ホーム・ディサイド
この小説を読む前に一つ作者から質問させてください。
人間には二種類あります。
現実を突き付けられた時にそれを受け入れる人とそんなはずはないと反発する人です。
あなたはどちらですか?
11月8日。本日は月大の統一テストだ。今までの成果を120%発揮できるように頑張らなくては。でも夏休みを碌に勉強もせず、テスト二か月前から急に勉強をやり始めたので不安はたくさんある。その上、三日前には風邪で寝込んでしまったのでその辺も心配で仕方がない。とはいえ今さら後には引けない。試験の感想と言えば可もなく不可もなくといった感じであった。だが、それはあくまで勉強を十分にしていないの前提での話であって現実はそんなに甘くはなかった。
11月14日。統一テストの結果が返ってくる。点数が高くて越したことはないが、目的の学校に行くにはどうしても二百点は必要。さて運命の瞬間だ。結果は……なんと二百点に一点満たない百九十九点だった。悔しさで目の前が真っ暗になった。この一点の差で自分は目標の学校にも行けず、仕事に就くこともできない。今後起こりうるであろう最悪のシナリオが頭の中で渦を巻き、恐ろしい龍へと変化して襲い掛かってくる。涙が出るのを必死でこらえ、マリアナ海溝より深い絶望の闇に落ちてしまいそうになるのを必死で耐えた。
その日は帰ってすぐに布団に入って寝込むほど落ち込んだ。もっと早く勉強していれば、あの時風邪をひかなければ、だがもう時すでに遅し。“たられば”は見苦しいだけと自分に言い聞かせた。数日後、面談で自分がどこに行けるのか先生と親と相談したところ、生産工学部なら入れるといわれた。確かにここなら自分のやりたい学科もあるしいいかもしれない。多少周りから白い目で見られようとそんなのは関係ない。私は即断即決で決めた。
2015年春から私は月大の工業製造学部の機械学科に進むことが決まりました。
だがそのためにはちょいと問題が発生した。茨城県に住んでいるのだが、大学は東京の中心部にある。毎日通うとなると一日二時間以上かかってしまう。これでは交通費だけで我が家は破綻だ。これを避けるにはいっそ東京にアパートを借りてそこに住むのが一番効率的でリーズナブルなのだ。親と離れるのは悲しいが大学のためなら仕方があるまい。翌年の春休み、私は東京に出向いて不動産屋を訪ねることにした。
○
ビルの一階に設置してある不動産屋。内装も外装もこれと言って特徴のない普通の不動産屋。だが一つ気になるのはこのビルを所有している会社が「金玉均株式会社」という謎すぎる会社だということだ。金玉均といえば李氏朝鮮後期の政治家で、日本・中国と同盟し三国でアジアの衰運を挽回するべきだという「三和主義」を唱えた偉い人。日本では功績よりその名前のほうで有名な人物だ。韓国の会社なのだろうか。それにしても凄い名前だな。わざわざこういう名前を付けてそれを日本に持ってきた会社の社長さんには感服する。
窓は様々な物件のチラシが張ってある。高い物件が多いのはさすが東京といった感じだが、安い家も少なからずありここなら良いアパートが見つけられそうだ。
「まあ広いほうがいいよな。でもやっぱりチラシだけじゃ何が何だかわからないよね。とりあえず聞いてみるか」
初めて不動産屋というところに入るので多少緊張した面持ちで中に入る。中にいたのはこの不動産屋の社員と思われる男。痩せ型、長身でいかにも東京人といった感じ。
「いらっしゃいませ」
「部屋を探しに来たんですが」
「ありがとうございます。わざわざ遠いとこから」
「……どこから来たか言ってないよね。確かにここからだとちょっと遠いけどさ」
「さいですか。お客様に最高の物件を探してあげますよ。ぴったりの物件を物件を」
“物件”と二回繰り返して強調する。こちらの希望としては家賃と水道光熱費が安くて、日当たり良好、あとトイレとお風呂がついていれば文句はない。バーのカウンターのような席に連れて行かれる。後ろの戸棚には酒瓶がいくつかおいてありここは本当に不動産屋なのか心配になってきた。
