夜の小路に舞うものは
これは史実を基にしたフィクションです。
せゝらきもせけは溢るゝためしあり 人のこころもかくと知らなむ
――山崎烝『時事所感』
「烝さん。この後僕も一緒に――」
「無理です」
蒲団から起き上がっている青年・沖田総司の言葉も半ばに、薬包を取り出しながら山崎烝は否定をあらわにした。
開け放たれた障子戸からは、縁側の奥に広がる風景と共に、射すように冷たい空気が入り込んでくる。
霜月も半ばの慶応三年十一月十八日。今宵行われる大事に、屯所内の緊張感がますます張り詰めていく。
そんな普段とは異なった雰囲気の昼過ぎ。堪らず沖田は声を上げたのだが、それも即答で首を振られてしまう。
あまりにも無情すぎる答えに、沖田は思わず唇を引き結んだ。その落胆ぶりを見かねた山崎は一度息をつくと、薬包を手渡しながら沖田に視線を向ける。
「体調が優れないのに、無理をしてはいけませんよ。他の方からも言われているでしょう。『無理をなさるな』と」
「……けど、無理をするのが新選組じゃないですか」
いつだってそうでしょ。池田屋なんか、無理を言葉にしたようなものじゃないですか。
そうぼやく沖田の言葉に水を渡すのも忘れ、山崎は嘆息した。そこにはなんとも言いがたい表情が浮かんでいる。
「皆さんは沖田さんに良くなってもらいたいんですよ。言葉にこそしていませんが、隊長は沖田さんしかいないと誰しもが思っているんです。あなたの隊は、特に個性的な方が多いですしね」
そう言うと、山崎は視線を外へと向けた。
「彼らをまとめられるのは、あなたしかいない」
外は微かに暗く、薄く濁った雲が日の光を遮る。北風は枯葉を転がし、そのわりに外では子供の元気な声が遠く聞こえていた。
だが山崎の頭にあるのは、もっと別のこと。
それは先日聞かされた、旧二番隊の伍長であり諸士調役兼監察をも務めている島田魁のこぼした言葉であった。
なにしろ今、沖田不在の隊は永倉率いる隊員と共に行動をしているのだというが、これがなかなかに骨を折る作業らしい。
今は副長助勤の永倉新八がどうにか取りまとめてはいるものの、やはり所々にほころびは出てくるというもの。そもそもにして長が病に伏せているのだから、彼らも気が気でないのだろう。
いつだったか、島田は見回りから帰ってくるなり山崎の部屋へと押しかけ、「やはり彼らをまとめられるのは、沖田さんしかいないよなぁ」と、一人ごちていたことがあった。
だがそれは、何も彼だけの話ではないのだ。ただ誰もが胸の内を明かさないだけであって、本来は同じ思いを皆が秘かに抱いている。
ふっと瞼を閉じると、一呼吸の後に山崎は沖田へと水を渡した。
「気休めと言わず、きちんと療養して戻ってきて下さい」
あなたなら、不治の病だろうが叩き切ってしまうでしょう?
