第5話 崩落するドミノ
カナが俺の前から姿を消して、三週間が経過した。
重苦しい頭痛とともに目を覚ますと、遮光カーテンの隙間から刺すような朝日が入り込んでいた。俺はベッドから身を起こし、ズキズキと痛むこめかみを押さえた。昨夜もコンビニで適当に買った酒を煽り、そのままベッドに倒れ込んだらしい。
高級だったはずのシルクのシーツは、洗われないまま汗を吸い込み、不快な肌触りに変わっていた。大理石調のフローリングには、脱ぎ捨てた服やビールの空き缶、コンビニ弁当の空き箱が散乱している。カナがいた頃は、チリ一つ落ちていないモデルルームのような空間だったのに、今や足の踏み場もないただのゴミ溜めだ。
「……クソッ」
悪態をつきながら、這うようにして洗面所へと向かう。大きな鏡に映った自分の顔を見て、俺は息を呑んだ。
そこにいたのは、誰もが羨む「選ばれた存在」である瀬戸翔ではなかった。目の下にはくっきりと隈ができ、肌は荒れ、無精髭が伸び放題になっている。充血した瞳には、かつての知性も自信の光も欠片ほども残っていない。ただの、生活に疲れた惨めな男がこちらを見つめ返していた。
俺は慌てて洗顔フォームを手に取り、顔を乱暴に洗った。ひげを剃り、化粧水を叩き込むが、失われた輝きは戻ってこない。
クローゼットを開けるが、そこにあるのは絶望だけだった。クリーニングに出されていないスーツはシワだらけで、シャツの襟元は黄ばんでいる。カナが毎週欠かさずアイロンをかけ、完璧な状態に保ってくれていた俺の「戦闘服」は、もうどこにもない。仕方なく、マシに見えるスーツとシャツを選んで袖を通すが、生地のヨレが俺の洗練されたオーラを台無しにしているのが自分でもわかった。
「あいつのせいだ……。あいつが俺の世話を放棄したから、こんなことになってるんだ」
俺はカナへの憎悪を胸に、マンションを出た。
駅へと向かう道すがら、いつものように周囲の視線を確かめようとした。だが、すれ違う女性たちは俺を見ようともしない。いや、一度だけ目を向けた女がいたが、彼女はすぐに眉をひそめ、不快そうに視線を逸らした。
満員電車の中でも、俺のパーソナルスペースはもはや保たれていなかった。押し寄せる凡人たちの波に揉まれ、シワだらけのスーツはさらに形を崩していく。俺が放っていたはずの「圧倒的なオーラ」は、カナという裏方の存在があって初めて成立していたものだったなどと、俺はまだ認めたくなかった。
会社に到着し、エントランスを抜けてオフィスへと足を踏み入れる。
「おはようございます」
俺はいつものように爽やかな笑顔を作ったつもりで、周囲に声をかけた。だが、返ってきたのは、まばらで温度のない挨拶だけだった。
デスクに向かう途中、後輩の女子社員とすれ違った。あの日、俺の言葉に顔を赤らめていたあの子だ。俺は余裕を見せつけるために、彼女に声をかけた。
「おはよう。今日も早いね。そういえば昨日の件だけど……」
「あ、瀬戸さん。おはようございます。すみません、今ちょっと急いでるので」
彼女は俺の顔をまともに見ることもなく、早口でそう言うと、逃げるように足早に去っていった。その後ろ姿を見送りながら、俺は呆然とした。あんなに俺に媚びへつらっていたはずなのに、今の態度はなんだ。
ふと、周囲の視線に気づく。遠くのデスクから、数人の女子社員がこちらを見てヒソヒソと囁き合っていた。その目には、明らかな軽蔑の色が浮かんでいた。
席に着くと、隣のデスクの中島がパソコンに向かってキーボードを叩いていた。
「おはよう、中島」
「……ああ、おはよう」
中島の声は低く、ひどく冷たかった。彼は一瞬だけこちらに視線を向けたが、俺のシワだらけのシャツと無精髭の残る顔を見て、小さくため息をついた。
「お前、最近ひどいぞ。身だしなみもそうだけど、仕事のミスも増えてる。昨日の企画書、データが古いままで先方からクレームが入ったって、課長が怒ってたぞ」
「はあ? ミスじゃない。あれは先方の理解力が足りないだけだ。俺の完璧なロジックを読み取れない向こうが悪いんだよ」