「本日はどのようなご利用で」
「さっきも言いましたけど、部屋を探しに」
「なるほど。マンションですか?アパートですか?段ボールですか?」
段ボール!?この人今段ボールといったよね。しかもかなり自然な感じで言った。まさか私が段ボールなんかに住むような人間に見えるのだろうか。それとも東京では段ボールまでもが不動産屋を仲介して取引されるのだろうか。ともかく私は段ボールに住むことはないし、これからも済む予定はない。
「住みませんよ。普通の家にしてください」
「普通の家ですね。では探していきますのでどういった交換条件で?」
「交換条件?交換条件なの!?あなたの条件も飲まないといけないんですか。普通に私の条件だけを飲んでくださいよ」
「わかりました……」
今当たり前のことを言ったつもりだったのだが、不動産屋は面倒くさい客が来たなといった感じの目で私のことを見てくる。東京は不動産屋の条件も飲まないと家を探してくれないのか。なんだがとんでもないところにきてしまった気がする。
「ではあなたの一方的な条件を教えてください」
「なんか嫌な言い方だな。えーと江戸川区近辺に大学があるのでその地域で、両国から横網あたりがいいですね」
「広さはどういたしましょうか」
「広さですか。あんまりしていませんが十万を切っているとありがたいですね。後はトイレとお風呂がついていればなんでも」
条件がある程度良すぎたのか不動産屋は頭を掻いて悩んでいるようだ。家賃には限りがあるが部屋の設備については妥協はする予定だから多少ランクが落ちても大丈夫。
「鳥取あたりでも平気ですか?」
「と、鳥取!?鳥取ですか」
「ええ鳥取です。あそこならあなたの条件通りの物件がありますよ。ピッタリの物件が物件が」
不動産屋の男は鳥取県なら私の望む条件をすべて取り入れた物件がごまんとあるといっているがさすがに鳥取から毎日東京に通うのは不可能だ。静岡ぐらいであればなんとか新幹線を使って登校することも可能だが、鳥取だと毎日飛行機を使って通わなければならない。財政破綻もいいところだ。
「いや鳥取はいいですわ。だとしたら鳥取で聞きますし」
「さいですか」
「この辺でお願いします」
「ないとことはないのですがちょっと難しいかもしれませんね」
「難しいですか……」
なんだか部屋を探すという思惑を利用して、私を意のままに操ろう感じもする。
「お客さん本日はどこから?」
「茨城です」
「い・ば・ら・き!?」
「は、はい……茨城ですが」
茨城と言った瞬間、この男の表情が一変した。
「まずいな。非常にまずいですね」
「え、え、何がですか?」
「ダメですよ茨城は」
「なんでですか!」
私は不動産屋全体に響くほどの声を上げた。
「お客さん。茨城県民だったんですね。まあ言われてみればそんな感じがしなくもないですね」
「だから!茨城だとなんでダメなんですか」
「その説明からですか。ではこちらをご覧ください」
私は男を睨みつけたが、男はそれを無視して私に一冊の本を渡してきた。その本の表紙には「全日本土地育成法」と書かれてあった。私はその本を凝視した。これはどうやら他の都道府県への移住者が多い昨今、土地不足というものが非常に問題になっている。その土地の不足を解消するために作られた法律だ。内容を要約すると、その土地に住もうとしている人の出身地、学歴などいろいろなステータスを算出。それをランク制、ポイント制にしてどこに住めばその土地の人間として認められるか。その人間の価値によって土地の値段やアパートの家賃などが変化する。この法律を施行することで東京並びに各都道府県に住む人間のステータスに偏りを出すことなく平等ランクの人間を住まわせることが可能というわけなのだ。
その人間を判断する権限を持っているのが政府に認められた不動産屋という仕事だ。実際にこんなものが存在するのかどうかは疑わしいがとりあえず目の前の事実を信じるしかない。