そうおどけながら言うと、沖田は硬かった表情をほころばせた。やっといつもの沖田総司が、そこに現われる。
「当たり前じゃないですか。これでも剣の腕には自信があるんですよ」
明るく振舞いながら一気に手に持っていた薬を呷る。一瞬苦い表情を浮かべるがしかめっ面のままそれを水で押し流すと、沖田はへヘっと笑った。
「ごめんね、烝さん。さっきの我が侭は無しにしといて下さい」
「承知しました」
「それと……」
労咳の熱だけではない赤みを頬に差しながら――しかし翳りを見せて、沖田は俯きがちに言葉を紡いだ。
「あの、みなさんに言っておいて下さい。『無茶はしないで』と。特に佐之さんと新八さんは参っているみたいだろうし……」
同じ屯所内にいるものだから、嫌でも沖田の耳にの入ってきたのだろう。
御陵衛士となり新選組から離れていった伊東甲子太郎の暗殺のことも。そして助けたいと古株共が願っている、藤堂平助のことも。
天皇陵の守護のためと、局中法度に触れる事なく新選組を後にしたのが、伊東甲子太郎率いる御陵衛士だ。
先日、彼らの元に潜伏していた斉藤一が十日の日に秘かに帰還し、山口二郎と名を改めて本日帰隊。また十日の時点で衛士が薩摩の気を引くためにと、近藤勇の暗殺を企てているとの情報を得た次第だ。
これが事実であるとすれば、何とも大きな問題であろう。新選組の存亡にまでかかわってくるのは目に見えた結果だ。
そこで伊東の暗殺を計画立てている訳であるが、問題が一つ浮上してきたのだ。それが藤堂平助という、元新選組八番隊の隊長や副長助勤という位置に席を置いていた者である。
歳は沖田よりも若く二十四。池田屋での事件でさえ潜り抜けてきたほどの剣の腕を持つ者だ。未来ある彼を亡き者にしてしまいたくは無いと、近藤自身でさえ言っているほどの逸材でもある。
沖田が心配しているよう、原田左之助と永倉もまた藤堂に対して好感を持ち、更に近藤から藤堂を逃がすことはできないかとの相談も受けているのだという。尤も試衛館の頃からと長い付き合いで、彼らが好感を持つのは誰もが承知していたことだが。
ではその時、藤堂が伊東暗殺の際に現われてしまうのではないか。またその場合にはどのような手を持って、その状況をかわしていくべきか。それが与えられた唯一の難点だった。
そしてことの一部を耳にしてしまった沖田も、そのことについて悩み、心を落ち着かせられないでいる。
やはり事には多大な心配を抱くものなのだろう。悲しそうな沖田を目の当たりにした山崎は淡く影の射す微笑をその顔に浮かべると、「伝えておきます」と静かに答えた。
「――では、私はこれで失礼します」
「あ、烝さん。ちょっと待って!」
薬包と湯飲みとを盆に乗せ、腰を上げようとした山崎は、しかしすぐに飛んできた沖田の声に動きを止める。振り帰れば、上体を起こしたままの沖田ができる限り身体を捩ってこちらを向いていた。
「どうかしましたか」
盆を置き、再度歩み寄りながら山崎はそう問いかける。
自分でも意識してなかったのか、沖田は顔を驚きで彩らせると、寝巻きの袖をきゅっと握りしめた。
「あ。えと、ごめんなさい。大したことじゃないんですけど……」
瞼を瞬かせ、山崎はあたふたする沖田をじっと見つめる。
霜月の風が頬を撫でる中、散々迷った挙句、沖田はやっとの思いでその口を開いた。
「烝さんも、……無茶しないで下さいね」
一
まったく、沖田(あの方)も心配性だ。
薬包と湯飲みを乗せた盆を持ちながら、山崎は台所へと足を向けていた。
これほど心配をされたのは、果たしていつ以来だったか。まるで琴尾がもう一人いるようにさえ感じられる。
妻の琴尾のことを思い出し、口元にはふわりとした笑みが自然浮かんでくる。
そうだ。この事が一段落着いたら、久しぶりに琴尾の顔でも見に行こう。
叶うかさえ解らないというのに、山崎はそんなことを考えながら少し晴れた気分で台所へと入っていった。だがそこには予想だにしなかった先客が既に居り、虚を突かれて山崎は足を止めてしまう。
