第6話 色彩のない朝
窓から差し込む朝の光は、かつて俺の完璧な一日を祝福するスポットライトだった。しかし今の俺にとって、それはただ容赦なく現実を暴き立てる冷酷な照明器具でしかない。
アラームをセットする気力すらなく、いつ眠りに落ちたのかもわからないまま、俺は濁った意識の中で目を覚ました。
「……朝、か」
ひび割れた声が、ゴミと脱ぎ捨てられた衣服で埋め尽くされた部屋に虚しく響く。
高級だったはずのタワーマンションの自室は、今や異臭を放つただの廃墟と化していた。カナが出て行ってから一ヶ月。俺の生活は完全に破綻し、もう元に戻す気力すら残っていなかった。
のろのろと体を起こし、洗面所へと向かう。
鏡の前に立つのが怖かった。かつては一日に何度もそこを覗き込み、完璧な自分に酔いしれていたというのに。今、そこに映っているのは、無精髭が伸び放題になり、目の下にはどす黒い隈を飼いならし、頬がこけた見すぼらしい男だ。瞳の奥にあった自信と優越感の光は完全に消え失せ、代わりに宿っているのは、怯えと絶望だけ。
俺は自分から目を逸らし、蛇口をひねって冷たい水を顔に叩きつけた。
会社には、もう何日もまともに行っていない。
カナを失い、中島たちに絶縁され、職場でのメッキが完全に剥がれ落ちた俺は、周囲から「透明人間」として扱われるようになった。俺が近づくと会話が止まり、誰も目を合わせようとしない。かつて俺をチヤホヤしていた後輩たちも、今では腫れ物に触るような態度で俺を避けている。
仕事のミスをフォローしてくれる人間はおらず、俺の薄っぺらい実力はあっという間に露呈した。課長からの叱責は日常茶飯事になり、重要だったプロジェクトからは静かに外された。
俺の存在価値は、あの会社にはもうない。俺がいなくても、いや、俺がいない方が、世界はスムーズに回っていくのだという事実を、俺は骨の髄まで思い知らされていた。
冷蔵庫を開けるが、中には賞味期限の切れたコンビニ弁当と、飲みかけのペットボトルしかない。
腹は減っているはずなのに、食欲は全く湧かなかった。ただ、アルコールで荒れた胃が鈍い痛みを主張しているだけだ。
「……外の空気でも、吸うか」
独り言を呟き、床に転がっていたシワだらけのシャツを適当に羽織った。ズボンも数日前から履きっぱなしのものだ。かつて、イタリア製のオーダースーツに身を包み、街を歩く自分の姿をショーウィンドウで確認してはほくそ笑んでいた男の成れの果てがこれだ。
重い足取りでマンションを出て、休日の街へと足を踏み入れた。
空は皮肉なほどに青く澄み渡り、初夏の暖かな日差しが街を包み込んでいる。すれ違う人々は皆、色とりどりの服を着て、楽しそうに笑い合っている。家族連れ、カップル、友人同士のグループ。彼らの目には希望が宿り、それぞれの人生の主人公として今を生きている。
かつての俺なら、そんな彼らを「平凡で退屈な連中だ」と見下し、鼻で笑っていたことだろう。彼らには俺のような特別な才能も、洗練されたオーラもないのだと。
しかし今は違う。
俺は彼らが眩しくて仕方がなかった。彼らは誰かと繋がり、誰かに必要とされ、自分の足でしっかりと立っている。それに比べて俺はどうだ。特別な存在だと驕り高ぶり、周囲の善意に寄生し、甘え尽くした挙句、すべてを失ってようやく自分の足で立つことすらできない赤ん坊だったと気づいたのだ。
俺の目に映る世界は、完全に色彩を失っていた。
モノクロームの風景の中を、俺という抜け殻だけが目的もなく彷徨っている。
ふと、歩みを止めた。
俺が足を止めたのは、大通りに面したおしゃれなオープンカフェの前だった。テラス席にはパラソルが立ち並び、楽しげな談笑の声とコーヒーの良い香りが漂ってくる。かつての俺なら、こういう場所でアウスタ用の写真を撮り、「優雅な休日」を演出していただろう。だが今は、そんな見栄を張る相手すら、ネットの世界にさえ存在しない。
