七章 帰還
年号は変わらず永禄四(一五六一)年、月は一つだけ進み弥生月(三月)の五日。
俊勝が属する山ノ内隊は坂下宿を後ろに通過し、所領の瀧谷、檜原に向けて山へ繋がる坂道に差し掛かり始めていた。
これまでの多忙が嘘の様に、馬の揺れのまま俊勝は右に左にと目を閉じて首が振り子の様に振れるのを任せている。眠ってはいないが、達成感と程よい疲労感が黒川城を出て以来ずっと俊勝の心中を見舞っており、冬の晴れ間で風もなく穏やかな気候が手伝い心地が良かった。
会津南の田島領主、長沼豊後守実国は蘆名盛氏ら討伐勢が鴫城に到達するなりあっさり敗北を認め、蘆名氏に降った。
豊後守実国は蘆名氏への従属し隠居。後を嫡男の長沼兵庫守に継いだ。兵庫守は蘆名盛氏から『盛』の字を拝領し、諱を盛秀と改めた。
作戦通り、俊勝の義叔父である河原田盛次との挟撃に戦意を失ったか、それとも蘆名山城守氏方との密約が『黒川勢を引きつけたなら良し』とだけ成されていたのかは不明だが、蘆名盛氏が田島領に到達した二月二十四日には鴫城を平定し終える事が出来ていた。
あまりに呆気ない長沼氏征討が終わると、次に蘆名盛氏の胸中に飛来したのは当然『庶兄(正妻ではなく、妾筋の腹違いの兄)の叛乱』への憂慮である。
蘆名盛氏は長沼氏を屈服させた翌日にはその後の始末を佐瀬大和守と富田美作守氏実(富田宗家当主。叛乱を起こした富田監物義実と嫡男の主膳義祐は氏実の姉の婿養子となった義兄と甥であり傍流)ら蘆名四宿老らに任せ、黒川へ戻った。
蘆名盛氏率いる旗本勢(盛氏が率いる直轄の兵)は二月二十八日には黒川へ帰城。そこで山ノ内勢が捉えた首謀者達との面会を果たす。
――馬上より藍糸威(甲冑に藍染の青糸を使ったもの)の見事な黒色甲冑を纏った蘆名盛氏が、捕縛の縄に囚われた庶兄、蘆名山城守氏方を見下ろした景色は自領に戻る安堵感に包まれる今の俊勝であっても思い返すには心の苦痛を伴う記憶だった。
お白洲の様に白く降り積もった雪の上、筵すら引かれず、謀叛首謀者の蘆名山城守氏方は手を荒縄で後手に結えられて地べたに座らされている。
もう大分そうさせれているからなのか、はたまた蘆名前当主の血を継ぐにも関わらず、縄目の憂き目に怒りを禁じ得ないのかは解らぬが、蘆名氏方の体は小刻みに震えて、眼前の一寸先をじっと捉えているのみだった。
やがて、蹄の音をゆっくりと響かせながら、蘆名盛氏が西御殿広場に姿を現す。
田島で長沼氏を屈服させての凱旋であるから、その威厳はいよいよ高まっているものかと俊勝は期待したが、甲冑を纏った蘆名盛氏の眼光に裏切られる事となる。
なんとも冷たい――。
しんと降る雪夜の空気の様に澱みなく、それでいて針の様に鋭く冷たい眼差し。真っ直ぐに暗い、深淵の眼光に俊勝の背中は沸きだった。
蘆名盛氏は黙したまま馬の歩を淡々と進め、やがて庶兄、蘆名氏方の一間(約1.8メートル)前で止まり、視線は冷たさを保ったまま縄目にある義兄に注がれる。
「おのれ愚弟修理よ。妾腹を理由に散々愚弄しおって。この結末、さぞ満足であろうな」
蘆名盛氏の姿をずっと睨み付けていた蘆名氏方が喉の奥から唸る様な声を発する。
「……何を仰せかとんと解らぬが、渾身一滴の謀りが的を射ず、その鬱憤を某に向けられても困りますな」
「ぬかせ――。父が儂に安堵した知行(領有権を認められた土地の事。知行にはそこに住まう民百姓も含み、翻ってその土地の税収権も総括する)を取り上げ、産まれの違いだけで儂を虐げてきたお前が知った口を叩くな――」
兄弟喧嘩は多くの諸兵達の前で繰り広げられた。