「理解できましたか?」
「まったく理解できません」
「でしょうね。栃木の人にこれを理解してもらうのは難し……」
「茨城です」
「そりゃ失礼。しかし我々の間では栃木と茨城は同じ扱いですから」
「茨城はいいところ!」
「さいですか」
今流すように言ったな。酷すぎる。私だけではなく県民全体を馬鹿にしたような態度の不動産屋。私のはらわたは煮えくり返りそうだ。
「要するに茨城のような関東の中でもとりわけ辺鄙なところに住んでいる場合だと墨田区に住むのは難しいですね。何にもないようなところからなんでもあるところ来ちゃうんじゃ他の都民より生活水準に差が大きく出ちゃいますから。もしどうしても住むのであれば最低でも月五十万は払っていただかないと」
「なんで!」
墨田区の両国で月五十万。茨城で月五十万だとしたら超高層マンションが二部屋借りられる値段だ。
「それか両国でお客様の場合だと貴乃花部屋とかが一番よろしいかと」
「力士にはなりたくないよ」
私は頭を掻きながら受け答えする。ありえないよね。パッと見だけでもお相撲さんになれるぐらい太っているわけでもなければ筋肉があるわけでもない。人並みには力はあるとはいえ痩せ型の私に力士になれというのはナンセンス以外の何物でもないだろう。今から太ってもお相撲さんにはなれないだろ。幕下付け出しデビューだよ。
「普通の家!普通のアパート!それでよろしく!」
「あなたの希望はよくわかりました。その前にこれをご覧ください」
不動産屋の男が机の引き出しから取り出したのは都道府県をポイント別に区分したグラフだ。何やらこれも胸糞悪くなりそうな予感がプンプンする。
上位のほうにあるのは北海道、京都、沖縄、東京などまさにそうそうたるメンツが名を連ねている。茨城はどのあたりだろうか。上位とは言わなくてもせめて中盤ないしは三十位台ぐらいに入るだろう。私はそう淡い期待を抱いていた。
「茨城となると最下位。つまりマイナス百ポイントですね」
「そ……そんな。てかそのポイントっていうのは何なんですか」
「都道府県別の『魅力度ランキング』を軸に二十四位から上はプラス、それ以下はマイナスとして加減されます。最下位ですよ。東京は第四位ということでプラス九十ポイントですから、その差は百九十ポイント。大問題ですよ」
「大問題ってそんな無茶苦茶な法律ありますか!」
「ありますよ。だからこうして話しているんじゃないですか」
正論だ。だがその正論が非常に腹立たしい。私みたいに相手の言ったことを、すぐに信じて、鵜呑みにして、本当だと信じ込んでしまう愚か者は東京なんか来るべきじゃなかったのだろうか。何かあった時、それはおかしいと文句を垂れる。そうした善良なだけの無能な一般人は、この大都会東京を生きるすべなど初めから存在しない。勝手に死んでいくからだ。
だからと言ってこんなその地域に住んでいる人間の人権を真っ向から否定する法律があっていいのだろうか。いや、いいはずはない。
「無茶苦茶なといったところで、こうでもしないと東京の価値が下落してしまいますから。マンションじゃなくてダンジョンならもう少し安いところでも」
「ダンジョンってなんだよ!まさか外の光が見えない地下迷宮に閉じ込めておくきか?」
「はい、そうです」
「そうですって……そんなの拉致監禁と同じじゃないですか」
「地下ならいくらポイントが低くい人間が東京に住んでいたとしてもその哀れな姿を人に見られることはないですし」
哀れ。なぜ茨城に住んでいるというだけでここまで馬鹿にされなければならないのか。
確かに今や東京というのは国際都市。世界中からの情報が密集しているといっても過言ではない。即ち外国からの訪問者も多くなる。だからと言ってこの扱いは酷すぎやしないか。
「本来なら『魅力度ランキング』でワースト五位の都道府県に住んでいた人間には東京に住んでもらいたくないのですよ。できれば田舎に引っ込んでいただいたほうがありがたいのですが、そこは政府の恩義ですかねこれ」
