五章 氏方の野望
夜が明けた。
長く感じた夜だったが、軍議に参加した一行にはもう朝が来たかという感覚であった。
東の山あいが白け、何処からか鶏鳴が聞こえた頃、何頭かの早馬が戻って来たが色良い返事を持ち帰った者は皆無で、陣幕内の沈み様に釣られ平田、慶徳、山ノ内勢の下々にまで士気の低下が伝播してしまっていた。
「希望は無しか……」
一睡も出来なかったであろう大助は目の下に深い隈を作りつつ、一人ごちた。
まだ帰陣しない早馬は幾らかあったため、その内の一騎が援軍を引き連れてくるならば事態は一変しそうなものだが、今のこの状況でそれを信じられる者は頭の調子がまともな者ではないであろう。
対して、向かい合う富田陣からは早朝であるにも関わらず、多くの朝餉準備の煙が上がっており、伝令と思われる騎馬武者の掛け声と馬の蹄の音がこちらにまで聞こえて来ていた。
「飯が終われば来るな……」
俊勝も力無く相手方に目を向けながら長槍を杖代わりによろよろと立ち上がりながら呟く。
士気旺盛の富田勢はあと半刻(一時間)もすれば、陣用を立てて総攻撃してくるであろう。
対峙するこちらの兵数は以前劣勢のまま。士気まで削がれた現状では呆気なく討ち負かされるか、兵が逃散してしまうか、いずれにしても敗北は見えている。
「……三之丞、大助、陣幕へ入れ」
静かな呼び掛けが背後から聞こえ、二人が力無く振り返る。声の主は豊前守俊範。彼もまた眠れぬ夜を過ごしたはずだが、声色はいつも通り冷静沈着そのものだ。今更の軍議に戸惑う二人ではあったが、迫力も伴う存在感に気圧されしつつ指示に従った。
陣幕の中は昨日の軍議と変わらない面々が居た。どの顔にも疲労の色は見えたが、気迫は未だ健在に思えて不思議に映った。平田周防は中央の床几に腰を下ろし、持ち盾を横一列に並べて机とし、その上に広がる地図に目を落としてしきりに戦略を思案している様だった。
『成程』
俊勝の絶望感にほんの少しの光が差し込む。
劣勢とは言え、多くの士卒の命を預かり、黒川全体に広がりつつある謀叛を鎮静化させる使命を帯びた指揮官達はまだ諦めてはいない事を悟る。
平田周防も、慶徳善五郎も、山ノ内俊政、俊範、そして従兄弟で歳の近い俊基も目の輝きは一つも衰えてなどいない。
どう負けるかの思慮は毛頭無く、いかに勝つか以外に眼中にないのだ。負け戦何するもの、幼少の頃から読み漁ってきた父の兵法書には少数が多数を打ち払ったやりようが見事に記述されていたではないか。
「桶狭間じゃな」
俊勝の呟きに大助が呆気に取られていたが、気にせず俊勝は机の端の床几に腰を下ろした。地図は昨日のものと同じであったが、一晩中思慮されたであろう墨筆の跡が幾重にも重なって引かれていた。
敵が押し寄せるまでの僅かの刻に少しでも勝利の糸を手繰り寄せるために煩悶した跡を前に、俊勝の心中もただ勝つ事のみに執着すると決まる。
「しからば、最後の軍議を開かん」
平田周防の一声にその場の皆がずいと身を乗り出して地図を囲む。
「兵数は百程は増えたが、変わらずの劣勢なり」
平田周防が言いながら白い碁石を自軍に見立てて地図上に並べていく。碁石一つが小隊を表しており、その数は四つで止まる。均等に軍を四分割すれば、碁石一つは大体四百名を表しているのだろう。
「対する敵勢は二千」
今度は俊政が黒い碁石を並べ、その手が五つを数えた所で止まる。黒い石も一つで四百。白石と対峙しても当然黒が一つ多く残っている。今地図上に並ぶ石同士がぶつかり合うならば負けは必定。だからこその軍議であり、ここからが軍議でもある。