縄目の身である蘆名氏方ではあったが、後ろ手の荒縄を体を捩って抜けようと試みつつ、眼光は怒気に満ち赤々と燃え、一言一言に呪詛を込める様な迫力だ。
対する蘆名盛氏の方は相変わらず感情を見せず、馬上から冷淡な視線を向け続けている。
哀れんでいるものかと思えたが、どちらかと言えば面倒に辟易していると言うのが実の様であった。
「もう良かろう。謀反人には追って沙汰を下す」
「待て、修理――。おのれは知るまい――」
まだ何かを言おうと膝立ちで前へ出ようとした蘆名氏方の前に手槍が十時に突き出されてそれを制される。
これまでの怨みを言葉に出来る機会は刑罰を持って間も無く絶たれるだろう。それを理解しているからこそ蘆名氏方も食い下がりたかったが、受け手の蘆名盛氏は既にその声が届かない所まで歩を進めていた。
「……必ず、必ず近い内に蘆名は苦難に立つだろう。いや、かような歪な家ならばむしろ滅びてしまえ……」
最早見ていられず俊勝が背を向けた際、慟哭と一緒に聞こえた蘆名氏方の言葉には俊勝のみならずその場に居た将、兵卒を問わず同情の念を禁じ得なかった。
「父上、母上……申し訳ござりませぬ――」
母は白拍子(歌舞をする遊女)の身分。しかしそれ自体に蘆名盛氏の父、盛舜から寵愛を受けた事への虚実は無い。
むしろ政略で迎える血筋優先の婚姻より、見染めて妾となる方が情愛は自然で深かったかもしれない。
そしてその情愛の先に蘆名氏方は生を受けた。
蘆名盛氏が産まれるまでは父母の愛情を一身に受けて、時に見せる利発な姿や、あどけない笑い声は『若殿』と期待を向けられる事もあったかも知れない。
現に蘆名氏方の字名である『東殿』は黒川城本丸の東側に屋敷を得ていた事に由来する。それだけ蘆名盛氏の近くに居ながら、北方の富田監物に引き取られるまで波風を立てず、そして引き取られた後も四十六歳の齢まで僅かの禄で慎ましく暮らしていたのだ。
思い立ち謀反を起こすような性格では元来無い。
積もりに積もった蘆名盛氏からの『父母への否定』が怨みに変わり、黒川領を巻き込む知謀を産み出して『氏方の乱』は結実していた――。
「恐ろしいのは人の執着……かの」
誰にも聞こえない声で俊勝は青空に呟き、それ以上思い出すのを止める事にした。いずれにせよ乱は終わったのだ。
富田主膳義祐は本日、奴郎ケ前刑場の河原で斬首。蘆名四天の一つである富田家は正式に富田美作守氏実が当主として認知された。
そして蘆名氏方と妾、その男子は盛道山高厳寺での蟄居(幽閉)の扱いとなった。
蘆名氏方が生かされたのは驚きであったが、乱の再発は最早不可能と判じられた事。
そして反乱者である庶兄の命をも助け、『温情ある名君』として蘆名盛氏が人口に膾炙されるための材料にされた事がその要因であった。
無論、後者の理由は兄弟喧嘩を目撃した者達にとっては宣伝である事は言わずもがなであったが……。
いよいよ山ノ内隊は柳津の集落を抜けた。ここをさらに少し南下すれば俊政と俊基の所領、滝谷である。
出陣時は雪掻きを終えていた道筋はまたぞろ深雪が積もってしまっていたが、故郷を目前にした兵達は活気のある掛声を発しながら雪掻きに邁進している。
山ノ内隊の明るさの理由は帰郷の喜びからのみ来るものでは無い。
乱鎮定の功績が蘆名盛氏から高く評価された。その凱旋帰還である事が最大の理由であるのは間違い無かった。
「……此度の御働き誠に見事。よって山ノ内摂津守、並びに豊前守に賞賜救済も含め、銭百貫と感状。更に太刀二振り、駿馬一頭を贈呈するものとす――」
