凡人たちの祝杯〜勘違いエリートの末路と、俺たちの最高に美味い酒〜
金曜の夜、新橋のガード下にある大衆居酒屋は、週末の解放感に酔いしれるサラリーマンたちの熱気でむせ返るようだった。ジョッキがぶつかり合う音、店員の威勢のいい声、そして各テーブルから立ち上る焼き鳥の煙と脂の匂い。高級ホテルのラウンジや、予約の取れないフレンチレストランのような洗練された空気とは無縁の場所。
だが、俺、中島にとっては、この雑多で泥臭い空間こそが、一週間の疲れを洗い流してくれる最高のオアシスだった。
「いやー、今週もマジでキツかった! 課長の奴、金曜の夕方に急ぎの資料作れとか言い出しやがって。なんとか定時に終わらせてやったけどな!」
向かいの席で、生ビールのジョッキを勢いよくテーブルにドンと置きながら、メーカー勤務の佐藤が声を張り上げた。少し赤ら顔になった彼は、ネクタイを緩め、ワイシャツの第一ボタンを外している。
「お疲れさん。うちも今週はシステムのバグ出しで地獄だったよ。もうモニターの文字を見るだけで吐きそう」
隣に座るシステムエンジニアの田中が、枝豆を口に運びながら苦笑いする。田中の目の下には薄く隈ができているが、その表情はどこか晴れやかだ。
「まあまあ、二人ともお疲れ。来週は三連休だし、今日はとことん飲もうぜ。すいませーん、生中三つと、焼き鳥の盛り合わせ、あと唐揚げとポテトサラダお願いします!」
俺が店員を呼んで追加の注文をすると、佐藤と田中は「よっ、太っ腹!」と茶化してきた。三人で顔を見合わせ、俺たちは再びジョッキを掲げた。
「お疲れ様!」
冷えたビールが、疲れた五臓六腑に染み渡っていく。安くて美味い酒とつまみ、そして何でも気兼ねなく言い合える仲間との時間。これ以上の贅沢がどこにあるというのだろうか。
俺たちは、大学時代からの腐れ縁だ。特別に優秀なわけでもなく、目を引くような容姿をしているわけでもない。社会の歯車として、日々理不尽な上司や顧客に頭を下げ、安い給料で必死に生きている、正真正銘の「凡人」だ。
だが、俺たちは自分たちが凡人であることを恥じたことはない。地に足をつけ、自分たちの身の丈に合った幸せを噛み締めながら生きている。
「……そういえばさ」
唐揚げにレモンを絞りながら、ふと佐藤が思い出したように口を開いた。
「あの『エリート様』、最近どうしてるか知ってるか? 瀬戸翔の奴」
その名前が出た瞬間、テーブルの上に一瞬だけ、苦い沈黙が落ちた。田中は枝豆に伸ばしかけていた手を止め、俺はビールのジョッキを持ったまま小さくため息をついた。
瀬戸翔。
俺の会社の同期であり、佐藤や田中にとっても大学時代からの友人……いや、今となっては『元・友人』と呼ぶべき男だ。
容姿端麗、頭脳明晰。常に自信に満ち溢れ、自分が世界の中心にいると本気で信じて疑わなかった男。俺たちは長年、彼の取り巻きとして、あるいは「引き立て役」として、彼のそばにいた。
「どうしてるも何も、会社辞めたよ、あいつ」
俺が静かにそう告げると、佐藤と田中は目を丸くして身を乗り出してきた。
「マジで!? あんなに自分の仕事ぶりを自慢して、『俺がいなきゃこの会社は回らない』とか豪語してたのに?」
「ああ。一ヶ月くらい前から様子がおかしくてさ。急に身だしなみがボロボロになって、仕事もミス連発。で、最終的に大事な取引先を激怒させて、大きな契約を一つ飛ばしたんだよ。それで窓際部署に左遷されて、しばらくして逃げるように退職届を出したらしい」
俺の言葉に、二人は信じられないというように顔を見合わせた。
「……そうか。まあ、自業自得としか言いようがないけどな」
田中が冷めた声で呟き、ジョッキのビールを煽った。俺も全く同感だった。翔の転落に対して、俺たちの心には同情も哀れみも一切湧かなかった。むしろ、「ようやくか」という呆れと、胸のすくような安堵感しかなかった。
翔との付き合いは大学時代に遡る。