「……あなたがこのような場所へ参られるとは、なんと珍しい」
視線の先、釜戸の前には新選組副長の土方歳三が立ち尽くしているではないか。普段の様相からはあまりにも不釣り合いな場所にいるもので、山崎は盆を置きながら土方に向かってそう投げかけた。
「そうかよ。俺だってたまには、台所にくらい足を踏み入れるぜ」
「その割には、何かをした痕跡もありませんが?」
「ははッ、そうだな」
俺は何もしてねぇし、できもしねぇからな。なぞと呟きながら、土方はゆっくりと歩を進めてきた。
「で、総司の野郎はどうだった」
ぴんと空気が張り詰め、山崎は思わず息を止めた。沖田のことは伝えなければならないと心に刻んではいたが、しかしこの話題を他人から切り出されてしまうとなれば、また別の話。
如何にして伝えるべきか。
注がれる眼差し。それを臆せず真正面から受け止めると、空気を静かに吸い込む。降り積もる沈黙の合間に山崎は思考を廻らせると、一度瞼を伏せてから口を開いた。
「今日は咳も軽く、大分優れているようでした。……ただそれも相まってか、以降のことについて行きたいと申しておりまして。そのことについては、一応断りを入れておきましたが」
ありのままを伝えると山崎はゆっくりと口を閉じ、それを聞いた土方は「あー……」と唸りながら頭を乱暴に掻き回した。
結っていた髪が所々で乱れてしまっている。
「やっぱり言ってきやがったか、あいつ。……ったく、昔から変なところで強情っぱりだもんなァ」
少しはテメェも身くらい案じりゃいいものを。
溜め息混じりにそう言うと、土方は掻いていた手をふと止め、何もない虚空へと視線を向けた。
射すような空気の冷たさ。それと相まって、静けさが薄闇の台所へと降り積もってゆく。普段は溢れんばかりの勢いを持つ隊士の声も、どれほど耳を澄ましてさえ耳にすることは叶わなかった。
まるでこの世の静けさが全て終結したかのような感覚。嫌な沈黙を一口呑み込むと、土方は小さく唸った。
「……つってもあいつが人の言うことを聞くたまじゃねぇのは、百も承知だし。しょうがねぇけど、誰かについていてもらうか」
あの体調で脱走でもされたら、それこそたまらない。そんな風に土方は思っていた。尤も今の状況でそれが可能でないことは目に見えているが、『念には念を』ということらしい。
「山崎。今回の件で空いている隊士に、あいつのこと頼めるか?」
「私の隊でよろしければ、手配しましょう」
「そっか。そりゃあ助かる」
土方はそう呟くなりひたりと足を踏み出すと、俯きがちにその場を後にした。
「隊士に告げた後でいい。半刻後に、近藤さんの部屋に来い。……局長会議の召集が掛かっている」
山崎は振り向かずに「御意」と吐き出す。
土方の足音は、やがて廊下の奥へと消え去っていった。
一人になった山崎は、眉根を寄せたまま双眸をくっと瞑った。
二
昨日の敵は今日の友と、果たして誰が言ったのだろう。
脳裏を過ぎった言の葉は、今の状況とはあまりに裏腹だ。真反対のことが今後を暗示しているかのようで、あまりに深く胸の内へと踏み入ってくる。まるで土足の如き荒々しさ。暗澹たる空の色は、彼らの心でも映しているのか。
渦巻くのは、きっと不穏の色濃さのせいだろう。
詰まる呼気。吐き出せないのは一体どうしてか。
くっと咽が鳴り、またしても息が詰まる。
胸に渦巻く息苦しさは眉間に刻む皺を更に深くし、噛み締めた奥歯に不愉快な音をもたらせる。頭はカッと熱くなり、その芯は色をなくしては朽ちてゆき――
解っていた。何が我が身を蝕んでいるのかは、とうに解っていた。ただそれを認めようとする心身が「否」と言い張っているだけの話。
あまりに無力だった。
そして、あまりに穢れていた。
事の真意が解ることは、即ち幾度となく事の行方を見てきたからこそ。
