色を取り戻した世界〜空っぽの鳥籠を抜け出して、私は私の人生を歩き出す〜
朝の柔らかな光が、薄いリネンのカーテン越しに部屋を明るく照らしていく。
私はゆっくりと目を覚まし、ふかふかの枕の中で大きく伸びをした。
鳥のさえずりと、遠くを走る電車の微かな音が聞こえる。誰かに急かされることも、誰かの機嫌を気にして息を潜めることもない、静かで穏やかな朝だ。
ベッドから抜け出し、窓を開けて深呼吸をする。初夏の涼しい風が、頬を撫でていった。
小さなキッチンに立ち、お気に入りのマグカップでお湯を沸かす。ドリップコーヒーの香りが部屋いっぱいに広がり、それが「私のためだけの時間」の始まりを告げてくれる。
たったこれだけの、誰にでもあるような当たり前の日常。
けれど、一ヶ月前の私にとっては、絶対に手に入らない遠い世界の話だった。
「さて、今日は何を着ようかな」
クローゼットを開けると、そこには以前の私なら絶対に選ばなかったような服が並んでいる。パステルカラーのブラウス、花柄のスカート、ふんわりとしたシルエットのワンピース。
どれも、私が私自身の意志で、「可愛い」「着てみたい」と思って選んだものばかりだ。
かつての私は、いつも地味な色ばかりを選んでいた。ベージュ、グレー、くすんだネイビー。
自分が目立ってはいけない、誰かの視界の端にひっそりと存在するだけの「背景」でなければならないと、本気で思い込んでいたからだ。
いや、そう思い込まされていた、と言うべきかもしれない。
『カナは本当に地味だよな。まあ、俺の隣を歩くなら、そのくらい大人しい方が都合がいいけど』
いつだったか、翔にそう言われたことがある。
彼は褒め言葉のつもりで言ったのだろう。そして当時の私も、彼に「都合がいい」と言われたことに、ひどく歪んだ安心感を覚えていた。
物心ついた時から、私の世界は翔を中心に回っていた。容姿端麗で、勉強もスポーツもできて、常にクラスの中心にいた彼。それに比べて、取り柄もなく、自分に自信の持てなかった私。
小学生の頃、男子にからかわれていた私を翔が助けてくれたあの日から、彼は私の「絶対的な正解」になった。
翔が黒と言えば黒、白と言えば白。翔に褒められることが私の価値であり、翔に必要とされることでしか、自分の存在を許されていないような気がしていたのだ。
だから、彼がどんなに傲慢な態度を取っても、どんなに理不尽な要求をしてきても、私はすべてを受け入れた。彼が他の女性と遊んでいるのを自慢してきても、嫉妬すら許されないと自分に言い聞かせていた。
私が彼の身の回りの世話をし、彼の機嫌を取り、彼の「引き立て役」に徹することで、私は彼という強烈な光の陰で、安全に生きさせてもらっているのだと錯覚していた。
でも、それは「生きている」とは呼べない、ただの思考停止だった。
ドリップしたコーヒーに少しだけミルクを注ぎ、一口飲む。まろやかな苦味が、頭をすっきりとさせてくれる。
あの日。
翔のタワーマンションで、いつものように夕食を作り、彼が食べるのをただ見つめていたあの日の夜。
彼は、私のコンプレックスをえぐるような言葉を次々と並べ立てた。私が一人では生きていけない底辺の人間であると決めつけ、そして最後に、とどめを刺すように言ったのだ。
『君みたいな自信がない子は、僕がいないとダメだよね』
あの瞬間を、私は一生忘れないだろう。
それは、悲しみでも、怒りでもなかった。ただ、圧倒的なほどの「冷え」だった。
頭のてっぺんから足の先まで、冷たい氷水に沈められたような感覚。
その底なしの冷たさの中で、私は初めて、翔という人間の本質をはっきりと見たのだ。
彼は、私を守ってくれていたわけではない。私を愛していたわけでもない。
ただ、自分より劣っている(と彼が思い込んでいる)存在をそばに置くことで、自分の優位性を確認し、肥大化した自尊心を満たしたかっただけなのだ。
私は、彼が自分を飾るための、都合のいい鏡。彼が王様でい続けるための、舞台装置の一つに過ぎなかった。
その事実に気づいた時、これまで私が彼に捧げてきた時間、押し殺してきた感情、すべてが無意味な灰になって消えていくのを感じた。
「私には翔しかいない」とすがりついていたのは、愛情ではなく、ただの呪いだった。彼が私にかけた呪いであり、私が自分自身にかけていた呪いでもあった。
だから私は、彼に「もう、いいよ」と告げた。
それは、彼への言葉であると同時に、長年彼に依存し続けてきた「弱い自分」への決別の言葉でもあったのだ。
