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「僕が愛されているのは当然だ」と傲慢に笑った男の末路。唯一の理解者を失い、全てが幻想だったと気づいた時はもう遅い。  作者: ledled


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第3話 最後の一滴

週末の午後、俺の住むタワーマンションの高層階から見下ろす街並みは、ミニチュア模型のように小さく、そして無価値に見えた。眼下を行き交う無数の人々は、それぞれのちっぽけな人生に一喜一憂しているのだろうが、俺のいるこの場所からはただの動く点にしか過ぎない。窓から差し込む西日が、大理石調のテーブルに置かれたクリスタルグラスをきらきらと輝かせている。俺はそのグラスに注がれた炭酸水を優雅に一口飲み、背後の気配へと意識を向けた。


「翔、クローゼットの冬物、クリーニングに出す分はまとめておいたよ。あと、シャツのアイロンがけも終わってるから」


控えめな声が室内に響く。振り返ると、エプロン姿の白石カナが、アイロン台を片付けているところだった。相変わらず、地味でパッとしない女だ。休日の昼間だというのに、化粧っ気のない顔に、体のラインを隠すようなゆったりとしたスウェットとデニムパンツ。華やかな俺の部屋にはおよそ似つかわしくない存在だが、こうして身の回りの世話をさせるには都合がいい。


「ああ、ご苦労。そこらへんに置いといてくれ」


俺がぞんざいに返事をすると、カナは静かに頷き、指定された場所にシャツを掛けに行った。その後ろ姿を見つめながら、俺はふと、昔のカナの姿を思い出した。


カナは昔からこうだった。自己主張というものを知らず、いつも誰かの後ろに隠れて、おどおどと周囲の顔色ばかりを窺っているような子供だった。特に容姿にコンプレックスを抱いており、少しでも目立つことを極端に恐れていた。小学生の頃、クラスの男子から「地味で暗い」とからかわれて泣いていたのを、俺が助けてやったことがあった。それ以来、彼女は俺の金魚のフンのように、どこへ行くにも後ろをついて回るようになったのだ。


「翔くんはすごいね、なんでもできて」


それが、昔から彼女が俺に向ける口癖だった。勉強もスポーツもそつなくこなし、常にクラスの中心にいた俺と、隅っこで息を潜めているだけのカナ。その圧倒的な格差は、大人になった今でも全く変わっていない。むしろ、俺が社会に出て一流企業で活躍し、アウスタで何千人ものフォロワーから称賛されるような存在になったことで、その差は絶望的なまでに広がっているはずだ。


「そういえばカナ、お前最近、少し痩せたか? なんだか貧相に拍車がかかってるぞ」


俺はソファに深く腰掛けたまま、クローゼットから戻ってきたカナに向かって声をかけた。カナは少し驚いたように自分の頬に触れ、力なく笑った。


「そうかな……。最近、ちょっと仕事が忙しくて。残業が続いてたからかもしれない」

「ふーん。まあ、お前みたいな事務職がいくら残業したところで、たかが知れてるだろうけどな。俺なんて、この間は数億のプロジェクトを任されて、毎晩取引先との会食だったんだぜ。まあ、それを見事に成功させたから、また社内での評価が上がっちまったんだけどな」


俺はわざとらしくため息をつきながら、自分の有能さをアピールした。カナのような底辺の労働と、俺の生産的で価値のある仕事を同列に語られてはたまらない。カナは俺の言葉に反論することもなく、「すごいね、翔は」と、いつものように抑揚のない声で答えた。


「まあな。俺だからできる仕事ってやつだよ。それに比べて、お前は本当に変わらないな。相変わらず地味で、男っ気もなくて、休日のたびに俺の部屋に掃除しに来て。他にやることないのか?」


俺の言葉は、客観的な事実に基づいたただの指摘だ。しかし、カナは少しだけ顔を伏せ、エプロンの裾をきゅっと握りしめた。


「……他にやること、ないから。翔の役に立てるなら、それでいいと思ってるし」


その健気な言葉に、俺は思わず口角を上げた。やはり、この女の頭の中は俺でいっぱいなのだ。俺という絶対的な存在に依存し、俺に必要とされることでしか自分の価値を見出せない哀れな女。だが、そんな彼女の存在が、俺の肥大化した自尊心を心地よく満たしてくれるのも事実だった。


「まあ、俺もお前が掃除しに来てくれるのは助かってるからな。業者を呼ぶと金がかかるし、何より他人に部屋を荒らされるのは好かない。お前なら、俺の好みを熟知してるから安心して任せられる」


俺なりの最大限の褒め言葉のつもりだった。カナは昔から、「自分は誰の役にも立たない」という強迫観念めいたコンプレックスを持っている。だからこそ、俺がこうして「役に立っている」と認めてやることが、彼女にとって何よりの救いになるはずなのだ。