当時の翔は、確かに目立つ存在だった。顔が良くて、弁も立つ。合コンに行けば、女の子たちの視線はすべて翔に釘付けになった。俺たちはいつも、彼の輝きを引き立てるための「冴えない友人A・B・C」でしかなかった。
だが、当時の俺たちは、それでも構わないと思っていた。翔は確かに自信過剰で鼻持ちならないところはあったが、おこぼれで女の子と連絡先を交換できることもあったし、何より「若さゆえの勢い」として許容できる範囲だったからだ。
しかし、社会に出てから、翔の傲慢さは常軌を逸し始めた。
同じ会社に入社した俺は、翔の本性を間近で嫌というほど見せつけられることになった。
翔は、自分のことを「神が創り上げた完璧な芸術品」か何かだと勘違いしていた。
彼は常に周囲を見下し、自分の成功はすべて自分自身の才能によるもので、他人の努力など無価値だと本気で信じていた。
だが、現実は全く違った。
「お前らにはわからないだろうけどさ」
俺は唐揚げを一つ皿に取りながら、翔との仕事の裏側を語り始めた。
「あいつ、いつもアウスタとかで『数億のプロジェクトを成功させた』とか、『徹夜で完璧なプレゼン資料を作った』とか自慢してたろ? あれ、全部裏で俺たちが尻拭いしてたんだぜ」
「えっ、そうだったのか?」
「ああ。あいつの作る企画書は、確かに見栄えはいい。言葉選びも派手だ。でも、中身のデータがすっからかんなんだよ。地道な市場調査とか、競合の分析とか、面倒な作業は一切やらない。だから、あいつがドヤ顔で提出した企画書の裏で、俺や後輩たちが徹夜してデータを集めて、辻褄を合わせてやってたんだよ」
佐藤と田中は呆れたように口を半開きにした。
「それだけじゃない。あいつのあの人を見下したような態度、取引先にも平気で出すんだよ。『こんな簡単なロジックも理解できないんですか』みたいな顔をしてさ。ある時、大手のクライアントの部長をガチで怒らせたことがあってな。あいつは『相手が時代遅れなだけだ』って取り合わなかったけど、裏で俺と課長で、土下座すれすれで菓子折り持って謝りに行ったんだ」
「うわぁ……最悪だな」
「で、先方が渋々許してくれて契約が継続になった時、あいつ何て言ったと思う? 『俺の圧倒的なカリスマ性とロジックの前に、向こうが折れたんだ』って、本気でドヤ顔で言ったんだぜ。あの時は、本気で殴ってやろうかと思ったよ」
俺が吐き捨てるように言うと、二人は深い溜息をついた。
「なんでそんな奴に付き合ってたんだよ、お前も」
「……事なかれ主義だったんだよ、俺も周囲の人間も」
俺はジョッキについた水滴を指でなぞりながら、自嘲気味に笑った。
翔に真実を突きつけても、どうせ逆ギレされるか、見下されるだけだ。あの肥大化した自尊心を傷つければ、職場の空気が悪くなる。だから皆、表面上は翔を「デキるエリート」として持ち上げ、裏でそっと尻拭いをして波風を立てないようにしていたのだ。
俺たちのその「大人の対応」という名の事なかれ主義が、結果的に翔というモンスターを増長させ、「自分は完璧で特別な存在だ」という狂った勘違いを加速させてしまった。その点については、俺たちにも責任の一端があるのかもしれない。
だが、あの決定的な出来事だけは、俺たちの責任ではない。
あれは、純粋に翔という人間の本質的な腐敗が引き起こした自滅だった。
「カナちゃんのこと、思い出すよな」
佐藤がポツリと呟いた。その名前に、俺の胸の奥がチクッと痛んだ。
白石カナ。翔の幼馴染で、物心ついた時からずっと翔のそばにいた女の子。
俺たちも、大学時代に何度か翔に呼び出された際、彼女に会ったことがあった。
地味で、控えめで、いつも翔の後ろに隠れるようにして歩いていた子。俺たちが飲んでいる席でも、彼女は決して出しゃばらず、空いたグラスを片付けたり、料理を取り分けたりと、甲斐甲斐しく俺たちの世話まで焼いてくれた。
