八章 春怒涛
春怒濤――。
とは言え、海の無い会津檜原では波の勢いを指す本来の意味とは違った。
卯月の陽射しにあれだけ積もっていた雪も最近少しずつその姿を消し、その合間からふきのとうが顔を出し始めている。
ここ最近怒濤であるのは俊勝の心境であった。
父の跡目を継ぎ、期待通りに檜原を受領すべきか、それとも大助の様に自身の気持ちに従って蘆名盛興旗本衆の呼び掛けに応じるべきか――。
考えても答えが出せないまま
『黒川城二の丸に複数屋敷を建設中』
との報告が耳に入り、それほど流暢に迷っていられない時流に余計焦りを感じてもいた。
『まったくどうしたもんかの……』
悶々としたまま、呑気に欠伸をしている飼い猫を横目に俊勝は自室を出た。
大助は喧嘩した翌日に、一度も言葉を交わさぬまま自領の川口本名に一人戻って行った。
別れ際の見下した様な一瞥を思い返すと、またむしゃくしゃした感情が顔を覗かせてくるため、ここ一ヶ月の間は庭先で頭が真っ白になるまで木刀を振るう日々が続いている。
一方、黒川の情勢としては戦こそ無かったが、それ以外で動きがあった。
まず、蘆名盛氏が出家し剃髪して、止々斎と号したと言う。無論これは現当主の蘆名盛興に全権を譲る準備の為の出家であり、同時に『向羽黒山城』なる隠居城を黒川の南西、阿賀川を越えた一里半(6キロメートル)の場所に築城し始めたという。
羽黒山は南北七町二間、東西五町五間(南北800m×東西600m)ある山で、頂きからは黒川を一望出来る。盛氏……いや、止々斎はこの山を丸々城に作り変え、麓に新たな町も作るつもりらしい。
蘆名家の力を周辺の大名達に誇示する目的と、まだ経験の浅い盛興が治める黒川城支援も視野に入れた軍備。という訳だ。
――そして、盛道山高厳寺に幽閉されていた蘆名山城守氏方が自害して果てた。幽閉の身を憂いたか、それとも物言えぬ故、蘆名盛氏に当て付けるためかは解らぬが身罷った。
氏方の死は蘆名家中で正式の葬儀も行われず、亡骸は幽閉先の高厳寺で埋葬され、菩提は氏方の子が僧となって弔って行くのだと言う。
「やぁやぁ、精が出ますな――」
悶々を振り払おうと素振りを数え、それが五十を超えた辺りで、聞き慣れたしわがれ声が耳に入る。戦場で見せた陣羽織では無く、暖かそうな熊皮羽織姿の鈴木大蔵翁が玄関脇から近づいて来ていた。
「別に好きで稽古してる訳では無い」
「……のようですな」
仏頂面の俊勝に対し、鈴木大蔵は好々爺の笑みを絶やさぬまま、縁側にゆっくり腰を下ろした。
「殿とは相変わらず話されていないのですな」
「父上は……、この檜原を継げとしか言わぬでは無いか」
「はてさて、それはどうかと」
鈴木大蔵の笑顔も俊勝は癪に障っていたが、昔から自分を見知っている傅役の言葉は欲している正解を孕んでいる様で、無視は出来ない気がしている。
「父上は知将ぞ。儂の考えなど既に見通されているに相違無い。恐らく儂が若殿の旗本衆になったとしても、それが上手くいかぬ事さえ見抜いておられるのじゃろう」
「確かに殿は知将でござるな。そこまでは合うておりますが、若が旗本衆としてやっていけるかどうかまでは見渡せますまい」
「何故じゃ」
ほっほっと鈴木大蔵は嬉しそうに肩を揺らしてひと笑いし、閉じていた眼を皺を掻き分けて見開いた。
「若の未来はまだ誰にも見えませぬ」
「い、いや知将の父ならば……」
「見えませぬ」
戸惑う俊勝の言葉を遮って、再び鈴木大蔵が否定する。二度目の否定は強く、黙らせて言う事を聞かせる際の音調であった。
「たかだか元服したての我が子の未来なぞ、この世の親をどれだけ集めた所で、答えられる者など居りはしませぬ」
「……」
いつの間にか鈴木大蔵の笑みは消えている。