部屋を出て、すぐにアパートを引き払い、連絡先をすべて絶った。
最初は不安がなかったと言えば嘘になる。これまで一人で何も決めてこなかった私が、新しい街で、新しい仕事を見つけて、自分の足で立っていけるのだろうか。
けれど、その不安を打ち消してくれたのは、皮肉にも「一人であることの自由」だった。
引っ越して数日後、私は人生で初めて、一人で美容院に行った。
「どうなさいますか?」と聞く美容師さんに、私は震える声で、スマートフォンの画面を見せた。
「こんな風に、明るい色にしてみたいんです。あと、少し軽くしてほしくて……」
美容師さんは微笑んで、「すごく似合うと思いますよ」と言ってくれた。
数時間後、鏡の中にいたのは、明るいブラウンのふんわりとした髪を持つ、見たこともない女性だった。
それが私自身なのだと気づいた時、私は美容院の椅子の上で、思わず泣きそうになってしまった。
私は、変われるんだ。誰の許可もいらない。私が変わりたいと思えば、いつでも変わることができるんだ。
化粧品売り場で、私に似合うチークやリップを選んでもらった時の高揚感。
ウィンドウショッピングをして、自分が心から「可愛い」と思った服を買えた時の喜び。
それらはすべて、翔の隣にいた頃の私には、絶対に手の届かないものだと思っていた。
「……うん、今日はこれにしよう」
私はクローゼットの中から、パステルイエローのブラウスを選び取った。
これに白いスカートを合わせれば、初夏の陽気にぴったりのコーディネートになるはずだ。
今日は休日。新しい職場で仲良くなった同僚のミキちゃんとユリちゃんと、話題のオープンカフェに行く約束をしている。
新しい仕事は、小さなデザイン事務所の事務兼アシスタントだ。
前の職場のような単調な作業だけでなく、時にはデザインのアイデア出しや、クライアント向けの資料作成など、自分の意見を求められる場面も多い。
『カナちゃん、この配色のパターン、どれがいいと思う?』
『カナちゃんの作ってくれた資料、すごく見やすくて助かったよ!』
職場の皆は、私の言葉に耳を傾け、私の仕事に感謝してくれる。
「翔はどう思うか」ではなく、「私はどう思うか」を口にしてもいいのだと、彼らは教えてくれた。
私は今、自分の足で立ち、自分の言葉で世界と関わっている。その事実が、私に少しずつ、確かな自信を与えてくれていた。
メイクを終え、全身鏡の前に立つ。
ふんわりと巻いた髪、ほんのりと色づいた頬。パステルイエローのブラウスが、顔色をパッと明るく見せてくれている。
鏡の中の私は、もう誰かの顔色を窺うような、怯えたような表情はしていない。
「うん、いってきます」
私は自分自身に向かってそう微笑みかけ、鞄を手にして部屋を出た。
待ち合わせのオープンカフェは、大通りに面したおしゃれな場所だった。
白いパラソルが並ぶテラス席には、すでにミキちゃんとユリちゃんが座って手を振っていた。
「カナちゃん、こっちこっち!」
「ごめん、待たせちゃった?」
「ううん、今来たところ。ていうかカナちゃん、その服すっごく可愛い! パステルカラー似合うね!」
「本当!? ありがとう、嬉しいな」
ユリちゃんに褒められ、私は素直に喜びの声を上げた。
昔なら、「私なんかがこんな服着て、変じゃないかな」と縮こまっていたはずだ。褒められても、それを素直に受け取ることすらできなかった。
でも今は違う。「ありがとう」と笑って言える自分が、私はとても好きだった。
私たちはフルーツたっぷりのパンケーキと、冷たいアイスティーを注文し、おしゃべりに花を咲かせた。
職場のちょっとした愚痴、最近見た映画の話、おすすめのコスメの情報。
女の子同士の他愛のない会話。でも、私にとっては、そのすべてが新鮮で、キラキラと輝く宝物のような時間だった。
「そういえばさ、この間合コンで知り合った男の人がいてさ」
ミキちゃんが、ストローをいじりながら少し身を乗り出してきた。
「最初はすごく優しくていい人だなって思ったんだけど、だんだん自分の自慢話ばっかりになってきて。『俺の仕事は特別だから』とか、『周りのレベルが低くて疲れる』とか。挙句の果てには、店員さんへの態度がすっごく横柄でさー。もう一気に冷めちゃった!」
「うわー、いるよねそういう人! 自分を神様か何かと勘違いしてる痛い男!」
ユリちゃんが同意して大きく頷く。
私は二人の話を聞きながら、心臓の奥が少しだけチクッとするのを感じた。