黒川城の本館、板敷の大広間にて蘆名盛氏、盛興父子を始め、平田舜範、佐瀬種常、富田氏実、松本氏輔ら蘆名四宿老が居並び、その中央で俊政、俊範らが平伏しながらそれを聞いていた。
「有難き幸せ」
定型的な返し文句であるが、戦功に対する恩賞としては言葉通り満足の行くものと言えた。
得られた褒美を纏めると――
銭百貫文は現在価値で約一千万円(一貫は10万円として算出)の金額。賞賜救済も含むとあるから、その額に死傷者への御見舞い金も加味して。という事になる。
武士として最高の褒美はやはり土地になるが、三年前に巌谷城攻めで瀧谷と檜原の領有を認められたばかりであるから、そこは止む無しと言えた。
次に『感状』。
これも現代に賞状という形で残っているが、働きに対して君主が礼を文書に残す事で『名誉』を可視化したものであり、子々孫々に語り継がれる事で『名』を残せ、他家へ仕官(転職)する際は自己の優秀さの証書にも出来た。
余談にはなるが、感状が残っているが故、その活躍と名前のみ現代に伝わっている武士も存在する。
次に太刀二振り。
これはその字のまま刀を貰った訳だが、当然数打ちの量産品とは異なり、名のある刀匠が作った業物になる。世に語り継がれる様な名刀であれば六十貫文(600万円)以上の値が付くのもざらではある……が、蘆名家にある鎌倉時代からの家宝を下賜されたとまではいかないため、拝領の刀は一振り十貫(100万円)程の価値になる。
最後に駿馬だが、陸奥国含む東北地域は馬産地である。
この時代、織田信長に仕えた山内一豊(会津山ノ内家とは鎌倉時代に別れた別家)が鏡栗毛なる東国一と呼ばれた名馬を内助の功で手に入れた逸話があるが、その価格は二十貫(200万円)と言われている。
無論これは畿内で馬を買った価格なので、名馬産出地である陸奥国ではもう少し値は下がる。
それでも四尺七寸(約140センチ。当時の国産馬平均は120センチ)と大柄な体躯の馬な為、15貫文(150万円)はするだろう。
以上、しめて合戦恩賞の総額は百四十貫(1400万円)となる。この額は檜原領の年収の約二倍にも相当する大変大きな稼ぎとなった。
論功行賞も終わりに進んだ頃、ふと蘆名盛氏が口を開いた。
「そこな若い者達は豊前の嫡男か――」
場に座する若者は俊基、俊勝、大助の三名になるが、蘆名盛氏の視線と俊範への質問の意図からすると後者二名を指していると慮られる。
「は。この者は某の愚息、三之丞。もう一名は某の愚弟、本名右近介が嫡子。本名大助と申します」
俊範の紹介を受け、俊勝と大助が改めて頭を一段深く下げる。まさか蘆名家当主から直接の声を掛けられるとは――。
そも、叔父の俊政が
『我等の武功比類無し。堂々と一門で論功行賞に参加すべし』
と臆する事なく言ってくれたからこその場であったが、その決断は吉と出そうである。
「父上――」
蘆名盛氏の横に控えていた見目の良い、これまた若い男が声を掛けた。蘆名家十七代当主、蘆名盛興である。
「三之丞とは蘆ノ牧で挨拶をしております。此度の戦いが初陣だとか」
初陣という言葉に蘆名盛氏の目が僅かに興味に輝く。無論それは、先刻の雪のお白洲で見せた冷たい視線とは全く違うものだ。
「ほう。初陣にして、黒川の危機であった謀叛を治めるに助力致したか」
「いえ――」
否定の言葉で遮ったのは四宿老の一人、平田周防守である。座を正し、直垂の袖を一度宙に舞わせると蘆名盛氏の方に畏まりつつ向き直った。
「彼の者の功績は助力では収まりませぬ。勝常寺における合戦で見せた知謀、統率、そして策略は兵数で劣る我等に大勝利をもたらしました」
平田周防はまるで自身の自慢話かの様に誇らしく、大広間中に聞こえる様、高らかにそう奏上した。