随分と歳を取ったものよと俊勝は考えていた。深い皺に枯れた声、曲がった腰に緩慢な所作。
しかし、変わっていないのはその眼光。そして『自分を理解している傅役』としての優しさと厳しさ。
「ならば聞くが、未来が分からぬのに何故父上は反対なさるのじゃ」
「……果たして本当に反対なされておりますかな」
「しておるだろう」
「否。殿は若を試しておられるのです」
「試す――。何故」
「殿にも見えぬ若の未来が故……ですな」
「応援する道もあるだろうが」
「殿の親心を鑑みなされませ」
「分からぬ――」
つい感情的に俊勝は怒鳴って鈴木大蔵に背を向けた。
家督を継ぐのは世の倣いであるのは分かっている。しかし、先の謀反鎮圧には手応えがあった。蘆名氏方の自害の報には若干の気落ちもあったが、武士として蘆名親子からも、平田周防からもその功績を褒められもした。
それ故に旗本衆という出世の道が舞い込んだ。それを父に褒めて欲しかった、喜んで欲しかった。
「若は旗本衆になって、何を成したいのですかな――」
「それは……」
鈴木大蔵の問いに咄嗟に答えが出ない。と同時に自身の悶々としていた感情の揺らぎを感じ取った。
「旗本衆とは言わば若の新たな道。つまりは挑戦の道でもある。挑戦の道とは即ち、合戦の心意気と同じ事」
鈴木大蔵に背を向けたまま、身体が震えた。春の煌めく陽の光がぼやける感覚を覚える。
降って湧いた出世話に浮ついていた心。この悶々とした感情は自身の芯たる――そう、覚悟が欠けていた事に漸く気が付いた。
「合戦は誰もが生きるため、必死となりまする。旗本衆であっても同じで御座いましょう。為って終わりではござらぬ。為すべきことを為す(やるべきことをやる)心意気が無くば、見えぬ未来が暗く濁って見えるは必定で御座る」
鈴木大蔵の老いた言葉が研いだ刃の様に俊勝の胸に突き刺さる。為したい事も、覚悟も無く、ぼやけた心で何を為せると言うのか……。
「若は殿から愛されておりますぞ。愛ある親は子の成長を喜びながら、大いに心配もするものです」
「……爺、もう良い。分かった――」
必死に平静を装ったが、涙声しか出ない。
『情け無し』
そんな言葉が浮かぶと同時に、初めてその身が多くの人、物、縁に活かされている事を知った。
「結構――。流石は若様――」
俊勝は背を向けたまま微動だにせず、鈴木大蔵が立ち去る衣擦れの音を聞いていた。相変わらず緩慢な音であるが、振り返らずとも翁がどのような顔をしているかは分かっていた。
戦場では想像が付かない程のあの好々爺の顔を。
「……よし。行くぞ」
灯し油の火を吹き消し、俊勝が独り言を呟く。
父、俊範は先程帰宅したのを馬の嘶きで確認している。なんでも叔父の俊政に所用で呼ばれ、巌谷城まで行って来たらしい。別段、その事自体に不思議は無いし、これまでもそうした事はままあった。
だが、今日においては俊勝が父と何を話すべきか深く考えるにもってこいの一間となった。
鈴木大蔵が帰ってからというもの俊勝は自室に籠り、墨を擦り、半紙を用意し次の様に書き付けた。
一つ、旗本衆で為したい事をお伝えす
一つ、父上のご心配を払拭す
一つ、この合戦を応援頂きたい事をお伝えす
最後は『合戦』と書いた。筆が勝手に動く様に、自分でも全く抵抗無く納得の上で自然に出て来た。
自分の意思を貫き、一本の道を選ぶ事。
勝常寺の戦い直前の評定で覚えた、勝利のみを見つめ、その為に手段を徹底的に追求する事――。
それを俊勝は『合戦』と言う言葉で括った。
「負けられん」
腹も括るため、わざと俊勝は呟いて自分に言い聞かせた。敵は自分であると判っている。
強敵を前に勝利を諦め、どうせ負け戦になると考えを放棄し、挙句はその悔しさを忘れる為素振りなどしてごまかした。
