1 水の中から
誰かが、泣いてる声がする。
怒っているのか悲しんでいるのか、それさえも分からないほど、痛ましくて寂しげな子供の声。
胸を掻き毟られるようなその声に、思わず私は尋ねてしまった。
――どうしたの? って。
そうしたら、突然目の前が真っ暗になった。
× × ×
「がぼっ!」
目が覚めた瞬間、大量の水が口の中に入り込んできた。
体勢がおかしい。自分が立っているのか寝ているのかも分からない。
水の中にいる。そう気付いてパニックになって、また口から泡が漏れる。
「んん~~!」
慌てて口元を抑えて、辺りを見渡す。
水は透き通っているが、周りには何もない。ただ薄藍色の世界が広がるばかり。
上も下も分からない中、泡の立ち上る方向と、ほのかに揺らめく光を頼りに、私は必死に手足を動かす。
そうして永遠にも等しい時間が過ぎると、何とか水面へ浮上することができた。
「ぶはっ!」
空気に触れるや、反射で咳き込んでしまう。
喉と気管に入った水を吐きだし、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込む。
濡れた頬を撫でる風、まばゆいばかりの日の光。
ああ、助かった。
立ち泳ぎを続けながら、私はほっと胸を撫で下ろす。が、
「え、うそ、マジで!?」
ほっとしたのもつかの間、自分の状況に気付いた私は、思わず大声を張り上げた。
裸、なのである。
下着さえも身に着けていない、まさに生まれたままの姿で、私は見たことも無い泉に浮かんでいるのだ。
「え、ちょっと待って待って……」
パニックの熱が引いて、恐怖が喉元をせり上がってくる。
私は裸にひん剥かれて、どことも知れない水の中に叩き落とされた、らしいのだ。
「やだ、なんで、なんで私が……」
誘拐、拉致、人身売買。その他ありとあらゆる悪い妄想が、一気に脳内に溢れる。恥ずかしいことに、私はすっかり取り乱し、目元に涙まで浮かべてしまう。
恐怖に怯えながらも、とにかく岸を目指して泳ぐ。
水面には、明るい栗色の髪と目をした私の顔が映っている。
やがて、砂利に足が届くようになり、私は身体を腕で隠しながら岸へと上がった。
「……ここ、どこ?」
周りを見渡してみれば、そこはとても美しい場所だった。
日の光を受けて輝くのは、青々とした木々と色とりどりの草花。
背後を振り返ってみれば、澄んだ水をたっぷりと湛えた泉が広がっている。
まるでおとぎ話に出て来るかのような、のどかで心に染み入る風景。
ただ、それらの景色にはまったく覚えが無い。
「……オーケー。落ち着いて。大丈夫、全然平気」
私、綾坂 奈緒は思いつく限りのポジティブワードを呟きながら、この異常事態にいたった経緯を把握しようとする。
都内の高校に通う十七歳。どこにでもいる普通の……とは言えないか。お世話になっている親戚のおじさんが大層な資産家なので、誘拐される心当たりは十分ある。
ただ、どうだろう。誘拐目的だったとして、いきなり水に放り込むかな。どう考えても殺す気があったとしか思えないやり口だ。
私には、そこまで人から恨みを買う覚えはないし、おじさんが標的なら、わざわざ遠縁でそんなに親しくも無い私を狙うのも変だ。後は変質者に狙われたという可能性だけど、
「問題ない、はず……」
身体の各所をチェックするが、乱暴された様子はない。と思う。私の尊厳はきっとまだ無事だ。というか、悪戯目的ならずっと意識を失いっぱなしということは無いんじゃないだろうか。いや、ただの勘だし、そもそも考えるだけでおぞましい話だけど。