「昨夜辺りを見て参りましたが、この辺りは見渡す限りの雪原で、地の利となる高低差は得難きものと心得ます」
今は笑顔も無いまま俊基が首を振って陳べる。
勝常寺の周囲は田畑が広がり、冬期ゆえ雪に埋没してしまっている状態。身体を隠す場所も、兵数の不利を補う谷間といった狭量地も皆無であった。
「単純に正面からの力押ししか無いのか……」
何度も他の手段を模索し、それでも回答は出ていなかったのだろう。平田周防が両手で頭を抱え、苦悶の表情を浮かべ眉間の皺を深くした。相手は多勢、正面からのぶつかり合いではいずれ包囲を受け、壊滅に至る可能性が高い。
軍議はそこから暫く沈黙が支配した。そうしている内も朝日は登り、周囲に色を付けていく。風も無く穏やかな気候は嵐の前を予兆しているようでもあった。
「力攻めでもやり方では無いでしょうか」
沈黙を破ったのは俊勝であった。元服を迎えたばかりで実績もまだ無い。が、失うものも元から無い。何処か晴れやかにも見える目の奥はそれでも武士として、勝機を見出さんと初陣を終えている父達と同様に明るくなっていた。
「無いよりはましじゃな。その力攻めの策を申せ」
期待はしている風では無いが、慶徳善五郎は若い俊勝の言葉の自信振りに興味を持っている様子。
「まだ若輩者故、一つ遊びを加える策をご進言奉ります」
「遊び――。この状況で……、面白いの」
平田周防、慶徳善五郎がその身を乗り出す。まるで鬼ごっこに加わる童の様な顔付きに変わっている。
「ここは一つ雪橇でも致しましょう」
俊勝は床几から立ち上がると平田周防に断りを入れ碁石を手に取り、地図上に白石を十字型に並べる。
「まず初めに、この戦いは兵数で劣るため敵将を討ち取るか、敵本隊に打撃を与え潰走させれば勝ちが見込めます。敵本隊を狙うに適した陣形として、方円の陣を使います」
「まぁ、上策じゃが、それでは援軍を期待出来ない我等はじり貧になるまいか――」
方円の陣は守り特化の陣形である。小勢が多勢を相手にするには確かに相性は良い。
しかし、守る条件は援軍が敵の背後か、或いは左右を突き崩す算段が事前に無ければ戦略としては弱い。それを見透かして慶徳善五郎は指摘していた。
「はい。これは方円に模した鋒矢の陣です」
「鋒矢の陣――。中央突破をすると言うのか――」
平田周防の声に俊勝は頷くと、十字に置いた四つの白石の内一つを放し、矢印の形を作る。矢印は富田勢を表す黒石に向けて指されている。
鋒矢の陣は矢印の先端に強兵を配し、強引に敵中突破を試みる攻撃的な陣形であった。
「恐らく敵は鶴翼の陣で我等を迎え討つはず。先陣は我ら檜原山ノ内隊、横槍の心配がある左翼を兵力の最も多い周防様、右翼を叔父上の巌谷隊、そして中央突破役の後陣を善五郎様にお任せし、敢えて敵中に突撃をかけます」
「なんと――」
今度は軍議に参加する全員から驚きの声が上がる。
鶴翼の陣とは鶴が翼を前に広げた様に見える事から命名された陣形の事で、本隊を後列中央に敷き、他の隊を左右前方に配置する陣容を取る。小勢を翼に当たる隊で包囲攻撃しつつ、本隊を鶴の胴体部分で守備する攻守一体の陣形として利用されていたものだった。
対して、先陣に申し出た檜原山ノ内隊は三百五十の兵力で最も寡勢。包囲前提で激闘が予定される先陣に置くのは先の説明通り定石では無い。俊勝はその反応を予測していたと言わんばかりに落ち着き払ったまま言葉を紡ぐ。
「我等檜原隊には長柄槍がございます。昨日の戦いで守りの堅さはお分かりのはず。当然兵力で上回る敵勢は前、左右から包囲殲滅にかかろうとするでしょう。そうならぬ様、周防様と叔父上には弓鉄砲で敵左右の隊を釘付け願いたし」