父が知将であるならば、逃げている事もお見通しであったはず。その上で言葉を掛けず見守ってくれていたのが鈴木大蔵が言う『親心』なのかも知れない。
……そうであるなら父に『自分に打ち勝った』事をまず報告したい。なに、もし勝ちが認められなくても全力を尽くして負けるのならばそれすら次の糧にすれば良いのだ。
『次は上手くやれる』
いつぞやの父の言葉を借りて、鶯張りの音を踏み鳴らしながら俊範の居室を真っ直ぐに目指す。部屋の灯が襖の隙間から漏れ出す廊下で、一度歩みを止め左手を心の臓にかざして一呼吸吐いた。
「父上」
やはり緊張は隠せない。声が震えている。
これから話す事は、家督を継ぐと言う絶対的な約束を違える意味を持つ。
この世に嫡男として生を受け十六年。当たり前と受け入れて来た事をここ一か月そこらの時間で覆す意味は誠に重い。
「お話が御座います」
「……入れ」
一寸の間を置き、俊範の声が返って来た。俊勝は黙したまま、襖を両手で開き平伏した後、静かに入室する。
俊範は高価な蝋燭を使い、庭に向けて置いてある文机に向かって書き物をしていた。俊勝は再び両手で襖を閉じ、父の背に向け平伏する。
合戦開始の法螺貝が鳴る。
「話して良いぞ。どうせ若殿の旗本衆の件じゃろうが」
まだ背中を見せているだけの父にまず先手を打たれた。一瞬は怯むも、この程度の展開は予想通りである。
「正しく、その件につい……」
「ならん」
ぴしゃりと二手目。いやいや、これも予想の内。
ふぅっと小さく息を吐き、次の言葉を番える。
「お聞きくだされ。父上にお伝えしたいのは、儂の成りたい話では無く、為したい話なのです」
「……意味が分からぬ。言い換えよ」
これは予想の外――。
決め台詞として用意していた先兵が呆気なくやられ、俊勝に動揺が走る。
「も、申し訳ありませぬ。……なれば言い換えて」
言い換えられない……。
背中だけの父に圧倒されている。
いや、むしろ表情が見えない分、父の考えが読めない。
「話をする際はまとめてから来るものぞ」
「……」
追い討ちだ。あっという間に一戦目に勝機が見えなくなった。二人のみの部屋を沈黙が支配する。今が夏場か秋の夜であれば虫の声が間を保たせてくれたであろうが、今は四月である。無情な程に静かな空間がそこに横たわっている。
あれこれと考えて準備をしたが、全て裏目に出てしまった。俊勝の覚悟は面を向けるまでも無く、背中で父に軽々といなされている。
『撤退』
そんな言葉が浮かんだ。
「父上……」
否、この程度で負けたくは無い。
父の背中に呼びかけた言葉を飲み込むなり、俊勝は自身の頬を右手で引っ叩いた。
「……何をしておる」
突然響き渡った渇いた音に初めて父が顔を向けた。驚き目を丸くした顔。ここ最近は薄目で何か言いたげな、それでいて堪えているような気配の顔ばかり見て来たから、見慣れたその表情に嬉しさが浮かんだ。
『奇襲じゃ』
正攻法で見込みがないならば相手が思いも寄らない事で引っ掻き回すに限る。雪橇の計と根幹は一緒だ。
「上手く話せない故、この口に気合いを入れ申した」
「……はっ」
意図せぬ言葉に俊範がやっと相好を崩した(笑った)。
「初陣を果たした今だからこそ、今一度お伺いしたい事がござりまする」
『今度は釣りじゃ』
策に嵌めるため、合戦では時に懐まで相手を釣り出す事もある。
「何の話か――」
「巌谷城攻めの理由をお聞きしたく」
そして、相手を釣るにはなるべく本音を混ぜて、引き付けるかも肝要である。
「何故今更それを聞く……」
俊範の顔が強張り、ふと目を逸らした。が、体は振り返ったまま。表情は判る。
迷っている。または、誤魔化そうとしている。
「儂なりに推察しました。あれは叔父上と父上がご自身の意思に従われ、覚悟の上で起こした戦ではなかったのでしょうか」
