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「僕が愛されているのは当然だ」と傲慢に笑った男の末路。唯一の理解者を失い、全てが幻想だったと気づいた時はもう遅い。  作者: ledled


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第4話 沈黙の世界

カナが俺の部屋から出て行ってから、三日が経過した。


あの日、途中で食べるのをやめたハンバーグの皿は、今もキッチンのシンクに放置されたままだ。ソースは黒く干からび、不快な臭いを放ち始めている。俺は鼻を覆いながら、ミネラルウォーターのペットボトルを冷蔵庫から取り出した。


「全く、いつまで意地を張ってるつもりだ」


俺は独り言を呟きながら、ペットボトルのキャップを乱暴に開けた。冷たい水を一気に喉に流し込むが、胸の奥に居座る奇妙なモヤモヤは消えない。カナが「もう、いいよ」と言って出て行ったあの日から、俺の生活は静かに、しかし確実に歯車が狂い始めていた。


朝、目を覚ましても、コーヒーの香りはしない。洗面所に行けば、いつも綺麗に畳まれて置かれているはずのタオルがない。クローゼットを開けても、アイロンがかけられたパリッとしたシャツが見当たらず、仕方なくクリーニングのタグがついたままの予備のシャツを引っ張り出す羽目になった。


これまでは、俺が指先一つ動かさなくても、カナがすべてを完璧に整えてくれていた。俺という特別な存在が、つまらない家事などに煩わされることなく、常に最高のパフォーマンスを発揮できるように。それは彼女に与えられた名誉ある役割だったはずだ。


「馬鹿な女だ。俺に甘えさせてもらえる特権を、自分から手放すなんて」


俺は強がりを口にして、スマートフォンを手に取った。画面を開き、メッセージアプリの『MINE』を起動する。カナとのトークルームを開くが、最後の日からこちらが送った数件のメッセージには、いまだに「既読」の文字がついていない。


『おい、いつまで拗ねてるつもりだ』

『いい加減にしろよ。そろそろ許してやるから、今週末には部屋の掃除に来い』

『返事くらいしろ』


俺がこんなに歩み寄ってやっているというのに、あいつは無視を決め込んでいる。幼馴染という立場に甘えて、少し調子に乗りすぎているんじゃないか。俺からの連絡を無視することが、どれだけ恐れ多いことか、あいつは理解していないらしい。


苛立ちを紛らわせるために、俺は『Twotter』を開いた。こんな時こそ、俺の完璧な日常を世界に発信し、自分がどれほど充実しているかを見せつけてやる必要がある。カナがもしこっそり俺のアカウントを見ているなら、俺が彼女の不在など全く気にしていないことを知って、焦るに違いない。


『今夜は行きつけのバーで一人飲み。静かな時間は、新しいビジネスアイデアを生み出す最高の贅沢だ。#エグゼクティブ #夜のひととき』


適当なグラスの画像とともに投稿すると、すぐにフォロワーからの「いいね」がつき始めた。「さすが翔さん、かっこいいです」「私もそんな風に余裕のある大人になりたいです」といった称賛のコメントが並ぶ。俺は口角を上げ、満足げに画面をスクロールした。


そうだ。これが現実だ。俺には数え切れないほどの人間が注目し、憧れている。カナ一人がいなくなったところで、俺の価値は微塵も揺るがない。むしろ、あの地味でパッとしない女が隣にいない方が、俺の完璧なブランドイメージはより洗練されるというものだ。


そう自分に言い聞かせながら、俺はソファに深く身を沈めた。だが、部屋の隅に溜まり始めた埃や、テーブルの上に置きっぱなしになったままの空のグラスが、視界の端に入ってきて無性にイライラする。


さらに数日が過ぎた。


カナが姿を消してから、ついに一週間が経とうとしていた。


俺の生活は、いよいよ本格的に破綻の兆しを見せ始めていた。洗濯カゴからは汚れた服が溢れ出し、休日に着る服すらまともなものがない。仕方なく自分で洗濯機を回そうとしたが、洗剤の量も、どのボタンを押せばいいのかもわからず、結局適当に放り込んで回した結果、お気に入りのニットが縮んで使い物にならなくなった。


食事も最悪だ。毎晩外食やデリバリーで済ませているが、塩分や脂質の多い食事ばかりで胃がもたれ、肌の調子も悪くなってきた。鏡の前に立つたび、完璧だったはずの自分の顔に疲労の色が滲んでいるのを見て、俺は舌打ちをした。


「クソッ、カナの奴……本当にどういうつもりだ」


俺の苛立ちは頂点に達していた。MINEを開いても、やはり既読はつかない。試しに音声通話をかけてみるが、コール音が虚しく響くだけで、一向に出る気配がない。いや、コール音が鳴っているということは、着信拒否されているわけではない。ただ、意図的に俺からの連絡を無視しているのだ。


あのカナが、俺を無視する?


