002 こんにちは赤ちゃん~月は無慈悲な夜の女王~ Scene1
一つの舞台の幕が降りる時、新たな舞台の始まりが告げられる。
地球という舞台から、名もなき惑星にある異世界の舞台へと、場を移し。
一乃 了の物語は幕を開ける。
それは、寒空に静かに輝く銀色の月の下、人一人いない白い枯れ草の平原に続く道の上で始まる。
そこに、地球最後の男として地球人類の歴史に幕を降ろし、新たなる異世界へ降り立った了だったが、何故か腑抜けていた。
腑抜け──臓腑を抜き取られたように、つまりは死者同然という意味の、腰抜けの一段階上の状態である。
いわゆる虚脱状態、魂が抜けたような表情で、‘ へのへのもへじ ’そのものの風貌で、木偶ノ坊のように突っ立っている様は、つい先ほどまで地球にいた時の生命力に満ち溢れた姿とは、かけ離れすぎていた。
その原因は何か?
この異なる世界に満ちた有害物質のせいか?
Geen──この異世界、この惑星の大気組成は地球と何ら変わりなく、何より先ほどの地球の大気には致死量の核廃棄物や有害物質が満ちていた。
そんな物質からも逃げていた了が、既知の有害物質でこの様な姿になるわけがない
ならば、未知の有害物質、あるいは安直な娯楽の異世界物語では決して語られない魔力という未知のエネルギーの悪影響か?
Geen──有害物質などなく、魔力はこの異世界に満ちていたが、了には何の影響も与えていない。
では、何が了をしてこのような有様に然らしめたのか?
何がというわけではなく、強いて言うならば…… 気分の問題?
そう、気力の問題というやつなのだろう。
気力──目に見える事しか見ようとしない者は、無限にあるか、まったくないかのように扱うが、それは有限で大切に育てないと直ぐにつきてしまう。
了を了たらしめている‘ 逃気 ’が、一時的に欠乏しているのだ。
そう、闘気にあらず、逃げる気と書いて‘ 逃気 ’が!
といっても、MP切れとか、ガス欠とかの類ではない。
‘ 逃気 ’とは、そういうエネルギー的な不思議パワーではない。
意志を保ち続ける気分を、‘ やる気 ’というように、根性を保ち続ける気分を、‘ 根気 ’というように。
逃げるために必要なのが、‘ 逃気 ’である。
そう、まさしく、気分の問題!
つまり、了はだらけた状態なのだった。
普通の人間が何かをするのに、、‘ やる気 ’と‘ 根気 ’が必要なように、‘ 九頭竜避術逃法 ’を極め続ける事だけを求める了にとって、‘ 逃気 ’がない状態とはだらけきった状態。
そう! 逃げるための相手や状況がない時のデフォルトな了の状態がこれなのであった!!
地球では、ただのニートだったので、ある意味似つかわしい姿ではあるが、異世界に来たニートは、腑抜けたままではないだろうから。
やはり、‘ 九頭竜避術逃法 ’継承者、一乃 了──とことん、変な男である。
「んー、どこかにいないかな?」
その変な男の口から出たのは、変な男にふさわしい変な台詞だった。
どっちに行こうかではなく、何処に行こうかでもなく、何処かにいないかな、である。
何がや!? 何でやねん!
ここにツッコミ気質の関西人がいれば、思わずそうツッコミを入れただろう。
もちろん、いないが。
「‘ 九頭竜避術逃法 ’探訪ノ一法、位置人の方」
ツッコミを入れる者がいないので、了は、普通の人間のように近くの街や村へと向かおうなどと考えもせず、‘ 九頭竜避術逃法 ’の術を使う。
‘ へのへのもへじ ’、そのものだった‘ ふぬけ顔 ’も、へのへのもへじを思わせる顔程度には引き締まり。
そして、何かを達成したらしく、不敵な顔とはいえないまでも、‘ どや顔 ’とはいえそうな表情を‘ もへじ顔 ’に浮かべ、つぶやく。
「あったか──‘ 九頭竜避術逃法 ’転逃ノ九法、天涯許独の封《ほう》」
そう声が響くより早く、その姿は消えていた。
天涯許独の封《ほう》。
天涯に独りを封じる事を許す──身も蓋もなくいうなら、単独瞬間移動。
何かから逃げるために使われる術だが、逃げるべき相手の姿どころかツッコミ役すらいないせいか。
やりたい放題というやつである。
では、この変人は何がやりたいのか?
それは、’探訪や、位置人の方という術法の名が示すとおりに人探しである。
もちろん、ツッコミ気質の関西人がいないので、探したわけではない。
関西人でなければツッコミ気質の人間もいるかもしれないが、‘ 九頭竜避術逃法 ’にしか興味がなく、しかも思い切りその秘術を使う事を楽しんだ事で味をしめた了が探すのは、逃げるものしかない。
そう! 位置人の方とは、‘ 逃気 ’を探訪するための秘法であった。
不思議な力の源である不思議パワーで、物理現象や心霊現象や精神状態に影響を及ぼすのではなく。
不思議パワーで、不思議な力を使うための気分を盛り上げるために、‘ 逃気 ’を探す。
そして、‘ 逃気 ’がないという了にのみ通じる‘ 逃げたい状況 ’から逃げるために、瞬間移動。
意味不明である。
変人が使う秘術秘法は、やはりヘンテコだった。
変人だから、変なコトをするのか、変なコトをしているから変人と呼ばれるのか?
卵が先か鶏が先か?
科学的に考えるなら卵だが、不思議パワー界隈の話は、全て科学的に考えるならやはり意味不明なのだ。
‘ 九頭竜避術逃法 ’の継承という意味では、変な竜が伝えたらしいので、それを信じるなら変な術という卵が先。
つまりは、変な竜だから変な術を授けたのだろう。
だが、そんな変な術を科学の時代だった地球で一心不乱に追い求めるのは、変態……いや、変人でなければ、ありえないだろう。
変な外国人なら、「オー、HENTAI! ア・リ・エ・ナ~イ♪」と変な発音でいうはずだが……。
もちろん、変な外国人は、いない。
だが、そう考えれば、了は、変……人だから変な術を学んだ。
つまり、変な鶏が先だ。
卵が先か鶏が先か?
変人だから、変なコトをするのか、変なコトをしているから変人と呼ばれるのか?
よく考えると煩瑣な話である。
実に瑣末な話でもあるが。
どうでもいいと無視するには、変すぎる話でもあった。
だから、地球で‘ 逃し屋 ’をしていた了に、「何故、逃してくれるのか」と尋ねる者は少なくなかった。
人は、理不尽を嫌う者だから、当然といえば当然だろう。
野生の獣や獣物同然の人間には、‘ 理に適うかどうか ’というのは意味がないけれど、人には理というのは大切な基準なのだ。
だから、誰もを平等で公平に扱う事が前提の理を捻じ曲げる言葉は理屈と呼ばれる。
了は、理不尽ではなくても理外の術法を使い、理解不能の行動原理で動くから、そう問いたくなるのだろう。
その問いに対する答えは、いつも一つ。