「それは構わぬが……」
平田周防が同じく戸惑う摂津守俊政と視線を交わしながら言い淀んだ。
「守りが堅いのには頷けるが、守りだけでは突撃の道は作れまい。手間取ればいずれ鶴の翼に我等は絡めとられるのが落ちぞ」
善五郎が肩をすくめつつ俊勝に心配の視線を向ける。陣形など平方書の知識は買うが、まだまだ戦を知らぬ……と顔に書いてある様だ。しかし、俊勝はそれらににこりと笑って返す。こちらは悪戯を企む無邪気な童の様だ。
「故に、雪橇を使うのです……」
俊勝は笑みを湛えたまま、顰めた声に切り替えて身を乗り出すと、釣られて他の者々も策を聞かんと身を乗り出す。念には念を。陣幕の外に敵の間者が居ないとも限らない。この戦いの肝となる策を俊勝は年長者達へ内々に耳打ちした。
「これは――」
「不確か……だが、良い――。実に面白い」
「儂を後方に配した理由が気に入った――。豊前殿のお子は今孔明じゃ」
俊政、平田周防、慶徳善五郎が次々に感嘆の声を上げ、賛成の手を挙げた。
「死のうは一定(人はだれでも死ぬもの)と申します。東殿が月影に乗じる謀略のお人ならば、それを相手に明るく遊びたいと存じます。皆々様、参りましょう――」
宿老、老将、親戚縁者、身分も歳も縁故も忘れ、元服したばかりの俊勝の策と言葉はその場をただ明るく制した。陣幕から溢れる声に項垂れる足軽達もその重い首を上げて不審がるばかりであった。
「……であればこそ、山城守、富田親子の挙兵は反乱であり、会津守護たる蘆名修理様への返り忠に御座候ずや。この大恩を顧みぬ行為を天下では謀叛と呼ぶなり――」
平田周防の臣が居並ぶ富田勢へ向け、大音声の言合戦を仕掛けていた。
が、富田勢はもう既に隊列を整え、生真面目なその物言いを笑い飛ばし、茶化す野次まで聞こえている始末であった。
所詮目の前の勝利と、その恩賞たる皮算用しか出来ないのだろう。乱首謀者である蘆名山城守の策が嵌ったと思い込む多勢の軍には、舐めた余裕と雰囲気がまるで見える様に蔓延していた。
「しめたものよ。警戒が無ければこちらの策で呑み込んでやるだけ――」
「大助、準備はし尽くしたが、戦は何が起こるか分からん。勝つまではその気概胸に秘めよ」
鼻息の荒い大助が俊勝の言葉に苛立ちでは無く、驚きの目を向ける。つい先日ならば、共に息巻いていたはず。それがどうした事か戦に荒ぶる事なく、ましてや自身に注意を促すとは……。
『これが童貞と言う奴か。腹が立つのぅ』
大助は心の中で呟きつつ、俊勝に甲高い声、最大の音量で『応』とだけ返す。
当の俊勝は作戦の立案者であるが故、平田周防から馬を借り、やっと馬上の人となっていた。
とは言え、全軍の指揮の要となるのだから、責任は重大である。
「さて……、伸るか反るか――」
感じたことの無い重荷に囚われない様、俊勝は強がりを吐く。こちらの軍勢も長たらしい言合戦の隙に整った。後はこの計略が是となるか非となるか――。
と、富田勢の喧騒が鎮まり、一寸の間隙を置いた後、法螺貝の重音が鳴り響き、押し太鼓が木霊し、遅れて怒号が雪原を震わせた。
二千人の男達の咆哮である。士気が低かったなら、それだけでこの寄せ集め直後の軍は逃散していたかもしれなかった。
――が、そうはならなかった。俊勝の策は下々にまで『必勝の策あり』として喧伝され、指揮官達の魂も武士のそれを取り戻し、今では軍全体が反乱分子に対峙する正統性を持って瞳に輝きが宿されている。
「檜原山ノ内隊――、前へ――」
この時初めて俊勝は軍を指揮する第一声を上げた。
