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私が生きた中世のヨーロッパは悲しみの色に支配されていました。きらびやかな舞踏会の美しいシャンデリアも、うららかなほほ紅の乙女たちも、どこかくすんで淀んだものが覆っているのです。
物ではなく人が、まるで生きることを拒絶しているようでした。
生きることは辛い、生きることは悲しい、生きることは我慢を強いられる苦行だと。私が見たもので生きているのに人間だけが、とてもつまらなそうでした。
そんななか、牢屋にいる彼は軽やかでまるで全身を大きく伸ばし、生きている瞬間を楽しんでいるようでした。
牢屋に入ってきた私を彼は初めてうんざりしたような目で見つめ、心の底からつまらなそうに大きな息を吐きました。
「間抜けそうだと思ってたけど、ここまで馬鹿だとは」
首を垂れながらがっくりうなだれる彼を私はぼんやりと見つめました。こんな反応もするんだなぁと妙に納得しました。
彼は人でした。私と同じ心を持つ人でした。
人は生まれながらに心を持っています。美しいものを美しいと感じる心。痛みを痛いと感じる心。意味もなく涙が溢れたり、何か理由のないものに惹かれたり。そんな当たり前にある心を持っていました。
いつの間にか、私もゴシップに影響されていたようです。隠しようもない事実にがっかりしました。
いつまでも動かない私を不信に思ったのか、彼はうなだれていた頭を持ち上げます。元気がない私を見て胡散臭そうな顔をしました。私が彼と同じ場所に来たことを後悔していると思ったようです。誤解されたままなのは嫌でしたが、私の心の内を説明するのも無駄な気がしました。
彼は彼の心で感じればいい。嘘でも誤解でも構わない。自由に、感じるままに。それが彼の答えだ。
私はただ、彼の心が知りたかったのです。彼の心で、私を見てほしかったのです。
何も言わないでいると、彼は嫌そうな顔をやめて、いつもの表情に戻りました。
「描きたいって言ってたじゃないか。まさか、ここまでくるとは思わなかったけど」
呆れたような、感嘆したような、とりあえず彼が彼らしくここにいるような気がしました。
それでいい。それだけで十分。私は嬉しくなりました。
あんなに町には悲しみの色が溢れているのに。この彼のいる空間は朗らかで温かく、牢屋から差し込む光がとても優しくかったのを覚えています。
ずっと気になっていた、どうして人を殺すのか聞いてみました。
「ナイフが、そいつの心臓に刺さりたいって言ったから」
なんてことないように言ったので、私もそうなんだ、と言って納得したような気がします。彼が言うんなら、そうなんだろうとストンと落ちる説得力を彼は持っていました。
理論や倫理や人としての道徳を越えたもの。意味もなく花が咲いているように見えても、実はその下でたくさんの生き物がうごめいているように。彼の心のなかでいろんな生き物がうごめいているのだと思いました。
彼はよくナイフを研いでいました。錆び付いたたくさんの人から踏まれ、ボロボロになったものでも、彼が研いでいくとみるみるうちに美しく輝くのです。私はナイフや銃など人を傷つけるものが嫌いでしたが、彼の手のなかにあるナイフを初めて美しいなと思いました。
「これがお前の心臓に刺さりたいって言ったら、どうする?」
どうもこうも、刺すんでしょう。彼の問いかけに答えながら私は絵を描きました。彼の纏っている空気をたくさんの人に感じてほしい。きっと元気になるから、と思ったのです。彼の磨いたナイフが私の心臓に刺さりたいと言ったなら、刺さればいいじゃないか。人に踏みつけられ利用され、挙げ句の果てに捨てられたものが、心を込めて命を吹き込まれ甦った最後の希望ならば。叶えればいい。思う存分、刺すがいい。
刺して刺して、気がすむまで切り裂けばいいんだ。
気づかぬうちに彼は私の方を見つめていました。
そして、安堵なのか絶望なのか、静かなため息をつきました。
「殺意ってどこからくると思う?」
「質問ばかりですね」
「いいから、答えろよ」
「わ、」
「わかりません、以外」
「えー。。。」「ほら、いいから」
うーん。私は悩みました。悩んで答えが出ないのは、私のなかで答えがないからです。答えがないものは答えようがありません。鬱陶しそうに彼を見れば、彼はケラケラと笑っていました。
彼の軽やかな空気が好きです。瑞々しく何もかもをあっという間に越えていく心が好きです。私の好きなものが絵を通して誰かに伝わればいいと思いました。願って、生きて、何かを手に入れて、手放して。好きなものだけが残っていく。目に、心に、魂に。
「ああ、俺、人を殺してよかったかも」
心底嬉しそうに彼は背伸びをしました。