そして、
「君たち、こんなところで何をしている? 奥は立ち入り禁止だぞ」
その後ろにいる若い男性が怪訝な声で尋ねてくる。こちらも簡素な僧服を着ていて、間違いなく教会の人だ。
「え、す、すみません!」
私たちが密談の為に居た路地裏は、教会が管理する建物のすぐ側だったらしい。
「いやいや。こんな場所でどうなされたのです」
詰問するような語調の男性に対して、お爺さんはあくまでも柔和に語りかけてくる。
「えーっと、折角だし、教会の周りも探検してみよう、って思いまして」
と、私は弁解する。するとお爺さんは穏やかにほほ笑み、
「すると、余所の街からおいでに? お若いのに巡礼とは感心だ」
そう褒めてくれる。その上で、
「ですが、あまり敷地の奥に入り込むのはよろしくありませんな。お気を付けなさい」
優しく私たちを窘めた。
「……はい。ごめんなさい」
若い男性はなおも不審そうな眼差しを向けてくるが、このお爺さんが偉い人なのか、言葉には出さない。
「もうお祈りは済まされたのですか?」
「いえ、まだです。綺麗な教会なので、周りをうろちょろしてたんです」
「それはいけませんな。まずはその家の主人に挨拶を済ませて、それから見て回るのが作法ですよ」
「なるほど、確かに!」
お爺さんと連れだって話しながら、私たちは教会前の広場に出る。
最初は怒られる! って思ったけど、このお爺さんすごく優しい。それに話も上手で、いかにも司祭様って感じ。
「あなた方はどちらからいらっしゃったので?」
「えーっと、タングル地方? のマトヤ村です」
お爺さんに案内されるようにして、教会まで歩いていく。
丁度いい機会とばかりに、私は積極的にお爺さんに話しかける。取り入ろう、って気はないけど、見るからに学識豊かそうな人だし、仲良くなれば聖示物についても色々教えてくれるかもしれない。だが、
「ナオ――ナオ!」
楽しく雑談していた私に、ミリーさんが緊迫した様子で話しかけてきた。
「――?」
反射で出かかった声を呑み込み、不自然にならないよう背後を見る。
ミリーさんは私が妙な振る舞いをしないよう、話しかける時は細心の注意を払ってくれる。なのに、急に人との会話を遮るなんて、どうしたんだろう?
「……クレムの様子がおかしい。気を付けてやってくれ」
「え?」
その理由は、すぐに明らかとなった。
私の後方を遅れて歩いてくる彼女。その雰囲気が、明らかに一変していた。
首が落ちたのではというほど背中を丸め、足取りはふらふらと覚束ない。いつもの楚々として凛とした立ち姿の彼女からは、信じられない姿だ。
そして、フードの奥に垣間見える彼女の顔。
青い瞳は空を泳ぎ、桜色の唇を噛みしめ、白い肌には脂汗が滲んでいる。
何か、途轍もない苦痛に耐えるかのような表情。
「クレムさん!?」
異常事態に気付いた私は、慌てて彼女に駆け寄る。
だが、クレムさんは私が近寄ると、ビクリと肩を震わせ後ろへ下がった。
「ちょ、どうしたの!?」
始めて彼女が見せた拒絶。困惑した私は、それ以上近付くこともできずに二の足を踏む。
「具合悪いの? 大丈夫?」
それでも声を掛け続ける。ついさっきまで元気だったのに、急にどうしてしまったのか。
不安と恐怖と混乱が、酸のように私の感情を焼く。
「そちらの方がどうかなされたのですか?」
お爺さんも異常事態に気付いて、心配気に声を掛けてくれる。だが、
「…………」
クレムさんは無言を貫く。いや、わざと無視したんじゃない。答えられないんだ。
苦痛を押し殺すような、荒い息遣いが聞こえる。
「ねぇ! どうしちゃったのよ! とにかく休もう!? ね!?」
余りの異常事態に、私は半ばパニックになってそう叫ぶ。広場に居た人々が何事かと視線を向けるが、気にしてられない。
「これはいかん! おい」
「は、はい!」
お爺さんがそう言うと、御付の男性がクレムさんに駆け寄る。そっか、大きな教会なら、医務室的な場所もあるだろう。体調が悪いなら見てもらえる。だが、
「――こ、来ないでください!」
引き絞った悲痛な叫びが、広場に響く。
「え……」
彼女が放った、明確な拒絶の意思。
私は何が起きているか理解できず。頭が真っ白になる。
「ね、ねえ……どうしたの、クレムさん? 気分が悪いなら、安静にしないとだよ……」
呼びかける声が、震えてしまう。
根拠はない。それでも悪い予感が、私の背筋を総毛立たせる。そして、
「……私は、あ、あなたなんて知りません! 馴れ馴れしく話しかけないでください!」
今度こそ、彼女は私に向けて決定的な一言を告げる。
「え……」
――言葉の意味が、理解できない。
何を言われたのか分からず、私は茫然自失と立ち尽くす。
「……な、なに言ってる、の?」
辛うじて呟いた言葉は、無様に掠れていて。
「ここが、あなたの行きたがっていた教会です。後は勝手にしてください」
そう一方的にまくしたてるクレムさん。
ねえ、なんでそんなこと言うの?