月五十万の家賃が恩義だといいたいらしいが、そんな恩着せがましいこと言われたのは生まれ始めてだ。
「確かにこれ失礼な法律ですよねお客さん」
お前が言うなのオンパレードだよ。
「まあ国の考えもわからなくもないですよね」
「分かるわけがないじゃないか!」
「さいですか」
もはやこの男相手に家賃の値段や、家の設備、広さなどを相談しようとは思わない。住めればいい。住めさえすれればいい。私はそう思うようになった。
本当に何故、自分はここにいるのだろうか。何故、東京はこんな不公平な街だということを周りの人は誰も教えてくれなかったのだろうか。何のために自分はここで不動産屋の男と話しているのだろうか。考えれば考えるほど頭がさえてくる。
尽きることのない私の疑心のように、不動産屋の外ではパトカーのサイレンと犬の遠吠えがどこかで続いている。
○
「お客さん。学生さんですよね」
「え、あの……」
「小学生?それとも無職?」
「春から大学生です!」
大声を上げた私にちょっとびくっとする不動産屋。
しかし今度はいったいどんなことを言ってくるのか。今から身構えておかなければ。
「月大です」
「月大?いいじゃないですか。素敵な大学ですよね。東京にありますし」
何やら食いつきがいいぞ。今日ここにきて初めて流れがよくなってきたかもしれない。
不動産屋との雰囲気も少しながらよくなってきたし、このまま上手く自分の主導に持っていって希望の部屋をゲットできるかもしれない。
「ありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいです」
「月大の法学部は就職率もいいですね」」
「いえ、法学部ではありません。工業製造学部です」
「工業製造学部?」
「そうですが」
今までニコニコ笑顔だった男の表情が一瞬にして真顔になり静かに目を閉じる。そしてギョッと目を見開く。
「こ~ぎょ~せ~ぞ~がくぶ~!!?」
それは先ほどの“茨城”の件の時と同じ反応だった。
私の心は引力に導かれるまま、新たな絶望の闇に落ちていくようだ。
「工業製造学部はダメでしょ。せめて法学部ぐらいじゃないと。ポイントに換算すると減点五十ポイントですよ」
既にマイナス百五十ポイント。東京との差もついに二百ポイントを超してしまった。このままではいったいどこに住まわされるやら。それより自分の大学の学部を馬鹿にされて黙っていられるほどお人よしではない。しかし……。
大学の学部を聞かれて答えた結果、減点されるであろうことはうすうす気づいていたので何も言い返すことはできなかった。
「お客さんも凄いですね。茨城で日大の工業製造学部。これ役満もいいところですよ。麻雀なら三国ドラドラです」
「麻雀はちょっと……」
「お客さん麻雀知らない?それは命知らずもいいところですよ。東京と言えば麻雀。これ常識です」
後ろの戸棚には先述の酒瓶以外に麻雀のピンとチェスのコマが置かれてあった。実はチェスも将棋ほどルールをよく知っているわけではないのだがそれを言ったらまたマイナスされてしまうかもしれないので黙っておく。
「そうなんですか」
「まだ法学部なら何とかなったのですが工業製造学部となるともうどうにもなりませんね」
「なんとかならないんですか!」
「ちょっと計算してみますか?」
出身地の茨城、月大の工業製造学部ということでマイナス百五十ポイント。そこから麻雀を知らないという罰でなんとマイナス×二倍されてしまった。これにより自分のポイントはマイナス三百ポイントとなってしまった。
「ポイントが三百を超してしまうとなると日本に住んでもらうのも難しくなってきますね」
日本に住んではいけないだと。私の右腕はぷるぷると打ち震え、理性が脳神経を伝わる前に不動産屋の袖を思い切りつかみあげた。
「ふざけるな!日本に住むなだと!?」
「このままだとあなたは即刻国外強制追放になってしまいます。栃木にあるあなたの家の土地も国に返還していただく形になるでしょうね」