俊範の顔は微動だにしない。……が、一寸の間を置いて
「それほど大層な理由は無い」
と短く返した。
奇襲と釣り。これも俊勝が自室で練った作戦であった。
半紙に書き出した目的の一つ。
『一つ、旗本衆で為したい事をお伝えす』
への布石である。
「何卒、本意をお聞かせください。そこに儂の、今回の旗本衆の話を受けたいという本意と重なるものがある様に感じておるのです」
俊勝の懇願に俊範が真っ直ぐに視線を注ぐ。見定めているのだ。
が、俊勝も真っ直ぐな視線で父の眼を逸らさず、捉える。
「お前の望む答えにはならぬと思うがの……。まぁ、良い。いずれは話す日が来るかもしれぬと思うてはおったからな」
観念した様子で、俊範は薄らと笑みを浮かべ語り始めた。
「巌谷城攻めの話の前に、きっかけから話さねばならん。……お主の母、光がまだ生きていた頃じゃ」
天文二十四(一五五五)年旧暦五月末日。
長雨が続くここ最近であったが、皐月晴れとなった事で、山ノ内新十郎俊範と妻の光は横田を発し、川口を目指していた。
目的は一年振りに開かれる金売り吉次の門前市で、間も無く数え七歳を迎える娘、陽の七五三祝いの品を手に入れる事であった。
「二人の旅は随分久しぶりですね」
光が市女笠(肩幅よりも広い大きな笠で、頭頂部が円錐状に突き出た女性用の笠)の唾を押し上げて、穏やかな青空に向かってそう言った。
「そうじゃの。夫婦水要らずは鶴千代が産まれる前の事になろうかの」
俊範が光の手を携え、切払峠の頂きを超える。
この坂道を降りて行き、只見川を越えれば本名集落だ。
「あら、殿はお忘れのようで。鶴千代が五歳になる時も黒川まで二人で行きましたよ」
「もう六年も前の事ではないか……」
「忘れた事に変わりは無いでしょう――」
記憶違いを指摘され、ばつが悪そうな俊範の顔を光が上目遣いで覗きこむ。整った鼻梁の上、勝気なぱっちりとした目が俊範に注がれると、夫婦であるにも関わらず俊範は気恥ずかしさで横を向いて
「もう、よせ」
とだけ言い放った。
二人のやり取りを見る様な人影はこの山奥の峠には当然居ない。が、もし居たとしたならば、十中八九で鴛鴦の様な夫婦であると思った事だろう。
俊範は三十四歳、光は三十二歳、三十路を過ぎて子を二人成していても夫婦仲は睦まじかった。
俊範と光は援け合いながら険しい山道を歩き続け、未の刻(午後十四時)には川口金山集落まで辿り着いた。
川口はその名の通り、只見川の川岸にあり、集落の西側は南方の山間の谷間を縫って流れ落ちる野尻川も只見川に合流する。まさに『川の口』に開けた場所であった。
朝や夕に雨が降ると、只見川には霧が発生し易く、雲海の様な幻想的な景色が広がるのでも有名な土地であった。
無論今日は晴れ間であるため、自然が産み出す絶景こそ見られなかったが、門前市の活気が、囲う山々に姦しく木霊する光景も非日常感があって別の趣きが感じられる。
「さ、殿、参りましょう。吉次の出店ならば上方の珍しいものも並んでいるでしょうから」
「うむ。陽の祝いのみならず、鶴千代の土産も考えねばの」
折角の鴛鴦旅であったが、横田の館で傅役の鈴木大蔵と乳母の元で留守番をしている愛し子の事はやはり忘れる事は出来ない。矢も立ても堪らずといった様子で俊範と光は市の人混みに紛れて行く。
「これは山ノ内のお殿様、よくおいで下さいました。……へぇ、吉右衛門ですか――。大将は横田へ先刻向かわれてしまって。道中で擦れ違わなかったですかい」
梁田吉右衛門の店は直ぐに見つかった。が、店番をするのは吉次商隊の若者で、吉右衛門本人は不在であった。
「切払峠では無く、きっと橋立集落(峠の西側、只見川沿いの部落)に向かったのでしょう」
「そのようじゃな。何、吉右衛門も横田に逗留するであろうから明日帰れば会えるじゃろう」