嘘だなんてことは、分かってる。
だってあなた、今にも泣き出しそうな顔してる。
でも、悲痛にそう告げる彼女の瞳には、確かに決意の光が宿っていて。
「君は、いや、まさか……」
私が事態を呑み込めないでいると、背後から硬く強張った声が。
白髭の司祭様が、私の前へと歩み出る。そして、
「……やはりそうか。アングスト家の娘が、街に戻ったのか」
クレムさんの顔を見るや、困惑も露わにそう告げた。
× × ×
その後に起きた出来事を、私は生涯忘れることはできないだろう。
変化は劇的だった。まず、
「ひっ――」
クレムさんを介抱しようと近付いていた僧衣の男性が、悲鳴と共に飛び下がった。そして、
「……アングスト家?」
あれだけ喧騒に満ちていた広場が、水を打ったように静まる。
のどかな午後の一時を楽しんでいた筈の人々が、何か途轍もない異常を感じ取ったかのように、一斉にこちらを注視する。
それから一拍の間を置いて、彼らは再び動き出した。
「ひぃぃぃぃぃっ!!」
悲鳴を上げ、或いは声すら立てず、群衆が弾かれたように広場から逃げ去る。
露天商は商品を置き去りに、人々は押し合いへし合いしながら駆けていく。
石畳を踏み鳴らす靴音と、言葉にならない叫び声が神の家の前庭をかき乱す。
「え――え?」
パニックに陥った広場の様相を、私はあっけに取られて眺めることしかできない。
大事件でも起きたかのような光景。いったい、何が起きたと言うのか。
もちろん、私は気付いていた。それが、一人の少女に起因するだろうことを。
人々が逃げ去り、そして幾人か残った者が、遠巻きにこちらを見詰める。
その視線に曝されたクレムさんは、もう落ち着きを取り戻していた。
「…………」
フードの奥に見える彼女の顔は、別人のように変わっていた。
夜の闇のように艶やかな髪。雪のように白い肌。桜色の綺麗な唇。そして、スカイブルーの澄み切った瞳。
顔のパーツは同じ筈なのに、目の前の彼女が、私の友達が、何か違うモノに変質してしまったかのようだ。
「クレメント・アングスト。オストバーグを離れた筈の君が、なぜここにいる?」
威厳に満ちた声でそう尋ねるのは、白髭の司祭様。
さっきまでの優しそうな印象は違う、明らかに問い詰める声音。
「お許しください猊下。子細ありて、この地にまかり越しました。……所要が済めば、すぐにでも立ち去ります」
よどみなく答えるその声は可憐で、まさに私の知っている彼女のままで、でも、氷のように冷たくて。
「……この娘は?」
「この場で偶然声を掛けられただけの、所縁もない子です。なんでも、教会に保護を求めているとか……」
「な、なんでそんな――」
「ナオ!」
平然と嘘を並べ立てるクレムさんに、私が抗議しようとする。けれど、それをミリーさんが鋭い声音で遮った。
「~~~~ッ!?」
問い返すこともできない苛立たしさに、私は幽霊少女を睨みつけてしまう。けれど、彼女は悲しげな表情で首を振る。すると、
「……そうか。信じよう」
「――え?」
クレムさんがついたあからさまな嘘を、司祭様は首肯して受け入れる。そして、
「……感謝いたします」
そう、クレムさんは無表情のまま首を垂れた。
「教会の門は全ての者に開かれている。それは君も例外ではない。ただ……」
「はい。許可なく敷地に立ち入った事。裁きを受ける覚悟はできています」