『翔くんのお友達なんですよね。いつも翔くんがお世話になってます』
そう言って、申し訳なさそうに微笑む彼女は、派手さこそないが、本当に優しくて気立ての良い子だった。
だが、翔のカナに対する扱いは、端から見ていても目を覆いたくなるほど酷いものだった。
「あいつ、カナちゃんのこと完全に奴隷かパシリみたいに扱ってたよな。『俺に尽くせることを誇りに思え』みたいな態度でさ」
「ああ。カナちゃんが手作りの弁当を持ってきても、『まあ、食えなくはないな』とか言って、感謝の言葉一つ言わない。俺たちが『カナちゃん、いい子じゃん。大事にしろよ』って言っても、『あいつには俺しかいないから、何しても離れていかないんだよ』って鼻で笑ってたしな」
田中が嫌悪感を露わにして顔をしかめた。
翔は、カナのコンプレックスにつけ込み、彼女の自尊心を削り取ることで、自分への依存を強要していた。自分より劣っている(と翔が勝手に認定している)存在をそばに置き、見下し続けることで、自分の優位性を確認するための道具。それが翔にとっての「白石カナ」だった。
俺たちにはそれがわかっていた。カナの瞳の奥に、少しずつ積み重なっていく諦めと疲労の色にも気づいていた。だが、他人の関係に口出しする勇気もなく、ただ黙って見ていることしかできなかったのだ。
そして、あの日。
俺たちがついに翔を見限った、あの休日のカフェでの出来事。
翔は俺たちを呼び出し、いつものように自分のリア充っぷりを自慢し始めた。アウスタでどれだけ「いいね」をもらったか、高級なバーでいかに優雅な時間を過ごしたか。
俺たちはいつものように適当に相槌を打っていたが、内心では辟易していた。俺たちの会社の愚痴や日々の苦労を「底辺の悩み」と見下し、優越感に浸る翔の顔を見るのが、限界に近づいていた。
そして翔は、決定的な一言を放った。
『来週、モデルの子から食事に誘われててさ。仕方ないから付き合ってやるつもりなんだ』
その言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中で、何かがプツンと切れる音がした。
モデルと遊ぶ?
じゃあ、お前のために休日のたびに掃除や料理をしに来ているカナちゃんはどうなるんだ。
お前が外で華やかな生活をひけらかしている間、裏で必死に支えてくれているカナちゃんへの裏切りを、お前は微塵も悪いと思っていないのか。
佐藤も田中も、同じ気持ちだったのだろう。あの時、テーブルに降りた重苦しい沈黙を、俺は一生忘れない。
嫉妬などではない。純粋な嫌悪と、軽蔑。
他人の心をこれほどまでに軽んじ、自分を満たすためだけの道具としてしか見ていない、翔という人間の底知れない浅ましさに、俺たちは心の底から寒気を覚えたのだ。
『お前って、本当に相変わらずだよな。自分がどんだけ恵まれてるか、わかっててわざと言ってんだろ』
俺がそう吐き捨てた時、翔は得意げな笑みを浮かべていた。俺たちが自分に嫉妬しているのだと、本気で勘違いしていたのだ。
あの顔を見た瞬間、俺の中で何かが完全に終わった。
これ以上、この狂った男に関わるのはやめよう。俺たちの人生に、こいつの毒を持ち込ませてはいけない。
「あの後、俺たち三人だけの裏グループMINEで、すぐに意見が一致したよな。『もうあいつとは縁を切ろう』って」
俺が言うと、佐藤と田中は深く頷いた。
「ああ。正直、ずっと前からキツかったけど、あの時のあいつの顔見て、人間として終わってるって確信したよ。カナちゃんのことを全く顧みないあの態度。あんな奴と一緒にいたら、こっちまで人間性が腐りそうだったからな」
「で、その後あいつから『職場の連中が俺のレベルについてこれない』って愚痴のMINEが来た時、もう我慢できなくて、言いたいこと全部叩きつけてグループ退会してやったんだ」
俺は思い出すだけでも胸がすくような、あの時の爽快感を思い返していた。