聡明な光の推理に俊範も頷いて答える。元々目的は買い物で、吉右衛門との邂逅はよしんば。という所であったから、気にする事では無い。
それよりも店棚に並ぶ色取り取りの簪に二人の目は釘付けになっている。上方(京や界といった当時の大都市を指す)の品らしく、鼈甲や瑪瑙を使った上品で珍しい簪が並んでいるのだ。
「これ素敵ね。あ、こっちも似合いそう」
虫垂れ衣(市女笠から膝下まで垂れ下げる透き通った薄い布。顔を隠す事と、虫除け目的で使われた)を両手で押し開き、目を輝かせて戸惑っている光。
俊範はどれでも良いと思っているが、光の選ぶものならば間違いが無いので、黙ったままその様子を微笑ましく眺めていた。
「へぇ、こちらをお買い求めで。おありがとうございます。奥方様にようお似合いですよ。……ほぅ御息女への贈り物ですかい。七五三のお品で。そりゃめでたい。じゃあ、五百文のところをおまけして、四百文でどうですかい。おや、銀判でお支払いですか。では二枚(一枚が一匁で3.75グラム)頂きます。はい、丁度。」
上方の訛りが混じった威勢の良い店番が手際良く会計してくれた。光が選んだのは鼈甲で牡丹を細工した見目の良い品である。
元値五百文(五万円)とは大分高価だが、簪を送る事は身につける者を守護する意味合いがあるため、七五三の祝い品としてはうってつけであった。
「良き品が手に入ったな。さて、次は……」
鶴千代の土産と言い掛けた俊範の言葉が止まる。その様子に光が気付き、俊範の視線の方向を探ると寺門の角で一人座っている幼子を見留めた。
身なりが悪く、髪の毛もぼさぼさに荒れている。この時代、斯様な姿は浮浪児で相違ないだろう。
光は何も言わず、真っ直ぐに門の方向に歩み出した。考えるより先に身体が動いている。俊範もその後を追った。
「あなたどうしたの。父上や母上は居るの――」
光の呼び掛けに座ったまま幼子が顔を上げる。その顔も砂埃で真っ黒に汚れ、目から頬にかけて一筋の線が入っていた。……泣いた後であるのが瞬時に解る。女子であった。
着物は着ているが、こちらも所々が破れ、抱えられた膝下は痩せ細った棒の様な足が二本、裸足で石段の上に載せられている。
光は背の荷袋を直ぐさま下ろし、そこから乾飯を取り出すと幼女の前に差し出した。
「食べて良いわよ。まずは食べて、落ち着いたら話して頂戴」
幼女は途端に顔をくしゃくしゃにして、泣きながら乾飯を奪うと口一杯に頬張った。ここ何日も食べていなかったのだろう。ガリガリと音を立てながら咀嚼し、身体をのけ反らせて飲み込む。
光が続いて水が入った竹筒を差し出し、子の口に斜めに当てがう。こちらも喉を鳴らして一気に飲み干してしまった。
「もう大丈夫よ。ご飯も水もまだまだあるから――」
光は跪き、今度は優しく抱擁した。服が汚れるなど気にも止めず、小さい身体を哀しみから守る様に包み込んだ。
「とうも、かあもしんじゃった。うちもわるいひとにもやされた……。しらないひとにつかまって、にげて……それで……」
嗚咽混じりに必死に話す幼子の言葉を、そう。そう。と優しく受け止める光。
俊範はその様で、子が背負った重い悲しみを悟り、唇を強く噛み締めた。人の親であるから尚更、やるせない怒りが止めどなく込み上げて来る。
「名前は言える」
「……さ、さや」
「さやちゃんね。もう大丈夫……」
光も虫垂れ衣の中で泣いている。戦国の容赦無い幼子への仕打ちと、歳を一つも取れずに亡くなった我が子の記憶が重なり、俊範はより強く唇を噛み続けていた。
「この娘を連れてでは今日中に横田には帰れんな」
腕の中、すやすやと寝息を立てる幼子を見ながら、俊範がごちた。愛娘の陽と同じ歳頃の幼女だが、身体は軽い。
「玉縄の治部殿は」