無意識にテラス席に目をやった瞬間。
俺の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて大きく跳ねた。
「え……」
息が止まりそうになった。
テラス席の奥、日差しを浴びてキラキラと輝く場所。そこに、見覚えのある横顔があった。
白石カナだった。
俺は瞬きをするのも忘れ、その姿を凝視した。
間違いない。カナだ。だが、俺の知っているカナとはあまりにも違いすぎて、最初は信じられなかった。
俺の隣にいた頃の彼女は、いつも地味な色の服を着て、髪は適当に後ろで一つに結び、化粧っ気のない顔でうつむきがちに歩いていた。自己主張を恐れ、俺の顔色ばかりを窺い、自信のなさを全身から発散させているような女だった。
しかし、今そこにいるカナは、全くの別人だった。
柔らかくウェーブのかかった髪は明るいブラウンに染められ、初夏の風にふわりと揺れている。パステルイエローのブラウスは彼女の顔色をパッと明るく見せ、ほんのりと乗ったチークとリップが、彼女の元々の整った顔立ちを見事に引き立てていた。
何より違うのは、その表情だった。
カナの向かいには、同年代の女性が二人座っている。職場の新しい同僚か、それとも友人だろうか。カナは彼女たちの話を聞きながら、時折大きく頷き、そして心の底から楽しそうに笑い声を上げていた。
「あはは、それ本当に言ったの? すごいね!」
風に乗って、カナの明るい声が微かに聞こえてきた。
それは、俺がこれまで一度も聞いたことのない声だった。俺と一緒にいた時の彼女は、いつも「うん」「そうだね」「すごいね、翔は」という、平坦で感情の抜け落ちた声しか出さなかった。俺が彼女にそうさせていたのだ。俺が彼女の言葉を奪い、笑顔を奪い、俺を肯定するための機能しか許していなかったのだ。
「カナ……」
無意識のうちに、口から名前が零れ落ちていた。
俺の足は、吸い寄せられるようにカフェの方へと一歩踏み出していた。
声をかけなければ。
彼女に謝らなければ。
俺が悪かった。俺が愚かだった。お前の価値を理解していなかった。俺は特別なんかじゃなかった。ただの空っぽの男だったんだ。だから、もう一度俺のそばに戻ってきてほしい。俺にはお前が必要なんだ。お前がいないと、俺はもう生きていけないんだ。
自己中心的な思考が頭の中を駆け巡り、俺は無様な姿のままカナの元へ駆け寄ろうとした。
この惨めな俺を見れば、昔から優しくてお人好しだったカナのことだ、きっと同情して許してくれるに違いない。またあの小さなアパートに俺を迎え入れ、温かい手料理を作って慰めてくれるはずだ。
「カナーー」
名前を呼ぼうと口を開きかけた、その瞬間。
カナが、向かいの友人に向かって、ふいに満面の笑みを向けた。
それは、太陽のように眩しく、一切の翳りもない、純粋な喜びと自由から生まれる笑顔だった。
誰かの顔色を窺うこともなく、誰かにへりくだることもない。ただ「今の自分が好きだ」「今の時間が楽しい」と、全身で表現しているような笑顔。
その圧倒的な光を前にして。
俺の足は、コンクリートに縫い付けられたようにピタリと止まってしまった。
喉の奥がヒュッと鳴り、開けた口からは音が出なかった。
俺は、自分自身の醜さと浅ましさに、雷に打たれたような衝撃を受けていた。
あの笑顔だ。
あの笑顔は、俺の隣では絶対に咲くことのなかった花だ。
俺が彼女を支配し、見下し、コンプレックスを刺激し続けることで、あの笑顔を深い深い闇の底に閉じ込めていたのだ。俺という存在そのものが、彼女の光を奪う分厚い雲だった。
その雲が晴れたからこそ、彼女は今、あんなにも美しく、生き生きと輝いている。
自分の足で歩き、自分の意志で笑い、自分の人生を取り戻したのだ。
そこに、俺が入り込む隙など、どこにあるというのだろうか。