俺が不機嫌に言い返すと、中島は完全にキーボードを打つ手を止め、俺を真っ直ぐに睨みつけた。
「お前な……そういうところだぞ。自分が一番正しいって思い込んで、周りの意見を一切聞かない。データの収集だって、今まで俺たちが裏で手伝ってやってたから成り立ってたのを、お前は気づいてもいなかっただろうな」
「なんだと?」
「もういい。課長に呼ばれてるから、早く行けよ」
中島はそれ以上俺を相手にしようとせず、再び画面に向き直った。俺は怒りで血が沸騰するのを感じながら、立ち上がって課長のデスクへと向かった。
課長からの説教は、屈辱以外の何物でもなかった。身だしなみの乱れ、態度の横柄さ、そして最近のパフォーマンスの低下。これまでの俺なら考えられないような指摘の数々。
俺は内心で「こいつら全員、俺の才能に嫉妬してるだけだ」と毒づきながら、適当に頭を下げてその場をやり過ごした。
昼休みになり、俺は逃げるように屋上のベンチへと向かった。カフェテリアに行けば、またあの冷ややかな視線を浴びせられる気がしたからだ。
コンビニのサンドイッチを齧りながら、俺はスマートフォンを取り出し、アウスタを開いた。現実世界が俺を評価しないなら、ネットの世界のフォロワーたちに慰めてもらえばいい。
だが、そこに広がっていたのもまた、冷酷な現実だった。
数日前に投稿した、荒れた部屋の端が少しだけ写り込んでしまった自撮り写真。それに対するコメント欄は、かつての称賛の嵐から一変していた。
『部屋汚くないですか?』
『なんか最近、顔色悪いですよ。大丈夫ですか?』
『服もシワシワだし、前の清潔感どこ行ったんですかw』
俺の完璧なブランドイメージは、音を立てて崩れ去っていた。俺は怒りに任せて、それらのコメントを次々と削除し、アカウントを非公開に設定した。現実からも、ネットからも拒絶されつつあるという恐怖が、じわじわと俺の心臓を締め付け始めていた。
ふと、MINEの通知が鳴った。中島、佐藤、田中とのグループトークだ。
俺は藁にもすがる思いでそのトークルームを開いた。彼らは俺の引き立て役だが、少なくとも俺を「エリート」として扱ってくれる存在だ。彼らに愚痴をこぼし、同情してもらえば、少しはこの苛立ちも収まるかもしれない。
『最近、職場の連中が俺のレベルについてこれなくて本当にイライラする。特に課長のやつ、俺の才能を理解できないくせに偉そうに説教してきやがって』
俺はそんなメッセージを送信した。すぐに既読が三つつく。
しばらくの沈黙の後、画面に現れたのは、中島からの長文のメッセージだった。
『お前、本当に自分の異常さに気づいてないんだな』
『俺たちが今まで、どうしてお前と付き合ってきたかわかるか? 大学からの腐れ縁だし、最初はただ自信過剰なだけの奴だと思ってたからだ』
『でもな、お前は社会に出てからどんどんひどくなった。自分を神様か何かと勘違いして、他人を見下し、利用するだけ利用して、感謝の言葉一つない』
『仕事だってそうだ。お前がチヤホヤされてたのは、裏で俺たちがフォローしてやってたからだ。お前の傲慢な態度のせいで取引先が怒った時も、俺たちが頭を下げて回ってたんだよ』
俺は目を疑った。何を言っているんだ、こいつは。俺が、こいつらにフォローされていた? 冗談じゃない。俺の力だけで、すべてを勝ち取ってきたはずだ。
『お前がモデルと遊ぶとか自慢してた時も、俺たちは心の底からお前を軽蔑してたよ。お前のその薄っぺらい優越感に付き合わされるのは、もう限界だ』
『お前の傲慢さにはもう耐えられない。これ以上、俺たちの人生にお前を関わらせたくない』
俺の指が震え、画面を打とうとするが、言葉が出てこない。
直後、画面に冷酷なシステムメッセージが連続して表示された。
『中島が退会しました』
『佐藤が退会しました』
『田中が退会しました』
トークルームには、「誰もいません」という文字だけが虚しく残された。
「……嘘、だろ」
俺はスマートフォンを握りしめたまま、屋上のベンチから立ち上がった。
俺の引き立て役。俺の価値を証明するための存在。俺がいつでも見下していいはずだった凡人たち。