「確かに最も近いが……。横田本家の我等が行かば少々面倒になるな」
「そうよね――」
治部とは俊範から見て三番目の弟、川口治部左衛門尉俊甫の事である。
俊甫と俊範の父でもある山ノ内治部太輔俊清は横田山ノ内宗家当主の兵部大夫舜通との間で次期当主選びで揉めており、俊清は五男の俊甫を連れ立って、ここ川口領に鳥山城(のち改名し玉縄城)を築いて住み始めた過去がある。
俊範らは宗家側の人間と思われているから、頼れないと俊範は言っているのだ。
「なら、本名右近殿は」
「右近か、近場で頼れるはあやつしかおらぬな」
俊範と光は来た道を引き返し、本名集落を目指す事で合意した。本名右近介氏重は俊清の七男。俊範から見て四番目の弟で、本名大助の父だ。
本家、分家といった派閥争いに関わり合いが無く、中立的立場であったのと、三男の俊範からして七男の弟は頼り易い存在でもある。川口金山から途中の渡し船を利用したとしても半刻(一時間)で、道も平坦だ。
「いやいや、兄上がお越し下さるとは」
川口本名領に着いたのは夕陽が只見川を橙色に染める時分の頃であった。
突然の兄夫婦の来訪にも関わらず、本名右近介は快く一晩の宿を承諾し、俊範には酒肴を、光には『さや』のために所望した湯までも手配してくれている。
右近介氏重は俊範の七歳下になるため、他の兄弟の中でも尊敬を込めて接してくれていた。
「すまぬな、必要な時だけ頼ってしまって」
「いえいえ。兄上に頼られる時があるだけで嬉しい限りです」
氏重は甲高い声でカッカッと笑うと、俊範に酒を勧める。積もる話も出来て、兄弟仲良く酒が進んでいく。
「……さあ、見て下さい。こんなに綺麗になりましたよ」
光が庭先の障子戸を開け、夕餉の座敷に顔を見せる。その手には小さな手が握られ、おずおずした様で目鼻立ちの整った童女が現れた。
埃に塗れて乱れていた髪は少し切って整えられ、ぼろ布となっていた服も本名右近介の娘の物を頂戴し、品すらも感じられる風菜になっている。
「ほう――。これ程可愛らしい子であったとは」
「うむ。座敷童子の様じゃの」
酔いの入った二人の侍に褒められて怖がったのか、照れたのか、光の足元に隠れる『さや』。
「そんなに大きな声で話されるからですよ。ほら、大丈夫。一緒にご飯を頂きましょう」
光に促され、『さや』はとことこ高膳の前に連れ出された。初めて脚の長い膳を見たのと、品数の多い夕餉に驚いたのか、上下上下と目玉を動かす様がいじらしい。
「このような可愛らしい子が天涯孤独などと……」
隣で口一杯に飯を頬張る童に目を細めながら光が呟く。
「ひょっとすると越後の白川辺りから来たのかもしれません。あそこは最近山賊や人買いの類が跋扈していると聞いております」
「横田の近くか……。賊に集落を襲われ、奴隷商人に黒川まで売られに行く途中で逃げて来たのかも知れぬ。帰ったら宗家に賊討伐の上申をしてみるわ」
兄弟領主同士。治安悪化は捨て置く事が出来ない性分なのだ。
『さや』は二度おかわりをして存分に夕餉を喰らうと、また眠くなったらしく、光と奥の部屋に消えていった。
「しかし、相変わらず義姉様は器量良しですな。その上菩薩の様な優しさもお持ちとは」
「うむ。儂のやりたい事を率先してやってくれるから、何かと助けられておる」
「……器量良しに触れておりませぬぞ」
「こやつ」
一人の幼子の不幸を救えた事に満足したのか、兄弟の酒宴は慎ましくではあったが、和やかな時であった。
が、明日朝には横田へ帰る為、程々の所でお開きとなり、俊範も寝床に向かった。
右近介氏重が用意してくれた奥の部屋は母屋の南側に面しており、遠く只見川の流れる音が微かに聞こえる。
静かな夜であった。
「酒宴は終わりですか」
顰められた光の声が暗闇に浮かぶ。