「その策略とは、"雪橇の計"――と申しましてな……」
興味を持った蘆名盛氏、盛興親子の期待に応える様に平田周防は先程よりも声の音を釣り上げ、大袈裟な身振り手振りまで加えて行く。
俊勝自身で手柄として申し伝える事は出来ないから、非常に有難い事ではあるのだが、俊勝のみならず大助までもが頬を赤らめて沈黙のまま顔を隠して伏している。
平田周防のお人好し……いや、弁舌の才なのであろう。蘆名親子は何度も頷きながら、大袈裟な語り部となっている平田周防の話に耳を傾けてそれを興味深そうに聞いた。
「……もう良いではありませぬか。局地でのただ一戦の話で御座ろう」
辟易とした顔で制したのは松本図書。論功行賞では城代として謀叛勢を黒川城から追い返した体で発表されたが、加増や褒美は勿論、言及すら一切無かった。
「おぉ。これは失敬。兵を留守番にしか使えぬ図書殿には無用な話でござったな」
松本図書の眼がきっと平田周防を瞬間的に睨んだが、蘆名盛氏の御前を気にして面白くなさ気に瞼を閉じた。眉間に刻まれた深い皺、への字に結ばれた口元が心情を推し量るには十分である。
「周防の話はいつも調子が良過ぎる故、全てを聞き入れる訳にはいかぬが、合戦を勝利に導いたのは間違い無いのであろうな。某と二歳しか変わらぬというのに、既に智将の片鱗を持つとは心強い限り――」
和かではあるが、それほど表情を変えない蘆名盛氏とは対照的に蘆名盛興は心から嬉しそうに破顔し、柏手を二度打った。
「論功行賞はこれまで。ここからは乱鎮圧の祝いと、新たに加わった山ノ内衆を交えて酒宴と参ろうぞ――」
蘆名盛興の呼び掛けに場が一気に高揚する。
蘆名家中の雰囲気は新参の山ノ内隊にはまだ掴みきれない部分があるが、蘆名盛興は裏表の無い明るい君主という事で間違いは無さそうである。
昼過ぎから始まった酒宴はその後夜遅くまで続いた。
平田周防による勝常寺の戦いの解説第二弾が先程よりも大袈裟に展開され、その後周りから要望を受けた佐瀬大和と佐瀬源兵衛も渋々、長沼氏征討のこぼれ話をいくつか披露する。
武士の酒宴らしく、話の内容は戦いの事ばかりであった。
蘆名盛氏と松本図書は早々に奥へと引き上げたが、蘆名盛興は最後まで大酒を飲み、笑い、時にまだ知らぬ戦さの秘訣話に感心して付き合っていた。
……いや、どちらかと言えば根っからの酒好きなのだろう。今年元服したばかりと言うのに家中の猛者が酒に潰れていく中、最後まで盃を手放す事は無かった。
「三之丞、大助、我等は立場違えど歳も近い。父にとりなし、城内に屋敷を建てて進呈するぞ。今後ともよしなにの――」
宴もたけなわの頃、呂律も怪しくなった蘆名盛興がそんな事を言い出す。俊勝と大助も大分酔いが回っていたが、謝辞を述べつつその場は平伏した。
期待はしていないが、場の空気と現当主たる蘆名盛興からの言葉を有難く受け止め、その後は四半刻程でお開きとなった。
俊勝ら檜原勢は巌谷城で俊政、俊基と別れを告げ、引き続き西へ向かって歩みを進めた。檜原までは峠道を一つ越えたら直ぐである。
辺りの雪に埋もれた景色や、大岩、木の形など何となく見覚えがあって檜原勢の歩みも自然早くなっていく。
峠道は巌谷城と檜原丸山城の連携を目的に領民達が雪掻きを終えてくれているのも有り難かった。
九十九折りの峠道を上り、今度は下りして檜原山ノ内隊が進んでいく。
「間も無く、もう直ぐ」
そんな声が聞こえてくるかの様な気配。
と、――どどっと前方の兵が一斉に走り出した。俊勝と大助もその後を追って馬の腹を蹴る。