そんなことは、これまで俺の人生において一度たりともなかった。俺が呼べばいつでも飛んできて、俺が理平尽な要求をしても文句一つ言わずに従っていたあの女が。俺の言葉を絶対の法律として生きてきたあの女が。


「いい加減にしろよ……!」


俺はスマートフォンをソファに投げつけた。鈍い音が部屋に響く。


俺は焦っていた。カナがいなくて不便だからではない。俺という絶対的な存在が、あんな底辺の女に「拒絶」されているという事実が、俺のプライドを酷く傷つけていたのだ。


あいつは俺の所有物だ。俺が許可しない限り、俺の前からいなくなることなど許されない。俺が「許してやる」と言っているのだから、あいつは泣いて謝りながら俺の足元にひれ伏すべきなのだ。


それなのに、なぜ。


俺は再びスマートフォンを拾い上げ、狂ったようにMINEを打ち込んだ。


『ふざけるな。お前、自分が何をしてるかわかってるのか?』

『俺がここまで歩み寄ってやってるのに、無視するなんていい度胸だな』

『今すぐ連絡してこい。これ以上俺を怒らせるな』


送信ボタンを連打するが、画面に並ぶ緑色の吹き出しの横には、いつまで経っても「既読」の文字は現れない。画面越しの沈黙が、まるで透明な壁のように俺を拒絶している。


「……上等だ。そんなに意地を張るなら、こっちから直接行ってやるよ」


俺はクローゼットから適当なジャケットを引っ張り出し、腕を通した。


カナのアパートに行って、直接顔を見て言ってやる。お前の幼稚なストライキのせいで、俺がどれだけ迷惑しているか。そして、お前がどれほど俺に依存している惨めな存在であるかを、改めて思い知らせてやる。


俺は怒りのままに玄関を飛び出し、夜の街へと向かった。


その頃、白石カナは、新しい街の小さなマンションの一室で、淹れたてのハーブティーの香りを楽しんでいた。


少し古いが、日当たりが良く、風通しのいいワンルーム。部屋の真ん中には小さなラグが敷かれ、その上にはお気に入りのクッションが二つ並んでいる。前の薄暗いアパートから持ってきた荷物はごくわずかで、家具も最小限しかない。だが、この空間は、カナにとって何よりも居心地の良い、自分だけの城だった。


窓を開けると、涼しい夜風が頬を撫でた。遠くから微かに聞こえる電車の音が、心地よいリズムを刻んでいる。


「……静かだな」


カナはカップを両手で包み込みながら、ぽつりと呟いた。


一週間前、あの豪華で冷たい部屋を出た日の夜、カナはすぐに荷造りを始めた。といっても、元々物を持たない生活をしていたため、ダンボール数箱で事足りた。翌日には職場に退職届を出し、以前から少しずつ貯めていたお金を使って、翔の生活圏から遠く離れたこの街へと引っ越してきたのだ。


翔の連絡先はすべてブロックした。彼のSNSも見ないようにした。


最初は、得体の知れない恐怖があった。物心ついた時から、ずっと翔の陰に隠れて生きてきた。翔に褒められることが私の価値であり、翔に必要とされることでしか、自分の存在を許されていないような気がしていた。


『君みたいな自信がない子は、僕がいないとダメだよね』


あの言葉を聞いた瞬間、カナの心の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。いや、崩れ落ちたのではない。ずっと目を背け続けてきた真実に、ようやく直面したのだ。


翔は、私を愛してなどいなかった。私を大切に思ってなどいなかった。

彼はただ、自分より劣っている存在をそばに置くことで、自分の優位性を確認したかっただけなのだ。私は、彼が自分を飾るための、都合のいい鏡でしかなかった。


それに気づいた時、不思議と悲しみはなかった。怒りすら湧かなかった。ただ、圧倒的なほどの「冷え」が全身を覆い、これまで彼に捧げてきた時間と感情が、すべて無意味な灰になって消えていくのを感じた。


だから、捨てたのだ。

翔という呪縛を。彼に依存することで安心を得ようとしていた、弱い自分自身を。


カナはハーブティーを一口飲み、小さく息を吐いた。


今は、新しい仕事を探している最中だ。不安がないと言えば嘘になる。これまで誰かの後ろをついて歩くことしかしてこなかった私が、自分の足で自分の人生を歩いていけるのか。


だが、この静かな部屋で一人で過ごす時間は、これまでの人生で感じたことのないほど、穏やかで自由だった。


誰の顔色を窺う必要もない。誰の理不尽な言葉に傷つく必要もない。ただ、自分のためだけにお茶を淹れ、自分のためだけに時間を遣う。そんな当たり前のことが、今は涙が出るほど嬉しかった。