あくまで冷静に淡々と答える。この態度に私はさらなる苛立ちと腹立たしさを感じた。
「茨城だよ!ふざけやがってこのインチキ不動産屋が!!」
私の怒りは頂点に達し、この男をぶん殴ってやろうと立ち上がったその時。私の胸に信じられないほどの激痛が走った。苦しい、息ができない、目の前が真っ白になっていく。動悸が激しくなり、痙攣している私の胸を不動産屋は冷静にやさしくなでる。すると次第に苦しさが和らいでいく。何とかこの場は助かったみたいだ。
「大丈夫ですか?心臓が弱いご様子で」
実は小さいころから心臓に持病を抱えている。そこまで重大な病気というわけではないのだが、あまりにも感情を高ぶらせてしまうと今のように心臓に負担がかかり心肺機能が低下してしまうのだ。今回はこの男のせいで久しぶりに発作を起こしてしまったのだが、同時にこの男のおかげで助かったともいえる。
胸を撫でてもらっているときに見た不動産屋の表情は非常に柔和で全ての人を包み込むような優しい顔をしていた。
「……」
「あの……」
「いや、失礼。ではどうしましょうか。私としてもお客様を国外追放にはしたくないのですよ」
「もういいですよ。おとなしく茨城から大学に通います」
なんだが自分が情けなくて、情けなくて、涙が出てきそうになる。
「それならこんなのはどうですか?……心臓手術」
「手術?」
「政府が新たに開発した心臓に関する手術方法。それのサンプルとなる人間を探しているのです。これに参加していただければ国の発展に役だったということで恐らくそれ相応の土地と家を貰い受けることができるでしょう」
それは、魂と引き換えに望みをかなえる天使のような悪魔のささやきのように聞こえた。
「しかもサンプルとして手術を受けるわけですから手術代、入院費は全額国が負担します」
サンプルと言えば聞こえはいいが要は実験台というべきほかないだろう。私の耳に小さく囁く悪魔の声。私はその声の主に対して自分の魂を差し出してもよいのだろうか。
「それってどのぐらいの成功率なんですか?」
「どれぐらいかと言われても詳しいことは存じ上げませんが、以前この手術のあと、遺族の方に訴えられて裁判沙汰になったことがあるらしいんですよ。最近はこういうのが多くて困りますよね。で、どうしますか?」
「どうしますかって!あなたは今『遺族』って言いましたよね?この手術した人死んじゃったんですか!?」
軽い感じで笑っているが遺族ということは手術ミスか術後の病状悪化等で死亡した患者がいるということだ。医学の世界ではよくあることとは言ったものだが当人にしてみればよくあることでは困るのだ。
ただの不動産屋が一気にマッド・サイエンティストに見えてきた。今なら血に塗れた白衣が一番似合うであろう。
「この手術のちゃんとした成功確率を知りたいんです。お願いします」
「臨床実験をちゃんと行っていない手術ですから。まあ多くて四割ぐらいじゃないでしょうか」
「四割……」
「でも安心してください」
「何がですか」
「政府の報告によると今まで六回手術して全て国は失敗に終わっているらしいのです。つまりですよ。残りの四回の手術は恐らく必ず成功するであろ……」
「そんなわけないじゃないか!」
……やはり来るんじゃなかった。後悔の念は大津波に飲み込まれていった。
心も身体も完全な真っ白になり、私は神のつくりしこけし道具に成り下がっていると思った。
「今日はやはり帰ります」
「待ってください。今ここで帰るのは時期尚早ですよ」
急に汗をかきながら私を引き留める。それが仕事なのだから仕方がないが、ずいぶんと極端な態度の変わり様。
「いえ。もう結構です。これ以上悲しい思いをしたくありませんし、東京に私の住む場所なんてどこにもないとわかったので」
この短時間の間に何度か灯ったり、消えたりしていた私の心の灯は今度こそあっという間に消えようとしていた。カウンター席から差し込む夕陽の光がなお自分の心を蝕んでいくようにも思える。未成年であるが棚に置いてある酒をがぶ飲みすればこの気持ちも一気に消え去るのであろうか。
