38話 涙
5回戦が行われる朝、豪は早くから会場に行き誰かを探し始める。
見舞いには行かないと決めた豪ではあったが、それでも目の前で倒れていた人を気に掛けないほど冷たいこともなかった。
要するに、朝早くから卯月を探すために会場に来ていた。
「いないなぁ」
かなりの時間粘ってみたが、卯月の姿を確認することなく控室に向かうことになる豪。
待ち時間が長くなるが、決められた時間に控室にいないと不戦敗となってしまう。
分かりやすく言うと、テニスのデフォルトと似たようなルールが各トーナメントには存在する。
後ろ髪を引かれる思いで、控室に向かう豪。
控室近くになると、出場選手でごった返す控室通路に出る。
その人だかりの中で、豪は卯月を見たような気がした。
気がしたと言うのは、確認ができなかったと言う事。時間と控室の割り当ての関係上、豪はその人物が卯月かどうか確認ができず、控室確認の時間となってしまった。
果たして豪は、卯月と会って何を話そうとしていたのか?
豪自身も無事を確認できればよかっただけで、実際合って何を話そうしたのだろうと後々になって思う。
控室のモニターでは、今日行われる試合の順番が流れていた。
その中に卯月の名前があるのを見て、来ていることだけは確認できたので良しとしようと、豪は考える。
そして自分の対戦相手を確認していないことに気が付くが、すでにモニターは試合順を流し終えて出場選手の映像が流れ始めていた。
(・・・・・・まあ、これもいつも通りか?)
確認を諦めて自分なりの精神集中に入る豪。
少し経つとうっすらと歓声が聞こえてくる。
本日の第一試合目が始まったようだ。
確認しに行きたい気持ちを抑えて、集中を高めようとするが、時々大きくなる歓声や控室にまで響く地響きに似た振動を感じては、観戦したい欲求に囚われる。
(いや、前回それでどうなった? またあんな試合がしたいのか?)
そう言い聞かせ、欲求に打ち勝つべく目を閉じてゆっくりと深呼吸を始める。
そして一つのことに集中しようとすると、豪は眠くなる体質であった。
いつの間にか豪は夢の中に旅立っていた。
「・・・・・・ッハ!!」
どれくらいの時間がたったのだろう。
豪は自分が寝ていたことに気が付き、真っ先に時間を確認する。
「っあっぶねー!」
思ったより時間が経過していないことに安堵する豪。
会場に来ていたとしても、開始時間にリングに上がれないと流石に不戦敗になってしまう。
自分の行動の危うさに、心臓が早鐘を打つ。
寝てしまったことを誰に誤魔化すわけでもないが、豪は立ち上がり体を動かし始める。
これも豪の体質であるが、意外と眠気を引きづるタイプでもあった。
しかし、自分の不注意とはいえ緩み切った心を引き締めるためにはちょうどいい緊張感を得ることに成功した豪は、万全の態勢で試合に臨むことができるだろう。
眠気を取るためとはいえ、今身体を動かしているのも丁度良い暖機運転となるはずだ。
そしてそんな豪とは関係なく試合の工程は、つつがなく進行していく。
比較的色物が多いベスト32ではあるが、それでも試合会場は盛り上がりを見せている。
時々流血も見られるが、興奮した会場ではそれも興奮を増強させるアクセントでしかない。
何時の世にあっても血沸き肉躍るという言葉は、廃れないのかもしれない。
一人また一人と勝者が称えられ、豪の試合の前に17人が出そろった。
トリを務める豪も、会場に出て行くと大きな歓声に出迎えられる。
今日の試合順の妙とでもいうのか、会場は一回も盛り下がることなく最終試合まで進んでいた。
そのせいか、あまり人気のない豪の登場にもブーイングはない。
いつもと違う会場の雰囲気に、少し戸惑いを見せる豪だったが、それでも自分に向けられた声援が大きいことは喜ばしいことだと感じる。
それが本日の最高オッズを自分に付けられていることに気が付いた後であっても、気分は高揚してくるのだから空気と言うのは不思議でならないと豪は思う。
気を良くした豪は、颯爽とリングに駆けあがる。
それを見た観客たちも、豪のアクションに合わせて会場を盛り上げる。
一種のエンターテイメントの完成系が、そこにはあった。
そして対戦相手のコールが会場に響き、豪も少し高揚しながら対戦相手を待つ。
静まり返る会場。
尚もリングで待つ豪。
今か今かと期待を膨らませる観客は、固唾をのんでリングを見守る。
しかし、豪はどこかおかしな感覚を受けていた。
いくらなんでも遅くないだろうか?
時間がたつにつれ、豪の高揚したものが冷えていくのが分かる。
ざわつく会場にアナウンスが流れる。
『宇院選手の対戦相手である黛選手ですが・・・・・・』
会場の雰囲気が徐々に変わっていき、ざわつく声も次第に大きくなってくる。
『規定時間までの確認が取れなかった為・・・・・・』
ここまでの言葉で、会場にいる豪を含む全員が何が起きたのかを理解する。
『失格となります』
先ほどとは打って変って、会場がブーイングに包まれる。
豪の不戦勝である。
そして本来責任を負う立場でないリング上の豪に向かって、物が投げ込まれる。
幸い、リングが展開しているため豪には届かないが、会場で巻き起こった怒りに豪は腰が抜けてしまった。
つい数分前まで豪に声援を送っていた人たちも、今は原因ではない豪に向かって罵声を投げている。
豪もここにいてはいけないと思いつつ、抜けてしまった腰が言うことを聞かずリングから降りることが出来ないでいた。
それを見ていた教師陣やスタッフたち数人は、豪を抱えてリングから足早に去っていく。
本来選手の安全を考えるなら、豪をリングに留めて観客を会場から排除するべきではあったが、あまりの混乱に手順を間違えて行動してしまっていた。
投げ込まれたいくつかが、豪の身体をかすめながら豪は控室まで運び込まれていく。
そして誰もいなくなった会場のモニターには、本日のハイライトが流れ始める。
白熱した戦いの決着たちの中で、最後に豪の颯爽とした登場シーンが流れる。
余りにキメに来た登場シーンの豪が大写しになると、それまで怒号が飛び交っていた会場は笑いが起きる。
ほどなく混乱は収まり、一部納得をしなかった者を連れて、観客たちは会場を去っていく。
その様子を見ていた豪は、控室で少し涙ぐんでいた。
それは恐怖から解放された安堵からなのか、羞恥に対する涙なのか、誰も知る由もなかった。
次回投稿は2/13 2:00を予定しております。
では、次回投稿で。