「ああ。右近も寝たわ。さやはどうじゃ」
言いつつ敷かれた上筵(薄綿を詰めた敷布。現在の敷布団の様に使った)に四つん這いになり、小さい寝息の方に目を凝らす。
「良く寝ています。暗いのが怖いのか、私の首に抱きついたまま寝てしまって外すのに難儀しました」
「左様か」
俊範と光は声を抑えつつ、共に笑い合った。
「この子も我が家で幸せに育てたいの」
「ええ。これ以上辛い事が無いよう、あの子達と同じ様に……」
「光」
「はい」
「妻でいてくれてありがとう」
「なんですか――急に」
「いや、言える時に言うておこうと思っての」
「ふふ……。腹の中のやや子もびっくりしてますよ」
暗闇の中、鴛鴦の囁きが往来する。
「悪阻もまだ無い内に近場とは言え旅が出来て良かった。鶴千代への土産が買えていないのが心残りではあるが、横田には吉次も居るから、何か譲ってもらう事にしよう」
「そうですね。明日は早めに発ちましょう。早くさやをあの子達に会わせたいわ」
「仲良く出来れば良いがの」
「大丈夫。聡い子達ですから。……殿に似て」
「お前に……だろう。ありがとう」
闇に慣れた視界の左側、影が小刻みに揺れていた。
よく笑う光が俊範は好きだった。
……深夜。
俊範はガタガタと言う家鳴りに目を覚ました。意識がまだはっきりとしないが、身体が小刻みに振動しているのを感じ、ただ成らぬものと跳ね起きた。
「……地震じゃ。光、さや起きよ――」
闇の中、左隣に寝ているはずの二人に声を上げた所で、今までの揺れが地面から突き上げられる様な重い衝撃に変わる。
『いかん――』
そう思ったか、言葉にしたか判らぬ内、続け様衝撃が二度三度と繰り返された。体験した事の無い揺れと、地の底から響くような低音で不気味な地鳴り。
間髪置かず家のそこかしこで屋根、柱の割れ裂けるけたたましい音と気配が襲って来る。
「光、さや……」
今一度声を上げた所で稲妻が天井で轟いた。
訳など解らぬ。闇が収縮する気配を最後に感じ、そのまま俊範は意識を失った……。
人の声がしている……。いや、声だけでは無い。ガラガラと走り回る大仰な音が聞こえて来る。
「……か、あ……」
声を出そうとするが思う様に発する事が出来ない。背中に何かが載っている。
少しずつ意識が広がって、昨晩の揺れと地震があった事を朧げに思い出す。
『夢であったのか……』
否。現に辺りは暗く、だが手が届きそうな向こう側に丸く朝の光が見えている。建物が倒壊しているのだ。
俊範は見えている光に向かって、匍匐を始める。昨夜共に寝ていた光と『さや』を案じたが、上手く声が出せず、今は外に出る事を優先すると決めた。
「……兄上、兄上――」
穴の外から甲高い声で呼び掛けられている。弟は無事の様で安堵する。が、兎に角今は前に進むしか無い。
時間にすれば僅かだったかもしれないが、腹這いで進む間は酷く長く感じられた。
『後少し……』
力無く伸ばした右手が穴倉から突き出た。
「兄上か――。引っ張り出しますぞ」
声の後に強い力で右手を掴まれ、身体がずるずると陽の光に向けて進みだす。身体の感覚が鈍い……。
やがて俊範の身体は眩しい光に包まれた。
「兄上、ご無事で――」
着流し姿の右近介氏重が目を細めて俊範を見下ろしている。が、自分の言葉はまだ上手く発せられない。
「こちらに人手を。義姉様を探せ」
『何――』
弟の声をきっかけに意識が戻る。光がまだ出て来ていないだと――。
痺れた様な感覚の中、なんとか上半身を引き起こす。
昨夜までそこにあった家屋が煎餅のように無惨な姿を晒していた。這い出したであろう穴倉以外、隙間も無い。
「み……つ……、さ……や……」
天文二十四(一五五五)年。
黒川を大地震が襲った事のみが史書には記されている。