山道の上の方、木々の枝が切れ、青く広がる空が映っている。漸く檜原領に着いたのだ――。
「やっと帰ってきたのう」
「ああ。檜原じゃ」
森を抜け、両手を挙げて喜びの声を上げる兵達に目を細めつつ、大助と俊勝が馬を寄せて微笑み合う。
多くの苦労や血生臭い事、時には絶体絶命の朝も経験したが、少年達の胸に去来するのはそれらをひっくるめての達成感であり、本人達もまだ気付いてはいない武士としての成長の息吹であった。
檜原集落の入り口で俊範は隊の解散を告げた。
勿論、賞賜救済や招兵に応じた謝礼受け渡しの日時と場所について言明は忘れない。
信頼は公平の中で生まれるものだ。
蘆名氏から貰った銭を黙って懐にしまうなど、今後の統治に悪影響あるは当然。きちんと取り分を示し、公平に分配する事で信頼は増し、儲けさせてくれる大将の元でこそいつかまた兵達は活躍してくれるのだ。
檜原領の頭領たる俊範から見舞金と臨時収入の約束を受けられた事で、兵達は安堵の顔で自宅への帰路に着いていく。
俊勝の目から見える家々では幼子や留守を守った女房の駆け寄る姿が輝いて見えた。
「なんとも、兵達が無事に帰る姿は微笑ましいものですな」
「ほぅ。お前にも分かるか」
俊勝と俊範がのんびり集落の畦道を馬に揺られ進みつつ、親子らしい会話を交わす。
「はい――。合戦がある以上、生命のやり取りは避ける事が出来ませぬが、一人でも多くの領民を守り、強め、撫民する事が如何に大事な事か――、今回の参陣で骨身に染みて分かったような気がしています」
「……ふ。儂よりもお主の方が理解が早いの。流石は光の子じゃ」
俊範はそう告げると、急に馬腹を蹴って、掛け声と共に走り出した。居館である豊前屋敷は目前で急ぐ必要も無いのだが……。
俊勝は不思議そうに父の跳ねるような背を見送り、大助とも首を傾げながら視線を合わせ、もう一度首を傾げた。
「父上、兄上、お帰りなさいませ――」
雪の上に桜色の小袖の花が咲いたように見目の良い少女が館の門の先で待ち構えていた。
「おう。陽、帰ったぞ」
馬から勢い良く甲冑の小札(短冊状の鉄板。鎧の防御を高めるためこうした鉄板を何枚も巻付けていた)と草摺を鳴らしながら俊勝が下馬して応える。俊範も既に下馬しており、出迎えに出た少女とにこやかに互いの無事を喜び合っている。
少女の名は『陽』。俊範の長女であり、母は俊勝と同じ『光』である。
兄の俊勝に似た整った鼻梁に勝気そうな大きな瞳。唇は薄く、笑顔の度に並びの良い歯が新しい雪の様に光る。黒髪は腰元まで長くたなびき、動作に合わせて柔らかく左右に揺れている。
「お陽殿、只今戻りました」
大助の声はぎこちない。これだけの器量良しは珍しいから仕方の無い事である。
「お帰りなさいませ、大助殿。ご無事で何よりでした」
陽の屈託ない微笑みと、鳥の囀りの様ないじらしい声色に大助の取り繕った顔も直ぐに緩んでしまっう。
「さ、中へ入られませ。お食事も用意してありますので」
武家の子女として気遣いもある陽。
俊勝の五つ下だから、今年で十一歳。この頃の結婚適齢期は十二歳から十代後半であったが、器量良しが故、既に先の縁談話が何件か舞い込んで来ており、俊範は苦慮している。
陽はその名の通り、家中の太陽として輝いている存在だから苦慮も致し方無しと言ったところか。
山ノ内豊前守俊範の家族構成は前妻である光との間に俊勝と陽のニ子。後は後妻の比呂のみである。比呂は三年前に檜原丸山城を内山淡路守俊景から受け継ぐ際に婚姻したが、年齢が三十五歳(比呂も前夫あり)とこの時代かなりの晩婚に当たる事もあり、俊範との間に子は未だ無かった。