「しかしこの手術を受けさえすれば東京に住むこともできるでしょうし、あなたの持病は治るでしょうし一石二鳥じゃないですか」
「なんか急に必死になりましたね。何でですか」
「いや、それは……」
言葉に詰まる不動産屋。大方碌でもない理由であろうことは容易に想像がつくが、それよりもこの男のこういった顔を見ることができただけでも今日の収穫だ。
「とにかく私はもう大丈夫ですから。茨城から地道に大学に通いますよ」
「そういうことではなくて私が言いたいのは……」
「茨城なんかでは人間が腐ってしまうといいたいんですか。そんなことありません。茨城はとってもいい県ですよ」
「そうですね。茨城はいい県ですよね」
少しばかり無理やりな感じもするがこれで茨城の魅力を分かってくれるようになってくれれば嬉しい。
椅子から立ち上がり、会釈をしたのちガラスの扉を開けて外に出る。不動産屋は外にまでちゃんと見送ってくれたがその表情はどことなく寂しげであった。
「あともう一つ。月大の工業製造学部だって決して悪くありません」
「承知いたしましたお客様」
今日はいろいろあったが最終的にはほのぼのとした気持ちで過ごすごとができた。東京は意外と悪い人ばかりではないのかもしれない。今すぐには無理だがいつか東京に住めるような立派な人間になってまたこの不動産屋に戻ってこよう。私は胸の内、心の声を大にして自分に言い聞かせる。自分の行く大学を気に病んで逃げ続けるのであるならば、それは実に愚かなことではないか。東京の夕暮れというのは他の県よりも長いというのはあながち嘘ではない。都会のビルから反射する光の逆光が少しずつ強くなってきた気がする。晴れ晴れとした思いで、天を仰いだ。
帰って勉強だ。意気揚々と青になった目の前の信号を歩こうとした瞬間、自分に向って突っ込んでくる猛スピードの車が。気づいてよけようとしたときにはすでに手遅れ。私の体は宙を舞い、一瞬のうちに顔の位置が地面と平行になっていた。妙な気配に信号待ちをしていた若い女は顔を上げ、声にならない悲鳴を上げた。私の頭から流れる血が自分の足元まで侵食してきたからだ。車はそのまま逃げていき辺りはそのおぞましい光景に騒然となる。
「嫌だ……こんなところで死にたくない……タスケテ」
○
「そうですか。了解しました。ええ、分かっていますよ。では」
電話を切ると大きくため息を吐き、お客様用にあるカウンターの椅子に座る。怪訝な顔をしながら一枚の書類を見ている。店の前で起こった悲惨な事故。思い出しただけで気味が悪く、それ以上に悲しい気持ちで胸が押しつぶされそうになる。罪の意識というものを肌で感じ取っているのだ。
なぜあそこで強く心臓手術を進めなかったのだろうか。確かに失敗する可能性はあるがそれでも彼が自分の目の前で死ぬことはなかったのだ。それを考えるだけで食べ物がのどを通らない。
マイナス五百ポイントを超した人間はその土地に住むか住まないにかかわらず、国の命により即刻処刑する。これが「全日本土地育成法」の真の狙いでもあった。無駄な国民はいらない。彼は心臓に持病があるということが決め手となりマイナス五百ポイントをオーバーしてしまい結果、国によって抹殺されてしまった。あいつらに罪の意識などはない。国を成長させるという戦場で起こった小さな出来事に過ぎないと思っているのだろう。
政府、警察、消防、救急……そして不動産屋。全てにおいて繋がっているため彼をひき殺した犯人が捕まることは永遠にないであろう。もうこれ以上人が目の前で死ぬ姿を観たくない。だが同時に自分がどうにかできるような問題でもない。自分ができるのは不動産屋としての仕事を最後まで全うすることだけだ。
今日も客は来る。今度は『都道府県魅力度ランキング』一位の北海道出身で、大学は東大出身ないしは東大に行く予定の健康な人が来てくれると嬉しい。そう考えているうちにガラス製の扉がゆっくりと開かれる。
「いらっしゃいませ」
(完)