「……明日も、晴れるといいな」


カナは空っぽになったカップをテーブルに置き、静かに微笑んだ。その顔には、かつての翳りはなく、新しい朝を迎えるための希望の光が宿っていた。


一方その頃、俺は息を切らしながら、カナが住んでいるはずの古いアパートの階段を駆け上がっていた。


「ったく、こんなボロアパートに住んでる分際で、俺に楯突こうなんていい度胸だ」


俺は心の中で毒づきながら、カナの部屋がある二階の角部屋へと向かった。ドアの前に立ち、乱れた呼吸を整える。


どんな顔をして出てくるだろうか。俺がわざわざ迎えに来てやったことに驚き、そしてすぐに自分の愚かさを恥じて泣きついてくるに違いない。「ごめんなさい、私が悪かったの。翔に見捨てられたら私、生きていけない」と。


俺はネクタイを少し緩め、傲慢な笑みを浮かべながらインターホンのボタンを押した。


ジリリリリ、と。

安っぽい電子音が、静かな廊下に響き渡る。


俺は腕を組み、足で床をトントンと叩きながら待った。十秒、二十秒。しかし、中からは何の物音も聞こえてこない。足音も、ドアを開ける気配もない。


「おい、カナ! いるのはわかってるんだぞ! 開けろ!」


俺は声を荒げ、ドアを力強くノックした。ガンガンという鈍い音が響くが、やはり反応はない。居留守を使っているのか?


「いい加減にしろ! 俺がここまで来てやってるのに、いつまで子供みたいな真似を……」


怒りに任せてドアノブを掴もうとしたその時、俺の視界の端に、ある違和感が飛び込んできた。


ドアの横にある、小さなネームプレート。そこにはいつも、「白石」という安っぽいプラスチックの表札が差し込まれていたはずだ。だが、今、そこにあるのは、ただの黒い空洞だった。


「……え?」


俺は眉をひそめ、ネームプレートをまじまじと見つめた。表札がない。それだけではない。ドアの新聞受けの隙間から、ほんの少しだけ室内の様子が見えた。


真っ暗な空間。家具の影一つ見えない、完全に空虚な空間。


俺は心臓が嫌な音を立てて早鐘を打つのを感じながら、アパートの廊下から一歩下がり、窓ガラス越しに部屋の中を覗き込んだ。


カーテンがない。

ベッドもない。

小さなテーブルも、いつも彼女が座っていた座椅子も、何もない。


綺麗に清掃された、ただの空き部屋がそこにはあった。


「……嘘だろ」


俺の口から、掠れた声が漏れた。


引っ越した? カナが?

俺に何も言わずに?


そんな馬鹿な。あいつは俺なしでは生きていけないはずだ。俺という光がなければ、一人で歩くことすらできないような、みすぼらしい女のはずだ。そんなあいつが、俺の前から自らの意志で姿を消すなど、あり得るはずがない。


俺は再びスマートフォンを取り出し、震える指でMINEを開いた。だが、画面に並ぶ緑色の吹き出しは、相変わらず既読のつかないまま、俺を嘲笑うかのようにただそこに存在している。


電話をかける。コール音が鳴る。だが、出ない。

もしかして、これはブロックされている時の挙動なのではないか?

俺はネットで検索し、「MINEでブロックされた時の確認方法」という記事を読み漁った。スタンプをプレゼントしてみる、などの方法を試し、そして……俺は、自分が完全にカナから通信を遮断されている事実を突きつけられた。


「嘘だ……嘘だろ……!」


スマートフォンの画面が、ポツリと落ちた水滴で滲んだ。雨ではない。俺は自分が冷や汗をかいていることにすら気づいていなかった。


カナは、俺を避けているのではない。

俺を「切り捨てた」のだ。


その事実が、ゆっくりと、しかし確実な重量を持って、俺の脳髄を押し潰し始めていた。


俺の足元で、何かが音を立てて崩れ落ちるのを感じた。俺がこれまで積み上げてきた、完璧で絶対的な優位性という名の城。それを支えていた最も重要な土台が、今、完全に引き抜かれたのだ。


俺は誰もいないボロアパートの廊下に立ち尽くし、ただ空っぽになった部屋の窓を凝視し続けていた。


夜風が冷たく俺の体を通り抜けていく。

Twotterに投稿した「静かな時間」という言葉が、皮肉にも本当の意味での沈黙となって、俺の世界を覆い尽くそうとしていた。俺の日常から、確実に一つの色が失われた。そしてそれは、これから始まる連鎖的な崩壊の、ほんの序章に過ぎなかった。


俺の手からスマートフォンが滑り落ち、コンクリートの床に乾いた音を立てて転がった。画面はひび割れ、俺の歪んだ顔を映し出していた。


「カナ……どこに、行ったんだよ……」


俺の震える声は、誰の耳にも届くことなく、闇の中へと消えていった。俺は初めて、自分が世界から取り残されたような、圧倒的な孤独と恐怖を味わっていた。

そして、この沈黙の世界が、俺の「勘違い」を容赦なく暴き立てるための地獄の始まりであることを、俺はまだ、本当の意味で理解してはいなかった。

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