「お帰りなさいませ――。ささ、殿も三之丞殿も大助殿もお寒かったでしょう。広間に火鉢も用意してますから――」
線の細い陽の囀り声とは違い、良く通る大きな声を発して継母の比呂が玄関先で手招きをする。
継母とは言え、明るく、分け隔てなく自分の子のように接してくれる比呂を俊勝も陽も家族として認めていたから、檜原山ノ内家の仲は良好そのものであった。
俊範、俊勝、大助らは居館である檜原館の広間で腰を下ろし、戦からの帰還と、武士としての役目を果たせた事への安堵の溜息を深々と吐いた。
皆、目の前に添えられた高膳(食事を提供する際に使う足の長い膳。裕福な家でしか使われない)を見つつも手を付けず、無言のままそれを見つめるのみだ。
住み慣れた館、いつも飯を食べている広間の板敷に座っている俊勝だが、もう何年も帰って来ていなかったかの様な気持ちがある。
それが不思議で黙々と想いを巡らせ、
『それだけ遠くに進んだのだ』
という言葉に納得した所で独り小さく頷いた。
「……まぁまぁ何ですか、三人とも。気が抜けてしまった様に」
熱燗を運んで来た比呂の明るい声で、やっと三人ははっとした顔に戻り、互いの目を見合わせて笑い合った。
「……飲もうか」
「はい」
「頂きます」
まだ鎧直垂(よろいひたたれ、甲冑を着る際に着用する直垂)のまま、比呂や悠が注いでくれた燗酒を一斉に煽る。腹が熱さで満たされると急に腹が鳴り出し、早めの夕餉となった。
昨夜は蘆名盛興との酒宴で俊勝も大助もしこたま酒を飲んでいたから、熱燗は始めの一杯だけとしたが俊範も酒宴には参加していたと言うのに、酒を煽る土器の勢いが昨夜と変わっていない。
「……そう言えば、昨夜の席ではお主ら若殿(蘆名盛興の事)に平伏しておったな」
機嫌良く二つ目の銚子を空にした所で、俊範がふと呼びかけた。俊勝が持っていた腕を膳に戻すと、父に向き直って答える。
「は。黒川城内に屋敷を賜るとのお話を頂きました――」
「なんじゃと――」
俊範の酔いが回っていた口調が上擦り、驚きの勢いのまま高膳に爪先を引っ掛け蹴飛ばしてしまったため、飛散した肴を『あらあら』と比呂と陽が片付けに回る。
「その話は本当か」
「は、はい。ですが……」
「酔うた上での口約束かと。歳が近い故、親近感を持たれただけでしょう」
自分の粗相を気にも止めず、俊範が眼を剥いて俊勝と大助に迫る。
「現当主が酒の席とは言え、そのような約束を軽々しくする事は無い」
俊範は断言しつつ、その視線は二人を睨みつけている。
「さ、されど……」
「こう考えてみよ」
やっと乗り出していた姿勢を戻し、俊範が腕を組むと、静かに語りだす。今度は諭す様な口調だ。
「儂がこの場で兵達に同じ約束をし、それを反故にしたらどうじゃ――」
「……酔うと調子の良くなるお人じゃと……」
「然に在らず」
大助が言い結ぶのを待たずに俊範がそれをぴしゃりと制する。
「酔うた酔わない問わず、約束を受けた兵もそれを見聞きした兵も、この殿は約束を違える事があると憶える事だろう。まして、土地や屋敷を与えると言った約束は武士に取って最も違えてはならぬ約定である」
俊範の迫力を通して、蘆名盛興の、いや『武士に二言無し』の意味が若い二人に浸透していく。
「ましてや昨夜は周防殿や佐瀬殿もござった中での事。――かつ、儂が得ている情報によれば若殿は」
言葉を一度区切り、閉じていた瞼を開け、俊勝と大助を交互に見据えてから物々しく口を開く俊範。
「若殿自身が率いる新しい旗本衆をご選抜していると聞き及んでおる」
旗本衆――。
総大将が直接率いる精鋭部隊の事だ。