幾度となくこの太刀で人を切り、もしくは裏で事を動かし誘導してきたこの我が身。血の味は然ることながら、震え上がらせるその断末魔の悲鳴さえ、もう脳髄に刷り込まれてしまっている。
なんということであろう。
もとは摂津国にある実家にて、医を継ぐべきであったはずの者が、理由あれども人の命を奪い取っている。それが多くの者を助けようためとはいえ、心中深くで裂けゆく傷に目を瞑ることさえ叶わない。
ましてや今回は身内での諍い。分岐した御陵衛士と新選組との問題だ。
元同士を裁き、その上でどれほどの周辺住民が苦悩し、またどれほどの隊士が心を痛めるか……。
進まぬ足取り。穢れた心は後に病んでいくのだろう。
やっとの思いで一息吐き出すと、烝は襖に手をかけた。
中から明るい隊士の声が、聞こえることもなく。
部屋を出、長い廊下を歩いていると、不意に誰かが肩を叩いてきた。
「暗い暗い。ちょっとは気持ちを上げていかないと、心がポッキリ折れちゃうんじゃないの?」
な? と首を傾げたのは、沖田が心底気にかけていた内の一人、原田左之助だった。
緊張を欠く口調と仕草。だがそれが山崎に多少の変化をもたらしたことは言うまでもない。驚きに丸くしていた瞳を細めると、口元だけに笑みを浮かべて、そして肩を竦ませた。
「多くのことが起これば、気の一つは滅入るものです」
「へぇ。……例えば?」
実に楽しそうに聞いてくる原田に、山崎は「そうですね」と呟いた。
「急須を傾けたら、熱い茶が指に触れましたね」
「あとは?」
「土方さんが台所にいらしたこと」
これには流石に驚きました。
そう言うと、原田は口の端をひくつかせながら「確かに……」と同意してくる。
「あの人に台所は、一番似合わねぇな」
「でしょう?」
「どっちかって言うと、あの人は道場か縁側だ。剣を振るうし、歌も詠む」
頭の後ろで腕を組むと、原田は天を仰ぎ見た。
「……もしくは、近藤さんの隣とか。さ」
トントンという歩み行く二つの音。うちの一つが音を乱したのは、山崎が歩調を誤ったためだ。
近藤さんの隣。
その言葉が、今となってはあまりにも胸に響く。これから向かおう場所には、きっと両者が肩を並べて座っているに違いない。
それが新選組の在りし姿だからか。もしくは以前と変わらぬということを、この期に及んで胸へと刻むためか。
乱れたままの二つの音。それに気付いたのか、原田は振り返るとにっと笑った。
「もう着いちゃうぜ。心を改めていかないと」
そんな言葉に、山崎は小さく頷く。
それから数歩後、二人は近藤の部屋へと入っていった。
凍て付く風が、枯葉と共に通り抜ける中。
三
七条醒ヶ井通り木津屋橋通にある近藤の妾宅へと着いたのは、もう空気の冷えゆく頃合だった。
天は愁雲に覆われ、それを道中に幾度と目にしたことか。時の間を置いてしても、それを記憶から消し去ることは難い。
また事の支度に手を動かしている時もそれに変わりはなく、意識は常に間の先、包まれよう赤黒い瞬間へと向いてしまう。平常が保てないとは、まさにこのことを言うのだろうか。
虚ろになる全て。その間に近藤の妾である孝子に、どれほど手を貸してもらったか。それさえも知れない。
ただ嫌になるほどの回数か、もしくは朦朧とする意識下で数えることさえできなかったか。それだけが唯一解ることとも言えよう。
事の支度が整い後は伊東を待つのみとなると、山崎は鬱とした気分のままに部屋の隅へと腰を降ろした。眼前に広がるは今しがた用意した贅沢な珍味と酒の数々。にもかかわらず、面々の表情が優れることは決してない。
近藤や土方は勿論のこと、山崎や原田や吉村貫一郎などの幹部は、伊東の旧友でもあるのだ。
彼らは一様に視線を膝へと落とすか、もしくは膝でなく地を彷徨わせる他ない。落ち着こうなどとは、到底無理な話であった。
唾を嚥下する音まで聞こえようほどの静寂。袴を握ればその衣擦れが空気を揺らし、嫌な空気はより一層の厚みを増す。それでも誰一人として面を上げることはなく、緊張高まる気は塒を巻くばかりだ。