本来、当主たる豊前守俊範が発する指令を弱冠一六歳の俊勝が代わってのたまわった。軍配こそ父から託されはしなかったが、指揮官たる心意気と、策を献じた故の重責を任され、それだけで初陣の俊勝は身を震わせ、その大任に武士としての本懐を遂げる事で心は決していた。
檜原山ノ内隊の面々が指揮を受け、二間の長柄槍を高々と掲げる。見知った檜原の百姓が田畑耕作では見せない逞しい顔を浮かべている。
「頼むぞ、皆の衆。勝てたならばあの美味い雪掻き雑炊を檜原で共に喰らおうぞ」
堪らず出た声がこれか――、と俊勝自身思ったが、案外的を得ていた様で、緊張感の中であるのにどっと笑い声が生じた。『助かるものだ』ふと気を許せば臓腑がひっくり返そうな焦燥を、あっさりと同じ領地、同じ飯を食った仲間が笑い飛ばしてくれる。意図せず目頭が熱くなる。
先陣の檜原山ノ内隊の明るい士気はつぶさに周囲へ伝播し、劣勢のはずの軍から、黒川の山々を揺るがすかの様なより巨大な咆哮として発せられる。
「若の本当の初陣、共に飾りたもうぞ――」
鈴木大蔵の感極まって裏返る声も聞こえる。爺は既に泣いている様だ。
俊勝指揮する檜原山ノ内隊は一斉に鬨の声を上げて、二千の敵勢、中央に突撃を始める。
当然、敵勢からは弓による矢雨が降り注ぐが、後列の持ち盾隊が前進し槍隊を守る。
兵数が少ない分、俊勝の指示は行き届き易い上、それを遂行する速度も檜原隊は速やか。練度の高い証左であった。
平田周防、摂津守俊政の隊も富田勢の弓隊へ負けじと遠距離攻撃を加える内、飛来する矢の数も徐々に減っていった。
「槍隊、出番ぞ――」
俊勝の号令により持ち盾隊は下がり、代わって長柄槍隊が前面に打って出る。長柄槍は変わらずのその性能を持って、富田勢先鋒を一定の間隔で正確に叩き潰していく。
一列、二列、三列……、上手いこと正面の足軽が血の華を咲かせながら雪原に散華していく。昨日と異なり、馬上で冷静な視界を持ちながら、俊勝が槍の音頭を取り続ける。
上げ、叩け、上げ、叩け。
単純な指示ではあるが、一体感を持つ檜原隊の槍襖は速度を上げて、富田勢の先鋒を叩き潰していく。
堪らず、突き進む矢印の先端を止めんと左右から敵の足軽雑兵が攻め上がろうとするが、平田周防隊の弓斉射、摂津守俊政の火縄と弓隊が手を緩める訳もなく、左右の敵勢は木盾を手放す事が出来ない。そのまま長柄槍を活かした俊勝達は想定よりも早く、気付けば前線に食い込み……、いや、突出してしまっていた。
「今ぞ、すわ囲み、横槍を突け――」
俊勝の耳にもその敵将の声が聞こえる程、檜原隊は先行し過ぎてしまっていた。出過ぎた杭は前、左右から囲まれて潰される――。
『ここぞ――』
俊勝が背から弓を左手に取り出し、用意していた真紅の鏑矢を天に向けて放った。ひゅうという風切音を孕んだ後、鏑矢は笛音を戦場に飄々と鳴り響かせる。
と、俊勝達の背後から十頭程の馬が左右一斉に、放射状に駆け出して行く。馬の背には幾重もの紐が結ばれており、紐は雪原の上に敷かれた筵に繋がっている――。
「大将の合図じゃ、策通りやるぞ」
大助がこれまた平田周防から借りた馬に騎乗しながら指揮の声を上げ左翼に走り出る。
馬に引かれる筵の上には二、三人の足軽が鉄砲を背負い、雪原を滑走しつつ、敵先鋒隊に対し逆ハの字に広がって停止した。
突然の、かつ想定も出来ない敵の動きに富田勢の動きが固まる。
「鉄砲隊、構え。……放てぇい――」
大助の甲高い声が響くなり、馬に引かれて躍り出た火縄隊の砲が一斉に火を吹いた。
雪原、いや、黒川盆地に雷が落ちたかと覚える程の轟音が鳴り渡る。
俊勝の向かう先、囲みに入った敵兵の群れがばたばたとその場に倒れていく。
「そら、もう一丁。構え――」