『旗』とは総大将の旗を指し、総大将の旗の元(本)に集う将兵を意味する。選抜されれば大変名誉な事ではあるのだが……。
「しかしな……お主らは嫡男。蘆名家にとっては小家の事情なぞ意に介さぬだろうが――」
俊範の酔いはすっかり覚めてしまったようだ。
俊勝と大助も事の重大さに気付き、箸を置いて俊範の渋顔から目が離せなくなっている。
『儂らが……旗本衆に……』
俊勝も大助も同じ気持ちを抱いていた。
八方塞がりの猫の額ほど狭い領地――。そんなものを血統で受け継ぐより、新しく自分の力を試す、目の前に突如開けた道の方が輝かしく見えてしまっていた。
労せず、父が治める土地と民を受け継ぐだけの器より、その器を自身の采配で、より大きく出来る可能性にこそ生を受けた意味が見えたと思えてしまっていた。
「……成程の。その顔がお主らの答えか」
呆けている俊勝、大助の表情を看破し、俊範はそれ以上言葉を発さず立ち上がるなり席を離れる。
「父上、儂は――」
幼少から見てきた父のあまり見た事が無い残念そうな伏目……。罪悪感を抱いた俊勝が思わず声を掛けるが、その声は俊範の背を追うのみ。届いたかどうか不確かな投げ掛けとなった。
「山三、我等の気持ちの昂りは親方様に選ばれなければ判るまい」
大助が俊勝の肩を鷲掴みにして宣う。
我等は父や叔父とは違う。
この若さで権力者のお眼鏡に適い、立身出世の類稀な機会を得たのだ。……大助の落ち着き払う得意げな表情に俊勝は言い知れない怒りを感じ取り、それが爆ぜた。
「大助――、お前に何が判るか――」
俊勝は突如大助の首に手を掛け咆哮した。
咄嗟の出来事に大助は戸惑いつつも、迫り来る力に対し、同じ力と咆哮で相対す。
我が父を小物と見られた事が、大いに癪に障った。
「山三――」
二人は取っ組み合って広間を転がりあった。子供の喧嘩である。……が、元服した者と元服直前の二人である。
勢い余り戸板を蹴破って中庭まで転がり出て、根雪を踏み締め立ち上がると、二人同時に鎧直垂の上半身を脱いで構え合った。
「……気が済むまでやり合いなさい。のこった――」
突如始まった喧嘩におろおろしている陽を前に、比呂が呆れつつも行司を買って出る。
もうもうと白い湯気を立てている二人の若武者を止める方法は無い。ならば怒りが発散されるよう促すのみだ。
「らぁっ――」
「こなくそ――」
比呂が持つしゃもじの軍配が振り下ろされると、俊勝と大助ががっぷり四つを組み、左右に揺らしをかけて互いの身体を釣り上げ合う。
力は対等。後は怒りと負けん気の強い方が勝つだろう。
「だぁぁ――っ――」
二人が共に咆哮し、松木の下の石灯籠に飛び込んで派手な音が響き渡った。
陽と比呂が思わず袖で覆った目で恐る恐る確認すると、俊勝の上に大助の体が辛うじて乗っていた。
「……儂は若殿の申し出を絶対に受ける――。こんな雪深い鄙で一生を過ごすだけなんぞ御免じゃ――」
「家族や領民はどうする気じゃ」
「簡単な話じゃ」
大助は立ち上がり、まだ雪の上に寝ている俊勝を睨み付けながら鎧直垂の袖に腕を入れ襟を直す。
「どちらかしか選べぬなら、儂は、儂が選びたい方を選ぶわ」
それだけ言うと、大助は檜原館に貸し与えられた自室に荒々しい足音を立ててながら籠ってしまった。
俊勝はまた仰向けに寝転び、呆然と空を見上げる。
根雪の上だが、寒さなど感じてはいない。
自身の早い鼓動が、相撲の後のためか、それとも突然開けたもう一つの道への期待かも判別がつかない。
「……糞ったれ――」
父や大助に聞こえるなど気にも止めず、ただただ襲うむしゃくしゃした感情に一声荒げるのみだった。