後は何だろう。こう、映画で良くあるデスゲームへの招待か。これからあなたたちには殺し合いをしてもらいます。なるほど、公平を期すために持ち物を全部奪って……
「いやいや、それはないでしょ……」
頭のなかでマシンガンをぶっ放すところまで妄想して、私は頭を振る。
まあこの先、藪の中に武器が転がっていたり、罠が仕掛けてあれば話は別だけど、わざわざ人ひとりを攫ってそんな馬鹿げた真似をするとは思えない。
「そもそも、確かあの時……」
時間が経つにつれ、少しは冷静になってきた。
よくよく記憶を辿ってみれば、私が最後に聞いたのは子供の泣き声だ。
学校帰りにバイト先のレストランに向おうとして、悲しげなすすり泣きを耳にしたのだ。
その声があまりにも切なくて、居ても立ってもいられなくなって、それで声の主を探して路地裏に立ち入ったところで、ぷっつりと意識が途絶えたのだ。
「……なんか、怖くなってきた。お化け?」
これがいかにも怪しい風体の男が現れ、車にでも押し込まれたというなら、まだ現実的な脅威として受け止めることもできた。
けど、子供のすすり泣きを追いかけているうちに、変な場所で目が覚めたというのは、なかなか別種の怖さがある。
「……とにかく、服だけでも探さないと」
色々考えを巡らせてみたけど、結局どれも推測の域を出ない。
只一つ確かなのは、自分が今最高に無防備な状態で、右も左も分からない場所に取り残されていることだけだ。
「誰か人がいれば……ううん、めっちゃ危ない状況だよね、これ」
大声で助けを呼ぼうかとも考えたが、次に出くわすのが善人であるという保証はどこにもない。
私は覚悟を決め、木々の生い茂る林へと足を踏み入れた。
× × ×
で、駄目だった。
「し、しんどい……」
私は泣きごとを溢しながら、木の根っこの上に座り込む。
泉を離れてもう何時間経っただろう。林は薄暗く、道を見つけるどころか方角さえも分からなくて、すぐに迷ってしまった。
裸足では地道を歩くのも一苦労で、ちっとも距離を進めない。
そのうちに日が暮れて来て、辺りは薄暗くなってきた。
「ヤバい、寒い……」
木々の合間を抜けた冷たい風が、全身に吹き付ける。
もうじき日が沈んで真っ暗闇になる。気温も急速に下がってきた。
私は相変わらず裸のままで、焚火を起こす事さえできない。
「これは、マジでヤバいかも」
自然を甘く見ていた。林を抜けるどころか、完全に遭難してしまったらしい。
がたがたと震える両肩を抱きしめる。寒気がする。当然だ。水に濡れて、そのまま裸で林を歩き回って、体温が保てるはずもない。
それにお腹も空いてきた。喉もカラカラた。
飲まず食わずで、その上全裸。
これ、このまま眠ったら、もう二度と目が覚めないのでは?
死の予感が、脳裏に過る。
けれど、打開策を探るには、私は消耗しすぎていた。
空腹、疲労、低体温症。一度座ってしまえば、あとは沼に沈むように意識が薄れていく。
焦燥感に苛まれつつも、体は全然言うことをきかない。そうこうしているうちに日が完全に暮れてしまった。
真っ暗闇のなかで、私は何時しか意識を失ってしまう。睡眠か、気絶かもわからない断絶だった。
× × ×
パチパチと、何かが爆ぜる音がする。
体を包む暖かさ、柔らかな毛布の手触り。
私は半分寝ぼけた頭で、更なる惰眠を貪ろうと、手足をもぞもぞ動かして、毛布をかぶり直してシーツを掻き抱く。
ああ、もう朝の支度しなきゃ。でも、もうちょっと寝かせてほしい。昨日は大変だったんだから……
「――ふゅ!」
意識が鮮明になると、私は妙な声を上げて飛び起きた。
ヤバい、寝ちゃってた。全裸で、林で、訳の分からない事件に巻き込まれて!