誰一人として、口を開かない。
そんな状態が幾許か続くが、しばらくすると玄関の方から男の声が聞こえてきた。あまりに聞き覚えのある、耳に馴染んだ声色。姿を見ずとも、それが誰であるのかが瞬時に窺えた。
障子戸を開ける微弱な音。結わった黒髪を歩みに合わせて揺らす土方に倣い、山崎はすっと立ち上がる。
朧々(ろうろう)とした廊下を抜けてみれば、久方ぶりに見る伊東の姿がそこにはあった。
「ああ、伊東先生。暫くぶりです。一体何時以来か」
「土方くんに、山崎くんまで。わざわざ出迎えてくれるとはかたじけない」
ははっと明るい笑みを洩らしながら、伊東はそう口にする。
「まさか二人が来て下さるとは、思いもしなかった」
これは心臓に悪いね。
涼しげな目元を細め、口元には笑みさえ湛えたその面持ち。伊東はすらりとした背を屈めると、下駄を脱いで玄関を上がってきた。
青を基調とした服の色合い。それが伊東の白い肌をより際立たせているとは、誰もが胸に抱こうことであろう。
山崎は土方に目配せされると視線のみで頷き、人の良い笑みを浮かべると一歩前へと歩み出た。
「お久しぶりです、先生。お部屋を案内しましょう。さぁ、こちらへ」
詰まる咽の奥。そこから懸命に吐き出した言葉は、不思議なことに普段と何ら変わりはない。焦った風もなく、かといって特別感情が篭っているわけでもない。実に代わり映えのない声色だった。
山崎はそのことに内心、えも言わぬ恐怖を抱いてしまう。
どれほどの場面であろうと感情を押し殺し、化けの皮を被ることができるとは、何たることか。例えそれが新選組のためであろうとも、如何なる事態であっても己を制することができることに、最早恐怖以外の何を抱けというのだろう。
これではまるで、妖もいいところだ。もしくは人の皮を被り生きる鬼とも言えようか……。
誰にも悟られぬよう強く拳を握ると、山崎は両者を引き連れて朧々たる廊下を引き返していった。冷え込む空気は静寂を纏い、更なる冷たさを齎しているかのような錯覚さえ覚える。
程なくして部屋へと到着すると、そこには仮面を被った面々が明るい笑顔で出迎えていた。
「伊東先生、もう一杯いっちゃいません?」
「いやぁ。もう浴びるほどいただいたよ」
「まあ、そう言わずに。ここは男気に任せてさ、ぐいーっとやっちゃうもんですって。ね、ぐいーっと」
白く美しい頬にほんのり紅を差した伊東は、原田の勧めを断ることもできず、今日で何杯目かの酒を酌んでもらった。
夜は徐々に更けゆき、また誰もが伊東へと酒を勧める。特にこれといった話が上ることはなかったが、ある種の異様さを漂わせる雰囲気であることは否めない。
今まで疎遠の関係で、ましてや良いとは言い難い関係であった者同士がだ。果たしてここに真の感情が浮かび上がろうものか。
しかしそれさえ忘れさせるほどに、その場は陽光に負けぬ明るさをたたえていた。幾らそれが化けの皮とて、そんなことさえどうでもいいと言えるほどのものである。
近藤は高らかに笑うと、伊東へと言葉を投げかけた。
「ところで先生。今年の冬は冷え込んでおられるが、お体の調子は如何なものかな」
「ええ。至って良好なものですよ。どうやら某は病とは無縁なようで」
杯を置くと、伊東も笑いながらそう言う。
燦々たる空気が敷き詰められる中、近藤は聞くなり大仰に頷いた。
「それは実にいいことで。隊士の中には体調を崩す者も多いですからな、是非とも見習いさせたいものですよ」
事実、隊士の中には病に伏せる者も幾名か存在していた。いくら体力があるからとて、病と無縁になれるかと言えば「否」と答えざるを得ない。
如何にすれば良いでしょうかね。と言う近藤の言葉を聞き、そうですな……と伊東は顎に指を当てた。
「この時期ともなれば寒さに当る者も多いでしょう。それに今日のような夜は特に冷え込む。まずは暖を取ることが最良かと思われますね。また群衆の中へはあまり立ち入らぬことも大事でしょう。群衆の中とあらば疲労も然ることながら、疫にも犯されかねない」