自分を神様と勘違いしている男。
店員への横柄な態度。
周囲を見下し、自分を特別な存在だと信じて疑わない人間。
私の脳裏に、あの見慣れた整った顔がフラッシュバックする。
翔。
彼は今、どうしているだろうか。
私が突然いなくなって、さぞかし怒り狂っただろう。私のことを「恩知らずの裏切り者」だと罵り、アウスタで自分のリア充ぶりをさらにアピールして、私なんて最初からいなかったように振る舞っているに違いない。
でも、不思議と悲しみはなかった。
かつては彼の感情の揺れ一つで私の世界は天国にも地獄にもなっていたのに、今の私にとって「瀬戸翔」という存在は、もうただの遠い過去の記憶でしかない。
彼が怒っていようが、誰と遊んでいようが、私の今のこの幸せな時間には、何の影響も及ぼさないのだ。
「あはは、それ本当に言ったの? すごいね!」
ミキちゃんの合コンでの撃退エピソードに、私は心の底から笑い声を上げた。
お腹の底から湧き上がるような、純粋で、何の計算もない笑い。
誰かのために作る愛想笑いでも、機嫌を取るための引き攣った笑いでもない。私が「楽しい」と感じて自然にこぼれ落ちる笑顔。
こんな風に笑える日が来るなんて、一ヶ月前の私は想像もしていなかった。
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
パンケーキのお皿が空になり、グラスの氷が溶けきった頃、私たちは席を立つことにした。
「じゃあ、次はあのお店行ってみよっか! 近くに新しい雑貨屋さんができたんだって」
「うん、楽しみ!」
ミキちゃんの提案に、私とユリちゃんは嬉々として頷いた。
お会計を済ませ、テラス席から大通りへと歩き出す。
その時だった。
ふいに、通りを抜ける初夏の風に混じって、奇妙な感覚が肌を撫でた。
誰かに見られているような。
冷たくて、重くて、どこまでも底なしに暗い、泥のような感情が、背中側に張り付いているような感覚。
それは、私が長年隣で感じ続けてきた、あの傲慢で惨めな男の「気配」に酷く似ていた。
私の足が、一瞬だけ止まる。
背後にある街路樹の陰。そこに、誰かがいるような気がした。
『君みたいな自信がない子は、僕がいないとダメだよね』
頭の奥で、再びあの声が響いた。
もし、あそこに本当に彼がいるとしたら。
すべてを失い、ボロボロになった彼が、私にすがりつこうとしているのだとしたら。
かつての私なら、反射的に振り返り、彼の元へ駆け寄ってしまっていたかもしれない。彼が私を必要としている、私が彼を救わなければ、と。
でも。
私は、ゆっくりと前を向いた。
背後にあるかもしれない過去の亡霊に、私はもう、振り回されない。
彼がそこでどんな惨めな顔をして立っていようと、私には関係のないことだ。
彼が私を呪縛から解き放ったわけではない。私が自分で鎖を引きちぎり、自分の足でここまで歩いてきたのだ。
彼が自分の傲慢さのツケを払うのは、彼自身の問題であって、私が背負うべき十字架ではない。
私は、一切の躊躇いなく、前へと足を踏み出した。
振り返る必要なんて、どこにもない。
私の生きるべき場所は、彼の作った冷たくて暗い鳥籠の中ではなく、この光に満ちた広い世界なのだから。
「カナちゃん、どうしたの? 早く早く!」
少し前を歩いていたユリちゃんが、振り返って私を呼ぶ。
「うん、今行く!」
私は明るい声で答え、二人の元へと小走りで駆け寄った。
パステルイエローのブラウスが風に揺れ、新しいヒールの靴が、アスファルトの上で軽やかな音を立てる。
足取りは驚くほど軽く、私の心には一切の未練も、後悔もなかった。
大通りは、休日の人々で溢れかえっている。
その誰もが、誰の「引き立て役」でもなく、自分の人生という物語の主人公なのだ。
私も今、ようやくその舞台の真ん中に立つことができた。
もう二度と、自分を偽らない。
もう二度と、誰かの影に隠れたりしない。
「ねえ、今日の夜ご飯、みんなで食べて帰らない?」
「賛成! イタリアンがいいな!」
「あ、私知ってるお店あるよ! 案内するね」
私たちは笑い合いながら、光の中へと歩いていく。
見上げた空はどこまでも青く澄み渡り、私のこれから先の未来を祝福してくれているように見えた。
過去の暗い影は、もう二度と私に追いつくことはない。
私は私の世界に、もっとたくさんの色を塗っていく。私が選んだ、私だけの鮮やかな色彩で。
私を取り戻すための物語は、今、始まったばかりなのだ。




