第2話 ひび割れる優越感
スマートフォンの画面が明るく点灯し、小気味良い通知音が静かな自室に響き渡った。画面に表示されたのは、写真共有SNSアプリ『アウスタ』のアイコンと、赤いバッジに刻まれた二桁の数字だ。俺、瀬戸翔は、高級レザー張りのソファに深く腰掛けたまま、満足げな笑みを浮かべてその画面をスワイプした。
表示されたのは、昨晩アップしたばかりの写真だ。都内でも有数の夜景が楽しめるホテルのラウンジバーで、クリスタルグラスに注がれた琥珀色のカクテルを傾ける俺の姿。計算し尽くされた照明が、イタリア製のスーツに身を包んだ俺の輪郭を美しく浮かび上がらせている。添えられたキャプションは、『たまには一人で静かな夜を。#リラックス #大人の時間 #夜景』と、あえてシンプルに抑えた。自分の価値を長々と語るような真似は、三流のすることだ。本当に価値のある人間は、ただそこに存在するだけで人を惹きつける。
「……ふん、まあこんなもんか」
いいねの数はすでに五百を超え、コメント欄には女性たちからの熱烈な賛辞が溢れ返っていた。『翔さん、相変わらずかっこいいです!』『そのお店、私も行ってみたいです! 今度連れて行ってください!』『スーツ姿、反則すぎます……』。見ず知らずのフォロワーからの称賛、あるいは合コンで一度顔を合わせただけの女たちからの媚びへつらうような言葉。それらを一つ一つ目で追いながら、俺は最高級のワインを味わうように優越感を喉の奥へと流し込んだ。
俺の人生は、常にこのアウスタのタイムラインのように華やかで、完璧でなければならない。凡人たちが居酒屋の安いビールで愚痴をこぼし合っている間、俺は洗練された空間で上質な時間を過ごす。それが、選ばれた人間である俺に課せられた当然の義務なのだから。
ピコン、と新たにダイレクトメッセージの通知が届いた。送り主は、先日取引先のレセプションパーティーで知り合った、若手モデルのレイカだった。
『翔さん、来週末って空いてますか? 新しくできたフレンチ、一緒に行きたいなって思って♡』
俺は薄く笑った。また一匹、俺という光に群がる羽虫が現れたらしい。彼女のような見目麗しい女でさえ、俺の前では自分から誘いの言葉を投げかけざるを得ないのだ。俺の容姿、ステータス、そして余裕のある振る舞いは、女性たちにとって抗いがたい魅力として映っているのだろう。
『予定を確認してみるよ。俺も君とゆっくり話したいと思っていたところだ』
あえて即答はせず、少しだけ含みを持たせた返信を送る。相手を焦らし、期待感を煽るのも、俺にとってはゲームの一環に過ぎない。他者の感情を思い通りにコントロールし、自分に依存させていく。その過程で得られる圧倒的な全能感こそが、俺の生きる原動力だった。
画面を閉じ、テーブルの上にスマートフォンを放り投げる。窓の外には、休日の穏やかな日差しが降り注いでいる。今日はこれから、大学時代の友人である中島たちと会う約束があった。正直なところ、あまり気が進まない誘いだった。
中島は、大学時代からの腐れ縁で、今は同じ会社の別部署で働いている。彼をはじめとする当時の友人グループは、良く言えば善良、悪く言えば平々凡々な男たちの集まりだった。彼らの休日の過ごし方といえば、大衆居酒屋で安い酒を飲みながら、会社の愚痴やパッとしない恋愛事情を語り合うことくらいしかない。俺のような完璧な人間にとって、彼らとの時間は生産性のない退屈なものでしかないのだ。
だが、俺はあえて彼らとの関係を完全に断ち切ることはしなかった。なぜなら、彼らのような「引き立て役」がいてこそ、俺の輝きはより一層増すからだ。彼らの冴えない日常と、俺の華麗な人生。その圧倒的な格差を見せつけることで、俺は自分自身の立ち位置を再確認することができる。
クローゼットを開き、休日のランチにふさわしいカジュアルだが上質な服を選ぶ。ハイブランドのシンプルな白いニットに、体に完璧にフィットするスラックス。高級時計を腕に巻き、鏡の前で最終チェックを行う。どこから見ても隙のない、洗練された大人の男の姿がそこにあった。
「さて、凡人たちの退屈な話に少しだけ付き合ってやるか」
独り言を呟きながら、俺はタワーマンションの部屋を後にした。
待ち合わせ場所は、渋谷の喧騒から少し離れた場所にある、中規模のカフェレストランだった。店内に入ると、すでに奥のテーブルに中島たちの姿があった。中島の他に、メーカー勤務の佐藤、システムエンジニアの田中。皆、大学生の頃からほとんど成長していないような、冴えない風貌の男たちだ。
「おっ、翔! こっちこっち!」