大助が初弾の戦果も顧みぬまま馬上から続け様の指示をすると、筵の上で展開した火縄隊は肩口に掛けていたもう一丁の火縄銃を構え直し、再度の豪雷を放った。
俊勝の遊び策、雪橇の計が成功した瞬間であった。雪橇とは馬に引かせた筵の橇。
その橇の上には鉄砲足軽を配置し、鏑矢の合図で敵先鋒が密集する場所へ速やかな展開を行い、瞬間的に最大の攻撃を放つという奇襲策であった。
敵方の狼狽振りはあからさま過ぎた。鉄砲流通が盛んな機内ならばともかく、これ程の集中砲火は黒川において過去類を見ない戦術。
かつ、俊勝は己の隊を囮とし、砲撃の狙いが定まりやすい様に敵の前列を誘き出したのだ。
そもそも火縄銃は装填に十五もの呼吸(三十秒)が必要である。そして泣き所のもう一つはその的中率の低さであり、一般的には四割中れば良しとされていた。
正面から一列に並べて撃っても四割しか中らぬのなら、敵勢を鉄砲の前まで誘い出し放てば良い。
それを雪橇を利用し、鉄砲隊が敵の近距離に突如として現れる奇襲策で実現したのであった。
山ノ内家は前述の通り、金銀山による潤沢な経済基盤と、金売り吉次商隊との独自の交易手段を持つ事で、最新鋭兵器である火縄銃の確保が進んでいた。また、山間部であるが故、熊や鹿、狸などをこの農民達は火縄銃を用い、訓練も兼ねて狩猟していたから的中率もそれなりに高い。
この戦では巌谷、檜原勢を合わせ、合計五十挺もの鉄砲を持ち込んでおり、山ノ内家の実情を知る俊勝はそれを有効活用するべく雪橇の計を考え実行に移した。
突如の大音量に加え、殺傷能力の高さはあっても、『中らぬ鉄砲』と噂されていたものが次々と命中した事実……。
命一つのみを張る足軽雑兵にとって、その情報量と、命の警鐘が湧き立てる恐怖を的確に判断し、制御出来る者は一人として居なかった。
一人、また一人と前線の兵が逃走し出すと、わぁわぁと喧騒が上がり、瞬く間に檜原山ノ内隊の前方が裂け、下り藤に叶字の旗、富田本隊が無防備にその姿を曝け出した。
俊勝が自分でも驚く程の落ち着きを持って、背中の靭(矢を入れる筒)から最後の鏑矢を静かに引き抜き、弓弦に筈を噛み合わせる。弓を天に向かってきりきりと引き絞り、暫しの会(弓矢を引き絞った状態で狙いを定め待つ所作の事)の後、一気にそれを解き放った。
澄み切った青空にまたも長い笛音が残酷に、美しく弧を描いて響き渡る。
……ど、……どど、どどど。
と地響きが後方から攻め上がり、更に鬨の声が混じり、あっと言う間に檜原隊は味方の慶徳隊と混じり合う。
味方であっても恐怖を覚える程、慶徳隊は荒ぶっていた。命を惜しむ素振りは一切無く、眼前にたなびく下り藤の紋に殺到して行く。
「進め――、進め――。我等の北方を謀反者から取り戻すのじゃ。富田親子は八つ裂きじゃ――」
腰を丸めていた老将の面影は無く、鬼神の面で慶徳隊に檄を飛ばしながら慶徳善五郎が馬に手槍を持ち疾駆していく。
味方が皆逃散し、残る富田旗本の兵はほんの僅か。死にかけの虫に蟻が群がる様に慶徳隊は善五郎の容赦ない掛け声の下、富田の旗を押し倒し、本能の赴くまま殺戮を始めた。
「鬼気迫るとはこの事じゃの……」
雪橇隊を先陣から引かせた後、大助が俊勝に馬を寄せながら口を開く。
慶徳善五郎を本陣突撃隊に据えたのは勿論俊勝である。慶徳善五郎が領する北方の治安を害し、昨日の槍戦では疲労の慶徳隊を追い込んだ富田勢には怨みを持つ善五郎こそが適任であると軍議で説き、了承を得たものだった。
「これ程とは、想定の外じゃったわ……」
俊勝と大助が見守る先で富田の旗が倒され、次に旗が現れた際には白地が血により赤く染まっていた。