「なるほど、暖と群衆とは! いやはや、流石は伊東先生。何事にも通じておられますな」
「いいえ、そのようなことは決して」
酒のせいだろうか。常日頃とは異なるほど饒舌ぶりを、伊東は見せしめていた。身体は火照っているのか、掌で扇ぐ素振りも時折見せている。
そのことに誰も気付かぬことはない。
締め付けられる胸の高鳴り。渦巻く漆黒の念を感じながら、誰もが心中秘かに事の終焉が近いことを察し始める。
「だが、新選組には山崎くんがいる。彼は医家の倅である上に、松本先生からの教えも受けている立派な医者ではないですか。いざとなれば、彼に頼るが一番でしょう」
そのことに気づいていないのは、伊東ただ一人だけ。
この後襲おう魔の手を、まだ彼は気付いてはいないのだ。――否、そもそもにして気付かれるはずもないというのが、正直なところだろう。
新選組は、彼の暗殺を目論んでいる。それは即ち、気付かれた時点で終わったも同然だ。意図が気付かれてしまえば、標的となりうる人物は即座に身を翻すか挑んでくるか、してくるはずである。
明けてはならぬ。悟られてはならぬ。
全てを終えるまでは、心裏を表すな。
複雑な思いで伊東の言葉を聞いた山崎は、「身に余るほどの思いです」と表情が悟られぬよう、深く頭を垂れて返答した。瞬間、胸は今までにないほどの苦しさに苛まれる。
ああ。やはり私は不要の念を持ってしまったのだろうか……。
杯を交わす賑やかな音が再開される。
奥の歯が叫びを上げるのを感じるほどに、山崎は全てを嘆き噛み締めた。 夜風が更に、冷たくなる中。
四
「では手筈通り、木津屋橋通を東へ。大石達と合流の後、油小路を北上し、七条にて他の隊士と衛士を待ち伏せます」
普段とは異なる口調で告げたのは原田だった。
時は亥の刻。伊東が立ち去ってからしばらくしてからのことである。
今までの活気は瞬時に静寂へと身を変え、誰もが全ての活力を失せさせていたのだが、原田は休む間もなく出動せねばならない。
あらかじめ持ってきていた衣へと着替え槍を持つと、すっと立ち上がっては部屋を出て行く。
「大丈夫です。……藤堂は、必ずや」
その言葉には、一体何が含まれていたのだろう。
原田はそれだけ言い残すと、近藤の妾宅を後にし、木津屋橋通を目指していく。残された者達は眼前でない所で行われる出来事を、ただひたすらに待つしかなかった。
悲しいかな、それしか渡された道が続いていない。
寂然たる夜。時折揺れる灯火は同時にこの世の全てを揺らしては、震える心に大きな影を運び給う。なんと悍ましき仕業か。
キンと耳に残る、甲高い時の音。
原田が出て行って間もなく、何所かから無念の叫びが聞こえてくる。
『奸賊ばら』と言ったその声が伊東のものだと、どうして思ったのか。
目を瞑り、闇の中へと身を投じる。静まり返った室内に、叫びが余韻を残しては反響し続けており、そのあまりにの声色に、背筋は寒さでないもので震え上がった。
これは悲しみか。はたまた罪悪感か、それとも……。
無骨な手で、山崎は己の顔面を覆う。
指の合間から覗く己自身。それが酷く穢れたものに見えたのは、なにも錯覚ではないのだろう。
クソッ、と誰かが小声で呟いた。
冬に凍えた空気は全てを研ぎ澄まし、皆の呼気の詰まる音を身じろぐ音を、はっきりと我が耳へと伝えてくれる。
それはあまりに残酷な和音だ。落ちゆく闇は更に色濃さを増し、我が身を蝕んでいってくれる。誰一人として頼んでなどいないのに。
誰もが寝静まる蒼闇の空間。
陽の光を彼方へと飲み込み、全てを暗黒へと誘う終焉の時。
闇に終わりは訪れない。
全てを飲み込むその日まで、きっと全ての隣に居続けるのだろう。
息を呑み、覆う手に力を籠める。
山崎は開いていた双眸をぐっと瞑ると、声に出すことなく「御免」と呟いた。
何度も何度も、絶えることなく――。