「……ありがとう」


カナの返事は短かった。以前なら、もっと顔を輝かせて喜んでいたはずだが、最近の彼女はどこか反応が鈍い。先日のアウスタの一件から、少し様子がおかしいことは俺も気づいていた。だが、それはきっと、俺が他の女と遊びに行くことに対する、彼女なりの些細な抵抗であり、嫉妬の裏返しに過ぎない。俺の気を引きたいがための、可愛げのないポーズなのだ。


夕暮れ時になり、部屋の中がオレンジ色の光に包まれ始めた頃、カナはキッチンに立ち、夕食の準備を始めた。トントンと規則正しい包丁の音がリビングに響く。俺はその音をBGMに、スマートフォンでアウスタのタイムラインをスクロールしていた。俺の投稿には今日も大量の「いいね」とコメントが寄せられている。これこそが、俺の価値の証明。俺が世界から愛され、求められているという何よりの証拠だ。


しばらくして、ダイニングテーブルに夕食が並べられた。ハンバーグにサラダ、そして温かいスープ。どれもカナが得意とする、家庭的で素朴なメニューだ。一流レストランのコース料理に比べれば見た目は見劣りするが、味は悪くない。


「いただきます」


俺はフォークを手に取り、ハンバーグを一口大に切って口に運んだ。肉汁が溢れ、手作りならではの優しい味が広がる。向かいの席に座ったカナは、自分の食事には手をつかず、ただ俺が食べるのをじっと見つめていた。


「どうした? お前は食べないのか?」

「うん。私は……あとでいい。翔が食べてるのを見てる方が好きだから」


カナのその言葉に、俺はまたしても優越感をくすぐられた。俺の食事風景さえも、彼女にとっては貴重なエンターテインメントなのだろう。本当に、俺がいなければ生きていけない可哀想な女だ。


「相変わらず、味はいいな。お前の唯一の取り柄だよ、この料理の腕は」

「……ありがとう」

「でもさ、お前もそろそろ自分の将来について考えた方がいいんじゃないか? いつまでも俺の世話ばかり焼いてても、お前の人生が豊かになるわけじゃないだろ」


俺はハンバーグを咀嚼しながら、あえて厳しい言葉を投げかけた。これも、俺なりの優しさだ。現実に直面させ、俺との圧倒的な格差を再認識させることで、彼女の俺への依存をより強固なものにするための布石。


「私の将来……」


カナはぽつりと呟き、視線をテーブルに落とした。その表情には、自信のなさからくる暗い影が落ちているように見えた。俺は内心でほくそ笑んだ。そうだ、そのコンプレックスをもっと刺激してやろう。そして、最終的に俺が救いの手を差し伸べてやるのだ。


「ああ。お前、昔から本当に自分に自信がないよな。容姿も地味だし、取り柄と言えば家事くらい。仕事だって誰にでもできる事務作業だろ? 正直、お前みたいな女が一人で生きていくのは、この厳しい社会じゃ無理だと思うぜ」


俺の言葉が刃となって、カナの心を抉っていくのがわかる。カナは反論する気力もないのか、ただ黙って俯いていた。その様子を見て、俺はついに決定的な言葉を放つタイミングが来たと確信した。


俺はフォークを置き、わざとらしく優しい声色を作って、カナに向かって身を乗り出した。


「でも、安心していいよ。お前がどんなに取り柄のない地味な女でも、俺は見捨てたりしないから」


カナの肩が、びくりと震えた。俺はさらに言葉を続ける。彼女を絶望の淵から救い上げる、最高の賛辞を。


「君みたいな自信がない子は、僕がいないとダメだよね」


俺は、完璧な微笑みを浮かべてそう言い放った。


自分自身で何の価値も見出せないお前を、この完璧で特別な存在である俺が、広い心で受け入れてやる。俺のそばにいることを許してやる。これ以上ないほどの慈悲であり、愛情表現のつもりだった。カナはきっと、この言葉を聞いて涙を流して喜ぶはずだ。「翔がいてくれてよかった」「私には翔しかいない」と、俺にすがりついてくるに違いない。


俺は、カナが感動に打ち震えるのを待った。


しかし。


ゆっくりと顔を上げたカナの表情を見て、俺は一瞬、自分の目を疑った。


そこには、感動の涙も、俺に対する熱烈な愛情も、ましてや劣等感に苛まれる惨めな姿もなかった。


ただ、冷たい。

圧倒的なまでに、冷たく、そして空っぽの瞳が、俺を見据えていたのだ。


「……え?」


思わず、間抜けな声が漏れた。カナの表情からは、先ほどまでの控えめな翳りも、俺に対する依存心も、すべてが完全に抜け落ちていた。まるで、電源を切られた精巧なロボットのように、一切の感情が読み取れない。その能面のような顔は、俺がこれまで知っていた「白石カナ」とは全くの別人のようだった。