中島が俺の姿を認めて大きく手を振る。周囲の客の視線が一瞬こちらに向くのを感じながら、俺は優雅な足取りで彼らのテーブルへと近づいた。俺が歩くたびに、周囲の空気が少しだけ引き締まるような感覚。それがたまらなく心地よかった。
「悪い、少し待たせたか?」
「いや、俺たちもさっき来たところだ。相変わらずお前はキマってんなあ。その服、高そうじゃん」
佐藤が俺のニットをジロジロと見ながら言った。俺は内心で鼻で笑いながら、表面上は爽やかな笑顔を作った。
「そうか? 適当に選んだだけなんだけどな。それより、久しぶりだな。お前らも元気そうじゃないか」
「元気は元気だけどよ、仕事がキツくてさ。うちの課長が本当に理不尽で……」
そこからは、いつものように彼らの愚痴大会が始まった。上司への不満、給料の低さ、彼女ができない嘆き。どれもこれも、俺には一生縁のない底辺の悩みばかりだ。俺は適当に相槌を打ちながら、彼らの話を右から左へと聞き流した。
「そういえば翔、最近アウスタですげえリア充っぷりアピールしてるよな。昨日のバーの写真も見たぞ。あんな高いとこ、よく一人で行けるよな」
中島が少しだけ皮肉めいた口調で言った。その声の奥に、俺に対する嫉妬の色が混じっているのを、俺は敏感に感じ取った。
「ああ、あれか。取引先の人に教えてもらった店でね。たまには静かに考え事をしたい時もあるだろ? お前らみたいに、いつも居酒屋で騒いでるだけじゃ、良いアイデアも浮かんでこないからな」
「……まあ、そりゃお前はエリート様だからな。俺たちみたいな平社員とは住む世界が違うってか」
田中の言葉には、明らかな棘があった。だが、俺はそれを気にするどころか、むしろ心地よい優越感として受け取った。そうだ、お前たちは俺とは違う。俺は雲の上の存在であり、お前たちは泥に塗れて生きるしかない凡人なのだ。その事実を、もっと深く骨の髄まで刻み込んでやればいい。
「そんな卑屈になるなよ。お前らだってお前らなりに頑張ってるだろ? まあ、俺は俺のやり方で高みを目指すだけさ。あ、そうだ。実は来週、モデルの子から食事に誘われててさ。店選びとか面倒なんだけど、仕方ないから付き合ってやるつもりなんだ」
わざとため息をつきながらそう言うと、三人の顔色が一瞬にして変わった。嫉妬、羨望、そして隠しきれない嫌悪感。彼らの顔に浮かぶその感情のグラデーションを見るのが、俺は何よりも好きだった。
「はあ? モデル!? お前、マジで言ってんの?」
「嘘ついてどうするんだよ。向こうからどうしてもってしつこくてさ。まあ、顔は悪くないから、一度くらい遊んでやってもいいかなって思って」
俺が余裕の笑みを浮かべてそう言い放つと、テーブルの上に重苦しい沈黙が降りた。中島たちは顔を見合わせ、何かを飲み込むような表情をしている。彼らの心の中で、俺に対するコンプレックスがさらに肥大化していく音が聞こえるようだ。
「……お前って、本当に相変わらずだよな。自分がどんだけ恵まれてるか、わかっててわざと言ってんだろ」
中島が吐き捨てるように言った。その目には、かつてのような親しげな色はなく、代わりに冷たい拒絶の光が宿っていた。だが、俺はそんなことには全く気づかなかった。いや、気づこうともしなかった。彼らが俺を妬んでいる。その事実こそが、俺が彼らよりも優れているという何よりの証明なのだから。
「まあまあ、そんな怖い顔するなよ。お前らにもいつか、いい出会いがあるって。それじゃ、俺はこれから別の予定があるから、お先にな」
俺はわざとらしく腕時計に視線を落とし、席を立った。実際にはこの後何の予定もなかったが、これ以上彼らの貧乏くさい空気に付き合う義理はない。彼らに奢る気すら起きなかったので、自分の分のコーヒー代だけをテーブルに置き、俺は振り返ることなくカフェを後にした。
背中に突き刺さるような彼らの視線を感じながら、俺は勝利の美酒に酔いしれていた。彼らのような敗北者たちを見下ろすことで、俺の自尊心はさらに強固なものとなる。やはり、時々はああして彼らに現実を突きつけてやる必要があるのだ。
カフェを出た俺は、その足で近くのデパートへと向かった。カナの家に行く前に、何か適当な手土産でも買っていくかと思ったからだ。数日前、あいつは俺のためにわざわざ手作りのクッキーを持ってきた。俺のような完璧な男から、ほんの少しの褒美を与えてやれば、あいつはまた泣いて喜ぶだろう。
デパ地下で適当に選んだ高級チョコレートの箱を手に、俺はカナの住むアパートへと向かった。カナのアパートは、俺のタワーマンションから歩いて十五分ほどの場所にある、築年数の古い地味な物件だ。彼女の薄給では、こんなところに住むのが関の山だろう。俺とはすべてにおいて釣り合わないが、その圧倒的な格差こそが、カナを俺に依存させる鎖となっているのだ。