「君は何も法を侵してはいない。謝罪は無用だ。……ただ、今はこの場から立ち去ってもらいたい。……この娘のことは、確かに取り計ろう」
「……お心配りに、重ねてお礼を申し上げます」
お爺さんとそう言葉を交わすと、何事もなかったかのように踵を返して、広場から立ち去ろうとする。
「ちょ、ちょっと待って!」
去り行く背中を追いかけようとして、
「来ないでッ!」
クレムさんが、悲痛にひび割れた声でそう叫ぶ。
「ッ……」
あまりの剣幕に、私の足が止まる。彼女は肩越しに視線を送ると、
「――さよなら」
別れを告げ、走り去った。
「…………」
急変する事態に、理性も感情もまったく付いて行かない。
私の頭の中はもうぐちゃぐちゃで、何が何だか一つもわからない。
「……さて、次は君にも話を聞かせてもらいたい。安心なさい。私たちは君たちの関係を口外しない」
そう、白髭のお爺さんが私に語りかける。
その声音と表情があまりにも優しくて、私の胸で蟠っていた感情が、出口を見つけたように沸騰する。
「――なんで、なんであんな酷い事言ったんですかッ!」
怒りで頭が真っ白になった私は、訳も分からずお爺さんにそう叫ぶ。
さっきの出来事が何故起きたかなんて知らない。けれど、このお爺さんがクレムさんに話しかけなければ、きっとこんな事にはならなかったんだ。
「おい貴様っ!」
御付の男性が凄い形相で怒鳴る。でも、
「なんでクレムさんがあんな目に遭うんですか! あの子が何したって言うんですか! ――私の友達なんですよ!?」
私は感情の高ぶるままに、そう叫ぶ。すると、
「……そうか。彼女は君に伝えなかったのか。致し方なかろうが、咎められるべき行いだ」
お爺さんは深々とため息をついて、頭を振る。その仕草に精神を逆撫でにされた私は、
「――仕方ないって何がですか!」
力の限りそう叫ぶ。だがその時、
「落ち着くんだナオ! クレムの心遣いを台無しにするつもりか!?」
私にしか聞こえない、私にしか見えない存在が、必死にそう訴えかける。
「~~~~ッ!」
端正な美貌を確かに翳らせ、幽霊少女が私の身体に取り縋る。
掴めない手で服を握りしめ、切実な眼差しで私を見詰める。
「――っ!」
ミリーさんの声に、私は辛うじて怒気を鎮める。
確かに私は、憤怒に我を忘れかけていた。彼女が止めてくれなければ、怒りにまかせてもっと酷い事を口走ったかもしれない。
「……」
多少は落ち着いた様子の私に、お爺さんも御付の男性も緊張を解く。そして何か躊躇うように視線をさまよわせると、
「彼女、クレメント・アングストは君に己の事情を伝えなかったのか?」
お爺さんは厳粛な面持ちで問うてきた。
「……言いたくないことを言わなくて、聞きたくないことを聞かなくて、それの何が問題なんですか?」
私は激情を必死に抑え込みながら、震える声でそう尋ねる。すると、お爺さんは悲しそうに目を伏せ、
「それがあの子の罪だ。……彼女は他人と関わるべき人間ではない」
痛ましげにそう呟く。
「他人と仲良くなっちゃいけない人間が、いったいどこに居るんですか!」
その取り澄ました物言いに、私の中で再び怒りが燃え上がる。だが、
「彼女と関わった人間は社会との繋がりを剥奪される。それは他者に不幸を強いる行いだ。――彼女はアングスト家の娘。千人の首を刎ねた、処刑人の子なのだから」
続いて告げられた言葉に、私の思考は再び真っ白になった。