彼らが、俺を切り捨てたのだ。カナと同じように。
足元がぐらりと揺れるような錯覚に陥った。
俺の世界を構成していたドミノが、一枚、また一枚と倒れていく。カナという最初のドミノが倒れたことで、それを支えにしていた俺の生活基盤が崩れ、見せかけの自信が剥がれ落ち、周囲の人間関係までが連鎖的に崩壊していく。
午後、オフィスに戻った俺を待っていたのは、完全な「孤立」だった。
中島は俺の顔を見ようともせず、業務上の必要な連絡すらメールで済ませるようになった。他の社員たちも、俺に話しかけてこない。俺が近づくと、サッと波が引くように人が離れていく。
コピー機の前で立ち往生していると、普段なら「私がやりますよ」と駆け寄ってきた女子社員たちも、今は見て見ぬ振りをしている。誰も俺を助けない。誰も俺に微笑まない。誰も、俺を必要としていない。
俺は初めて、自分が「特別」だから周囲が優しくしてくれていたのではないという真実に気づき始めていた。
彼らは俺の才能に惹かれていたのではない。ただ、外面が良く、一見すると優秀そうな俺と波風を立てないよう、表面的に持ち上げて機嫌を取っていただけなのだ。
そして、カナという絶対的な味方を失い、メッキが剥がれ落ちてボロが出始めた今の俺には、もう利用価値すらなく、ただの「傲慢で面倒な男」として認識されている。
周囲の空気からは、俺という厄介な存在とようやく距離を置くことができたという、残酷なまでの「安堵感」が伝わってきた。
「瀬戸さん、この書類、間違ってますよ。自分でちゃんと確認してくださいね」
いつもは俺のミスをこっそり直してくれていた中堅の女性社員が、冷ややかな声で俺のデスクに書類を叩きつけた。周囲の社員たちが、それを冷ややかな目で見ている。
「あ、ああ……悪い」
俺の口から、かつての俺なら絶対に口にしなかったような、力のない謝罪の言葉が漏れた。
反論する気力もなかった。自分が世界から完全に拒絶されているという圧倒的な恐怖が、俺の全身を縛り付けていた。
俺の価値とは一体何だったのだろうか。
学歴? 容姿? 会社での地位?
それらはすべて、誰かが俺を「すごい」と認めてくれて初めて意味を持つものだった。俺一人では、綺麗にアイロンがけされたシャツを着ることすらできない。俺の完璧さは、カナがいて、中島たちがいて、職場の人間が気を遣ってくれて、初めて成り立っていた「幻想」に過ぎなかったのだ。
退社時刻になり、俺は逃げるように会社を出た。
夜の街を歩きながら、俺は自分がひどく小さく、透明な存在になってしまったような錯覚に囚われていた。
すれ違う人々は、誰も俺を見ない。
ショーウィンドウに映る俺の姿は、ひどく猫背で、惨めな男のそれだった。
タワーマンションの自室に戻る。
鍵を開け、真っ暗な部屋に入る。明かりをつけると、そこには相変わらずゴミと脱ぎ捨てられた服の山が広がっていた。
「……誰か」
静寂に包まれた部屋で、俺の声だけが虚しく響いた。
「誰か、俺を褒めてくれよ。俺は特別なんだ。俺はすごい人間なんだろ……?」
誰も答えない。
カナが淹れてくれた紅茶の香りも、中島たちが向けてくれた羨望の眼差しも、後輩女子の熱っぽい視線も、すべてが過去のものとなってしまった。
俺は床に崩れ落ち、頭を抱えた。
世界が俺を中心に回っていたのではない。俺が、他人の善意という名の泥舟の上で、勝手に王様を気取って踊っていただけなのだ。
その泥舟が沈み始めた今、俺に残されているのは、何の取り柄もない、ただの「空っぽの自分」だけだった。
「カナ……中島……」
かつて見下していた彼らの名前を呼びながら、俺は暗い部屋の片隅で、ただ震えることしかできなかった。
傲慢という名の鎧は完全に剥がれ落ち、その下から現れたのは、誰かに依存しなければ立っていることすらできない、ひどく脆くて弱い、一人の惨めな男の姿だった。
崩落するドミノは、もう誰にも止められない。
俺のすべてが幻想だったと気づいたこの瞬間、俺の心の中で、決定的な破滅の音が鳴り響いていた。残された最後のドミノが倒れる時が、すぐそこまで迫っていた。