「逆賊、富田監物。討ち取ったり――」
慶徳隊の甲冑武者が兜首を左手に掲げながら、高らかに戦場に向けて呼ばわった。
哀れ、胴体から切り離された首は涙の様に血を垂れ流し、口を大きく開けたまま天を見上げていた。
謀反の主犯の一人、富田監物義実は湯川村、勝常寺の戦いでその命と野望を潰えた。しかし、主犯のもう一人である子の富田主膳義祐は何処かへ逃走した様で、その後も見つける事は出来なかった。
朝の勢い何処へやら。大将の死を流布された富田勢はてんでばらばらに雪原を逃げ惑い、ある者は討たれ、ある者は北方へと逃れて行く。
勝ち戦となれば勝者側の足軽雑兵に遠慮は無い。死体から武器と鎧、服や兵糧に至るまで身包みを剥ぎ、倒れている者の息がある事を確認すると容赦無く刃を突き立てて殺し、死体にしてから同じ様に装備品を奪い盗った。
足軽雑兵にとって戦とは、飯が支給され、乱取(敗残兵や敗残地域から金目の物を強盗する事。時には敵領の人間を誘拐し、奴隷として売り飛ばしたり、家族から身代金を得る場合もあった)による臨時収入の貴重な機会であったから、勝敗が決まったここからが本来の活躍の時でもあった。
俊勝や大助も戦国の常は聞いていたものの、余りの光景に直視出来ず、流石に目を背けた。
代わりに父や家老の鈴木大蔵の様子を探り見ると、乱取が起きている事に我関せずで、今後の算段をいつもの調子で話し合っているのが却って異常に見え、そちらを見るのも控えて行き場の無い視線をただ空に預けた。
「……ん。あれは狼煙か――。ほれ、黒川の方。二本煙が立っとる」
大助がやむを得ず見上げた先の空の異常に気付き、指を差した。確かに大助が示す南側、黒川方面の青空にはっきりと二本の煙が立ち昇っているのが見える。俊勝は声の届く範囲に居た父を呼び、大助と同じ様に空を指差した。
「沙耶も働いてくれた様じゃな」
馬を寄せつつ俊範が狼煙を見ながら答える。
「沙耶が――。あの狼煙は沙耶が何かを報せているものなのですか――」
「黒川城から軍勢が出て来たなら狼煙を一つ、もし可能であれば城内に虚報を流すなり、破壊工作をするなりし、足止め出来たならば狼煙を二つ上げよと伝えていた。方法までは知らぬが、黒川城の謀反は上手くいっていないことの証左じゃ」
読みの深い、準備を怠らない俊範は沙耶を使い、先手を打っていた。
確かに昨日黒川城に異変を認めた際、俊政は北方と黒川両方の敵に挟み撃ちにされる事を案じていた。その不安をただ乱波者を配するだけでこの父が万事とする訳が無かったのだ。
「では、謀反を止める手立てはまだあると――」
「左様じゃ。お前は乱取を止めさせ、兵を再編せよ。儂は周防殿と今後の策を練って参る」
言うなり俊範は馬首を回転させ、勝利に未だ沸いている平田勢の方へ消えていった。
沙耶がたった一人でどのような手を使ったのかは全く見当も付かなかったが、勝ちの気分も手伝って、郎党の沙耶が生きている事に俊勝は何処か安堵を覚えいた。
欲に塗れた乱取の停止は大変に骨が折れたが、四半刻程で隊の再編を大至急終え、今、山ノ内兄弟の隊と平田隊は一路黒川城を目指して南進を開始していた。
慶徳隊の継戦も検討はしたが、突撃を敢行した事による被害は無視出来なかったため、善五郎には北方の守備と戦死者の弔いが申しつけられ、急ぐは二隊のみとなっている。
兵力の減少は心許無くあったが、怪我人を引き連れた行軍で遅れを取るより、最短の時間で黒川城到達を目指す事を優先すると平田周防は決定したのだった。
黒川城まではニ刻程の道程。合戦の疲れを押して、指揮官達は隊に檄を飛ばし雪道を駆けて行く。