まだちゃんと覚醒していなかったのだろう。自分が柔らかなベッドの上にいることも知らずに、大慌てで辺りを見回す。
そして、私は世にも美しい少女と目が合った。
「――ッ!」
ロウソクと焚き木の薄明かりに照らされた室内。
山小屋か何かなのだろうか。部屋は大して広くも無く、床は土が剥き出しで、壁からは木の香りがする。
そんな小屋に、私以外の人が居る。
艶やかな黒髪を頭の後ろで結い上げた少女だ。
年恰好は私と同じぐらいか。透けるような白い肌に、高く通った鼻筋、桜色の艶やかな唇。それに何より目を引く、スカイブルーの美しい瞳。
映画や雑誌でしかお目にかかることのできない、ちょっと並はずれた美少女が、私の枕元に立っていたのだ。
「あ、えーと……」
事態が呑み込めず、私は変な声を漏らす。喉が乾いていたこともあり、かすれ声で恥ずかしい。
「よかった。お気づきになられたのですね」
すると、少女が穏やかな声でそう言う。
急に起き上がった私に驚いていた様子だけど、彼女はそんな私を見て、目を細めてほっと息をつく。些細な仕草にまで品があって、おまけに飛び切り綺麗だ。
何だ、顔がいいと育ちまで違うのか。と場違いなことまで考えてしまう。
「は、ハロー? いや、えっと、私は……、あ、これ服!」
思いがけない展開に、私は混乱してとにかく思いついた言葉を口からこぼす。
「はい。お風邪を召されてはいけないと思って……あの、それはまだ誰も袖を通したことがありませんので、どうぞお気になさらないでください」
と、黒髪の少女は言葉静かに答える。
きっと寝ているうちに彼女が着せてくれたのだろう。私は丈の長いワンピースを身に着けていた。
ただ、生地の粗さがちょっと気になる。というか、これは羊毛かな? 素肌に着るのは初めてだ。
そういえば、このベッドも不思議な感じ。シーツの下の感触、これはひょっとして藁では?
ああいや、今はそんなことを気にしている場合じゃない。もっと重要な、最初に尋ねるべき話がある。
「あのー、変なこと聞くんだけど……私、何語喋ってる?」
訳わかんないことは山ほどあったけど、今ほど混乱していることはない。
自分でも信じられない話だ。
――英語もできない私が、知らない言葉を流暢に話しているなんて。
「……ええと、綺麗な標準語をお使いですよ?」
質問の意図を理解しかねてか、少女が怪訝な表情になる。そりゃそうだ。会話が通じているのに何語かなんてあったもんじゃない。
「あ~、ええ、マジかぁ……」
けれど、私は頭を抱えてベッドに項垂れる。
今、こうして思考を巡らせている言葉が、既に日本語ではないのだ。ごく自然に、私は異国言でものを考え、それを口に出している。
「どこかお加減でも悪いのですか? あの……」
そんな私に、彼女が言葉を掛ける。覗き込む仕草までもが心から気遣わしげで、ああ、この子はホントに良い子なんだな。と変に感心してしまう。
「あー、いや、ゴメンね。ちょっといろいろあって、頭こんがらがってて」
彼女を心配させまいと、私は笑顔を浮かべて答える。まあ、正直かなり混乱しているが、お蔭でちょっとだけ事情が見えてきた。
「ついでにまた変な質問なんだけど、今は何年で、ここはどこか教えてくれないかな?」
破れかぶれに、そう尋ねる。
青い瞳の彼女は困ったような表情を浮かべて、
「えっと、教会暦ですか? 今年は千八十二年で、今はプルスの月の十七日です。ここはマトヤの村の近くの小屋で……え、国の名前? イシダール王国ですよ?」
と、心底不思議そうに答える。
私は半ば諦めの境地でうんうん頷き、
「ありがとう。おかげで大分わかってきました。――どっか別の世界に飛ばされるヤツだこれ!」
もう周りもはばからず、大声で叫ぶ。
誘拐でも拉致でも、デスゲームですらない。漫画だかゲームだかでよく見るあの展開。
――私は、異世界に転移してしまったのだ。