今ここで俺が彼女に声をかければ、またあの分厚い雲で彼女を覆い隠し、光を奪うことになる。いや、それ以前に、今の彼女にとって俺という存在は、もう思い出す価値すらない、過去の汚点に過ぎないのだ。
『君みたいな自信がない子は、僕がいないとダメだよね』
あの日、俺が放った決定的な無神経な言葉が、脳内でリフレインした。
違う。間違っていたのは俺だ。
自信がなくて、一人では何もできなくて、誰かに依存しなければ立っていられなかったのは、カナじゃない。
俺の方だったのだ。
カナが俺の世話を焼き、俺を肯定してくれていたのは、俺が優れていたからではない。彼女の底なしの優しさと忍耐が、ただ俺の傲慢さを許容してくれていただけなのだ。
それに気づかず、自分は王様だと勘違いしてふんぞり返っていた。他人の善意を搾取し、それを自分の実力だと錯覚し、世界が自分を中心に回っていると本気で信じていた。
なんて滑稽で、なんて愚かなピエロだろうか。
俺はシワだらけのシャツの胸ぐらをきつく握りしめた。
胸の奥から、言葉にならない嗚咽が込み上げてくる。
声をかけることなんて、絶対にできない。
許しを請う資格すらない。
俺はただの空っぽの男だ。中身のない虚飾の塊。メッキが剥がれれば、誰の目にも留まらない、路傍の石ころ以下の存在。
カフェのテラス席では、カナたちが立ち上がるのが見えた。
どうやら店を出るようだ。三人は楽しそうに言葉を交わしながら、俺の立っている大通りの方へと歩いてくる。
俺は慌てて、近くにあった街路樹の陰に身を隠した。
見られたくない。今の俺の、この惨めで、無様で、空っぽな姿を、輝いている彼女の目に一瞬たりとも映したくなかった。
カナたちは、俺が隠れている木のすぐそばを通り過ぎていった。
風に乗って、彼女の甘い香水の匂いが微かに漂う。俺が知っている、安っぽい石鹸の匂いじゃない。大人の女性が纏う、洗練された香りだ。
「じゃあ、次はあのお店行ってみよっか!」
「うん、楽しみ!」
カナの声が、すぐ近くで弾ける。
俺は息を殺し、木に背中を押し付けたまま、目をきつく閉じた。
気づかれない。
彼女は俺の存在に、微塵も気づいていなかった。かつては俺の足音だけで振り返り、俺のわずかな表情の変化すら読み取っていたというのに。
今の彼女の視界には、俺の入り込む余地など一ミリも存在しないのだ。
足音が遠ざかっていく。
楽しげな笑い声が、休日の喧騒に溶けて消えていく。
俺はゆっくりと目を開け、木の陰から這い出た。
大通りのずっと先、光に満ちた人ごみの中へ、カナのパステルイエローの背中が小さくなっていく。
彼女は一度も振り返らなかった。過去を完全に断ち切り、希望に満ちた未来へと真っ直ぐに歩いていく。
その姿が完全に見えなくなるまで、俺はその場に立ち尽くしていた。
すべてが終わった。
いや、最初から何も始まっていなかったのかもしれない。俺の完璧な人生など、最初から存在しない幻想だったのだから。
「……あぁ」
口から漏れたのは、ただのひび割れたため息だった。
頬を冷たいものが伝い落ちるのを感じた。それが涙だと気づくのに、少し時間がかかった。
涙を拭うこともしなかった。
行き交う人々は、道端で涙を流す汚い身なりの男を、気味悪そうに避けて歩いていく。かつて俺が、彼らを見下していたのと同じような目で。
これが、俺の末路だ。
他人の心を弄び、自分の価値を勘違いし続けた男がたどり着いた、当然の結末。
永遠に癒えることのない後悔と、底なしの絶望。
俺はこれから先の長い人生を、この色彩のない世界で、ただ空っぽのまま生きていかなければならない。
誰にも愛されず、誰にも必要とされず、ただ一人、過去の自分の愚かさを呪いながら。
見上げた空は、先ほどと変わらず残酷なまでに青かった。
俺の世界からは、もう二度と、あたたかな光が差し込むことはないのだろう。
静かに、ただ静かに、俺は色のない街の影へと溶け込んでいった。