『お前の傲慢さにはもう耐えられない。これ以上、俺たちの人生にお前を関わらせたくない』
俺のそのメッセージを最後に、俺たちは翔との連絡手段を完全に絶った。
同じ会社にいながら、俺は徹底して翔を無視した。俺が彼を見限ったことはすぐに部署内にも伝わり、これまで表面上は彼に合わせていた周囲の人間たちも、一斉に潮が引くように彼から離れていった。
その頃からだ。翔の様子がおかしくなったのは。
パリッとしていたスーツはシワだらけになり、無精髭を伸ばし、目の下にはひどい隈を作っていた。
噂によれば、カナが彼の元から完全に姿を消したらしい。
カナが去り、俺たちという「引き立て役」が消え、職場の「事なかれ主義」のメッキが剥がれた。
誰からも褒められず、誰からも世話を焼かれなくなった翔は、たった数週間で、一人では服にアイロンをかけることすらできない、惨めな抜け殻へと成り下がった。
翔がミスを連発し、取引先を激怒させ、課長からフロア中に響き渡る声で怒鳴られていた時。
俺は自分のデスクで、ただ冷ややかにその様子を眺めていた。
かつては俺が頭を下げて回って防いでいたトラブルだが、もう誰も彼を助けようとはしなかった。皆、冷たい目で彼を見つめ、「やっと本性がバレたか」と安堵の息を漏らしていた。
孤立無援。四面楚歌。
それが、自分が世界の中心だと勘違いしていた男の、残酷なまでの現実だった。
「……ま、今頃どこで何してるか知らんが、一生あの腐ったプライドにしがみついて生きていくんだろうな。可哀想に」
佐藤が焼き鳥の串を皿に置きながら、まとめに入るように言った。
「カナちゃんは、元気にやってるのかな」
田中が少し心配そうに呟く。俺はビールを一口飲み、少しだけ微笑んだ。
「大丈夫だろ。あの子は元々、優しくて芯の強い子だ。あのクソみたいな呪縛から解放されたんだから、今はきっと、どこかで自分の人生を楽しんでるはずさ。あんな奴の世話を焼くために生まれてきたわけじゃないんだから」
「違いない。カナちゃんの新しい人生に乾杯だな!」
佐藤が再びジョッキを持ち上げた。俺と田中もそれに応える。
「乾杯!」
三つのジョッキがぶつかり合い、心地よい音を立てる。
冷たいビールが、改めて俺たちの喉を潤した。
俺たちは凡人だ。
高級なスーツも着ていないし、アウスタで何千人ものフォロワーから称賛されることもない。
仕事でミスをして上司に怒られることもあるし、給料日前の財布の中身にため息をつくこともある。
だが、俺たちは知っている。
誰かが自分のために淹れてくれたお茶の温かさを。
仲間と飲む安酒の美味さを。
自分の至らなさを認め、他人に「ありがとう」と頭を下げることの尊さを。
翔は、その当たり前のことをすべて「底辺の生き方」だと見下し、切り捨てた。
結果として、彼はすべてを失い、俺たちはこうして金曜の夜を笑い合って過ごしている。
「さて、明日から三連休だ! 明日は昼まで寝て、午後はパチンコでも行くか!」
「お前は本当にしょーもないな。俺は彼女と映画行く予定だぞ」
「なんだと田中! お前いつの間に彼女なんて作ったんだよ!」
佐藤が身を乗り出して田中に詰め寄り、田中が照れ臭そうに笑う。
そんな二人のやり取りを見ながら、俺は居酒屋の喧騒の中に身を委ねた。
ふと窓の外を見ると、新橋の街を歩く無数の人々の姿が見えた。
皆、それぞれの人生の主人公であり、それぞれの痛みを抱えながらも、懸命に自分の足で歩いている。
その中に、あの傲慢で惨めな男の姿はない。
彼の存在は、俺たちの人生という物語から、完全に、そして綺麗さっぱりと退場したのだ。
「すいませーん、ウーロンハイ三つ追加で!」
俺は大きな声で店員を呼んだ。
今夜の酒は、最高に美味い。凡人であることの幸せを、これほどまでに愛おしく感じた夜はなかった。
心地よいアルコールの酔いの中で、俺たちは日付が変わるまで、ただ他愛のない笑い話を弾ませ続けた。