「カナ……? どうした、急に黙り込んで。俺が優しくしてやったのに、感動して言葉も出ないのか?」


俺は焦りを隠すように、軽口を叩いた。だが、カナの氷のような視線は微動だにしない。彼女のその瞳の奥にあるのは、俺に対する尊敬でも依存でもなく、ただの無だった。いや、もっと恐ろしい何か。決定的な諦めと決別の意思。


カナは静かに立ち上がった。椅子がフローリングを擦る音が、やけに大きく室内に響いた。彼女はエプロンの紐を解き、それを丁寧に畳んで、自分が座っていた椅子の背もたれに掛けた。その動作一つ一つが、ひどくゆっくりと、そして儀式めいて見えた。


「おい、カナ? なんだよ、飯の途中で」


俺の問いかけにも答えず、カナはリビングの隅に置いてあった自分のトートバッグを手に取った。そして、一度だけ俺の方を振り返り、感情の全くこもっていない、平坦な声で告げた。


「もう、いいよ」


その一言は、俺の耳の奥に鋭く突き刺さった。


「は……? 何が『もういい』んだよ。意味がわからないぞ。俺はただ、お前のことを思って……」

「今までありがとう、翔。さようなら」


カナは俺の言葉を遮るようにそう言うと、背を向け、玄関へと歩き出した。その背中には、一切の躊躇いがなかった。


「ちょっと待てよ! どこに行くんだよ! 片付けはどうするんだ!」


俺は慌てて立ち上がり、カナの後を追った。だが、俺が玄関に着くより一瞬早く、カナは重厚なドアを開け、外の廊下へと出て行った。


「おい、カナ!」


バタン、と。

無機質な金属音が響き、ドアが閉まった。


静寂が、俺の部屋に舞い戻ってきた。

残されたのは、食べかけのハンバーグと、椅子の背もたれに掛けられたエプロン。そして、何が起きたのか全く理解できていない俺だけだった。


「……なんだよ、あれ」


俺は閉まったドアを呆然と見つめたまま、独り言を呟いた。


「もういい」とはどういう意味だ。俺が彼女のコンプレックスを包み込んでやると、最大の賛辞を贈ってやったというのに。なぜあんな態度を取る必要がある?


しばらく立ち尽くしていたが、やがて俺の心の中に、ふつふつと苛立ちが湧き上がってきた。


「ふざけるなよ……。せっかく俺が優しくしてやったのに、あんな態度を取りやがって。どうせ、俺の言葉が図星を突いてたから、恥ずかしくて逃げ出したんだろう」


俺は自分に都合よく解釈し、鼻で笑った。


そうだ、カナは昔から図星を突かれるとすぐに泣いて逃げ出すような弱虫だった。今回もそれと同じだ。俺の言葉があまりにも核心を突いていたため、彼女のちっぽけなプライドが傷ついたのだろう。だが、あいつには俺しかいない。俺のいない世界で、あんな地味で何の取り柄もない女が生きていけるはずがないのだから。


「どうせ明日には、『ごめんなさい、私が間違ってました』って、泣きながら連絡してくるに決まってる」


俺はそう結論づけると、リビングへと戻り、冷めかけたハンバーグを再び口に運んだ。味は先ほどと変わらないはずなのに、なぜか酷く無味乾燥な泥を噛んでいるような気がした。


俺はワインセラーから高級な赤ワインを取り出し、グラスに注いだ。深紅の液体を喉に流し込み、無理やりに気分を高揚させる。


スマートフォンを手に取り、再びアウスタを開く。そこには変わらず、俺を称賛する言葉が並んでいる。俺は完璧だ。俺は愛されている。カナのような底辺の女一人の機嫌で、俺の完璧な日常が揺らぐことなど絶対にあり得ない。


「全く、手のかかる女だ。次に会った時は、きっちり謝らせてやるからな」


俺はグラスを傾けながら、夜景に向かってそう呟いた。

彼女のあの氷のような瞳が意味するものを、俺はこの期に及んでも全く理解していなかった。


カナが残した「もう、いいよ」という言葉が、俺の完璧だったはずの世界の終焉を告げる、静かな破滅の足音だったということに気づくには、俺の自尊心はあまりにも肥大化しすぎていたのだ。


テーブルの上に置かれたスマートフォンが、俺の虚勢をあざ笑うかのように、冷たい光を放ち続けていた。

残された時間は、もう長くはない。俺の傲慢さが積み上げたドミノが、いよいよ音を立てて倒れ始めようとしていた。

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