戦場となった勝常寺から半刻程、沙耶が上げた狼煙の下を目指して進んで行くと、やがて朽ちた庵と細木が見え、そこに俊勝の馬が一頭だけ結ばれて佇んでいた。
辺りに沙耶の姿は見えない。
嫌な予感に駆られて俊勝が馬の傍に駆け寄ると、鞍には血に染まった女物の手拭いが結び付けられていた。
「……沙耶」
俊勝は名前を呼びつつ何度も辺りを見回してみるが、その姿はやはり無い。
手拭いの血は致死量とは思えないが、不安を掻き立てるには充分な代物だ。と言っても視界に入るのは雪原ばかり。刻限は正午に入った頃と思え、陽の光が雪に強く反射し、目の上に掌をかざしていないと上手く見渡す事も出来ない。
「周防殿の隊が先行してしまうぞ……」
止まってしまった山ノ内隊の中程で、俊勝の様子を遠巻きに眺めていた大助が懸念し、繋がれた馬の方に向かって歩き出す。
山ノ内隊が居るのは段上の田圃の畦道で、左手の落差は膝下程しか無いが、右手側は長柄槍の半分、つまり一間程も低く下がっていた。
四人程が横になる位の道幅はあるのだが、両脇は除かれた雪が積み上がっていたから、滑落の危険を鑑み、山ノ内隊は二列で前後に長く伸び切った状態で歩みを止めている。
俊勝の首が左右に忙しく動く様を怪訝そうに思いながら大助が小走りに進んで行くと、道脇の雪溜まりに足を掛けた際、うっかり踏み抜いてしまった。
「あっ――」
と言う間にその身は一間下までごろごろと滑り落ちてしまう。身に着けた甲冑の金具が大袈裟な音を奏でた。
「痛っ――、雪で地面が無いのが分からんかったか」
派手に転がった大助を山ノ内隊の面々は心配そうに土手下を覗き見ていたが、大事無い事を悟ると、どっと笑いが起きた。
「……ええぃ、笑うな。少しは心配せぇ」
戦場の緊張が解れた瞬間だと理解出来たが、武士の嫡子が物笑いの種になってはいけないと、大助が言いながら急ぎ立ち上がる。
その途中、ふと土手腹に目が向いた時、左手の土手がえぐれた部分に人影があるのに気付いた。大助が咄嗟に腰の刀に手を這わせ声を上げる。
「誰じゃ――」
富田主膳義祐は勝常寺の戦場から逃れ仰せた事が頭を過ぎる。
決戦の局面を乗り切り、晴れ間の行軍で一時失念していたものの、ここ黒川はまだ謀叛の治らぬ厳戒態勢であるのを改めて思い直した。
「おい、そこの者。お前は――」
まで言いかけ、大助がはたと何かに気付いた。
人影は異常に小柄。かつ、甲冑も山ノ内隊の足軽が身につけているものと同じ粗末な造りの胴丸である。そして、土手側に身体の前面を突っ伏してはいるが、その後頭部で一纏めにされて長く伸びる黒髪に大助は見覚えがあった。
「沙耶……殿……か」
呼び掛けに小さい影がびくっと反応し、一寸の間を置いた後、はい。と小さな声が返される。
「何をしとるんじゃ……そんな所で……」
怪訝そうな大助の声に畦道上、山ノ内隊からの視線が沙耶に突き刺さる。
「あ、いえ、密偵をしていて、その……」
なんとも歯切れの悪い応えをしながら、ばつ悪そうに沙耶が身体を起こしてこちらを向いた。
顔は背けられているため、表情こそ読み取れないが、気恥ずかしい雰囲気だけは大助にも読み取れた。
「……また悪戯でも企んでおったか」
溜息を吐く大助の呼び掛けに沙耶は応じず俯くのみ。
やがて見兼ねた山ノ内隊の一人から縄が投げ入れられ、二人は黙したままそれを掴み、元の道に這い上がった。
『成程の……。出来の良い郎党でも想いの表現だけは人並以下か』
とぼとぼと俯いたまま俊勝と俊範が居る前方へ歩む沙耶。
そのか弱い後ろ姿に苦笑いを浮かべながら、大助はもう一度深い溜息を穏やかな青空に向かって吐いた。




