鯨に明日。
あ、これ夢だ。
空を見上げていた。正確には天井を。もっと正確に言うならば、鯨を。どこもかしこも真っ白な空間で、やっぱり真っ白な鯨が悠々と空を泳いでいる。
現実にあるわけがない。だから夢。これが明晰夢ってやつなんだろう。初めて見るけど。
音もなく空間に漂う鯨を何とはなしに見ていると、巨大な体躯の割に小さな瞳が不意におれを捉えた。見下した、とは違う。勿論、睨んだ、とも。ただじっとおれを見つめた。黒々とした、思ったよりずっと人の瞳だったそれで。感情のある瞳で。
それでも短く息を吸い、思わず目を背けてしまう。生きてるんだ、と思った。この鯨は生き物なんだ。おれの理解出来ない感情を持って、おれを見ている。「おまえ、おれのことどう思ってるの」なんて面倒な彼女みたいな言葉、冗談交じりにでも言えなかった。夢からはまだ覚めない。
鯨の視線から逃げるように歩き始める。そんなことしたって鯨がおれの頭上にいることは変わらないんだけど、少なくともここにはいたくなかった。おれのことを見ないで欲しかった。わけのわからないものを向けられたくなかった。わからないものはおれから触れに行くから、おまえからは来ないで。夢からはまだ覚めない。
いつのまにか歩調が早まっていたらしい。足元にあったらしい何かに躓く。危うく転ぶところだったけれど、ふらつきながらもどうにか踏み止まる。振り返ったところにあったのは病院用の簡易ベッドだった。白を基調としたパイプで作られており、ヘッドボードとフットボードは温かみのある木製。サイドにはご丁寧に点滴が添えられているが、これは点滴用ではなく長期入院用のものだ。個室に置かれているようなタイプの。無論どう考えても足元で躓かせるようなサイズではないはずだが、そこは夢ということなのだろうか。夢からはまだ覚めない。
夢の中で寝たらどうなるのだろうか。またさらに次の夢が待っているのか。それも悪くないのかもしれない。薬特有の臭いが鼻に付くのが難だけれど、次の夢には興味がある。無駄に乾いた薄い掛け布団を捲った瞬間、声も出せないままそれを投げ出した。
血だ。掛け布団の下にいた直径30センチ球体の血塊。そいつはぶよぶよと布団の中を這い回ってはシーツを淀んだ赤に染めている。そのくせ血の匂いは消毒剤の臭いに掻き消されていて、あまりの清潔に吐き気がした。
おまえ、綺麗なの、汚いの、どっちなんだよ。血塊は「Fair is foul, and foul is fair」なんて澄まし顔(顔はないけれど)して答えるものだから、何もいう気になれずにまた掛け布団を被せてやった。夢からはまだ覚めない。
濁音だらけの音がした。びじゃ、とか、ばぢゃ、とか、そういう音が、背後から。また血じゃないだろうな。あれ、綺麗だと思ったんだ。本当は。ゆっくりと振り向く。湖だった。めいっぱい助走を入れてもきっと届かないくらいの。漣一つ立たない鏡面が鯨の黒々と影を写している。
その瞳が揺れた、と思った途端に水の玉が湖面に同心円上の波紋を伝播させる。どぽん。子どもの頃、近所に流れていた川に大きな石を投げ込んだときもこんな音がした。両手でようやく抱えられるような重石だった。あの音がしたとき、ほんの少しだけ怖かった。ころした、気がした。あの石は誰にも見られなくて触れられなくて、水にだけ撫で回されていつか消えていく。夢からはまだ覚めない。
鯨の目を見た。知らない心が揺れていた。でも、泣いていた。悲しいのか、嬉しいのか、怒っているのか。おれにはよくわからないけど、鯨は泣いていた。
「おまえ、ばかだね」
知らないものに振り回されて、どぽんどぽんと湖を大きくする鯨は、おれよりもずっと人間であるような気がした。鯨の方が人間であるべきで、おれは鯨とか、血塊とか、ベッドとか、そんなものの方が近かった。
湖の中に足を踏み入れる。涙なんだからきっと温かいだろうと思っていたのに、目が覚めるような冷たさだった。例えば冬の朝の海のような、骨の髄まで滲み透る冷たさ。足先はいっそ火傷しそうなほど熱を持ったかと思えばすぐに感覚が失せていく。踝、脹脛、膝。腿まで浸かってようやく鯨の真下に辿り着いた。宙を見上げる。目を探す。あの黒々とした、人の目。視線が絡まる。ゆっくりと鯨が瞬いた。視界が半透明に揺らめく。落ちてくる、巨大な水球。瞳を閉じる。
受け止められたならよかった。おれにはわからない瞳から零し続ける大粒を手の中に収めてあげられたなら、おれは鯨になれたのかもしれない。あるいは、人に。
こつん、と思ったよりも固い、そして軽い感触がした。額に当たったらしいそれを見ようとするより早く、水球に包まれる。薄く開いた視界、水面から降り注ぐ光芒、おれの吐き出したあぶくが揺らめきながら昇る空、揺蕩う鯨の黒、夢はもう終わった。
●○●○●
頭が酷く重い。抵抗するように寝返りを打って枕元の時計を見る。12時43分。随分長い夢だった。ゆっくりと半身を起こしても、頭は脳の代わりに重石が詰められたようにぐらぐらと揺れそうになる。ヘッドボードに背を預けて欠伸を一つ。目元を擦ろうとして何かを握っていることにようやく気がついた。おれの体温が仄かに残っている、角の取れた滑らかなガラス片。曇った透明をカーテンの隙間から差し込む日に透かすと、水色の影が部屋の壁に落ちた。
夢はとうに終わって、現実に残ったのはガラス片が一つ。きっとこれだって何かの偶然に過ぎなくて、こんな夢はおれの今日を何一つだって変えることはない。ただおれは鯨の種類に少しだけ詳しくなって、浜ではシーグラスなるものを探すようになった。それくらいだ。
どうにもならない夢一つで明日は些細な贈り物になる。
「おれ」を「おら」にする誤字5回くらいやって笑いが止まらなかったし訂正し忘れてるところがあったら誤字警察して