チャイムを鳴らすと、しばらくしてドアが開いた。休日の昼下がりだというのに、カナは部屋着のまま、髪も適当にまとめただけの無防備な姿だった。俺の顔を見ると、彼女はほんの少しだけ驚いたように目を見開いた。
「翔……どうしたの、急に」
「お前の顔が見たくなったから来てやったんだよ。ほら、これ。お土産」
俺は恩着せがましくチョコレートの箱を差し出した。カナはそれを受け取ると、静かに「ありがとう」とだけ言った。以前なら、「えっ、私に!? 翔、わざわざ買ってきてくれたの? 嬉しい!」とはしゃいでいたはずなのに。今日の彼女は、どこか反応が薄い。
部屋に上がり込み、狭いリビングのソファにどっかりと腰を下ろす。カナはキッチンでお茶を淹れ始めた。その後ろ姿を見ながら、俺は先ほどのカフェでの出来事を思い出していた。中島たちに見せつけた俺の優位性。それを、このカナにも見せつけてやりたくなった。
「そういえばさ、来週、ちょっと面倒な予定が入っちゃってさ」
俺はわざとらしくため息をつきながら、背もたれに体を預けた。カナはティーカップをテーブルに置きながら、俺の顔を見ずに「そうなんだ」と相槌を打った。
「ああ。こないだ知り合ったモデルの子がいるんだけどさ、向こうからどうしてもフレンチに行きたいってしつこく誘ってきて。断るのも悪いから、付き合ってやろうかと思ってさ」
どうだ。お前のような地味な女とは違い、俺は華やかな世界で美女たちから求められている。その事実を突きつけられれば、お前は自分の惨めさを痛感し、俺に対する劣等感と嫉妬で狂いそうになるはずだ。「そんな女のところに行かないで、私だけを見て」と、俺にすがりついてくるがいい。
俺はカナの反応を期待して、彼女の顔を覗き込んだ。だが、カナの表情には、俺が期待していたような焦りも嫉妬も浮かんでいなかった。彼女はただ、静かにティーカップの縁を指でなぞりながら、無表情のまま俺の言葉を聞き流しているようだった。
「……へえ、そうなんだ。よかったね、フレンチなんて羨ましいな」
その言葉には、何の感情もこもっていなかった。まるで、テレビのニュースで遠い国の出来事を聞いているかのような、ひどく他人事のような響き。俺は一瞬、耳を疑った。
「おい、聞いてるのか? 相手はモデルだぞ? お前、何も思わないのか?」
「何もって……翔が誰とご飯に行こうが、私には関係ないことだし」
「はっ、強がるなよ。本当は嫉妬してるくせに。お前みたいに取り柄のない女は、俺が他の女のところに行くのが怖くてたまらないんだろ?」
俺はカナの心中を見透かしたように、自信たっぷりに笑いかけた。そうだ、これはカナの強がりだ。プライドが邪魔をして、素直に嫉妬を表現できないだけだ。俺が優しく抱きしめて、「俺にはお前だけだ」と嘘でも言ってやれば、彼女はすぐに泣き崩れて俺の胸に飛び込んでくるに違いない。
「……翔って、本当に自分のことしか見えてないんだね」
カナがぽつりと呟いた。その声は、驚くほど冷たく、そして静かだった。俺は一瞬、背筋に冷たいものが走るのを感じたが、すぐにそれを打ち消した。
「なんだよそれ。俺はただ、お前が可哀想だから正直に言ってやってるだけだろ。俺みたいな男が幼馴染で、しかもこうして会いに来てやってるんだ。もっと感謝すべきじゃないのか?」
「……もういいよ。お茶、冷めちゃうから飲んで」
カナはそれ以上何も言わず、立ち上がってキッチンへと戻っていった。俺は一人取り残されたリビングで、テーブルの上に置かれたティーカップを睨みつけた。
なんだ、今の態度は。俺がわざわざ時間を割いて来てやったというのに。嫉妬してすがりついてくるのが、お前のような女の正しい反応だろう。俺は苛立ちを覚えながら、冷めかけた紅茶を一気に飲み干した。
しかし、俺はまだ気づいていなかった。いや、認めたくなかったのだ。俺の完璧な世界を支えていた強固な土台に、すでに無数のひびが入り始めていることに。カナのその静かな瞳の奥で、俺に対する感情が完全に冷え切り、音を立てて崩れ去ろうとしていることに。
「ふん、まあいい。どうせ数日もすれば、寂しくなって自分から連絡してくるに決まってる」
俺は自分にそう言い聞かせ、アウスタを開いた。そこには、俺を称賛する無数のコメントが溢れている。これこそが、俺の真実の世界だ。俺は愛され、求められている。カナのような女の機嫌一つで、俺の価値が揺らぐことなどあり得ない。
スマートフォン越しに広がる仮想の称賛の海に溺れながら、俺はゆっくりと目を閉じた。自分を包み込む優越感という名の甘い麻薬。それがいつか猛毒となって俺自身を蝕むことなど、この時の俺は知る由もなかった。




